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後漢書/卷89 - 维基文库,自由的图书馆 とべ转到内容ないよう

こう漢書かんしょ/まき89

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 まきはちじゅうはち·西域せいいきでんだいななじゅうはち こう漢書かんしょ
まきはちじゅうきゅう·みなみ匈奴きょうど列傳れつでんだいななじゅうきゅう
まききゅうじゅう·がらす桓鮮卑列でんだいはちじゅう 

みなみ匈奴きょうど

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みなみ匈奴きょうどひしお落尸逐鞮たん于比しゃよびかんよこしまたん于之まごがらすたまとめわか鞮單于之也。よびかんよこしま諸子しょし以次りついたりちちこうたん于輿,以比ためみぎ薁鞬逐王,りょうみなみ及烏桓。

たてたけしはつ,彭寵はん叛於りょうたん于與どもれんへいいん復權ふっけんりつかおる使つかい入居にゅうきょばら光武みつたけはつぽうひらめしょなつ外事がいじいたりろくねんはじめれいとくこうりゅう颯使匈奴きょうど匈奴きょうどまた使つかいらいけんじかんふくれいちゅうろうはたかんみつる報命ほうめいまいないのこきむぬさ,以通きゅうこのみ。而單于驕うずくまおかせひたぶるたい使者ししゃもと慢,みかどまち如初。はつ使命しめいつねどおり,而匈やつすうあずかかおるきょうおかせ北邊ほくへんきゅうねんだい司馬しばかんとうげきけいとしこう,而匈やつてんもりしょう暴日ぞうじゅうさんねんとげ寇河ひがししゅうぐん不能ふのうきん。於是やや徙幽、并邊じん於常やませききょいさおせき以東いとう匈奴きょうどひだりとげふく轉居てんきょふさがうち朝廷ちょうてい患之,ぞう緣邊えんぺんひょうぐんすうせんにん大築おおつきちんこうおさむ烽火ほうか匈奴きょうど聞漢購求こうきゅうかおるむさぼとくざい帛,乃遣かおるかえもちとく其賞。而芳以自ためこうしょう匈奴きょうどしょたん于復耻言其計,しょうとげくだりよしだい恨,入寇にゅうこうゆうふかじゅうねんとげ至上しじょうとう、扶風、天水てんすいじゅういちねんふゆふく寇上だに中山なかやまころせりゃくしょうかすめ甚眾,北邊ほくへんふくやすしとし

はつたん于弟みぎたに蠡王ほふきば以次當為とういひだりけんおうひだりけんおうそくたん于儲ふくたん于欲でん其子,とげころせきばきばしゃ王昭君おうしょうくん之子ゆきこ也。あきらくん嫱,みなみぐんじん也。はつもとみかど,以良家子いえこせんにゅうわきにわときよびかんよこしま来朝らいちょうみかど敕以宫女にんたまものあきらくんにゅう宫數岁,とくせき悲怨,乃請わきにわれいもとめゆきよびかんよこしま臨辭大會たいかいみかどじょ以示あきらくんゆたかよう靓飾,光明こうみょうかん宫,顾景裴回,竦動左右さゆうみかどだいおどろき意欲いよくとめ,而難於失しんじとげあずか匈奴きょうどなま。及呼かんよこしま,其前閼氏子うじこだいりつよくつまあきらくん上書うわがきもとめなりみかど敕令したがええびすぞくとげふくためたん于閼焉。

見知みしきば誅,怨言えんげん曰:“以兄弟きょうだいごとみぎたに蠡王とうたて;以子ごとわがぜんたん長子ちょうしわがとうだて。”とげ内懷うちぶところ猜懼,にわかいまれ闊。たん于疑,乃遣りょうほねこうかんりょう所部ところぶへいじゅうねんたん于輿ひだりけんおうがらすたち鞮侯りつためたん于。ふくおとうとひだりけんおうがまやつりつためたん于。とくりつすんでなつけいきどお恨。而匈やつちゅう連年れんねんひでりいなご赤地あかじすう千里せんり草木くさきつき枯,にん畜飢疫,耗太はんたん于畏かんじょう其敝,乃遣使まいりょうもとめ和親わしん。於是ちゅうろうはたしげる報命ほうめい。而比みつ漢人かんどかく衡奉匈奴きょうど地圖ちずじゅうさんねんまい西河にしがわ太守たいしゅもとめないりょうほねこう頗覺其意,かいがつりゅうほこらいんしろたん于,げん薁鞬逐夙らいほしため不善ふぜんわか誅,且亂こくときおとうとややはたおうざいたん于帳,聞之,はせ以報懼,とげ斂所ぬしみなみはち眾四まんにんまちりょうほねこうかえよくころせこれほねこう且到,其謀,みなけいほろび,以告たん于。たん于遣まんげき見比みくらべ眾盛,敢進而還。

じゅうよんねんはる,八部大人共議立比為呼韓邪單于,以其大父おおぶ嘗依かんとくやすよくかさね其號。於是款五ばらふさがねがいながため籓蔽,悍御きたとりこみかどよう五官中郎將耿國議,乃許。其冬,自立じりつためよびかんよこしまたん于。

じゅうねんはるおとうとひだりけんおう莫將へい萬餘人擊北單于弟薁鞬左賢王,せいまたやぶきたたん于帳,并得其眾,ごうまん餘人よにんうまななせんひきうしひつじまんとうきたたん于震こわ,卻地千里せんりはつみかどづくり戰車せんしゃ數牛かそし上作じょうさくろう橹,おけ於塞じょう,以拒匈奴きょうど時人じじんしゃあるあいいい曰:“讖言かん九世當卻北狄地千里,あにいい此邪?”及是,はてつぶせ焉。北部ほくぶ薁鞬こつこうあずかみぎこつこうりつさん萬餘人来歸南單于,みなみたん于復使つかいまい闕,たてまつ籓稱しんけんじこく珍寶ちんぽうもとめ使者ししゃ監護かんごさむらいおさむ舊約きゅうやく

じゅうろくねんちゅうろうはただん郴、ふくこうじょうおういく使みなみたん于,たて其庭,五原西部塞八十里。たん于乃のべむかえ使者ししゃ使者ししゃ曰:“たん于當ふく拜受はいじゅみことのり。”たん于顧もちゆうごろ,乃伏しょうしんはい訖,れいやくあかつき使者ししゃ曰:“たん新立しんだてまこと慚於左右さゆうねがい使者ししゃ眾中あい屈折くっせつ也。”ほねこうとうみな泣下。郴等反命はんめいみことのり乃聽みなみたん入居にゅうきょくもちゅう使つかい上書うわがきけんじ駱駝らくだとうぶんじゅうひきなつみなみたん于所きたとりこ薁鞬ひだりけん王將おうしょう其眾及南五骨都侯合三萬餘人叛歸,きたにわさんひゃくあまりさと共立きょうりつ薁鞬ひだりけんおうためたん于。月餘げつよさらしょう攻擊こうげきほねこうみなひだりけんおうとげ自殺じさつしょほねこうかくようへいもりあきみなみたん于遣にゅうさむらいたてまつそうまい闕。みことのりたまものたん于冠たい衣裳いしょう黄金おうごん璽、盭緺綬,やすしゃぶたはな寶劍ほうけん弓箭きゅうせんくろぶしさん,駙馬黄金おうごんにしき綉、繒布まんひき,絮まんきん樂器がっきしゃ,棨戟かぶとへい飲食いんしょく什器じゅうきまたうたて河東かわとうべいほしいまんせん斛。うしひつじさんまんろくせんとう,以瞻きゅうれいちゅうろうはたおけやすしゅうじょうはたたゆけいじゅうにんへいいしゆみしたがえたん于所しょまいり訟,察動静どうせいたん于歲つき輒遣使たてまつそうおくさむらい入朝にゅうちょうちゅうろうしょう從事じゅうじ一人將領詣闕。かん謁者おくぜんさむらいかえたん于庭,交會道路どうろ元正がんしょう朝賀ちょうがはいほこらりょうびょう畢,かん乃遣たん于使,れい謁者はたおくたまものいろどりせんひきにしきよんはしかねじゅうきんふとし宫御しょく醬及だいだいたちばな龍眼りゅうがん、荔支;たまものたん于母及諸閼氏、たん于子及左右さゆうけんおう左右さゆうだに蠡王、ほねこう有功ゆうこうぜんゆう,繒彩あいまんひきとし以為つね

匈奴きょうどぞくさいゆうさんさいほこらつね以正がつ五月ごがつきゅうがつつちのえさい天神てんじんみなみたん于既ないけんほこらかんみかどいんかいしょ國事こくじはしうま及駱駝為らく。其大臣だいじんとうとしゃひだりけんおうひだりたに蠡王,みぎけんおうみぎたに蠡王,いい四角しかく左右さゆう逐王,左右さゆうぬる禺鞮おう左右さゆうややしょうおうためろくかくみなたん子弟してい次第しだい當為とういたん于者也。異姓いせい大臣だいじん左右さゆうこつこう左右さゆうしかばね逐骨こう,其餘逐、且渠、とう户諸かんごうかく以權りょく優劣ゆうれつ眾多しょうため高下こうげ次第しだい焉。たん于姓きょれんだい異姓いせいゆうよび衍氏、須卜おかりんらん四姓しせい,为國中名なかのみょうぞくつねあずかたん婚姻こんいんよび衍氏ためひだりらん、須卜ためみぎしゅ斷獄だんごく聽訟,とうけつ輕重けいちょうくちしろたん于,文書ぶんしょ簿りょう焉。

ふゆぜん叛五骨都侯子復將其眾三千人歸南部,きたたん于使追擊ついげき,悉獲其眾。みなみたん于遣へいこばめこれぎゃくせん不利ふり。於是ふくみことのりたん于徙きょ西河にしかわよしきびいん使ちゅうろうはただん郴及ふくこうじょうおういくとめ西河にしがわ擁護ようごためしつらえかん從事じゅうじじょうれい西河にしがわちょうとししょうせんたゆけいひゃくにんじょちゅうろうはたまもるまもるたん于,ふゆたむろなつやめ以為つね,及悉ふく缘邊はちぐん

みなみたん于既きょ西河にしがわまたれつおけしょおうじょため悍戍。使つかいかんこつこうたむろ北地きたじみぎけんおうたむろついたちかたとう于骨こうたむろはらよび衍骨こうたむろくもちゅうろうこつこうたむろていじょうひだりみなみ將軍しょうぐんたむろかりもんぐりせきこつこうたむろだいぐんみなりょう眾為ぐんけん偵羅耳目じもくきたたん于惶おそれ,頗還しょほぼ漢人かんど,以示善意ぜんいしょうへいごといた南部なんぶかえちんこう,輒謝曰:“げきほろびとりこ薁鞬逐耳,敢犯漢人かんど也。”

じゅうななねんきたたん于遂使つかいまい武威ぶいもとめ和親わしん天子てんし公卿くぎょう廷議,决。皇太子こうたいしげん曰:“みなみたん于新きたとりこ懼於かたぶけみみ而聽,そうよくみみこんのう出兵しゅっぺい,而反交通こうつうきたとりこしんおそれみなみたん于將ゆうしんきたとりこくだしゃ且不ふくらい矣。”みかどしかこれつげ武威ぶい太守たいしゅ勿受其使。

じゅうはちねんきた匈奴きょうどふく使つかいまい闕,みつぎ及裘,さら乞和おや,并請音樂おんがくまたもとめりつ西域せいいき諸國しょこくえびすきゃくあずか俱獻みかどさん府議ふぎむくいこたえむべつかさじょうはんあやそう曰:

しん聞孝せん皇帝こうてい敕邊もりじょう曰;“匈奴きょうど大國たいこくへんいつわり交接こうせつとく其情,のり卻敵おり冲;應對おうたいにゅう其數,のりはんためけい欺。”今北いまきた匈奴きょうどみなみたん于来,懼謀其國,すう乞和おやまたとおうしうまあずかかんあいじゅうめいおうしょ貢獻こうけん。斯皆がいしめせ富强ふきょう,以相欺誕也。しん其獻えきじゅう其國えききょかえりおやいよいよかずため懼愈しかこんすんでじょみなみのりまたよろしぜっきた,靶縻よしれいこたえいい頗加賞賜しょうしほぼあずかところけんじ相當そうとうあきらあかつきつげ以前いぜんよびかんよこしま、郅支行事ぎょうじ

むくいこたえやめれい必有适,今立いまだて稿こうくさ并上,曰:“たん于不忘漢おんついねん先祖せんぞ舊約きゅうやくよくおさむ和親わしん,以輔安國やすくにけい甚高,ためたん于嘉往者おうしゃ匈奴きょうどすうゆう乖亂,よびかんよこしま、郅支あいかたきすき,并蒙こうせん皇帝こうていたれおん救護きゅうごかくさむらいしょう籓保ふさが。其後郅支忿戾,ぜっすめらぎさわ;而呼かんおや忠孝ちゅうこうわたるちょ。及漢めつ郅支,とげこくでん嗣,子孫しそんしょうつぎこんみなみたん于攜眾南むこう,款塞歸命きみょう以呼かん嫡長,次第しだいとうだて,而侵だつ失職しっしょく猜疑さいぎしょうすう請兵はたかえり掃北にわ策謀さくぼうまがえ紜,しょいたりおもんみねん斯言不可ふかどく聽,また以北いほくたん于比ねん貢獻こうけんよくおさむ和親わしんこばめ而未もとはた以成たん于忠孝之たかゆきかん秉威しんじそうりつ萬國ばんこく日月じつげつしょあきらみなためしんわらわことぞくひゃく蠻,よしおや疏,ふくじゅんしゃ褒賞ほうしょう叛逆はんぎゃくしゃ誅罰,善惡ぜんあくこうよびかん、郅支是也これやこんたん于欲おさむ和親わしん,款誠やめたちなにいや而欲りつ西域せいいき諸國しょこく俱来けんじ西域せいいきこくぞく匈奴きょうどあずかぞくかんなんことたん于數れん兵亂へいらん國内こくないきょ耗,貢物みつぎものさい以通れいなに必獻裘?こん賫雜繒五ひゃくひきゆみ鞬韥丸一まるいちよんはつのこたん于。またたまものけんじひだりこつこうみぎたに蠡王ざつ繒各よんひゃくひきうまけんかくいちたん前言ぜんげん先帝せんていしょたまものよびかんよこしま竽、瑟、そらこうみなはいねがいふく栽賜。ねんたん于國ひさしやすぽう勵武ぶし,以戰おさむためつとむ,竽瑟もちい如良ゆみ利劍りけん以賫。ちんあい小物こもの,於單于使よろしところほしやく以聞。”

みかど悉納したがえこれじゅうきゅうねんたまものみなみたん于羊すうまんとうさんじゅういちねんきた匈奴きょうどふく使つかい如前,乃璽しょほうこたえたまもの以彩繒,使者ししゃ

たん于比りつきゅうねん薨,ちゅうろうはただん郴將へい赴吊,まつり以酒まいふん兵衛ひょうえまもるこれおとうとひだりけんおう莫立,みかど使者ししゃ賫璽しょ鎮慰,はい授璽綬,のこかんむり幘,絳單ころもさんかさね童子どうじ佩刀はかせ、緄帶かくいちまたたまもの繒彩よんせんひきれい賞賜しょうし諸王しょおうほねこうやめ。其後たん于薨,つるしさい慰賜,以此ためつね

おか浮尤鞮單于莫,中元ちゅうげん元年がんねんりついちねん薨,おとうとあせりつ

于慮鞮單于汗,中元ちゅうげんねんりつえいひらねんきた匈奴きょうどまもる于丘りつ眾千餘人よにん南部なんぶたん于汗りつねん薨,たん于比之子ゆきこてきりつ

䤈僮しかばね逐侯鞮單于適,えいひらねんりつねんふゆきた匈奴きょうどろくなな千騎入於五原塞,とげ寇雲ちゅういたりはらようみなみたん于擊卻之,西河にしかわちょううまじょう赴救,とりこ乃引

たん于適りつよんねん薨,たん于莫りつためおかじょしゃりん鞮單于。さとしがつふく薨,たん于適おとうとちょうりつ

えびすよこしましかばね逐侯鞮單于長,えいひらろくねんだてとききた匈奴きょうどなおもりすう寇邊,朝廷ちょうてい以為かいきたたん于欲ごう使つかいもとめ和親わしん顯宗けんそう冀其交通こうつうふくため寇,乃許

はちねんえつ司馬しばてい眾北使報命ほうめい,而南部なんぶ須卜こつこうとうかん與北よぎたとりこ交使,ふところいや怨欲叛,みついんきた使れいへいむかえこれてい眾出ふさがうたぐゆうこと伺候しこうはてとく須卜使じん,乃上ごとむべさらおけ大將たいしょう,以防とりこ交通こうつうよしはじめおけりょう營,以中ろうはた棠行りょう將軍しょうぐんごとふくこうじょうらいなえひだりこうじょう閻章、みぎこうじょうはりこくはたはじむとらきば營士,たむろげん曼柏。またじょうしん彭將へいたむろきび。其年あききたとりこはて千騎候望朔方,さくかわせんよくむかえ南部なんぶ叛者,以漢ゆう備,乃引ふくすう寇抄ぐん,焚燒じょう邑,ころせりゃく甚眾,河西かさい城門じょうもんひる閉,みかど患之。

じゅうろくねん,乃大はつ缘邊へいしょしょうよんみちふさがきたせい匈奴きょうどみなみたん于遣ひだりけんおうしんずいふとぼくさい肜及くれ棠出ついたちかただか闕,おさむ皋林ゆたか禺犢おう於涿よこしまやまとりこ聞漢へいらい,悉度ばく。肜、棠坐いたり涿邪やままぬかれ,以騎じょうらいなえぎょうりょう將軍しょうぐん。其年,きた匈奴きょうどにゅうくもちゅうとげいたりりょう太守たいしゅれん范擊卻之。みことのり使者ししゃだかひろはつさんぐんへいおい所得しょとく

たてはつ元年がんねんらいなえ遷濟かげ太守たいしゅ,以征西にし將軍しょうぐん耿秉ぎょうりょう將軍しょうぐんとき皋林ゆたか禺犢おうふくはた眾還きょ涿邪さんみなみたん聞知ぶんちけいあずか缘邊ぐん及烏桓兵ふさがげき斬首ざんしゅすうひゃくきゅうくだしゃさんよんせんにん。其年,南部なんぶいなごだいかつえ,肅宗禀給其貧じんさんまんくちななねん,耿秉遷執金吾きんご,以張わき太守たいしゅ鄧鴻ぎょうりょう將軍しょうぐんはちねんきた匈奴きょうど三木樓訾大人稽留斯等,りつさんまんはちせんにんうままんひきうしひつじじゅうあまりまん,款五原塞降。

元和がんわ元年がんねん武威ぶい太守たいしゅはじめ雲上うんじょうげんきたたん于復ねがいあずか吏人ごう詔書しょうしょ聽云えき使むかえよび慰納きたたん于乃だい且渠莫訾おうとううしうま萬餘頭来與漢賈客交易。諸王しょおう大人おとなあるぜんいたり所在しょざいぐんけんためしつらえ官邸かんてい賞賜しょうし待遇たいぐうみなみたん于聞,乃遣けい出上いでかみぐんさえぎりゃくせいこうしょうかすめうしうまかえにゅうふさが

ねん正月しょうがつきた匈奴きょうど大人おとなしゃ、涿兵とうほろびらいいれふさが,凡ななじゅうさんやからとききたとりこおとろえ耗,とう離叛りはん南部なんぶおさむ其前,ちょうれい寇其,鲜卑げき其左,西域せいいきおかせ其右,ふく自立じりつ,乃遠引而去。

たん于長りつじゅうさんねん薨,たん于汗之子ゆきこせんりつ

ほふ於閭鞮單于宣,元和がんわねんだて。其歲,たん于遣へい千餘人獵至涿邪山,そつ與北よぎたとりこゆたか禺犢おうぐういんせん其首きゅう而還。ふゆはじめ雲上うんじょうごと:“きたとりこ以前いぜんすんで和親わしん,而南部なんぶふく往抄かすめきたたん于謂かん欺之,はかりごとほっはんふさがいいむべかえみなみしょかすめなまくち,以慰安いあん其意。”肅宗したがえぶとぼく袁安もと。乃下みことのり曰:“むかし玁狁、獯粥てき中国ちゅうごく,其所由来ゆらいなお矣。往者おうしゃ雖有和親わしんおわりいとかみこう。墝埆これにん,屢嬰塗炭とたんちちせん於前,於後。じゃくおんなじょう於亭さわ孤兒こじごう於道老母ろうぼ寡妻しつらえきょさいいん泣淚,想望そうぼうたましい沙漠さばくひょうあにあい哉!つて曰:‘こううみ所以ゆえんのうちょう百川ももがわしゃ,以其下之したの也。’しょうこごめなおなんそくびょう?况今あずか匈奴きょうど君臣くんしんぶんじょうじゅんやくあかり貢獻こうけんるいいたりあにむべたがえしんじ受其きょく?其敕りょう及領ちゅうろうはた龐奮ばいやとい南部なんぶ所得しょとくせいこう,以還きたとりこ。其南部なんぶ斬首ざんしゅせいけいこう受賞じゅしょう如常。”於是みなみたん于復れい薁鞮逐王はたけいすう千出塞掩擊北虜,ふくせんにんきたとりこ眾以南部なんぶためかんしょあつしまた聞取ききとくだしゃとしすうせんにん

あきら元年がんねん,鮮卑にゅうひだりげききた匈奴きょうど大破たいはゆうとめたん于,其匈やつがわ而還。きたにわ大亂たいらんこごめらんもうか卑、えびす須等じゅうはちくちじゅうまんしょうへいはちせんにんまいくもちゅうはらついたちかた北地きたじくだ

たん于宣りつさんねん薨,たん于長おとうとたむろほふなにりつ

きゅうらんしかばね逐侯鞮單于屯ほふなにあきらねんだてとききたとりこ大亂たいらん以飢いなごくだしゃ前後ぜんこう而至。みなみたん于將并北にわかい肅宗くずれ,竇太きさき臨朝。其年なながつたん于上ごと

しんるいこうむおん不可ふかかちすう孝章たかあき皇帝こうていせいおもえ遠慮えんりょとげよく成就じょうじゅれいがらす桓、鮮卑討北とりこたん于首きゅう破壞はかい其國。いましょしんくだむなしみぞとうまいしんげん:“去歲きょさいさんがつちゅうはつとりこにわきたたん于創りゅう南兵みなみへいまたかしこよろれい、鮮卑、遁逃とおやすこう河西かさい今年ことし正月しょうがつほねこうとうふく共立きょうりつたん于異ははけいみぎけんおうためたん于,其人以兄弟きょうだいそうりつ,并各離散りさん。”しんあずか諸王しょおうこつこう及新くだみぞそちざつ方略ほうりゃくみな曰宜及北とりこぶんそう出兵しゅっぺい討伐とうばつやぶきたなりみなみ,并为いちこくれいかん家長かちょうきたねんまた今月こんげつはちにちしんくだみぎ須日逐鮮どうけいしたがえとりこにわ遠来えんらいまいしんげんきたとりこしょ多欲たよくない顧,ただし耻自はつゆういたりしゃわか出兵しゅっぺい奔擊,必有ひびきおう今年ことし往,おそれふく并壹。しんふくねんさきちちかん以来いらいこうむくつがえいむふさがあかりこう大兵だいひょう擁護ようごせきよんじゅうねんしんとう生長せいちょうかん開口かいこうおおせしょくさい賞賜しょうしどうおくまん,雖垂拱安まくら,慚無ほうこうねがいはつこくちゅう及諸えびすしんくだ精兵せいびょうひだりたに蠡王ひだりよび衍日逐王須訾しょうまんついたちかたひだりけんおう安國やすくにみぎだい且渠おう交勒すすむまん骑出きょのべ十二月じゅうにがつどうかいとりこしんしょうあまりへいまんにんたむろはらついたちかたふさが,以為こばめもりしんもとあさまたへい眾單しょう不足ふそく以防内外ないがいねがい金吾きんご耿秉、りょう將軍しょうぐん鄧鴻及西かわくもちゅうはらついたちかた上郡かみごおり太守たいしゅ并力而北,れい北地きたじ安定あんてい太守たいしゅかくたむろ要害ようがい,冀因聖帝せいていしんいち平定へいていしんこく成敗せいばいようざい今年ことしやめ敕諸げん兵馬へいば,訖きゅうがつりゅうほこら,悉集河上かわかみただ陛下へいかさいあい省察せいさつ

ふとしきさき以示耿秉。秉上ごと:“むかしたけみかどたんきょく天下でんかよくしんとりこ匈奴きょうどぐうてんこと逐無なりせんみかどかいよびかんらいくだあたりじんやすちゅう外為がいためいちせいじん休息きゅうそくろくじゅうねん。及王莽篡變更へんこう其號,耗擾とめたん于乃叛。光武みつたけ受命じゅめいふくふところおさめ緣邊えんぺん壞郡とく以還ふくがらす桓、鮮卑,咸脅鎮四えびす,其效如此。こんこう天授てんじゅきたとりこぶんそう,以夷えびす國家こっかむべ聽許ちょうきょ。”秉因ひね受恩,ふんとういのち效用こうようふとしきさきしたがえこれ

えいもと元年がんねん,以秉为征西にし將軍しょうぐんあずかくるま將軍しょうぐん竇憲りつはちせんあずかたびりょうへい及南たん于眾さんまんついたちかたげききたとりこ大破たいはきたたん奔走ほんそうしゅとりこじゅうあまりまんにんことやめ竇憲でん》。

ねんはる,鄧鴻遷大おおとり臚,以定じょう太守たいしゅすめらぎはじめ棱行りょう將軍しょうぐんみなみたん于復じょうもとめめつきたにわ,於是ひだりたに蠡王とうはた左右さゆう八千騎出雞鹿塞,ちゅうろうはた耿譚從事じゅうじはたまもるこれいたり涿邪さん,乃留輜重しちょうふんためかく引輕へい兩道りょうどうかさねひだりきた西海にしうみいたるかわくもきたみぎしたがえ匈奴きょうど河水こうすい西にしにょう天山あまやまみなみあまほろかわぐん俱會,よるかこえきたたん于。たん于大おどろきりつ精兵せいびょうせん餘人よにん合戰かっせんたん于被そう,墮馬ふくじょうはたけいすうじゅう遁走とんそう,僅而めんだっとく其玉璽,閼氏及男女だんじょにん斬首ざんしゅはちせんきゅうなまとりこすうせんくち而還。みなみ部連ぶれんかつおさめくだとう最盛さいせいりょうさんまんよんせんくちじゅうさんまんななせんさんひゃくしょうへいまんいちひゃくななじゅう故事こじちゅうろうはたおけ從事じゅうじにん,耿譚以新くだしゃうえぞう從事じゅうじじゅうにん

さんねんきたたん于復ためみぎこうじょう耿夔しょやぶ逃亡とうぼう不知ふち所在しょざい。其弟みぎたに蠡王於降鞬自立じりつためたん于,はたみぎゆたか禺鞬おうほねこうやめ眾數せんにんとめがまるいうみ使つかい款塞。大將軍だいしょうぐん竇憲上書うわがきたて於除鞬為きたたん于,朝廷ちょうていしたがえこれよんねん耿夔そく授璽綬,たまものだまけんよんぶたいち使つかいちゅうろうはたにんなおもちぶしまもるまもるたむろわれ,如南たん故事こじかたよく輔歸きたにわかい竇憲誅。ねん,於除鞬自叛還きたみかどはた兵長へいちょうおう輔以千餘騎與任尚共追,さそえはたかえこれ破滅はめつ其眾。

たん于屯ほふなにりつろくねん薨,たん于宣おとうとやす國立こくりつ

たん于安こくえいもとねんだて安國やすくにはつためひだりけんおう而無たたえほまれひだりたに蠡王もといさむ黠多ぜんたん于宣及屯ほふなにみなあい其氣决,すう將兵しょうへいふさが,掩擊きたにわかえ受賞じゅしょうたまもの天子てんしまたことこと以國ちゅうつきけい,而不やすこく安國やすくによしやましよくころせこれ。其諸しんくだえびすはつざい塞外さいがいすうためしょかすめみな怨之。安國やすくにいんけいくだしゃあずかどう謀議ぼうぎ安國やすくにすんでりつためたん于,以次てんためひだりけんおうさとしたん于與しんくだしゃゆうはかりごと,乃别きょはらかいたん于每りゅう會議かいぎごと輒稱びょう往。すめらぎはじめ棱知また擁護ようごたん于懷いきどおえき甚。

ろくねんはるすめらぎはじめ棱免,以執金吾きんご硃徽ぎょうりょう將軍しょうぐんときたん于與ちゅうろうはたもりたかしあいひらめ,乃上書うわがきつげたかしたかし諷西かわ太守たいしゅれいだんたん于章,ゆかり聞。而崇いんあずか硃徽じょうげん:“みなみたん于安こく疏遠えびす親近しんきんしんくだよくころせひだりけん王師おうし及左だい且渠りゅうとしとうまたみぎくだしゃはかりごとどもせりおびえ安國やすくにおこりへい背叛はいはんしょ西河にしかわ上郡かみごおり安定あんてい為之ためゆき儆備。”かずみかど公卿くぎょうみな以為“蠻夷ばんい反覆はんぷく,雖難はかしか大兵だいひょう聚會,必未敢動摇。いまむべゆう方略ほうりゃく使者ししゃたん于庭,あずかもりたかし、硃徽及西かわ太守たいしゅ并力,かん動静どうせい。如無它變,れいたかしとう就安國會こっかい其左右大臣うだいじんせめ其部眾横暴為がいしゃきょうたいらざい誅。わかしたがえいのちれいためけん方略ほうりゃくこと畢之たっぎょうきゃくたまものまたあし以威しめせひゃく蠻”。みかどしたがえこれ。於是徽、たかしとげはつへいづくり其庭。安國やすくによる聞漢ぐんいたりだいおどろき,棄帳而去,いん舉兵及將しんくだしゃよく誅師さき,乃悉はた落入曼柏じょう安國やすくにおいいた城下じょうかもん閉不とくいれ。硃徽遣吏曉たとえ和之かずゆき安國やすくに聽。しろすんでした,乃引へいたむろばらたかし、徽因はつしょぐんおい赴之きゅう,眾皆だいおそれ安國やすくにしゅうとこつこうためとうおもんばか并被誅,乃格ころせ安國やすくに

やす國立こくりついちねんたん于適之子ゆきこりつ

ちんどくしかばね逐侯鞮單于師えいもとろくねんだてくだえびすろくひゃくにん夜襲やしゅうやすしゅうじょうおう恬將まもるまもるあずかたたかえやぶこれ。於是しんくだえびすとげしょうおどろきどうじゅうじゅうあまりまんにんみなはん叛,おびえたてぜんたん于屯ほふなん薁鞬逐王逢侯ためたん于,とげころせりゃく吏人,燔燒郵亭ちょうしょうしゃじゅうむかいさくかたよくばくきた。於是くだりしゃ將軍しょうぐん鄧鴻、こしこうじょう馮柱、くだりりょう將軍しょうぐん硃徽しょう左右さゆうりんきたぐん五校士及郡國積射、緣邊えんぺんへいがらす桓校じょうにんなおはたがらす桓、鮮卑,ごうよんまんにん討之。ときみなみたん于及ちゅうろうはたもりたかしたむろ牧師ぼくしじょう,逢侯しょうまんあまり攻圍こういしたふゆ,鄧鴻とういたりきび,逢侯乃乘冰度隘,むかい滿みつるえびすだにみなみたん于遣はたまん,及杜たかし所領しょりょうよんせんあずか鄧鴻とう追擊ついげき逢侯於大おだい城塞じょうさい斬首ざんしゅさんせんきゅうとくせいこう及降しゃまん餘人よにん。馮柱ふくぶんへい追擊ついげき其别斬首ざんしゅよんせんあまりきゅうにんなおりつ鮮卑だいみやこまもる拔廆、がらす大人おとな勿柯はちせん要擊ようげき逢侯於滿えびすだにふく大破たいは前後ぜんご凡斬まんななせんあまりきゅう。逢侯とげりつ眾出ふさがかんへい不能ふのうおいななねん正月しょうがつ,军還。

馮柱はたとらきば營留たむろはらやめ鮮卑、がらす桓、羌胡へいふう拔廆为率眾王,また賜金しきん、帛。鄧鴻かえ京師けいしすわ逗留とうりゅうしつ下獄げごくこうみかど硃徽、もりたかししつえびすまたきん上書うわがき,以致はん叛,みなせい下獄げごく,以雁もん太守たいしゅ龐奮ぎょうりょう將軍しょうぐん。逢侯於塞がいぶんためりょうみぎたむろ涿邪山下やましたひだりたむろついたちかた西北せいほく相去あいさりすうひゃくさとはちねんふゆひだりえびすあいうたぐ叛,かえにゅうついたちかたふさが,龐奮むかえ受,慰納。其勝へいよんせんにん弱小じゃくしょうまんくち,悉降,以分しょ北邊ほくへんしょぐんみなみたん于以其右ゆたか禺犢おうがらすきょせんはじめあずか安國やすくにどうはかりごとよくこうといがらすきょせんはたすう千人遂復反叛,塞外さいがい山谷さんやあいだため吏民がいあき,龐奮、馮柱あずかしょぐんへいげきがらすきょせん,其眾降,於是徙烏きょせん眾及しょかえくだしゃまん餘人よにん安定あんてい北地きたじ。馮柱かえ,遷將さくだいたくみ。逢侯眾飢きゅうまたため鮮卑しょげきしょ,竄逃いれふさがしゃ駱驛ぜっ

たん于師りつよんねん薨,たん于長之子ゆきこまゆみりつ

萬氏尸逐鞮單于檀,えいもとじゅうねんだてじゅうねん,龐奮遷河みなみいん,以朔かた太守たいしゅおうぴょうぎょうりょう將軍しょうぐんみなみたん于比としへいげき逢侯,しょとりこおさむかえなま口前くちまえ以千すう,逢侯うたてこませりじゅうろくねんきたたん于遣使まい貢獻こうけんねがい和親わしんおさむよびかんよこしまやくみかど以其きゅうれい不備ふびもと,而厚賞賜しょうしこたえ其使。もときょう元年がんねんじゅう使つかいまい敦煌とんこう貢獻こうけん以國まずしのう備禮,ねがい大使たいしとういれさむらいとき鄧太きさき臨朝,またこたえ其使,ただしたまもの而已。

えいはつさんねんなつ漢人かんどかん琮随みなみたん入朝にゅうちょうすんでかえせつみなみたん于云:“關東かんとうすいにわたずみ人民じんみん飢餓きがつきげき也。”たん于信其言,とげおこりへいはん叛,おさむちゅうろうはた耿種於美きびあきおうぴょうそつふゆくだりしゃ將軍しょうぐんなん熙、ふくちゅうろうはた龐雄げきよんねんはるまゆみせん寇常さん中山なかやま以西いせいいきこうじょうはり慬行りょう將軍しょうぐんあずか遼東りゃおとん太守たいしゅ耿夔擊破げきはことやめ》、《夔傳》。たん于見しょぐん并進,だい恐怖きょうふ,顧讓かん琮曰:“なんじげんかん人死ひとじにつきこんなんとうじん也?”乃遣使乞降,もとたん于脫ぼう徒跣かちはだしたい龐雄とうはいちんみち死罪しざい。於是赦之,ぐうまち如初,乃還しょしょうかんみん男女だんじょ及羌しょりゃく轉賣てんばいにゅう匈奴きょうどちゅうしゃごうまん餘人よにんねんりょう慬免,以雲ちゅう太守たいしゅ耿夔ぎょうりょう將軍しょうぐん

もとはつ元年がんねん,夔免,以烏桓校じょう鄧遵ためりょう將軍しょうぐん。遵,皇太后こうたいごう從弟じゅうていはじめ為真ためざに將軍しょうぐん焉。

よんねん,逢侯ため鮮卑しょやぶ分散ぶんさんみなきたとりこねんはる,逢侯しょうひゃくほろびかえまいついたちかたふさが,鄧遵そう徙逢こう於潁かわぐん

たてひかり元年がんねん,鄧遵まぬかれふく以耿夔代ためりょう將軍しょうぐんとき鮮卑寇邊,夔與ゆたか禺犢おうよびゆう徽將しんくだしゃ連年れんねんふさが,討擊鮮卑。かえふくかくれいたむろれつ冲要。而耿夔征はつはんげきしんくだしゃみな悉恨謀叛ぼうほん

たん于檀りつじゅうななねん薨,おとうと拔立。耿夔ふくまぬかれ,以太げん太守たいしゅ法度はっとだいため將軍しょうぐん

がらす稽侯しかばね逐鞮たん于拔。のべこうさんねんだてなつしんくだ一部大人阿族等遂反叛,おびえよびゆう徽欲あずか俱去。よびゆう徽曰:“わがろう矣,受漢おんやすし不能ふのうしょうずい!”眾欲ころせこれゆうすくいしゃとくめんおもねぞくとうとげはた妻子さいし輜重しちょうほろびちゅうろうはたうまつばさへいあずかえびす追擊ついげきやぶこれ斬首ざんしゅ及自とうかわ死者ししゃ殆盡,うしひつじまんとうふゆ法度はっとそつよんねんかん太守たいしゅでん眾代ため將軍しょうぐん。其冬,でん眾復そつえいけん元年がんねん,以遼ひがし太守たいしゅ龐參だいため將軍しょうぐん

さきさくかた以西いせいさわふさが修復しゅうふく,鮮卑いん此數寇南ころせややしょうおうたん于憂おそれうえごともとめふくさわふさがじゅんみかどしたがえこれ。乃遣はじむ營兵たむろ中山北なかやまきたかい增置ぞうち緣邊えんぺんしょぐんへいれつたむろふさがした教習きょうしゅうせんしゃ

たん于拔りつよんねん薨,おとうときゅうりつ

とくわかしかばね逐就たん于休えいけんさんねんだてよんねん,龐參遷大おおとり臚,以東いとうたいらしょうそうかんだいためりょう將軍しょうぐんよしみねんかん遷太ぼく,以烏桓校じょう耿曄だいためりょう將軍しょうぐん永和えいわ元年がんねん,曄病せい,以護羌校じょうぞくだいためりょう將軍しょうぐん

ねんなつみなみ匈奴きょうどひだり龍王りゅうおうわれ斯、くるまひもとう背叛はいはんりつさん千餘騎寇西河,いんふく招誘みぎけんおうごうななはちせんかこえきびころせついたちかただいぐんちょううまつづけあずかちゅうろうはたはり并、がらす桓校じょうおうもとはつ緣邊えんぺんへい及烏桓、鮮卑、羌胡,ごうまん餘人よにん,掩擊破げきはわれ斯等とげさらたむろ聚,おさむぼつじょう邑。天子てんし使つかいせめゆずるたん于,ひらき恩義おんぎれいしょう招降。たん于本はかりごと,乃脫ぼう避帳,まい謝罪しゃざい。并以びょうせい,五原太守陳龜代為中郎將。かめ以單于不能ふのうせい逼迫ひっぱくたん于及其弟ひだりけんおうみな自殺じさつたん于林りつじゅうさんねんかめまたよく徙單于近おや於内ぐん,而降しゃとげさら狐疑こぎかめすわ下獄げごくめん大將軍だいしょうぐんはりしょう以羌えびすしんはんとう眾初あいなん以兵ふくむべもちい招降,乃上ひょう曰:“匈奴きょうど寇叛,ざいごく窮鳥きゅうちょうこまししみなすくいきょう種類しゅるいしげるおき不可ふかたんつきこんてんうんぞう三軍さんぐんつかれきょないきゅうがい中國ちゅうごく。竊見りょう將軍しょうぐんぞくもとゆうはかりごと謨,且典ひさふかあかつきへいようまいとくつづけしょあずかしんさくあいむべれいぞく深溝ふかみぞだかかべ,以恩しん招降,せんしめせ購賞,あきら其期やく。如此,则丑るいふく國家こっか無事ぶじ矣。”みかどしたがえこれ,乃詔ぞく招降叛虜。しょうまたうつりしょつづけとう曰:“中國ちゅうごく安寧あんねい,忘戰ひさりょう野合やごう,交鋒せっ決勝けっしょう當時とうじえびす狄之所長しょちょう,而中國之くにゆきしょたん也。强弩きょうどじょうじょうけん固守こしゅ,以待其衰,中國ちゅうごく所長しょちょう,而戎狄之しょたん也。むべつとむさき所長しょちょう,以觀其變,しつらえ購開しょうせんしめせはん悔,勿貪しょうこう,以亂だいはかりごと。”ぞく及諸ぐん并各遵行。於是みぎけんおうそもそも鞮等まんさん千口詣續降。

あきりゅうわれ斯等りつ龍王りゅうおうしゃひもためたん于。ひがし引烏桓,西にしおさむ羌戎及諸えびすとうすうまんにんおさむやぶきょうちょうとらきば營,ころせ上郡かみごおりじょう及軍司馬しばとげ寇掠并、りょうかそけ、冀よんしゅう。乃徙西河にしかわおさむはなれせき上郡かみごおりなつようさくかたばらふゆちゅうろうはたちょうふけはたかそけしゅうがらす桓諸ぐん營兵,げき叛虜しゃひもとうせん於馬邑,斬首ざんしゅさんせんきゅうなまくち及兵うしひつじ甚眾。くるまひもとうはたしょごうそちこつこう乞降,而吾斯猶りつ其部きょくあずかがらす桓寇しょうろくねんはるうまつづけりつ鮮卑五千騎到穀城擊之,斬首ざんしゅすうひゃくきゅうちょうふけせいいさみするど,而善なで士卒しそつぐんちゅうみなため用命ようめいとげなわさくしょうかか上通かみとおり天山あまやま大破たいはがらす桓,悉斬其渠そちかえかんみん其畜せい財物ざいぶつなつうまぞくふくまぬかれ,以城もんこうじょう武代たけよため將軍しょうぐん

かんやす元年がんねんあきわれ斯與薁鞮だい耆、且渠はくとくとうふくかすめ并部。

よびらんわかしかばね逐就たん于兜ろうもうかせん在京ざいきょうかんやすねんだて天子てんし臨軒,だいおおとり臚持ぶしはい授玺璽綬,引上殿どのたまものあおぶたしゃやすしゃ、駙馬たま刀劍とうけん什物じゅうもつきゅういろどりぬのせんひきたまものたん于閼以下いかきむにしき錯雜さくざつ,軿車じょうぎょうちゅうろうしょうぶし護送ごそうたん于歸南庭なんていみことのりふとつねだいおおとり臚與しょ國侍くにざむらい於廣城門じょうもんがいかいきょうたまもの作樂さくらすみ抵百おどけじゅんみかどこう胡桃くるみ宫臨かんふゆちゅうろうはたうままことつの刺殺しさつりゅうわれ斯,おくくび洛陽らくようたてやすし元年がんねん進擊しんげきあまりとう斬首ざんしゅせんひゃくきゅうがらすななじゅう萬餘口皆詣寔降,しゃじゅううしひつじ不可ふかかちすう

たん于兜ろうもうかたてねん薨。

りょうしかばね逐就たん于居しゃたてかず元年がんねんだていたり永壽えいじゅ元年がんねん匈奴きょうどひだり薁鞬だい耆、且渠はくとくとうふく叛,寇抄きび安定あんてい屬國ぞっこくじょうちょう擊破げきはくだこれことやめ奐传》。

のべ熹元ねんみなみたん于諸并叛,とげあずかがらす桓、鮮卑寇緣きゅうぐん,以張奐為北中きたじゅうろうはた討之,たん于諸悉降。奐以たん不能ふのうすべ國事こくじ,乃拘うえりつひだりたに蠡王。桓帝みことのり曰:“《春秋しゅんじゅう大居おおいせいきょしゃいちしんむこうなにざい而黜!其遣かえにわ。”

たん于居しゃりつじゅうねん薨,ぼうりつ

ほふとくわかしかばね逐就たん于某,熹平元年がんねんだてろくねんたん于與ちゅうろうはた臧旻かりもんげき鮮卑まゆみせきえんじゅ大敗たいはい而還。これさいたん于薨,よびちょうりつ

たん于呼ちょう光和こうわ元年がんねんだてねんちゅうろうはたちょうおさむあずかたん于不相能あいのうおさむ擅斬さらりつみぎけんおう羌渠ためたん于。おさむ以不さき請而擅誅殺ちゅうさつおりしゃせいまい廷尉抵罪。

たん于羌みぞ光和こうわねんだて中平なかひらよんねんぜん中山ちゅうざん太守たいしゅちょうじゅんはん叛,とげりつ鮮卑寇邊ぐんれいみかどみことのりはつみなみ匈奴きょうどへいはいかそけしゅうまきりゅうおそれ討之。たん于遣ひだりけん王將おうしょうまいかそけしゅう國人くにびとおそれたん于發へい无已,ねんみぎ䤈落與きゅうちょかくえびす白馬はくばどうとうじゅうあまりまんにんはんおさむころせたん于。

たん于羌みぞりつじゅうねんみぎけんおう於扶りつ

もちいたりしかばね逐侯たん于於扶羅,中平なかひらねんだて國人くにびところせ其父しゃとげ叛,共立きょうりつ須卜こつこうためたん于,而於扶羅まい闕自訟。かいれいみかどくずれ天下てんか大亂たいらんたん于將すう千騎與白波賊合兵寇河内諸郡。どきみんみな聚,しょうかすめ,而兵とげ挫傷ざしょうふくよく歸國きこく國人くにびと受,乃止河東かとう。須卜こつこうためたんいちねん而死,南庭なんていとげきょ其位,以老おうぎょう國事こくじ

たん于於扶羅りつななねんおとうとよび廚泉りつ

たん于呼廚泉,きょうひらめねんだて。以兄逐,とく歸國きこくかずため鮮卑しょしょうけんやす元年がんねんけんじみかど長安ながやすひがしみぎけんおう卑與白波しらなみぞくそちかん暹等まちまもる天子てんしこばめげき傕、かく汜。及車かえ洛陽らくようまた徙遷もとしかこう歸國きこくじゅういちねんたん来朝らいちょう曹操そうそういんとめ於鄴,而遣卑歸かん其國焉。

评语

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ろん曰:“かんはつ遭冒ひたぶるきょう黠,しゅ眾强おき高祖こうそたけし四海しかい,而窘平城ひらじろかこえふとしそうまさし鄰刑措,ゆきいきどおはずかしめ耻。逮孝たけ亟興りゃく有志ゆうし匈奴きょうど,赫然いのちはたえびすはたぼしぞくこうれつ郊甸,どおりあまいずみ,而猶镝揚ちり出入でいり畿内きないいたり於窮竭武りょくたんようてんざいれきとし以攘。寇雖頗折,而漢つかれ耗略相當そうとう矣。せんみかど值虜にわぶんそうよびかんよこしましん,乃權おさめ懷柔かいじゅういんためまもるやめせき徼之儆,いきへいみんろうりゅうみかどふくかねでん於清渭之じょう南面なんめん而朝たん于,ついたちえきふくひき踪,ろくじゅうねん矣。こうおう莽陵篡,なおどうえびすえびすぞく更始こうしみだれぽうなつはばきれ匈奴きょうどとくこころざしおおかみしんふくせいじょうあいだおかせ佚,がいりゅうはたさかい。及中興ちゅうこうはつさらどおりきゅうこのみ報命ほうめいれんぞくきむぬさみち,而單于驕うずくまえきよこない暴滋ふか用事ようじしょはな遑沙ふさがこれがいしのぶ愧思なん報謝ほうしゃ而已。よしかそけ、并之みんぞうあたりたむろこれそつ。及關東かんとうややじょう,隴、しょくやめきよし,其猛おっと悍將,莫不ひたぶるあし攘手,そうごとまもる、霍之ごとみかどかたいやへいあいだおさむ文政ぶんせいこれもと也。其後匈奴きょうどそうりつにち逐来奔,ねがいおさむよびかんこう,以御北狄ほくてきなかたてまつ籓稱しんえいためがい悍。天子てんし總攬そうらんぐんさくかず而納焉。乃詔有司ゆうし開北かいほくひなこえ美之みゆき量水りょうすいくさ以處はせちゅうろう使つかいつき法度はっと以臨せい衣裳いしょう備文びぶんぶつ璽紱綬,せいたん于之めい。於是匈奴きょうどぶんやぶはじめゆう南北なんぼくにわ焉。かたき釁既ふか,互同便びんすきひかえつるこうほこ,覘望風塵ふうじんくもたむろとりさらしょうはせ突,いたり於陷つぶせ創傷そうしょうしゃ,靡歲あるやすし,而漢ふさが晏然矣。また頗為出師すいし,并兵きゅう討,いのち竇憲、耿夔前後ぜんご并進,みなようはて譎,しつらえ奇數きすうみちどうかいきわむ掩其くつあな,躡北ついさんせんあまりさととげやぶりゅうほこら,焚罽まくあなじゅうかく,梏閼めいこうふうせき,倡呼而還。たん于震懾,へいこうむ氈,遁走とんそう於烏まご,而漠きたそら矣。わかいん其時势,及其きょ曠,かえみなみとりこ於陰さんかえり西河にしがわ於内上申じょうしん光武みつたけけんむべこれりゃくしもぼうえびす羯亂はなへん使つかい耿國さん謬於當世とうせい,袁安したがえ於後おう平易へいい正直しょうじきわか此其ひろ也。而竇けん矜三としこうゆるがせ經世けいせいぶんまわしおおかみもどはし專行せんこうめぐみとげふくさらりつきたとりこはん其故にわ,并恩りょうまもる,以私おのれぶく,棄蔑てんこうすわかずだい鯁。えいげんまえなに恨憤ふか乎!經綸けいりんしつかた叛服はんぷく不一ふいつ,其為疢毒,えびすたんげんくだ後世こうせい,玩為つねぞくおわり於吞噬神きょうおか墟帝たく嗚呼ああ千里せんりこれきょう毫端,しつとくみなもとひゃくせい不磨ふま矣。

さん曰:匈奴きょうどすんでぶんはねしょまれ聞。野心やしんなん悔,おわりまたまがえ紜。