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なおともえこころざしおう

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なおともえこころざしおう
だい4だい琉球りゅうきゅうこくちゅう山王さんのう
だいいちしょう王朝おうちょうだい2だい國王こくおう
在位ざいい期間きかん1421ねん-1439ねん6がつ1にち
前任ぜんにんなおおもえ紹王
つぎにんなおちゅうおう
宗主そうしゅこく あきら
年號ねんごう 永樂えいらく
ひろし
せんとく
正統せいとう
さつふうねん 1425ねん
せいさつふう使 內監ちゅうかん柴山しばやま
姓名せいめい なおともえこころざし
かみごう いきおいだかしんぶつ
出生しゅっしょう ひろしたけねん
1372ねん
出生しゅっしょう 佐敷さしきしろ
逝世 正統せいとうよんねんよんがつじゅうにち
1439ねん6がつ1にち
逝世 くびさとじょう
陵墓りょうぼ てん山陵さんりょうなおともえこころざしおうさんだいはか
父親ちちおや なおおもえ紹王
母親ははおや 大城おおしろ按司おんな
美里みさとおんな
王子おうじ なおただし
なお布里ふり
なおかねぶく
なお泰久やすひさ

なおともえこころざし琉球りゅうきゅうなおともえこころざしショーハシー Shō Hashii ?;1372ねん—1439ねん6がつ1にち),なおおもえ紹王之子ゆきこ,也是だいいちしょう王朝おうちょうだい二代國王和統一後琉球的第一代琉球りゅうきゅうこくおう,1421ねんいたり1439ねん6がつ1にち在位ざいいかみごういきおいだかしんぶつ琉球りゅうきゅういきおいだかしんぶついきおいだかしんぶつシージタカマムン Shiijitaka mamun)。

なおともえこころざし於1372ねんあきらひろしたけ5ねんなま南山みなみやま王國おうこく佐敷さしきしろ,其父ため佐敷さしき按司根據こんきょ中山なかやま記載きさいなおともえこころざしだか不滿ふまんしゃくいん此被人稱にんしょうため佐敷さしきしょう按司」。

而尚ともえこころざしざい少年しょうねん时即ゆうざいめいいちねんけいてきなおともえこころざしゆう與那原よなばる地區ちく,請當てきてつたくみため鑄造ちゅうぞうりょういち名劍めいけんいちそう滿載まんさいてつかたまりてき外國がいこく商船しょうせんらいいた與那原よなばる貿易ぼうえき認定にんてい此劍不可ふかとくてき寶劍ほうけんようせいせんてきてつどうなおともえこころざし交易こうえきなおともえこころざしいたりょう這些てつはた其全よう父親ちちおや所轄しょかつてき佐敷さしき領地りょうち百姓ひゃくしょう農具のうぐてき鑄造ちゅうぞうちゅうしたがえ此佐じき逐漸開始かいしゆうりょうどう沖繩おきなわ本島ほんとう其他勢力せいりょくそうゆうてき資本しほん

1392ねんひろしたけ25ねん),ちちなおおもえ退すさかくれれいなおともえこころざし繼承けいしょう佐敷さしき按司これ。1398ねんともえこころざしあずか島尻しまじり大里おおさとじょう按司ひろしえいむらさきごうはかりごとげきはいみなみ山王さんのううけたまわ察度すけひろしえいむらさきだつとく南山なんざんこくてき王位おういなみあずかこれゆいため同盟どうめい

1406ねんともえこころざしちゅう山王さんのうたけやすし統治とうち苛暴,おこりへい击败中山なかやまおうたけ,夺取中山なかやま王位おういざいくびさとしろたてまつ其父为名义上的中てきちゅう山王さんのう自己じこ执掌国政こくせい。1416ねんきた山国やまぐに,并任命にんめい次子じしなおただし北山きたやま监守。1422ねん其父,继位为王。1424ねん永樂えいらく22ねんはる使つかいいたりあきらつげちちねん接受せつじゅ明朝みょうちょうさつふう正式せいしきなりためちゅう山王さんのう

1429ねん南山なんざんこく发动战争,とりこころせみなみ山王さんのう鲁每,灭亡南山なんざんこく琉球りゅうきゅう王國おうこくだいいち統一とういつ王朝おうちょうだいいちしょう王朝おうちょう建立こんりゅう。1430ねん中国ちゅうごくあきらせんむねせんとくねん),あかりせんむね柴山しばやまため使正式せいしきうけたまわ认他统一さんやま,赐姓“なお”(琉球りゅうきゅうなおショー Shō[1]),たまものこくごう琉球りゅうきゅう」。したがえ此以中山なかやま王國おうこくさらめいため琉球りゅうきゅうこく

なおともえこころざしおう在位ざいい间,任命にんめい華僑かきょうふところため攝政せっしょうしたがえ明朝みょうちょう引進先進せんしん文化ぶんか同時どうじざいふところてき主持しゅうもち建造けんぞうりょうくびさとじょう[2]おさむけんみなと琉球りゅうきゅうこく中国ちゅうごくあさ日本にっぽん南洋なんよう各国かっこくてき贸易兴盛,为琉球りゅうきゅうこくてきしげる荣奠ていりょうもと础。

なおともえこころざし死後しごふところざいくびさとじょう附近ふきん建立こんりゅうてん山陵さんりょう以安そうてき遺體いたい自己じこそくはた住宅じゅうたくけん在天ざいてん山陵さんりょうぜん以守其墓。ただし如今なおともえこころざしあずかなおただしなおおもえたちごうそう讀谷よみたんむらまと喜名きなしょうなおともえこころざしおうさんだいはか」。[3]其原そのはらいん1469ねんだいいちしょう王朝おうちょう滅亡めつぼうだいしょう王朝おうちょう建立こんりゅうなおえんおうてき支持しじしゃはたてん山陵さんりょうたて焚毀,はたなおともえこころざしなおただしなおおもえたちさん國王こくおうてき遺骨いこつ遷往讀谷よみたん山間さんかんきり伊良皆いらみなてき佐敷さしきもり[4]

另有いちしゅ說法せっぽうなおともえこころざし死後しご南山みなみやまおうかずきた山王さんのうてき後代こうだいほしはた其挫骨揚こつあげはい以洩いきどお。其侄平田ひらた屋比久やびくことさき得知とくちりょう此事,はたなおともえこころざしてき遺骨いこつ悄悄しょうしょううん往讀谷山たにやまあいだきり伊良皆いらみな埋葬まいそう[5]

きのねん[编辑]

よし2002ねんおこり每年まいとし11がつ沖繩おきなわけんてき南城なんじょうひとし舉行《なおともえこころざしはんほどひしげまつ》以作ねん

家族かぞく[编辑]

  • 配偶はいぐう[6]
    • だいいち夫人ふじん美里みさと伊波いは按司おんな
    • だい夫人ふじん南山みなみやま高嶺たかね按司おんな
    • つま讀谷よみたんあいだきり座喜味ざきみてきしゅくおんな
    • わらわ讀谷よみたんあいだきり名東めいとう松田まつだてきしゅくおんな

腳註[编辑]

參考さんこう資料しりょう[编辑]

なおともえこころざしおう
前任ぜんにん
なおおもえ紹王
だいだいだいいちしょう王朝おうちょう國王こくおう
だいよんだい琉球りゅうきゅうこくちゅう山王さんのう

1421ねん-1439ねん
つぎにん
なおちゅうおう
前任ぜんにん
なおおもえ紹王
中山なかやまてき統治とうちしゃ
1421ねん-1439ねん

原因げんいん琉球りゅうきゅう統一とういつちゅう山國やまぐに改名かいめい琉球りゅうきゅうこく