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北史/卷095 - 维基文库,自由的图书馆 とべ转到内容ないよう

きた/まき095

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 まききゅうじゅうよん きた
まききゅうじゅう 列傳れつでんだいはちじゅうさん
まききゅうじゅうろく 

蠻 獠 りん赤土あかつち ばば

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蠻之種類しゅるいぶたばんひさごこれ在江あるえ、淮之あいだ部落ぶらくしげるづるぬの於數しゅうひがしれんことぶきはる西通にしどおりともえしょくきたせっなんじ、潁,往往おうおうゆう焉。其于たかし甚為患,いたりすすむこれまつやや繁昌はんじょうややため寇暴矣。りゅういしらんしょ蠻無しょ忌憚きたん其族ややとくきた遷,りく以南いなん滿まん山谷さんやあてらく蕭條しょうじょうりゃくためおか墟矣。

みちたけ既定きてい中山なかやまこえきょう於河ひょうやすしつねはちねん,蠻王梅安ばいあんりつみぞそちすうせんあさ京師けいしもとめとめしつ,以表ちゅう款。はじめこうちゅうはいやすさむらいひょう為安ためやすどお將軍しょうぐんしゅう刺史ししじゅんこうきょうこうちゅう,蠻王文武ぶんぶりゅう請降,みことのり褒慰はいみなみ雍州刺史しし、魯陽こう

のべきょうちゅうだい蠻首桓誕よう沔水以北いほく,滍葉以南いなんはちまんあまり落,使つかい內屬。孝文たかふみ嘉之よしゆきはい誕征みなみ將軍しょうぐんひがし荊州刺史ししじょうおう,聽自選じせんぐんけん。誕字天生あもう,桓玄之子ゆきこ也。はつげん西にし奔至まい迥洲ころせ,誕時ねんすうさい流竄りゅうざんだい蠻中,とげ習其ぞく。及長,智謀ちぼうためぐん蠻所。誕既內屬,きょろうりょうふとしよんねん王師おうしみなみ,誕請ため前驅ぜんく。乃授使ぶしみなみただし西道さいどうだいとく,討義はて而還。じゅうねんうつりきょ潁陽。じゅうろくねんたとえおうためこうじゅうななねんせいみなみ將軍しょうぐん中道ちゅうどうだいとくせい竟陵。ぐう遷洛,とまひとしせいとりこ將軍しょうぐんちょくかく將軍しょうぐん蠻首田益たますむねりつきょくよんせん內屬。じょうくびかみなりばばおもえとうじゅう一人率戶千餘內自徙,もとめきょ大和やまとがわみことのりきゅう廩食。こうひらき南陽なんようれいゆう沔北蠻人ばんじん安堵あんど不為ふため寇賊。じゅうはちねん,誕入朝にゅうちょうしょうぐうりゅうあつしそつおくりな曰剛。あきらどうしんりゅう驤將ぐんひがし荊州刺史しし襲爵しゅうしゃく景明かげあきはつだい蠻首そだておかとうまんはちせん內附,みことのりおけよんぐんじゅうはちけんあきらそつおくかんむりぐん將軍しょうぐん

さんねん,魯陽蠻魯きたつばめとう聚眾おさむ逼,しきみことのりひだりまもる將軍しょうぐんたかし討平,徙萬餘家于河北諸州及六鎮。ひろ叛南はし所在しょざい追討ついとう及河,ころせみなつきよんねんひがし荊州蠻樊もとやすはん,僭帝ごうせいはじめ元年がんねんもとやすおとうと秀安ひでやすふくはんたかし、楊大悉討平之ひらのねんりょう沔東ふと守田もりたきよしようななぐんさんじゅういちけんまんきゅうせん使つかい內附,乞師討梁。其雍しゅう以東いとう石城せきじょう以西いせい,五百餘里水陸援路,請率きょくだんよんねんりょうひさし太守たいしゅぶんくもせいろくかんひがし使つかい

ながたいらはつひがし荊州ひょう太守たいしゅ桓叔きょう前後ぜんこう招慰だい蠻,かえりしゃいちまんななひゃく,請置ぐんじゅうろくけんじゅうみことのりぜん鎮東ちょう酈道もとけんぎょうおけこれ。叔興そくあきらおとうと也,のべあきら元年がんねんはいみなみ荊州刺史ししきょあんあきら,隸于ひがし荊。さんねんはりへい討江、沔,やぶかすめしょ蠻,百姓ひゃくしょう擾動。蠻自しょうとくりつまん餘人よにんしき統帥とうすい,蠻以ためごえぜい。叔興きゅう一統いっとうなみ威儀いぎ為之ためゆき節度せつど蠻人ばんじんとげやす。其年,りょう雍州刺史しししょう其將蔡令まごとう三將寇南荊之西南,沿襄、沔上下じょうげやぶかすめしょ蠻,蠻首りょうりゅう驤將ぐん樊石れん叛梁,らい請援。叔興あずかいしかどとくしゅう蠻夏まん餘人よにんげきはしこれ令孫れいそんとうさんしょうまた其新太守たいしゅ邵道りん,于沔すいみなみ石城せきじょう東北とうほくりつ清水しみず戍,ためしょうかすめこれ,叔興しょ擊破げきはよんねん,叔興上表じょうひょう,請不隸東荊,もとはりじんごとゆう寇抄,叔興必摧破

せいひかりちゅう,叔興ようしょみなみ叛。蠻首なりりゅうきょうりつ戶數こすうせん內附,はい刺史しし;蠻帥田牛とうじせいりつせん內徙あげしゅうはいためぐんもりりょうよししゅう刺史しししろおうぶんそうあきら鐵騎てっき將軍しょうぐんじょうふとし守田もりたかんとくとうりつまんあまり,舉州內屬。はいそうあきらひらみなみ將軍しょうぐん西にししゅう刺史ししふう開封かいふうこうかんとくりゅう驤將ぐんよししゅう刺史しし自余じよふう授各ゆうそうあきらかんとく入朝にゅうちょう。蠻出山でやまいたりじょうけんやすしゃはちきゅうせんよししゅうひろためりょうすすむ裴邃しょおちいりょうじょうしゅう刺史ししちょうしゅうまた使つかいもとめ,請援歷年れきねん朝廷ちょうていおそれけい致邊やくこれもとかいちょうしゅう,其部きょくしょうりつ內附,徙之。ろく鎮、はた、隴所ざいはん叛,荊、西にし郢蠻だい擾動,だんさん鵶路,ころせとく,寇盜いたり於襄じょうなんじすい百姓ひゃくしょう其害。はりはたかこえ廣陵こうりょうすわえじょうしょ蠻,なみため前驅ぜんくなんじすい以南いなんほしいまま其暴かすめ連年れんねんおさむ討,而復あい,其暴しげる甚。

またゆう冉氏、むかいしゃ,陬落ゆうもりのりだいしゃまんいえ小者こものせんさらしょうたかしじゅ僭稱せんしょう王侯おうこうたむろよりどころさんかいだん遏水,荊蜀行人こうじんいたりゆうかり道者どうしゃしゅう文略ぶんりゃくてい、瀍,こえきょうみなみしょ蠻畏,靡然こうふう矣。だいすべねん,蔡陽蠻王魯超あかり內屬,授南雍州刺史しし,仍世襲せしゅう焉。じゅういちねん,蠻酋うめ勒特來貢らいこう其方ぶつひろ而蠻そちもりあお及江、かんしょ蠻擾どう大將軍だいしょうぐん楊忠擊破げきは。其後蠻帥もりあお自稱じしょうともえしゅう刺史ししにゅう朝廷ちょうていいん其所しょう而授もりあおとげはん攻圍こういひがしやなしゅう。其唐しゅう蠻田魯嘉また叛,ごうしゅうはくおうつよしけんけいせんとう前後ぜんこう討平

廢帝はいていはつ,蠻首樊舍舉落內附,以為とく淮北さんしゅうしょ軍事ぐんじ、淮州刺史しし、淮安ぐんこう。于謹とう平江ひらえりょうしょ騷動そうどうみことのりまめ甯、蔡祐とう討破きょうみかどねん,蠻酋むべひとおうきょう彥、きた荊州刺史ししうめあきらとうしょうつぎ款附。以興彥、あきらなみため開府かいふどうさんつかさあきららくしゅう刺史ししたまもの爵石だいけんこう。其後,ともえ西人せいじん譙淹扇動せんどうくん蠻以はり,蠻帥こう鎮侯、こう白虎びゃっことうおうこう五子王又攻陷信州;田烏たがらすとうとうしょうだん文子ふみこさかえふくよりどころ荊州汶陽ぐん自稱じしょうじんしゅう刺史ししなみ鄰州刺史ししがまほろまた舉兵ぎゃくいのちみことのりでんひろしわかあつしはん招、遷哲とう討破しゅうたけしげるはつぶんしゅう蠻叛,しゅうぐん討定ひろ而冉れいけんこう五子王等又攻陷白帝,ころせ開府かいふ楊長はなとげしょうりつさくらん前後ぜんご開府かいふもとちぎりちょうつよしとうそうへい討,雖頗翦其ぞくるい,而元わるじょ天和てんわ元年がんねんみことのり開府かいふりくあがとくおうあきら司馬しば裔等討之。あが水陸すいりく俱進,於湯こう先遣せんけん喻之。而令かしこかたぞう浚城いむしつらえ扞禦,長子ちょうし西にしはじむ次子じしみなみおうりょう其支ぞく,於江みなみ險要けんようおけりつじゅうしろとおむすぶ涔陽蠻為其聲援せいえんれいけんりつ其卒,固守こしゅすい邏城。あが乃總しゅう將帥しょうすいはかりごとしんおもむき,咸欲先取せんしゅすい邏,しかこう經略けいりゃく江南こうなんあがげん於眾曰:「れいけん內恃すい邏金けんそとたく涔輔しゃ援,けんふくかて充實じゅうじつ器械きかいせいしん。以我懸軍けんぐんおさむ其嚴るいだつ一戰いっせんかつさらなり其氣。如頓ぐん湯口ゆぐち先取せんしゅ江南こうなん,翦其毛羽けばしかゆう軍水ぐんすい邏,此制しょうけい也。」眾皆しかこれ。乃遣開府かいふおうあきらりつ眾渡こう旬日じゅんじつおさむ拔其八城やしろきょうとう奔散,ぞくそち冉承こうなみせいこうさんせんにんくだ其部眾一せんとげ簡募驍勇,すうみちぶんおさむすい邏。みちけい石壁いしかべじょう險峻けんしゅんよん面壁めんぺきりつ以名焉。ただゆういち小路こうじえんはしご而上,蠻蜒以為峭絕,へい所行しょぎょうあがかぶと先登せんとう,眾軍まましすすむ,備經危阻,累日るいじつ乃得きゅうみち。且騰先任せんにんたかししゅうそうかんまさとも其路蠻帥冉伯犁、冉安西にしあずかれいけんゆうすきあが乃招さそえはく犁等,ゆいため父子ふしまたのこぜに帛。はく犁等えつとげためきょうしるべみず邏側またゆうせき勝城かつきしゃまた險要けんようれいけん使其兄りゅうよりどころ勝又かつまた密告みっこくりゅうくもわか平水へいすい邏,使つかい其代れいけんしょりゅうしんだいえつ其子まいあが。乃厚れいせったまもの以金帛。蠻貪すんでふか,仍請りつこう,乃謂あが曰:「よくこぼししょよりどころじょうおそれ人力じんりき寡少。」あがもとさんひゃくへいすけすんで而遣せんにん,銜枚よるしんりゅうしんりょく不能ふのう禦,とげ平石ひらいし勝城かつき。晨至すい邏,蠻眾だいつぶせ斬首ざんしゅまんあまりきゅうれいけん遁走とんそうつい而獲司馬しば裔又べつ其二そのじじゅうあまりじょう蠻帥冉さんおおやけとうあが乃積其骸こつ于水邏城がわためきょうかん蠻蜒望見ぼうけん輒大哭,此狼もどこれこころ輟矣。

どきこう五子王據石墨城,れい其子たからまさるよりどころそうじょうみず邏平しきのこ喻之,而五子王猶不從命。あがまたおうあきらたむろろうつぼ司馬しば裔屯そうじょう以圖あがおもんばかそうしろ峭,おさむ拔,ぞくわかじょう遁散,またなん追討ついとう。乃令しょぐん周回しゅうかいりつしがらみ,遏其走路そうろぞく乃大駭。於是たてへい擊破げきは,禽おう於石すみたからまさる於雙じょう,悉斬しょこう首領しゅりょうなままんくち信州しんしゅう舊居きゅうきょしろみかどあがさら于劉備故宮城みやぎみなみはちひねきた,臨江がん築城ちくじょううつりおけ信州しんしゅうまた以巫けんしんりょう、秭歸併築城ちくじょうおけぼう,以為えりたい焉。

天和てんわろくねん,蠻渠冉祖裛、冉龍驤又はんみことのり大將軍だいしょうぐんちょう訚討平之ひらの此群蠻懼いきふくため寇。

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獠者,ぶた南蠻なんばん別種べっしゅかんちゅうたち於邛、笮,かわほら這間,所在しょざいみなゆう種類しゅるい甚多,きょ山谷さんやほぼ氏族しぞくべつまた名字みょうじ所生しょせい男女だんじょただ長幼ちょうよう次第しだいよび。其丈夫じょうぶたたえおもね謨、おもねだん婦人ふじんおもねえびすおもねひとしこれるいみな次第しだいしょういい也。積木つみき,以居其上,めい曰幹たけなわみきたけなわ大小だいしょうずい其家口之くちのすう往往おうおう推一長者ちょうじゃためおうまた不能ふのうとおあいすべちち則子のりこつぎわか中國ちゅうごく貴族きぞく也。獠王かくゆうかく一雙いっそう使つかい子弟してい吹擊こう相殺そうさいがい敢遠ぎょうのう水底みなそこがたなとげぎょ,其口嚼食なみはないん死者ししゃ,豎棺而埋せいどう禽獸きんじゅういたり忿怒ふんど父子ふしあい避,ただしゅゆう兵刃へいじんしゃさきころせこれわかころせ其父,はし避外,もとめとくいちいぬ以謝,ふくいや恨。わかほう怨相攻擊こうげき必殺ひっさつ而食平常へいじょう劫掠ごうりゃくうれ豬狗而已。親戚しんせき鄰,ゆび授相うりうれしゃごう哭不ふく,逃竄避之,乃將かいじんゆび,逐若ほろび叛,便びんばくただしけいばくしゃそくふくため賤隸,敢稱りょう矣。亡失ぼうしつ兒女じじょいち哭便どめふくついおもえただだてほこ弓矢ゆみやようちくため簧,群聚ぐんしゅう,以為音節おんせつのうためほそぬのしょくいたり鮮淨。だいいぬいちとううれ一生いっしょうくち。其俗かしこ鬼神きじんゆうなおいんまつところころせ人美ひとみびんひげしゃ,乃剝其面がわかご於竹,及燥,ごう曰鬼,鼓舞こぶまつこれ,以求福利ふくりいたりゆううり其昆つま孥盡しゃ,乃自うり以供さい焉。どうため大口おおぐちひろしはらめい曰銅爨,すんでうす且輕,えき於熟しょく

建國けんこくちゅうぜいざいしょくしょ獠始ともえ西にしみぞがわこうかんやすちゅうおさむやぶぐんこくためえきしゅう大患たいかんいきおい內外受敵,所以ゆえんほろび也。桓溫やぶしょくこれちから不能ふのうせいまたしょくじんひがしりゅうやまけわしこれそら,獠遂はさみやまはたこくあずかなつ人參にんじんきょしゃ,頗輸租賦;ざい深山みやましゃ,仍不為ふため編戶あみどはりえき二州歲伐獠,以裨じゅん公私こうし,頗藉ため

せいはじめちゅうなつこうどう遷舉かんちゅう內附,せん尚書しょうしょ邢巒ためはりえきしゅう刺史しし以鎮きんなつじんしゃ安堵あんどらくぎょうざい山谷さんやしゃ敢為かんい寇。こう以羊祉為やなしゅうでん豎眼ためえきしゅう。祉性こくしいたげとく物情ぶつじょうはり輔國將軍しょうぐん范季あさひあずか獠王ちょうきよし荊率眾屯孝子こうしこく,祉遣すべぐんえびすげきはしこれこうはり甯朔將軍しょうぐんきょうしろふくようえびす獠入たむろ南城なんじょうやなしゅうじん王法おうほうけいあずかこれ通謀つうぼう,眾屯於固門川かどがわ。祉遣せいとりこ將軍しょうぐん討破。豎眼ほどこせおんぬのしんじだいとく獠和。こう以元ほうそうだいでん豎眼ためえきしゅうほうそう在任ざいにんむさぼざん,獠遂はん叛,勾引こういんはりへいかこえ逼晉ことぶき朝廷ちょうていこれ,以豎さきとく物情ぶつじょうふくれいじょうでん往撫。獠聞豎眼いたり,莫不欣然きんぜんはいむかえ道路どうろ,於是而定。及元桓、元子もとこ真相しんそうまましためやなしゅう並無ならびなとく績,しょ獠苦。其後,朝廷ちょうてい以梁、えき二州控攝險遠,乃立ともえしゅう以統しょ獠。こう以巴酋嚴はじめ欣為刺史ししまたたて隆城りゅうじょう鎮,しょたがねじゅうまんかれいいきた獠,さい輸租ぬのまたあずか外人がいじん交通こうつう貿易ぼうえきともえしゅうせい獠,なみみな不順ふじゅん,其諸あたまおうまい于時ぶし謁見えっけん刺史しし而已。孝昌たかまさはつしょ獠以はじめ欣貪暴,そうりつはん叛,攻圍こういともえしゅう山南さんなんゆきだいたてつとむ喻,即時そくじやめ獠諸あたまおうそうりつまいくだりだいしゃしょうつぎたてあつしろう賚之。はじめ欣見中國ちゅうごく多事たじまたしつかれこころおもんばかざい譴,りょうみなみやなしゅう刺史ししかげはるおうぎ惑邊陲,はじめ欣謀はたみなみ叛。はじめ欣族愷時ため隆城りゅうじょう鎮將,みつ知之ともゆきいむしつらえ邏候,とげ禽梁使じんなみふうはじめ欣詔しょてつけん刀劍とうけん衣冠いかんぞくひょうおくくだりだいけん乃啟以豎ひさびょう,其子けい紹納はじめ欣重まいない使つかいかえしゅうはじめ欣乃おこり眾攻愷,ほふめつよりどころ城南しろみなみ叛。りょうすすむしょう玩,りつ眾援せっときはりえき二州並遣將討之,おさむおちいともえしゅうはじめ欣,とげ大破たいは玩軍。及斬玩,以傅くもりひょうため刺史ししこうもとざいやなしゅう為所しどころおちい此遂ぜっ

及周文平ぶんぺいはりえきこれれい在所ざいしょなで慰,其與華人かじん雜居ざっきょしゃまた頗從賦役ふえきしか天性てんせい暴亂,旋致擾動。每歲まいさいいのちしたがえきんしゅう鎮,出兵しゅっぺい討之,其生こう,以充賤隸,いいためあつ獠焉。こうゆうしょうたび往來おうらいしゃまた以為貨,公卿くぎょうたち於人庶之ゆう獠口しゃ矣。きょうみかどさんねんりょうしゅうかご獠反,みことのり開府かいふりくあが討破しゅうたもつていねん鐵山てつざん獠又はんしょうだんりくあがまたおさむ拔其三城みき天和てんわさんねんやなしゅうつね棱獠叛,そう管長かんちょうちょうぶんひょう討之。軍次ぐんじともえしゅうぶんひょうよくりつ眾徑しんぐん吏等曰:「此獠たびこばめひさ眾甚きょう,討之しゃよんめんおさむ,以分其勢。こんわか大軍たいぐん直進ちょくしんへいおそれ亻並りょく於我,制勝せいしょう。」ぶんひょう曰:「往者おうしゃすんで不能ふのうせい今須いますべつためしんおもむきわかよんめんへいのり獠降走路そうろぜっとうそうりつ以死こばめせん;如從一道いちどうのりわれとく示威じいおん分遣ぶんけんじん以理あかつきさとしため惡者わるもの討之,かえりぜんしゃなでこれ善惡ぜんあくすんでぶんやすため經略けいりゃくことゆう變通へんつう奈何いかんよく遵前わだち也?」ぶんひょうとげ以此へんれいぐんちゅうときゆう從軍じゅうぐんじゅく獠,あずかつね棱親識,そく以實ほうつね棱獠しょうあずか聚議,猶豫ゆうよあいだぶんひょうぐんやめいたり其界。獠中さきゆう一路いちろややひらめ一路いちろきょくけわしにわか有生ゆうせい獠酋そちすうにん來見くるみぶんひょう曰:「わがこわ官軍かんぐん山川やまかわ,請為きょうしるべ。」ぶんひょういい曰:「此路寬平かんぺい須導引,きょうただしさきこう慰喻子弟してい也。」乃遣ぶんひょういい其眾曰:「むこうしゃ獠帥,いいわれしたがえひろし而行,必當しつらえふく險要けんようわかしたがえ險路けんろ不慮ふりょ,獠眾離散りさん矣。」於是勒兵したがえけんどうすすむ,其有不通ふつうしょそく平之ひらのこう而望,はて其伏へい。獠既しつけいそう妻子さいし退すさ險要けんようぶんひょうひたぶるぐんだいよもぎ山下やましたしめせ禍福かふくとげしょうりつらいくだぶんひょうみななで慰之,仍征其租稅そぜい敢動しゃこうじょぶんひょうためよもぎしゅう刺史ししまただいとくじん

建德けんとくはつあきらためほおけやなしゅうそうかんしょ獠亦もちふうしたがえしか其種しげるづるよりどころげん壑,やまはしけわしわかくつ平地ひらち,雖屢へいどるきゅう討。せいまた無知むち,殆同禽獸きんじゅうしょ夷之えびすのちゅうさいなん以道招懷しゃ也。

はやし[编辑]

はやし邑,其先所出しょしゅつことみなみ》。其國のべ袤數千里せんり香木こうぼく金寶きんぽう物產ぶっさんだい抵與交趾どう。以磚ためじょう,蜃灰ぬり東向こちむきみこと官有かんゆう,其一曰西ばばみかど其二そのじ曰薩ばば地歌じうた。其屬かんさんとう,其一曰倫せいりん致帝,おつとぎらんそとかんぶんためひゃく,其長官ちょうかん曰弗曰可,如牧おさむこれ也。おう戴金花冠かかんかたち如章はじめころも朝霞あさがすみぬのたま璣纓からまあし躡革くつ時服じふくにしきほう良家りょうけさむらいまもるしゃひゃくもとじんみなきむそうへいゆうゆみかたな、槊。以為ちくためいしゆみでんどく於矢。らくゆうきんふえ琵琶びわげん,頗與中國ちゅうごくどうまいげき以警眾,吹蠡以即えびす。其人ふか目高めだかはなはつこぶししょくくろぞくみな徒跣かちはだし,以幅はばまといふゆがつころもほう婦人ふじんしいたぶさほどこせ椰葉せきまいゆうこん媾,れいなかだちしゃ金銀きんぎん釧、さけつぼさかなすうとういたりおんな,於是おっとかいおやまろうど歌舞かぶ相對そうたいおんな請一婆羅門送女至男家,婿むこたらいしゅいん牽女授之。おうななにち而葬;ゆうかんしゃ三日みっか;庶人,いちにちみな以函もりかばね鼓舞こぶしるべしたがえ輿こしいたり水次みつぎせきたきぎ焚之。おさむ其餘こつおうのり內金罌中,沉之於海;ゆうかんしゃ,以銅罌,沉之うみこう;庶人以瓦,おくこれ于江。男女だんじょみな截發,哭至水次みつぎつきあい而止,そく哭。まいななにちもえはなふく哭盡あい而止,ひゃくにちさんねんみな如之。ひとみなたてまつふつ文字もじどう天竺てんじく

ずいぶんみかどすんでひらひね,乃遣使けんじかたぶつ朝貢ちょうこうとげぜっどき天下でんか無事ぶじ群臣ぐんしんげんりん邑多たからしゃじんことぶきまつうえ大將軍だいしょうぐんりゅうかたため驩州どう行軍こうぐんそうかんりつ欽州刺史しし甯長しん、驩州刺史ししかさ開府かいふはたつよしまんあまり,及犯ざいしゃすうせんにんげき。其王梵志じょうきょぞう而戰,ぽうぐん不利ふりかた乃多しょうあなくさくつがえ其上,いん以兵挑之。ほうあずかせんにせきた,梵志逐之,其象おちいぐんとげらんぽう大破たいはとげ棄城はしにゅう其都,其廟ぬしじゅうはちまいみな鑄金ちゅうきん為之ためゆきつき國有こくゆうじゅうはちせいかたはん,梵志ふく其故使つかい謝罪しゃざい,於是朝貢ちょうこうぜっ

赤土あかつち[编辑]

赤土あかつちこく,扶南別種べっしゅ也。ざい南海なんかいちゅうみずぎょうひゃくにち而達。ところ土色つちいろあかいん以為ごうひがしとげこく西にしばばしゃばこくみなみ訶羅だんこくきたこばめ大海たいかい地方ちほうすう千里せんり。其王せい瞿曇多利たり富多とみたふさが不知ふちゆう國近くにちかとおしょう其父しゃく王位おうい出家しゅっけためどうつて於利富多とみたふさが在位ざいいじゅうろくねん矣。ゆうさんつまなみ鄰國おんな也。きょそう祗城,有門ありかど三重みえ相去あいさりかくひゃくもとまいもん圖畫ずが菩薩ぼさつせんぞうかかきむはなすず眊,婦人ふじんすうじゅうにんある奏樂そうがくあるささげきんはなまたかざりよん婦人ふじんようかざり如佛とうあたり金剛力士こんごうりきしじょう,夾門而立じりつ門外もんがいしゃ兵仗ひょうじょうもん內者しろはらい。夾道たれもともうつづりはな王宮おうきゅうしょ,悉是じゅうかくきた北面ほくめん而坐さんじゅう榻,ころも朝霞あさがすみぬのかんきん花冠かかんたれざつたからえいからま四女子しにょしりつさむらい左右さゆう兵衛ひょうえひゃく餘人よにんおう榻後さく一木ひとつきがん,以金銀きんぎん香木こうぼくざつ鈿之,がんかかいち金光かねみつ焰;夾榻またきんきょうかがみ前並まえなみひねきんぜんかく有金ありかね香爐こうろとうまえおけいちきんふくうしぜんいちたからぶた左右さゆうみなゆうたからおうぎ婆羅門ばらもんとうすうひゃくにん東西とうざい重行しげきあいこう而坐。其官:薩陀いちにん,陀拏たちまたいちにん,迦利みつさんにんきょうてのひら政事せいじ;俱羅まつみかどいちにんてのひら刑法けいほうまいしろおけよこしまいちにん,缽帝じゅうにん

其俗,みな穿ほじみみ翦發,跪拜きはいれい,以香ぬり。其俗けいふつゆうじゅう婆羅門ばらもん婦人ふじんさくたぶさ于項男女だんじょどおり朝霞あさがすみあさくも雜色ざっしょくぬのためころもごう富之とみゆきしつ恣意しいはな靡,ただきんくさりおうたまものとく服用ふくようまいこんよめ吉日きちじつおんなさきにち作樂さくら飲酒いんしゅちち女手おんなで以授婿むこななにち乃配。すんでめとそくぶんざい別居べっきょただ少子しょうしあずかちちきょ父母ちちはは兄弟きょうだいのり剔發もとふく,就水じょう構竹ためだなたな內積たきぎ,以屍おけじょう燒香しょうこうけんはた,吹蠡げき以送,焚薪,とげ落于すい賤皆どうただ國王こくおうしょう訖收はい,貯以金瓶かなかめぞう於廟ふゆなつ常溫じょうおんあめ霽少,しゅうえときとくむべいね、穄、しろまめくろあさ自餘じよ物產ぶっさんどう於交趾。以甘蔗作しゅざつ以紫ふり酒色しゅしょくあかあじまた香美かがみまた以椰漿為しゅ

ずい煬帝嗣位,つののうどおり絕域ぜついきしゃ大業おおわざさんねん屯田とんでん主事しゅじつね駿しゅんおそれ主事しゅじおうくんせいとう請使赤土あかつちみかどだいえつ齎物せんだん以賜赤土あかつちおう。其年じゅうがつ駿しゅんとう南海なんがいぐん乘舟のりぶね晝夜ちゅうやしゅん每日まいにちぐう便びんふういたりこげ石山いしやま而過,東南とうなんまいりょうとぎ缽拔しゅう西にしあずかはやし相對そうたいうえゆう神祠しんし焉。またみなみぎょういたりせき島嶼とうしょ連接れんせつまたくだりさんにち西にし望見ぼうけんおおかみきば須國やま,於是みなみたち雞籠とういたり於赤これかい

其王婆羅門ばらもんばと,以舶さんひゃくそう來迎らいごう,吹蠡げきらくずい使しんきんくさり以纜せん月餘げつよいたり其都。おう其子よこしま迦請與駿しゅんとうれい先遣せんけんじん送金そうきんばん貯香はななみきょう鑷,きむごうまい貯香金瓶かなかめまい貯香すいしろたたみぬのよんじょう,以擬きょう使者ししゃたらいあらい。其日ひつじよこしま迦又はたぞうとうもち孔雀くじゃくじゅう以迎使じんなみ致金ばんきむはな,以藉みことのりはこ男女だんじょひゃくにんそう蠡鼓,婆羅門ばらもんにんしるべいたり王宮おうきゅう駿しゅんとうたてまつ詔書しょうしょじょうかくおう以下いかみなすわせんみことのり訖,引駿とうすわそう天竺てんじくらくこと畢,駿しゅんとうかえかんまた婆羅門ばらもん就館おくしょく,以草ためばん,其大方丈ほうじょうよしいい駿しゅん曰:「こん大國たいこくしんふく赤土あかつちこく矣。」數日すうじつ,請駿とういれえんまもるしるべしたがえ如初れいおうぜんしつらえりょうゆか床上ゆかうえなみしつらえ草葉くさばばんぽういちたけしゃくうえゆうしろむらさきあかよんしょくもちうしひつじさかな、鱉、豬、蝳蝐にくひゃくひんのべ駿しゅんますゆか從者じゅうしゃ于地せきかく以金鍾置しゅおんならく迭奏,れいのこ甚厚。

ひろよこしま迦隨みつげかたぶつなみ獻金けんきん芙蓉ふようかんむり龍腦りゅうのう,以鑄きんためようかくれおこり成文せいぶん以為ひょうきむはこふうれい婆羅門ばらもん以香はなそう蠡鼓而送すんで入海いりうみみどりぎょぐん水上すいじょう。浮海じゅうにちいたりりん邑東みなみなみやま而行。其海水色みずいろなまぐさ舟行しゅうこういちにちぜっくもだいさかなくそ也。循海北岸ほくがんたち於交趾。駿しゅん以六年春與那邪迦于弘農謁帝。みかどだいえつ,授駿とう戟都じょうよこしま迦等かんしょうかくゆう

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臘國,ざいはやし西南せいなんほん扶南屬國ぞっこく也,日南にちなんぐん舟行しゅうこうろくじゅうにち而至。みなみせっしゃみぞこく西にしゆう硃江こく。其王せい刹利めいしつ斯那。其祖やややめきょうもりいたりしつ斯那隧兼扶南而有おご先代せんだいりつおごじょうかくまんあまりしろ中有ちゅうういち大堂うふどう其王聽政しょそう大城おおきさんじゅうしょ城有しろありすうせんいえかくゆうそちかんめいあずかはやし邑同。

其王さんにち一聽いっちょうあさすわ五香ごこう七寶しっぽうゆかうえほどこせたからちょう,以文ため竿ざお象牙ぞうげきん鈿為かべじょう小屋こやかか金光こんこう焰,ゆうどう於赤ぜん有金ありかねいのちにんさむらいがわおうちょ朝霞あさがすみかい,瞞絡こしはら下垂かすいいたりずねとう金寶きんぽう花冠かかん真珠しんじゅえいからまあしくつかわ屣,みみかかきむ鐺。つねふくしろたたみ,以象きばため屩。わかはつのりえいからま臣下しんかふくせい大抵たいていしょうるいゆう大臣だいじんいち曰孤落支,曰相だか憑,三曰婆何多陵,よん曰舍りょう,五曰髯羅婁,及諸しょうしんあさ于王しゃ,輒於階下かいかさん稽首,おうよびうえかいのり跪,以兩しゅだき膊,にょうおうたまきすわ政事せいじ訖,跪伏而去。かいにわもんかくさむらいまもるゆうせん餘人よにんかぶと仗。其國あずかさんはん、硃江こく和親わしんすうあずかはやし邑、陀桓こく戰爭せんそう。其人ぎょうやめみなかぶと仗,わかゆう征伐せいばついん而用

其俗,おうただし妻子さいしとくため嗣。おうはつだて所有しょゆう兄弟きょうだいなみけいざんある一指いっしある劓其はなべつしょ供給きょうきゅうつかまつすすむ人形にんぎょうしょう而色くろ婦人ふじんまたゆうしろしゃ。悉拳はつたれみみせいとし勁。きょしょ器物きぶつ,頗類赤土あかつち。以右しゅためきよし左手ひだりてためけがれまいだん澡洗,以楊えだきよし讀誦とくしょうけい咒,また澡灑乃食。しょくやめかえよう楊枝ようじきよしまた讀經どきょう咒。飲食いんしょく酪、すなとう、秔粟、べいもちよくしょくとき先取せんしゅざつにくあつものあずかもちしょう擩而しょくめとつましゃただおく女人にょにんおんななかだちじんむかえ男女だんじょいえかくはちにち不出ふしゅつ晝夜ちゅうやもえとういきおとこ婚禮こんれい畢,そくあずか父母ちちははぶんざい別居べっきょ父母ちちはは小兒しょうに未婚みこんしゃ,以餘ざいあずかこれわかこん畢,財物ざいぶついれかんそう兒女じじょみなななにちしょく,剔發而喪,僧尼そうに道士どうしおやみならい聚會,音樂おんがくおくこれ。以五香木こうぼくしょうかばねおさむはい,以金銀きんぎんびんもりおく大水おおみず內;貧者ひんじゃあるようかわら,而以彩色さいしきまたゆう焚,おくかばね山中さんちゅうにん野獸やじゅうしょくしゃ

其國きたやま阜,みなみゆう水澤すいたく地氣ちきゆうねつ霜雪そうせつにょう瘴癘しょうれいどく蜇。むべ粱、いねしょうきびあわ果菜かさいあずか日南にちなんきゅう真相しんそうるいことしゃゆうばばしゃばじゅはなようかきじつ冬瓜とうがあんいつきはななつめじつ;毗野じゅはな木瓜ぼけようあんずじつこうぞばばいつきはなじつなみなつめ而小畢佗じゅはな林檎りんごよう榆而あつだいじつ,其大如升。自餘じよどうきゅうしんうみゆうぎょめいけんどう四足しそくうろこはな如象,吸水きゅうすいじょう噴,こうろくじゅうしゃくゆう浮胡ぎょかたち鲠且,くちばし鸚鵡おうむゆうはちそく多大ただいぎょ半身はんしんもち如山。まいろくがつちゅう毒氣どくけ流行りゅうこうそく以白豬、しろうしひつじ城西じょうさい門外もんがいほこらしか五穀ごこくとう,畜多にんやまし疫。きんゆうりょうとぎ缽婆さんうえゆう神祠しんしまい以兵せんにん守衛しゅえい城東じょうとうかみめいばば多利たりまつり用人ようにんにく。其王年別ねんべつ殺人さつじん,以夜ほこら禱,またゆう守衛しゅえいしゃせんにん。其敬おに如此。たてまつ佛法ぶっぽうゆうしん道士どうしふつ及道並立へいりつぞう於其かん

ずい大業おおわざじゅうねん使つかい貢獻こうけんみかどれい甚厚,於後またぜっ

ばば[编辑]

ばば利國としくに交趾浮海,みなみ赤土あかつちたんまこと乃至ないし其國。國界こっかい東西とうざいよんがつぎょう南北なんぼくよんじゅうにちぎょうおうせい刹利よこしまとぎ名護なご濫那ばばかん曰獨訶邪拿,曰獨訶氏拿。國人くにびとぜんとう,其大如鏡,中有ちゅうう竅,そとほこさき如鋸,とお以投じんなか。其餘兵器へいきあずか中國ちゅうごくりゃくどうぞくるい臘,物產ぶっさんどう于林邑。其殺じん及盜,截其しゅ;奸者,くさり其足,ねん而止。祭祀さいし必以がつみそばん貯酒さかな,浮之流水りゅうすいまいじゅういちがつ必設大祭たいさいうみ珊瑚さんご有鳥あっとりめい舍利しゃりかい人語じんご

ずい大業おおわざじゅうねん使つかい朝貢ちょうこうとげぜっ

于時みなみあらゆうたんまことばんばんこくまた來貢らいこうかたぶつ,其風俗ふうぞく物產ぶっさん大抵たいていしょうるいうん

ろん[编辑]

ろん曰:《れいうん:「南方なんぽう曰蠻,ゆう火食かしょくしゃ矣。」しか種類しゅるいいちあずか華人かじん錯居,其流曰蜒,曰獽,曰俚,曰獠,曰厓。きょくんちょうずい山洞やまほら而居。其俗,斷髮だんぱつ文身いれずみこのみしょうおさむ討。しんなみさんすわえかんたいらひゃくえつきゅう徼,けいごく日南にちなん水陸すいりく,咸為こおりけん。洎乎さかいぶん南北なんぼく割據かっきょかくこと,蠻、獠之ぞく,遞為去就きょしゅういたり於林邑、赤土あかつち臘、ばば利則としのりへだたこうみね,莫通中國ちゅうごく。及隋受命じゅめいかつひらきゅう宇,煬帝纂業,たけしはちあら甘心かんしんどお矣,こころざしもとめちんこと出流いずるもとめへいりん邑,ことぞく於秦、かんどお矣。雖有あら外之そとゆきこうすくいいきちゅうはい。《つて》曰:「聖人せいじんそと甯必ゆう內憂。」誠哉せいや斯言也。

大業おおわざちゅうみなみあら朝貢ちょうこうしゃじゅうあまりこく,其事蹟じせき湮滅いんめつこん可知かちしゃ四國しこく而已。

 まききゅうじゅうよん かえしかいいただき まききゅうじゅうろく

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