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第一尚氏 - 维基百科,自由的百科全书 とべ转到内容ないよう

だいいちしょう

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重定しげさだこうだいいちしょう王朝おうちょう
だいいちしょう
はは王朝おうちょう天孫てんそん
清和せいわはじめ[1]
名和なわ[2]
国家こっか琉球りゅうきゅう王國おうこく
こんぞく日本にっぽん沖繩おきなわけん
创立1406ねん
创立しゃなおおもえ紹王
末代まつだい君主くんしゅなお德王とくおう
头衔琉球りゅうきゅうこくちゅう山王さんのう
しょうほろび1469ねん
推翻だいしょう推翻
ぶんささえあきら安次富あじとみあきら龜谷かめたに

だいいちしょうたいなおおもえ紹王即位そくい(1406ねんいたなお德王とくおうころせ(1469ねんてき63年間ねんかん統治とうち琉球りゅうきゅうこくてき王室おうしつ及其姓氏せいしてき通稱つうしょう琉球りゅうきゅう最早もはやてきいち統一とういつ王朝おうちょう正式せいしき名稱めいしょうためなおためりょうあずかだいしょう做區べつ一般いっぱんしょう其為だいいちしょうまたたたえ佐敷さしきおうみつるだいいちしょうしたがえ初代しょだいなおおもえ紹王いた末代まつだいなお德王とくおうきょうつてななだい

相傳そうでんだい一尚氏王朝初代國王なおおもえ紹王てき父親ちちおや鮫川さめかわだいあるじこれ大城おおしろ按司てき女婿じょせいせいなおおもえ紹王なおおもえ成年せいねんこれよう戴為佐敷さしき按司當時とうじせいしょ戰亂せんらんてきさんやま時代じだいなおおもえ紹見其子なおともえこころざしぜん於治こく,且有軍事ぐんじ才能さいのう,於是退すさかくれ讓位じょういきゅうなおともえこころざし。1406ねんなおともえこころざしおこりへいげきはいちゅう山王さんのうたけやすしおさむ浦添うらぞえじょうなおおもえ紹被擁立ようりつため名義めいぎじょうてき國王こくおう

1421ねんなおおもえ紹王死去しきょなおともえこころざしおう即位そくい國力こくりょくじゅうふんきょうもり。於1416ねん1429ねん先後せんごおさむめつきた山國やまぐに怕尼しば王朝おうちょう南山なんざんこく大里おおさと王朝おうちょうつぎねん接受せつじゅ明朝みょうちょうさつふうじたまものせいなお」,あらため國號こくごうため琉球りゅうきゅう」。此後琉球りゅうきゅうこく開始かいし逐漸きょうもりおこりらい

1453ねんなおかねぶくおう死後しご琉球りゅうきゅうこく發生はっせい爭奪そうだつ王位おういてき內亂(「こころざし魯布さとみだれ」),くびさとじょういく乎全毀,琉球りゅうきゅうこく國力こくりょく銷弱。ただし後來こうらいなお德王とくおうおもえ整頓せいとん國家こっかはん不斷ふだん對外たいがい用兵ようへいおわり於引おこり大臣だいじんてき不滿ふまん。1469ねん琉球りゅうきゅうこく發生はっせい內亂,なお德王とくおうころせほうよくりつ尚德しょうとくおうてき世子せいしためおう,遭群臣ぐんしんてき一致いっち反對はんたい尚德しょうとく王妃おうひぜいみょう,攜世子せいし逃往玉城たまきぐん發現はつげんなみころせ群臣ぐんしん擁立ようりつあずかだい一尚氏沒有任何血源關係的御物城御鎖側官金丸かねまるためくん此,だいいちしょう王朝おうちょう滅亡めつぼう

なお德王とくおうだいさん屋比久やびく大屋おおや倖免於難,後任こうにん佐敷さしきあいだきり屋比久やびく地頭じとうしょく屋比久やびく大屋おおやてきだいよん照屋てるやちかし雲上うんじょう長太ちょうたにん兼城かねぐすくあいだきり照屋てるや地頭じとうしょくためあきら龜谷かめたににちあきら亀谷かめたに元祖がんそ

此外,まご平田ひらたにちまご平田ひらた自稱じしょうだいいちしょうてき後裔こうえい

系圖けいず[编辑]

 
 
 
 
1.なおおもえ紹王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2.なおともえこころざしおう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3.なおちゅうおう
 
5.なおかねぶくおう
 
6.なお泰久やすひさおう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
4.なおおもえたちおう
 
 
 
 
 
7.なお德王とくおう

だいいちしょう祖先そせんてき疑問ぎもん[编辑]

根據こんきょのころうつててき說法せっぽうだいいちしょうてき始祖しそ鮫川さめかわだいあるじかべ住人じゅうにん後來こうらい遷居いたりょう佐敷さしきあいだきり新里あらざとむらじょうてんめと大城おおき按司てき女兒じょじなましたりょういちなんいちじょ。其中おとこためなおおもえおんなためじょうてんてきしゅくおんなおもえ紹成ねん遷居苗代なえしろむらしょう苗代なわしろだいおやこう百姓ひゃくしょうよう戴,なりため佐敷さしき按司。まためと佐敷さしきむら美里みさとてき女兒じょじなましたりょうなおともえこころざし。此說法被はっぴ收錄しゅうろくいたりょう琉球りゅうきゅうかん修史しゅうししょ中山なかやまちゅう[3]

日本にっぽん民俗みんぞく學者がくしゃ折口おりぐち信夫しのぶまた提出ていしゅつりょうだい一尚氏的祖先是日本氏族名和なわ後代こうだいてき說法せっぽう根據こんきょ日本にっぽん史料しりょう記載きさい名和なわにち语:名和なわなわしろ Nawashiroこれ村上むらかみはじめてきつくりささえ原據げんきょてんため伯耆ほうきたてたけし新政しんせいこうたまもの肥後ひごこく八代やしろぐんてきいち地頭じとうざい日本にっぽん南北なんぼくあさ內戰時期じき名和なわ支持しじ南朝なんちょうてきなつけ親王しんのう積極せっきょくどう明朝みょうちょう朝鮮ちょうせん東南とうなん進行しんこう海上かいじょう貿易ぼうえき[2]

折口おりぐち信夫しのぶみとめため此時名和なわてきぞくじん渡海とかいらいいたりょうせいしょ四分五裂しぶんごれつてき琉球りゅうきゅう建立こんりゅうりょう佐敷さしきしろ。其名字みょうじらいげん肥後ひご佐敷さしきいま熊本くまもとけんあし北町きたまち)。而「なおおもえ」這一名字是明朝史書的誤記,其真めいためなおおもえ」,名和なわてき同音どうおん[2]

折口おりぐち信夫しのぶてき觀點かんてん受到りょうひがし恩納おんなひろしあつし嘉手納かでな宗德むねのりとう學者がくしゃてき反駁はんばくよしためざいあかり實錄じつろくちゅうおもえ一直都是以「中山なかやま王思おうし紹」ため名字みょうじ登場とうじょうてき,其生前並まえなみぼつゆう使用しようなおせい。而根據こんきょ中山なかやまかんてき記載きさいなおせい明朝みんちょうざいさつふうともえこころざしどきたまものてき,此後琉球りゅうきゅう王室おうしつざい世襲せしゅうなお」這一姓氏せいし[2]

此外,ゆう學者がくしゃざい折口おりぐち信夫しのぶ觀點かんてんてき基礎きそじょう提出ていしゅつ琉球りゅうきゅう王室おうしつ自己じこはた名和なわ」(にち语:名和なわなわ Nawaあらためためかんしきせいなお」(にち语:なおなお Naoてき[2]

だいいちしょうてき後裔こうえい[编辑]

なお德王とくおうころせ,其長子ちょうしかず次子つぎこみやこ一起かずき殺害さつがいだい三子みつごねんさんさいゆかり乳母うばだきちょ逃到りょう佐敷さしきしろ後來こうらい授予佐敷さしきあいだきり屋比久やびく地頭じとうしょう屋比久やびく大屋おおやためあきらてき始祖しそ。其「あきらひだりみぎつき」,「ゆびてき太陽たいよう代表だいひょう國王こくおう;「がつ」(つきしろだいいちしょうてき守護神しゅごじん。另一方面也說明了第一尚氏受明朝みょうちょう統治とうちしゃ承認しょうにんてき正統せいとうせい

後來こうらいあきらぶんため安次富あじとみ龜谷かめたに兩家りょうけ龜谷かめたになりためりょうくびさと士族しぞくあきら龜谷かめたにてき家紋かもんためまるひしみぎともえ」,該家現在げんざいてき當主とうしゅため龜谷かめたにちょうけん[4]

腳註[编辑]

  1. ^ 根據こんきょ中山なかやまかんてき說法せっぽう日本にっぽん清和せいわはじめてき武士ぶし源為朝みなもとのためとも戰敗せんぱい逃亡とうぼう琉球りゅうきゅうざい琉球りゅうきゅう誕下いちしゅんてんなおおもえ紹王しゅんてんてき末裔まつえい。其真實しんじつせい存疑そんぎ。(→ 另見條目じょうもくにち琉同ろん
  2. ^ 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 谷川たにがわ健一けんいち,《よみがえ海上かいじょうみち日本にっぽん琉球りゅうきゅう》(文春ぶんしゅん新書しんしょ,2007ねんISBN 978-4-16-660560-6
  3. ^ 中山なかやま·まきよん·なおおもえ紹王》
  4. ^ 沖縄おきなわ家紋かもん>かくだり亀谷かめたに紋章もんしょう 互联网档あんてきそんそん档日2010-06-20.

參考さんこう文獻ぶんけん[编辑]

  • 喜舍場ちしゃば一隆かずたか琉球りゅうきゅうしょうのすべて》(新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、2000ねんISBN 4-404-02868-7

相關そうかん條目じょうもく[编辑]