ジョナサン・スウィフト

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ジョナサン・スウィフト
Jonathan Swift
肖像しょうぞう(1718ねん
誕生たんじょう (1667-11-30) 1667ねん11月30にち
アイルランド王国おうこく
ダブリン
死没しぼつ (1745-10-19) 1745ねん10月19にち(77さいぼつ
アイルランド王国おうこく
ダブリン
職業しょくぎょう 司祭しさい
諷刺ふうし作家さっか
随筆ずいひつ
政治せいじパンフレット作者さくしゃ
ジャンル 諷刺ふうし
代表だいひょうさく ガリヴァー旅行りょこう
ウィキポータル 文学ぶんがく
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ジョナサン・スウィフト(Jonathan Swift、1667ねん11月30にち - 1745ねん10月19にち)は、イングランドけいアイルランドじん諷刺ふうし作家さっか随筆ずいひつ政治せいじパンフレット作者さくしゃ詩人しじん、および司祭しさい著名ちょめい作品さくひんに『ガリヴァー旅行りょこう』『穏健おんけんなる提案ていあん』『ステラへの消息しょうそく』『ドレイピア書簡しょかん』『書物しょもつ合戦かっせん』『おけ物語ものがたり』などがある。スウィフトは英語えいご散文さんぶん諷刺ふうし作品さくひんいた古今ここん作家さっかのなかでもだいいちきゅうといってよいだろうが、詩作しさくのほうはそれほどられていない。かれ当初とうしょすべての著作ちょさくをレミュエル・ガリヴァー、アイザック・ビッカースタッフ、M・B・ドレイピアなどの筆名ひつめいでもしくは匿名とくめい発表はっぴょうした。

1976ねんから発行はっこうされていたアイルランドの10ポンド紙幣しへい肖像しょうぞう使用しようされていた[1]

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

おいたち[編集へんしゅう]

ジョナサン・スウィフトはダブリンのホイズ・コート7番地ばんちで、イングランドの移民いみんジョナサンとアビゲイル・エリック(またはヘリック)・スウィフトのだい2としてまれた(あに夭折ようせつ)。ジョナサンはかれちち早世そうせいしてから7ヶ月かげつのこはらとしてまれた。かれ幼時ようじ記録きろくははっきりせず、のこされた資料しりょう混乱こんらんしており、しばしば矛盾むじゅんしている。はははジョナサンがまだおさなかったときちち家庭かていのもとでそだてられるようかれいてイングランドかえったとひろしんじられている。伯父おじゴドウィンはわかきジョナサンの養育よういくたいするだいいち責任せきにんうことになり、従兄弟いとこ一人ひとりとともにキルケニー・グラマースクールへとかよわせた[注釈ちゅうしゃく 1]

テンプルきょうとの出会であ[編集へんしゅう]

ウィリアム・テンプル

1682ねん、15さいになったかれダブリン大学だいがく(ダブリンのトリニティ・カレッジ)にかよい、1686ねんにB.A.(学士がくしごう)をけた。1688ねん、スウィフトが名誉めいよ革命かくめいにかかわるアイルランドの政治せいじてき混乱こんらんによって、父祖ふそであるイングランドへとらざるをなくなったときかれ修士しゅうしとなるために勉強べんきょうしていた。そこでおさないときにわかれたとされて、再会さいかいしたははから[2]サリーしゅうムア・パーク英語えいごばんウィリアム・テンプルきょう秘書ひしょ個人こじんてき助手じょしゅとしての地位ちいるようりはからった。テンプルは1668ねんさんこく同盟どうめい調停ちょうていしたイングランドの往年おうねん外交がいこうかんであり、にわ手入ていれや自分じぶん回想かいそうろく執筆しっぴつするために公務こうむから引退いんたいし、ムア・パークにきょいとなんでいた。スウィフトは次第しだいやとぬしテンプルの信頼しんらいるようになり、しばしば非常ひじょう重要じゅうよう問題もんだいまかされるようになった。3年間ねんかん親交しんこうのうちにテンプルはあたらしくイングランドおうとなったウィリアム3せいに、自身じしん秘書ひしょであるスウィフトを紹介しょうかいし、3ねんごと議会ぎかい議案ぎあん承諾しょうだくするようおううながすためスウィフトをロンドン派遣はけんした。

スウィフトがムア・パークで住居じゅうきょかまえたころかれ当時とうじ8さいエスター・ジョンソン出会であった。いえ使用人しようにん一人娘ひとりむすめ父親ちちおやはいなかった。スウィフトは彼女かのじょ教師きょうし指導しどうしゃとしてふるまい、彼女かのじょに「ステラ」の愛称あいしょうあたえて、2人ふたりはエスターののこりの人生じんせいあいだ親密しんみつな、しかし曖昧あいまい関係かんけい維持いじした。

アイルランドでの生活せいかつ[編集へんしゅう]

スウィフトは健康けんこうじょう問題もんだいのため、1690ねんにテンプルのもとからアイルランドにったが、翌年よくねんにはムア・パークへともどった。その病気びょうき眩暈げんうん発作ほっさ今日きょうではメニエールびょうとしてられているもので、スウィフトを終生しゅうせいえずなやましつづけるものであった。テンプルのもとでの2度目どめ滞在たいざいちゅう、スウィフトは1692ねんオックスフォおっくすふぉド大学どだいがくのハートフォード・カレッジでM.A.(修士しゅうしごう)をけた。その、スウィフトはどうやらテンプルの後援こうえんによってよりよい地位ちいくことをあきらめてムア・パークをり、アイルランド教会きょうかい司祭しさい任命にんめいされ、1694ねんにはキャリクファーガスちかくのキルルートで俸給ほうきゅうさだめられた。

スウィフトはちいさく辺鄙へんぴ共同きょうどうたいなか孤立こりつしており、あらたなつとぐちみじめであった。しかし、そこでスウィフトはジェイン・ウェアリングと恋愛れんあい関係かんけいになった。もし彼女かのじょかれ結婚けっこんするならのころう、そしてもし彼女かのじょ拒絶きょぜつするならわかれて二度にどとアイルランドへかえらないと約束やくそくしよう、というかれからの手紙てがみのこっている。彼女かのじょはこの返事へんじ拒絶きょぜつしたとされる。なぜなら、スウィフトはその地位ちいってイングランドにもどり、1696ねんにムア・パークのテンプルのもとはたらいて、テンプルのまでのこっていたからである。そこでかれはテンプルの回想かいそうろく書簡しょかん印刷いんさつする準備じゅんび支援しえんんでいた。このあいだ、スウィフトはテンプルの『古代こだい近代きんだい学問がくもんかんするしょうろん』にたいする批判ひはんこたえる諷刺ふうし書物しょもつ合戦かっせん』をあらわした。しかし、『合戦かっせん』は1704ねんまで出版しゅっぱんされなかった。

1699ねん1がつ、テンプルは死去しきょした。スウィフトは、ことによるとかれ仕事しごとることがイングランドにおけるふさわしい地位ちいかれにもたらすにちがいないという希望きぼうをもって、テンプルの回想かいそうろく編集へんしゅうえるためにしばし滞在たいざいした。しかし、スウィフトの仕事しごとは、回想かいそうろくふくまれる無分別むふんべつごと異議いぎとなえるテンプルの遺族いぞく友人ゆうじんたちからは敵視てきしされた。かれつぎ行動こうどうは、しんえがいていたテンプルの縁故えんこと、地位ちい約束やくそくされたという信念しんねんもとづいてウィリアム3せい謁見えっけんすることであった。これは悲惨ひさん失敗しっぱいわり、かれはアイルランドのほう院長いんちょう一人ひとりバークリーはく家付いえつ司祭しさいけん秘書ひしょという、かつてよりもおと地位ちいけた。しかし、かれがアイルランドに到着とうちゃくしたとき秘書ひしょしょくものあたえられたことをった。それでもかれはすぐにララカーやアグハー、ラスベガンでの生活せいかつ、ダブリンのひじりパトリック寺院じいんのダンラビンで俸給ほうきゅうた。

トリムから1、2マイル、ダブリンからは20マイルのララカーで、スウィフトはやく15めいから会衆かいしゅうのために尽力じんりょくし、そして豊富ほうふ余暇よか自分じぶんにわ手入ていれ、運河うんが掘削くっさく(ムア・パークのオランダしきならった)、やなぎ植樹しょくじゅ牧師ぼくしかん再建さいけんついやした。かれはバークレーきょう牧師ぼくしとしてダブリンでおおくのときごし、つぎの10ねんにわたって頻繁ひんぱんにロンドンへ旅立たびだった。1701ねんには、スウィフトは匿名とくめい政治せいじパンフレット「アテナとローマにおける不和ふわ抗争こうそうについての論説ろんせつ」を印刷いんさつした。

作家さっか活動かつどう開始かいし[編集へんしゅう]

1702ねん2がつ、スウィフトはダブリン大学だいがくから神学しんがく博士はかせ学位がくいけた。そのとしはるかれはイングランドへ旅行りょこうし、10月には当時とうじ20さいになったエスター・ジョンソンと、彼女かのじょ友人ゆうじんでもう一人ひとりのウィリアム・テンプルの使用人しようにん、レベッカ・デイングリーを同伴どうはんしてアイルランドにもどった。スウィフトとステラの関係かんけいについてはすうおおくのなぞ論争ろんそうがある。おおくは、かれらは1716ねんひそかに結婚けっこんしていたとかんがえている。これについてははっきりした証拠しょうこはないが、彼女かのじょだれよりもかれしたい、かれ彼女かのじょたいする感情かんじょう生涯しょうがいにわたってわらなかったということに疑問ぎもん余地よちはない。

このすうねんのイングランド滞在たいざいちゅう、スウィフトは『おけ物語ものがたり』と『書物しょもつ合戦かっせん』(1704ねん)を出版しゅっぱんし、作家さっかとしての評価ひょうか獲得かくとくするようになった。これはアレキサンダー・ポープジョン・ゲイジョン・アルバスノットとのあいだ親密しんみつ長年ながねんにわたる友誼ゆうぎをもたらし、1713ねん結成けっせいされたスクリブレルス・クラブかく形成けいせいした。

スウィフトはこのすうねんでますます政治せいじてき活動かつどうにのめりむようになった。1707ねんから1709ねんまで、また1710ねんにスウィフトはロンドンにり、ゴドルフィンきょうホイッグとう政権せいけんで、すでにイングランドの信徒しんと授与じゅよされて1ねんにおよそ2500ポンドをもたらしたFirst-Fruits and Twentieths(アン女王じょおう基金ききん)にたいするアイルランドの牧師ぼくし批判ひはんうながそうとしたが失敗しっぱいした。

トーリーの政論せいろん[編集へんしゅう]

かれは、野党やとうトーリーとう指導しどうりょくがよりかれ主張しゅちょう共鳴きょうめいすることに気付きづき、トーリーとう1710ねん与党よとうとなったとき、『試験しけんかん』の編集へんしゅうしゃとしてかれらの主張しゅちょうささえるために採用さいようされた。1711ねん、スウィフトは政治せいじパンフレット「同盟どうめいこく行為こうい」を発行はっこうし、フランスとの長引ながびスペイン継承けいしょう戦争せんそうわらせることのできないホイッグ政権せいけん攻撃こうげきした[3][注釈ちゅうしゃく 2]

スウィフトはトーリーとうきの1人ひとりとなり、しばしば外務がいむ大臣だいじん(1710ねん - 1715ねん)のヘンリー・シンジョン(ボリングブルック子爵ししゃく)と大蔵おおくらきょう(1711ねん - 1714ねん)のロバート・ハーレー(オックスフォード=モーティマーはく)とのあいだ調停ちょうていしゃとしての役割やくわりえんじた。スウィフトはこの困難こんなんときにあっての自分じぶん経験けいけん思考しこうなが一連いちれん手紙てがみ記録きろくしてエスター・ジョンソンにおくり、のちにまとめて『ステラへの消息しょうそく』として発行はっこうした。しかし、ハーレーとシンジョンとのあいだ敵意てきいまず、王位おうい継承けいしょう問題もんだい決定的けっていてき分裂ぶんれつしてしまい、1714ねんにハーレーは指導しどうりょく低下ていかからアン女王じょおう見限みかぎられ大蔵おおくらきょう罷免ひめん同年どうねんのアンのジョージ1せい即位そくいともなってホイッグとう与党よとう奪還だっかん、ハーレー・シンジョンらトーリーとう指導しどうしゃたちはフランスとの秘密ひみつ交渉こうしょうおこなった謀反ぼうほんにより裁判さいばんにかけられ、ハーレーはロンドンとう投獄とうごく、シンジョンはジャコバイト結託けったくして私権しけん剥奪はくだつされた。こうしてトーリーとう没落ぼつらく、ホイッグとうによる長期ちょうき政権せいけん幕開まくあけとなった。

さらにロンドンにおけるこのすうねんあいだで、スウィフトはヴァナミリー懇意こんいになり、むすめ一人ひとりエスターとも親密しんみつになった。しかしもう一人ひとりちちのないむすめ曖昧あいまい関係かんけいによりスウィフトの伝記でんき混乱こんらんさせている。スウィフトはエスターに「ヴァネッサ」の愛称あいしょうあたえ、彼女かのじょかれ『キャデナスとヴァネッサ』の主要しゅよう登場とうじょう人物じんぶつはいした。そのかれらの書簡しょかんからは、エスターがスウィフトに夢中むちゅうになり、それでかれ彼女かのじょ愛情あいじょうむくいたものの、後悔こうかいしてのちにえんろうとしたことが示唆しさされる。エスター・ヴァナミリーは1714ねんにスウィフトをってアイルランドにき、そこでことによるとエスター・ジョンソンをもふく対面たいめんたされたようである。エスター・ヴァナミリーは1723ねんに35さい死去しきょした。

トーリーとう政権せいけん凋落ちょうらくまえ、スウィフトはイングランド教会きょうかいへの赴任ふにん昇進しょうしんのぞんでいた。しかし、アンはスウィフトが友人ゆうじんサマセットこうチャールズ・シーモアつまエリザベス・シーモアおどけ『ウィンザーの予言よげん』ではげしく非難ひなんしたためスウィフトをうとましくおもうようになり、こうした努力どりょく妨害ぼうがいした。結果けっか、スウィフトはダブリンのひじりパトリック寺院じいん首席しゅせき司祭しさい転任てんにん、ホイッグとう復帰ふっきにより昇進しょうしんのぞみを完全かんぜんたれた。

『ガリバー旅行りょこう』の執筆しっぴつ[編集へんしゅう]

政治せいじてきには敗北はいぼくしゃとなってしまったスウィフトにとって最善さいぜん行動こうどうはイングランドをることであった。かれ失意しついのままアイルランドにかえったが、「あなねずみのようにらす」という状態じょうたい事実じじつじょう追放ついほうであった。しかし、一旦いったんアイルランドでスウィフトはパンフレット執筆しっぴつ能力のうりょくをアイルランドの主張しゅちょう支援しえんすることにけ、かれもっと記憶きおくすべき作品さくひんぐんいくつかをした。『アイルランド製品せいひん広汎こうはん使用しよう提案ていあん』(1720ねん)、『ドレイピア書簡しょかん』(1724ねん)、そして『穏健おんけんなる提案ていあん』(1729ねん)で、かれはアイルランドの愛国あいこくしゃとしての地位ちいた。

そして、このすうねんのうちにかれはその最高さいこう傑作けっさくはじめた。『外科げかにしてしょふね船長せんちょうレミュエル・ガリヴァーによる世界せかいしょ僻地へきちへのよんから旅行りょこう』、むしろ『ガリヴァー旅行りょこう』としてられている。ほとんどの題材だいざいは、まえの10年間ねんかんにおけるかれ政治せいじてき経験けいけん反映はんえいされている。たとえば、巨大きょだいなガリヴァーがリリパットの宮殿きゅうでん火災かさい小便しょうべんめる挿話そうわは、不適切ふてきせつ作法さほうことおこなうという、トーリーとう違法いほう和平わへい条約じょうやく隠喩いんゆることができる。1726ねんかれは『ガリヴァー旅行りょこう』の原稿げんこうたずさえて、なが延期えんきされていたロンドン訪問ほうもんおこなった。訪問ほうもんちゅうかれ旧友きゅうゆうアレクサンダー・ポープ、ジョン・アルバスノット、そしてジョン・ゲイのもとに滞在たいざいした。かれらはスウィフトのほん匿名とくめい発行はっこうする準備じゅんび手伝てつだった。最初さいしょ1726ねん11月発行はっこうされ、そのとしよく1727ねんはやいうちに合計ごうけい3つのはん即座そくざ成功せいこうおさめた。1727ねんにはフランス語ふらんすご、ドイツやオランダ翻訳ほんやくあらわれ、アイルランドでは海賊かいぞく出版しゅっぱんもなされた。

スウィフトは1727ねんに1かいかそれ以上いじょうはロンドンにもどり、ふたたびアレクサンダー・ポープのもとに滞在たいざいした。この訪問ほうもんは、エスター・ジョンソンが瀕死ひんしにあるというしらせをけてげられ、スウィフトは彼女かのじょのもとにいそ帰宅きたくした。1728ねん1がつ28にち、エスター・ジョンソンは死去しきょした。かれ彼女かのじょ病床びょうしょういのり、彼女かのじょ慰安いあんのためいのり禱をおこないさえしたが、スウィフトは臨終りんじゅう居合いあわせているのにこたえることができなかった。しかし、そのよる彼女かのじょさいして、かれ非常ひじょう興味深きょうみぶかい『ジョンソン夫人ふじん』をはじめた。かれひじりパトリック寺院じいん葬儀そうぎ出席しゅっせきしていられないほど具合ぐあいわるかった。後年こうねんかれつくえなかからエスター・ジョンソンのものとおもわれるいちぼうかみが、「一人ひとりおんなかみにすぎぬ」とかれたかみつつまれて発見はっけんされた。

最期さいご[編集へんしゅう]

エスターの死後しご、スウィフトの人生じんせいは「」におおわれる傾向けいこうをもつようになった。1731ねんかれは『スウィフト博士はかせいた』をき、1739ねんにはみずか自分じぶん死亡しぼう記事きじした。1732ねんかれのよき友人ゆうじんにして協力きょうりょくしゃジョン・ゲイが死去しきょした。1735ねん、ロンドン時代じだいからのもう1人ひとり友人ゆうじんジョン・アルバスノットが死去しきょした。1738ねんにはスウィフトに病気びょうき徴候ちょうこうあらわれ、1742ねんかれ病気びょうき発作ほっさわずらい、会話かいわする能力のうりょくうしなうとともに精神せいしん障害しょうがいになるという最大さいだい恐怖きょうふ実現じつげんした(「わたしはあのている」とかれはかつてった。「あたまからさきまいるのだ」)。この偉大いだいおとこ餌食えじきにしようとしはじめた恥知はじしらずな取巻とりまきからかれまもるため、かれもっとしたしい仲間なかまたちはかれに「不安定ふあんてい精神せいしん記憶きおくりょく」と宣言せんげんさせた。1744ねん、アレクサンダー・ポープが死去しきょした。そして1745ねん10がつ19にち、スウィフトは死去しきょした。かれ希望きぼうしたがってエスター・ジョンソンのはたほうむられた。かれ財産ざいさん大半たいはん精神せいしん病院びょういん創設そうせつ資金しきんのこされた。

墓碑銘ぼひめい[編集へんしゅう]

原典げんてんは、ジョージ・A・エイトケンによる『ステラへの消息しょうそく』の序文じょぶんそのから引用いんようした。

スウィフトはかれ自身じしん墓碑銘ぼひめいき、それをウィリアム・バトラー・イェーツラテン語らてんごから翻訳ほんやくした。

Hic depositum est corpus
JONATHAN SWIFT S.T.D.
Huyus Ecclesiae Cathedralis
Decani
Ubi saeva indignatio
Ulterius
Cor lacerare nequit
Abi Viator
Et imitare, si poteris
Strenuum pro virili
Libertatis Vindicatorem

イェーツの翻訳ほんやく

Swift has sailed into his rest.
Savage indignation there
cannot lacerate his breast.
Imitate him if you can,
world-besotted traveller.
He served human liberty.

日本語にほんごやく

スウィフトは休息きゅうそくはいった。
そこでははげしい憤怒ふんぬ
むねかれることもない。
もしできることならかれ真似まねてくれ、
世界せかい夢中むちゅうになっている旅人たびびとよ、
人間にんげん自由じゆうのためにつくしたこのおとこを。

著作ちょさく[編集へんしゅう]

主要しゅよう散文さんぶん作品さくひんについて[編集へんしゅう]

ジョナサン・スウィフトは多作たさく作家さっかであった。かれ最近さいきん散文さんぶん作品さくひんしゅう(ハーバード・デイビスへん、バジル・ブラックウェル、1965ねん-)は14かんからる。かれぜん近年きんねんはん(パット・ロッジスへん、ペンギン叢書そうしょ、1983ねん)は、953ページのあつさになる。かれ書簡しょかんしゅういちはん(ディヴィッド・ウリーへん、P・ラング、1999ねん)は3かんめる。

ジョナサン・スウィフトの著作ちょさく主題しゅだいやテーマは、大概たいがいかれ人生じんせいにおける出来事できごと関心事かんしんじ辿たどっているようだ。これは、かれ批評ひひょうがその作品さくひんぐん本当ほんとう意味いみあきらかにする手段しゅだんとして、伝記でんき確定かくていした事実じじつ、そしておおくの議論ぎろんある事項じこうおおいに注意ちゅういはら理由りゆうひとつである。ことによると過剰かじょう簡略かんりゃくかもしれないが、かれ最初さいしょ作品さくひんからは、いかにかれ人生じんせいにおける哲学てつがくろん学問がくもんてき興味きょうみしめしているかをることができ、聖職せいしょくしゃ陳情ちんじょうしゃ双方そうほうとしての教会きょうかいとの関係かんけいうつり、いでそのふでトーリーとうかたむけて政治せいじてき問題もんだいてんじ、そして最終さいしゅうてきにはかれながされたくに弁護べんごってアイルランドの人々ひとびと問題もんだいげた。こうしたおおきなながれのいたるところに、スウィフトの精神せいしん生活せいかつかんするじれったくもはっきりしないヒントをあたえる個人こじんてき著述ちょじゅつがある。

つぎなるとし予言よげん
1708ねんジョン・パートリッジという無学むがくくつなおしが占星術せんせいじゅつ予言よげんかんする通俗つうぞくれき出版しゅっぱんしたとき、スウィフトはアイザック・ビッカースタッフとして『つぎなるとし予言よげん』をし、パートリッジは3がつ29にちぬだろうというパロディ予言よげんでパートリッジを攻撃こうげきした。スウィフトはさらにつづいて3がつ30にちにパンフレットを発行はっこうし、パートリッジは実際じっさいんだと主張しゅちょうした。これとは反対はんたいのパートリッジの声明せいめいにもかかわらず、それはひろしんじられた。
『ドレイピア書簡しょかん』、『穏健おんけんなる提案ていあん
ドレイピア書簡しょかん』(1724ねん)では、イングランド政府せいふによってウィリアム・ウッド認可にんかされたアイルランドたいする銅貨どうか鋳造ちゅうぞう独占どくせん反対はんたいした。1729ねんには、スウィフトは『穏健おんけんなる提案ていあん』をいた。これは提案ていあん作成さくせいするに先立さきだってアイルランドを注意深ちゅういぶか研究けんきゅうした知的ちてきかつ客観きゃっかんてきな「政治せいじてき算術さんじゅつ」によってかれたものと推定すいていされる。著者ちょしゃ人口じんこう過剰かじょうおよ栄養えいよう不足ふそく人口じんこう増加ぞうかという両方りょうほう問題もんだいについて、冷静れいせいひとつの解決かいけつほう提案ていあんしている。それは、そうしなければえるか酷使こくしされるかれらの子供こどもたちを飼育しいくし、もって一般いっぱん大衆たいしゅう食用しょくようきょうすることである。『穏健おんけんなる提案ていあん』(1729ねん)においてかたは、アイルランドの貧困ひんこんかれらの幼子おさなご富貴ふうきそう食料しょくりょうとして飼育しいくすることによって解決かいけつされうると、意図いとてきにグロテスクな論理ろんり推奨すいしょうしている。
『ガリヴァー旅行りょこう
ガリヴァー旅行りょこう』は1726ねん発行はっこうされた。日本にっぽんでは子供こども文学ぶんがく、あるいは絵本えほんとして翻訳ほんやくされることおおく、原著げんちょ子供こどもけのほん誤認ごにんされることおおい。しかし実際じっさいおおいなる時事じじ諷刺ふうしであり、性的せいてきなものもふくめて子供こどもにはほぐせない内容ないようふくんでいる。『ガリヴァー旅行りょこう』とは厭人えんじんてき人間にんげんせい解剖かいぼう冷笑れいしょう眼鏡めがねである。それは読者どくしゃ本書ほんしょ反駁はんばくしてくれるよう、そしてそれが人間にんげんせい社会しゃかい適切てきせつ特徴とくちょうづけていないと否定ひていするようもとめる。これらよんさつほんはいずれもことなったテーマをゆうするが、すべて人間にんげん矜持きょうじくじこころみである。
おけ物語ものがたり
スウィフトの最初さいしょ主要しゅよう散文さんぶん作品さくひんおけ物語ものがたり』は、かれがのちの仕事しごと活用かつようすることになるおおくのテーマや文体ぶんたい技巧ぎこうしめしている。標的ひょうてきにひどく辛辣しんらつとききびしく批判ひはんてきである一方いっぽうで、やたらとあそごころち、滑稽こっけいである。『物語ものがたり』の主要しゅようすじは、ちちから遺産いさんとしてめいめいコートをり、たとえなにであってもわりのないものをつくるよう指図さしずされた、キリストきょう主要しゅようかんがかた象徴しょうちょうするさんにん息子むすこ手柄てがらくわしくべるものである。ところが、息子むすこたちはすぐにかれらのコートが当世とうせい流行りゅうこうおくれとって、必要ひつよう仕立したなおしを許容きょようするようちち遺言ゆいごんあなさがはじめる。それぞれがちちいましめをのがれるおのれ自身じしん手段しゅだんつけると、かれらは権力けんりょく支配しはいもとめてたがいにあらそう。このはなしはさまれて、あきらあらためるたびにスウィフトは様々さまざま主題しゅだいかんする一連いちれん風変ふうがわりな「論説ろんせつ」をふくめている。
書物しょもつ合戦かっせん
1960ねん、スウィフトの後援こうえんしゃウィリアム・テンプルきょうは、『ファラリス書簡しょかん』を模範もはんとして称揚しょうよう古典こてん弁護べんごする『古代こだい近代きんだい学問がくもんかんするしょうろん』を刊行かんこうした(古典こてん近代きんだい論争ろんそう参照さんしょう)。ウィリアム・ウォットンは『古代こだい近代きんだい学問がくもんかんする感想かんそう』でテンプルにおうじ、その『書簡しょかん』が後世こうせい贋作がんさくであることをしめした。古代こだい支持しじしゃによる返答へんとうは、チャールズ・ボイル(よん代目だいめオーラリーはくにしてスウィフトの最初さいしょ伝記でんき作家さっか)によってなされた。なおも現代げんだいがわによる逆襲ぎゃくしゅうは、その時代じだい傑出けっしゅつした学者がくしゃ一人ひとり、リャード・ベントリーの随想ずいそう『ファラリス書簡しょかんろん』よりた。しかしながら、この論題ろんだいかんする掉尾ちょうびかざるのは、テンプルと古代こだい主張しゅちょうにかわってユーモラスな弁護べんごをなしたスウィフトの『書物しょもつ合戦かっせん』(1697ねん)である。

著作ちょさく一覧いちらん[編集へんしゅう]

日付ひづけはもっぱらハーバート・ディヴィス編集へんしゅうの『スウィフト 詩作しさくひんしゅう』にくわえ、ノートン批評ひひょうとオックスフォード作家さっかしゅうのスウィフト作品さくひんいちかんほんった。

散文さんぶん作品さくひん[編集へんしゅう]

  • A Tale of a Tub (おけ物語ものがたり)1696ねん (1704ねん出版しゅっぱん
  • The Battle of the Books (書物しょもつ合戦かっせん、または書物しょもつ戦争せんそう)1697ねん (1704ねん出版しゅっぱん
  • "When I Come to Be Old" (わたし年老としおいたとき)1699ねん
  • "Sentiments of a Church of England Man"(英国えいこくこく教会きょうかいじん感傷かんしょう)1708ねん
  • "Bickerstaff/Partridge" papers (ビッカースタッフ/パートリッジ)1708ねん
  • Examiner (試験しけんかん)1710 -
  • The Conduct of the Allies (同盟どうめいこく行為こうい)1711
  • Correcting the English Tongue (英語えいご修正しゅうせい)1712
  • Public Spirit of the Whigs(ホイッグとう公共こうきょうしん) 1714
  • Gulliver's Travels(ガリヴァー旅行りょこう) 1726ねん
  • A Complete Collection Of Genteel and Ingenious Conversation (気取きどったたくみな会話かいわ全集ぜんしゅう)1738

随筆ずいひつしょう冊子さっし・パンフレット・定期ていき刊行かんこうぶつ[編集へんしゅう]

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  • "Ode to the Athenian Society" (アテネ社会しゃかいの頌歌)1692 (処女しょじょさく
  • Poems of Jonathan Swift, D.D.(ジョナサン・スウィフト、D.D.の原文げんぶんVolume One, Volume Two
  • "Baucis and Philemon" (ボーキスとフィレモン、1706ねん-1709ねん原文げんぶんBlackmask
  • "A Description of the Morning" (あさ叙述じょじゅつ1709ねん原文げんぶんU of TorontoU of Virginia
  • "A Description of a City Shower" (まちあめ叙述じょじゅつ1710ねん原文げんぶんU of Virginia
  • "Cadenus and Vanessa" (キャデナスとヴァネッサ、1713ねん原文げんぶんBlackmask
  • "Phillis, or, the Progress of Love" (フィリス、あるいはあい発展はってん1719ねん原文げんぶんtheotherpages.org
  • Stella's birthday poems (ステラの誕生たんじょう
  • "The Progress of Beauty" (発展はってん1719ねん-1720ねん原文げんぶんOurCivilisation.com
  • "The Progress of Poetry" (発展はってん1720ねん原文げんぶんtheotherpages.org
  • "A Satirical Elegy on the Death of a Late Famous General" (著名ちょめいなる将軍しょうぐんについての皮肉ひにく哀歌あいか1722ねん原文げんぶんU of Toronto
  • "To Quilca, a Country House not in Good Repair" (キルカへ よく修繕しゅうぜんされていない別荘べっそう1725ねん原文げんぶんU of Toronto
  • "Advice to the Grub Street Verse-writers" (蛆虫うじむしどお詩作しさくたいする忠告ちゅうこく1726ねん原文げんぶんU of Toronto
  • "The Furniture of a Woman's Mind" (女性じょせい精神せいしん家具かぐ1727ねん
  • "On a Very Old Glass" (ふるびたグラスのうえで、1728ねん原文げんぶんGosford.co.uk
  • "A Pastoral Dialogue" (牧師ぼくし対話たいわ1729ねん原文げんぶんGosford.co.uk
  • "The Grand Question debated Whether Hamilton's Bawn should be turned into a Barrack or a Malt House" (ハミルトンの納屋なやがバラックあるいは麦芽ばくが小屋こやえられるべきかについてのおおいなる疑問ぎもん討議とうぎ1729ねん原文げんぶんGosford.co.uk
  • "On Stephen Duck, the Thresher and Favourite Poet" (ステファンのアヒル、脱穀だっこくとおりの1730ねん原文げんぶんU of Toronto
  • "Death and Daphne" (とダフネ、1730ねん原文げんぶんOurCivilisation.com
  • "The Place of the Damn'd" (忌々いまいましい場所ばしょ1731ねん): 原文げんぶん - ウェイバックマシン(2000ねん1がつ23にちアーカイブぶん
  • "A Beautiful Young Nymph Going to Bed" (わかうつくしきニンフのお床入とこいり、1731ねん注釈ちゅうしゃくつき原文げんぶんJack LynchU of Virginia
  • "Strephon and Chloe" (ストレフォンとクロエ、1731ねん注釈ちゅうしゃくつき原文げんぶんJack LynchU of Virginia
  • "Helter Skelter" (あわてふためいて、1731ねん原文げんぶんOurCivilisation.com
  • "Cassinus and Peter: A Tragical Elegy" (カシナスとピーター 悲哀ひあい1731ねん原文げんぶんJack Lynch
  • "The Day of Judgment" (最後さいご審判しんぱん1731ねん): 原文げんぶん - ウェイバックマシン(2000ねん1がつ24にちアーカイブぶん
  • "Verses on the Death of Dr. Swift, D.S.P.D." (スウィフト博士はかせいた1731ねん-1732ねん原文げんぶんJack Lynch, U of Toronto注釈ちゅうしゃくなし:U of Virginia
  • "An Epistle To A Lady" (淑女しゅくじょへの書簡しょかん1732ねん原文げんぶんOurCivilisation.com
  • "The Beasts' Confession to the Priest" (司祭しさいたいするしし告白こくはく1732ねん原文げんぶんU of Toronto
  • "The Lady's Dressing Room" (淑女しゅくじょ化粧けしょうしつ1732ねん原文げんぶんJack Lynch
  • "On Poetry: A Rhapsody" (について 狂詩曲きょうしきょく1733ねん
  • "The Puppet Show" (人形にんぎょう芝居しばい原文げんぶんWorldwideschool.org
  • "The Logicians Refuted" (反駁はんばくされた論理ろんり学者がくしゃ原文げんぶんWorldwideschool.org

書簡しょかん個人こじんてき著述ちょじゅつ[編集へんしゅう]

  • "When I Come to Be Old"—Swift's resolutions. (わたし年老としおいたとき―スウィフトの決心けっしん1699ねん原文げんぶんJaffeBros
  • The Journal to Stella (ステラへの消息しょうそく1710ねん-1713ねん原文げんぶんU of Adelaide 抜粋ばっすいOurCivilisation.com
  • 書簡しょかん
    • Selected Letters(書簡しょかん選集せんしゅうJaffeBros
    • To Oxford and Pope(オックスフォード、ポープあてOurCivilisation.com
    • "A Letter Concerning the Sacramental Test,"(秘蹟ひせき試問しもんかんする書簡しょかん) 1708ねん

説教せっきょう祈願きがん[編集へんしゅう]

  • Three Sermons and Three Prayers. (みっつの説教せっきょうみっつの祈願きがん原文げんぶんU of Adelaide, Project Gutenberg
  • Three Sermons: I. on mutual subjection. II. on conscience. III. on the trinity. (みっつの説教せっきょう I 相互そうご依存いぞんについて II三位一体さんみいったいについて ) 原文げんぶんProject Gutenberg
  • Writings on Religion and the Church. (宗教しゅうきょう教会きょうかいについての著述ちょじゅつ) Project Gutenbergの原文げんぶんVolume One, Volume Two
  • "The First He Wrote Oct. 17, 1727." (1727ねん10がつ17にちかれいた最初さいしょのこと) 原文げんぶんWorldwideschool.org
  • "The Second Prayer Was Written Nov. 6, 1727." (1727ねん11月6にちかれただい祈願きがん原文げんぶんWorldwideschool.org

雑録ざつろく[編集へんしゅう]

  • Directions to Servants1731ねん)(奴婢ぬひくん抜粋ばっすいOurCivilisation.com
  • A Complete Collection of Genteel and Ingenious Conversation気取きどったたくみな会話かいわ全集ぜんしゅう1731ねん
  • "Thoughts on Various Subjects." (様々さまざま主題しゅだいについてのかんがえ) 原文げんぶんU of Adelaide
  • Historical Writings (歴史れきしてき著述ちょじゅつProject Gutenberg
  • Swift Quotations (スウィフト引用いんよう句集くしゅうJaffeBros — スウィフトの典拠てんきょつき引用いんよう句集くしゅう
  • Swift quotes at Bartleby (バートルビーのスウィフト引用いんよう句集くしゅうBartleby.com — 59の註釈ちゅうしゃくつき引用いんよう句集くしゅう

おも日本語にほんご書籍しょせき[編集へんしゅう]

2分冊ぶんさつ注釈ちゅうしゃくへんは、原田はらだ範行のりゆき服部はっとり典之のりゆき武田たけだすすむあきら
は「ビカースタフ文書ぶんしょ」「ドレイピア書簡しょかん」「つつましき提案ていあん」「淑女しゅくじょ化粧けしょうしつ
  • 奴婢ぬひくん いちへん深町ふかまちひろしさんやく岩波いわなみ文庫ぶんこ, 改版かいはん2021ねん - は「つつましき提案ていあん
  • おけ物語ものがたり書物しょもつ戦争せんそう深町ふかまちひろしさんやく岩波いわなみ文庫ぶんこ, 1968ねん - は「人工じんこうしん憑のせつ
  • 書物しょもつ合戦かっせん・ドレイピア書簡しょかん ほか3へん山本やまもと和平わへいやく現代げんだい思潮しちょうしゃ, 1968ねん
  • 『スウィフト小品しょうひんしゅう田中たなか光夫みつおやく京都きょうと山口やまぐち書店しょてん, 1986ねん
以下いか伝記でんき作品さくひん研究けんきゅう

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ キルケニー・グラマースクールは経験けいけんろん哲学てつがくしゃジョージ・バークリー通学つうがくしていた学校がっこうである。
  2. ^ トーリー次期じき政権せいけん和平わへい立場たちばからフランスとの秘密ひみつ(かつ不法ふほうな)交渉こうしょうおこない、戦争せんそう終結しゅうけつさせるユトレヒト条約じょうやく1713ねん)をむすんだ。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 1993ねん途中とちゅうまで。以降いこう、ユーロにわる1999ねんまではジェイムズ・ジョイス肖像しょうぞうに。
  2. ^ 中野なかの好夫よしお『スウィフトこう
  3. ^ 大野おおの(1975)pp.455-456
  4. ^ サミュエル・ジョンソン『イギリス詩人しじんでん』(筑摩書房ちくましょぼう、2009ねん)に、べつやく収録しゅうろく

参考さんこう文献ぶんけん典拠てんきょ[編集へんしゅう]

  • 大野おおの真弓まゆみ世界せかい歴史れきし8 絶対ぜったい君主くんしゅ人民じんみん中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ中公ちゅうこう文庫ぶんこ〉、1975ねん2がつISBN 426-5044018 
  • 中野なかの好夫よしお 『スウィフトこう岩波書店いわなみしょてん岩波いわなみ新書しんしょ〉、1969ねん6がつISBN 400-4140099
  • サミュエル・ジョンソンによるスウィフトの生涯しょうがい(『生命せいめい』より)
  • ウィリアム・メイクピース・サッカレーの影響えいきょうりょくある辛辣しんらつ伝記でんき(『18世紀せいき英国えいこくユーモリスト』より)
  • その典拠てんきょへのリンク

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]