周しゅう胤たね(?—239年ねん),表おもて字じ不ふ詳しょう,廬いおり江こう舒縣人ひと。東ひがし漢かん末すえ及三さん國こく時とき東ひがし吳くれ武將ぶしょう,東ひがし漢かん末まつ東ひがし吳くれ重要じゅうよう將領しょうりょう周しゅう瑜次子じし,周しゅう循之これ弟おとうと。
周しゅう胤たね最初さいしょ拜はい興業こうぎょう都と尉じょう,統みつる領りょう一いち千せん兵へい,駐屯ちゅうとん公安こうあん。又また娶めと孫まご權けん宗族そうぞく的てき女兒じょじ為ため妻つま。黃き龍りゅう元年がんねん(229年ねん),封ふう都と鄉ごう侯こう。後來こうらい因いん犯罪はんざい而被削そぎ去さ軍隊ぐんたい和わ爵位しゃくい,流りゅう放ひ到いた廬いおり陵りょう郡ぐん。赤あか烏がらす二に年ねん(239年ねん),諸しょ葛かずら瑾及步ふ騭聯れん名めい上書うわがき孫まご權けん,希望きぼう念ねん及周瑜的功こう勳くん,寬恕かんじょ周しゅう胤たね,恢復かいふく他た的てき爵位しゃくい及軍隊たい。及後朱しゅ然しか和わ全ぜん琮亦また上書うわがき請求せいきゅう,孫まご權けん終おわり於允許いんきょ,但ただし在ざい此時,周しゅう胤たね病死びょうし。
《三國志さんごくし·吳くれ書しょ·周しゅう瑜傳》