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元典章 - 维基百科,自由的百科全书 とべ转到内容ないよう

もと典章てんしょう

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もと典章てんしょうはらしょう大元おおもと圣政こくあさ典章てんしょう[1]もとだいかんおさむせいしょ内容ないよう包括ほうかつげんふとしむねろくねん(1234ねん[2]いたもとえいむねいたりねん(1322ねんだい约90ねん间各地方ちほう官吏かんりかいしょうてきゆう政治せいじ、经济、军事、法律ほうりつとう方面ほうめんてき圣旨じょう律令りつりょうかくれい以及司法しほう门所ばんあんれいてき汇编,ふん为前しゅうしんしゅう史實しじつおおためもとしょ

内容ないよう简介[编辑]

大元おおもと圣政こくあさ典章てんしょう典章てんしょういち《诏令まきいち》(《诏令》总共ただゆういちかんてき全部ぜんぶ录,すえもとあい关记载,推断すいだん本目ほんめ录中涂黑てき黑色こくしょく长条部分ぶぶんてき文字もじ为“ひとしそうきよしぶん欽孝皇帝こうてい”,也就もとじんむねてき庙号谥号,“今上きんじょう皇帝こうていゆびてき则是もとえいむね。此目录节选自《大元おおもと圣政こくあさ典章てんしょう》,台北たいぺい国立こくりつ博物はくぶついん藏元くらもと刊本かんぽん影印本えいいんぼん

もと典章てんしょう出版しゅっぱんもとえいむね在位ざいいきさき(1322ねん—1323ねん间),书中对元えいむねてき称号しょうごう今上きんじょう皇帝こうてい[3]

ぜんしゅうども60かんふん〈诏令〉(1かん)、〈圣政〉(2かん)、〈あさ纲〉(1かん)、〈たい纲〉(2かん)、〈吏部〉(8かん)、〈户部〉(13かん)、〈れい〉(6かん)、〈兵部ひょうぶ〉(5かん)、〈刑部おさかべ〉(19かん)、〈こう〉(3かんきょう计10だい类,内容ないようはじめげんふとしむねろくねん(1234ねん),讫于もとえいむねのべゆうななねん(1320ねん十一月じゅういちがつもとじんむね于延ゆうななねん正月しょうがつもとえいむね于延ゆうななねんさんがつ即位そくい)。

しんしゅうげんしょうしんしゅういたり条例じょうれい》,为典章てんしょうきさきぞうきょう两册,无卷すうゆう国典こくてん〉、〈あさ纲〉、〈吏〉、〈户〉、〈れい〉、〈へい〉、〈けい〉、〈こうろくどもはちだい类,ぶんまき,记事とめ于元えいむねいたりねん(1322ねん)。

かくだい类之またゆう门、目下めしたれつ举条かく事例じれいまいぶん若干じゃっかんじょうかく。《もと典章てんしょうぜんしゅうしんしゅうども计81门,467もく,2391じょう研究けんきゅうもととく别是元朝がんちょう法制ほうせい以及社会しゃかい不可ふかあるかけてきちん贵史りょう[4]

もと典章てんしょう史料しりょう丰富,“谓详悉无遗”,“此书于当ねん法令ほうれいふん门胪载,さい掇颇详”,“ゆう详于けいりつ[5]

よし於元あさ政權せいけんてき特殊とくしゅせい,《もと典章てんしょう文体ぶんたい较为独特どくとく[6]ゆう许多こぼし译蒙语的语,如“肚皮”これ贿赂これ、“勾当こうとうさと交出ゆび黜罢。陈垣ざいもと典章てんしょうこう补释れい·じょたたえ,“《もと典章てんしょう》为考究こうきゅうもとだい政教せいきょう、风俗、语言、文字もじ不可ふかしょうこれ书”。

现存版本はんぽん[编辑]

目前もくぜん通行つうこうほん主要しゅようゆう两种版本はんぽん

一种是元代坊刻本。这是現存げんそん最早もはやてき版本はんぽん,以书ちゅう字体じたい判断はんだん,应是もとだい福建ふっけんけん阳书ぼうところかんこくみんこくじゅうよんねん(1925ねん)发现于北平きたひらみや博物はくぶついん,现藏于臺きた國立こくりつみや博物はくぶついん,1976ねん台北たいぺい国立こくりつ博物はくぶついん出版しゅっぱんりょうもと刊本かんぽんもと典章てんしょうてき影印本えいいんぼん使つかい该书とく以原貌重しん问世[4]

另一种是沈刻本。きよしひかりいとぐちさんじゅうよんねん(1908ねん),たけただし绶金すえ杭州こうしゅうちょう所藏しょぞう抄本しょうほんゆかり法学ほうがく名家めいか沈家ほんさくばつ北京ぺきん法律ほうりつ学堂がくどう刊行かんこうせいたたえ沈刻ほん。沈刻ほん刻印こくいん精美せいびしか而错误脱漏だつろう颠倒处甚往往おうおうゆうせいだんせい脱漏だつろうみんこくじゅうねん(1931ねん),著名ちょめい史学しがくちんかきすえ北平きたひらみや博物はくぶついん所藏しょぞうもとこくほん为主,まいり以吴绣谷てい、阙里あなかげ钞本及巴りょうかたみなみあきら彭氏两抄ほん进行校勘こうかんこう沈刻ほん讹脱衍倒达一まんせんあまり处,せんなりもと典章てんしょうこう》10かんみんこくじゅうさんねん(1934ねん),陈垣また从中抽取一千余条进行归纳,せんなりもと典章てんしょうこう补释れい》。よし此也可知かち台北たいぺい国立こくりつ博物はくぶついん所藏しょぞうてきもと刊本かんぽん仅孤ほんきゅう而已,また为传此书さい善本ぜんぽん[4]

海内かいだいがい首部しゅぶもと典章てんしょう全文ぜんぶんてん校本こうほん出版しゅっぱん[编辑]

2011ねん3がつちゅう华书きょく天津てんしんせき出版しゅっぱんしゃ联合出版しゅっぱんりょうもと典章てんしょう》(てん校本こうほん),ぜん书一どもよんさつゆかりもと史学しがく陈高华张帆刘晓とうたからかい てんこう[7]

这次てきてん校本こうほんてんこうしゃざいつうこうぜん书时,以台きた国立こくりつ博物はくぶついん所藏しょぞうてきもと典章てんしょうもとこくほん底本ていほんさんこう陈垣《沈刻〈もと典章てんしょうこう补》,并参校了こうりょうつうせいじょうかく》、《宪台どおり》、《南台みなみだい备要》、《庙学典礼てんれい》、《书监こころざし》、《经世大典たいてん》(《えい大典たいてんざんまき转引)、《もと》以及最近さいきん发现てきくろじょうぶんかずざんほんいたりせいじょうかくとうかく史籍しせきちゅうしょ载同げん公文こうぶん。如此全面ぜんめんてき校勘こうかん国内外こくないがい以往いおうにんなん学者がくしゃひとし做过てき。对于书中相当そうとう语句、文字もじ、题目とう方面ほうめんてき脱漏だつろう讹误,てんこうしゃいちいち辑出校正こうせい,并且做了详备せい细的整理せいりこう[8]

もと典章てんしょう以前いぜん从未进行全面ぜんめん整理せいり而关于全书收录的公文こうぶん数量すうりょう,历来とく其详。すえ此次てんこう统计,ぜん共有きょうゆうぶん书2637じょうぜんしゅうども包括ほうかつぶん书2409じょう,其中诏令35じょう、圣政266じょうあさ纲9じょうたい纲43じょう、吏部331じょう、户部514じょうれい159じょう兵部ひょうぶ216じょう刑部おさかべ752じょうこう84じょうしんしゅう包括ほうかつぶん书227じょうぜんしゅうしん集合しゅうごう计,さいじょう书末しょしょう通例つうれい”1じょう共有きょうゆうぶん书2637じょう上述じょうじゅつ统计涵盖りょう书中ぶん书“互见”てきじょう况,そくどう一条文书可能在书中两个不同的地方均有收录,いち处录ゆう全文ぜんぶん,一处仅存标题而附注全文另见某处,这样てきじょう况均视为两条文じょうぶん[8]

参考さんこう文献ぶんけん[编辑]

  1. ^ あなかつ齐《いたり正直しょうじき记》まき1“くにあさ文典ぶんてんじょうひっさげいた,“大元おおもとこくあさ文典ぶんてんゆうかずりんこころざし》、《いたり元新もとしんかく》、《くにあさ典章てんしょう》、《大元おおもとどおりせい》、《いたりせいじょうかく》、《すめらぎあさ经世大典たいてん》、《だいいち统志》、《ひらそう录》、《大元おおもといち统纪りゃく》、《もとしん使交录》、《くにあさぶん类》、《すめらぎもと风雅》、《くにはつ国信くにのぶ使交通こうつう书》、《后妃こうひめいしん录》、《めい臣事しんじりゃく》、《钱唐遗事》、《じゅうはちりゃく》、《きさきいたりもとこと》、《风宪ひろし纲》、《なり宪纲よう》”。
  2. ^ すえもと典章てんしょう年代ねんだい索引さくいん》(作者さくしゃ:[日本にっぽん]植松うえまつただし编,そうあお图书出版しゅっぱん公司こうし1986年版ねんばん),《もと典章てんしょうなかおさむ录的かんかたぶんけん最早もはやてき颁布于元ふとしむねろくねんきのえうまねん,1234ねん),さいばん颁布于元えいそういたるねん(1322ねん)。
  3. ^ ためくんけんせい臣民しんみん對當たいとうこん在位ざいい皇帝こうていてき敬稱けいしょう略稱りゃくしょう
  4. ^ 4.0 4.1 4.2 具体ぐたい参考さんこう历史论文:《<もと典章てんしょう>研究けんきゅう综述》,作者さくしゃ:张金铣,发表于《せき整理せいり研究けんきゅうがくかん》2010ねんだい4
  5. ^ 陈垣:《沈刻<もと典章てんしょう>こう补》
  6. ^ 田中たなか谦二《〈もと典章てんしょうちゅうこうむちょく译体文章ぶんしょう
  7. ^ もと史料しりょうけん设和研究けんきゅうてき重大じゅうだい成就じょうじゅ——《もと典章てんしょうてん校本こうほん出版しゅっぱん. [2012-01-09]. (原始げんし内容ないようそん于2011-11-27). 
  8. ^ 8.0 8.1 もと典章てんしょうてん校本こうほん近日きんじつ出版しゅっぱん. [2012-01-09]. (原始げんし内容ないようそん于2011-08-10).