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舩後靖彦「私は!悔いなく死にたい!!――“貴方も自身への問い掛けをなさいませんか?”」
私は!悔いなく死にたい!!
“
貴方も
自身への
問い
掛けをなさいませんか?”
舩後 靖彦 2009/08/22
於:
熊谷市八木橋デパート
一章、はじめに
私舩後(ふなご)の10年歴
1999年7月筋萎縮性側索硬化症、通称ALSを発症
2000年5月大学病院でALSとの告知を受ける。延命を拒否する
2000年6月国立病院に受診先を変更。師(※神経内科医)と出会う
2001年12月肺炎防止のため喉を切開。声を失う
2002年4月食物を飲み込めなくなり胃から栄養を摂取出来るようにする
2002年6月延命するとの意志変更を師に伝える。ほぼ全身麻痺となる
2002年8月息苦しくなり人工呼吸器を装着。延命する
2003年3月師の栄転に伴い同年6月身体障害者療護施設に移る
2008年8月半生と自作短歌を記した『しあわせの王様』を出版
2008年12月ご縁があり大学非常勤助手に就任。現在に到る。
「充実した一日が幸せな眠りをもたらすように、充実した一生は幸福な死をもたらす」:ダ・ビンチ。
今、衝動的に死にたいと思っている貴方!死にたいのに、どうしようかと迷っている貴方!これを読んでから、あらためて行くべき道を選んで下さい。黙読ならほんの、数分で読み終えます。そしてお気が向いたら、いや是非!後の五章その4で申し上げます私の二つの願いの内、一つ目はお気が向かなかったら結構ですので、二つ目をどうかおき入れ下さい。なぜなら、その二つ目の願いこそ、このエッセイで私が申し上げたかったことの全てがあるからです。
二章、即答!延命拒否
その1、かつて
かつて私も、「死にたい死にたい」と、2年に渡り願っていました。それは2000年5月、ここ2年で全身麻痺になることに加え呼吸不全を起こし、人工呼吸器で延命しなければ死亡する難病ALSに冒されていると、ある大学病院で言われてからの2年間です。この2年間のことにつきましては、此処二章で申し上げることとします。
さて、そんな黄泉(よみ)つまりあの世からの招きとも言える告知を聞きながら私は、「あ〜これで俺の人生も終ったな。人工呼吸器で延命したところで全身麻痺じゃ何も出来やしない。家族にも周りにも迷惑をかけるだけだ。もう死ぬしかないな。いや、死にたいよ!本当に死にたいよ!!」と、瞬時に思いました。そう瞬時に思いました理由三つの内の一つを申し上げますと、実は、ALSと告知を受ける直前の頃の私は、ブランド時計・ダイヤモンドなどを扱う貿易会社の宣伝マンという自身でも自分向きと考えていた仕事に加えて、社長のアシスタント的役割を担う者として毎日のように、FAXや電話で海外とやり取りをしたり、スイス・イタリア・香港などに二カ月ないし三ヶ月に一度は出張に行くという、言わば仕事人としての油がのり切っていた頃だったのです。そんなビジネスマンとしての絶頂期から、病とは言え人生のどん底まで落ちなければならないという落差から来る絶望感と消失感に加えて、このエッセイでは申し上げないあと二つの理由で、告知を受けたその場で延命しないことを大学病院の医師に伝えたのでした。今、思い出してみても、己(おのれ)で瞬時に決めたこととは言え、それは私の人生に於いて最も辛い決断でした。そんな決断を「死にたい」との言葉に置き換え2年強も願い続けた後2002年6月末、延命するとの意志変更を大学病院から2000年6月移った国立病院の、私が今も師と仰ぐ元主治医に伝えたのでした。そんな劇的とも言える意志変更については、後の三章と四章で詳しく述べますが、この元主治医との出会いがなければ私は、2002年8月中には黄泉へと旅立っていたことでしょう。
その2、一時(いっとき)の忘却
ところで、延命拒否を決めたからと言って、或いは「死にたい」と願ったからと言って、ALSという不治の病の患者の場合すぐに死ねるわけではありません。死に到るまでには、大学病院の医師の告知にもあったように、全身麻痺となり呼吸不全になるという、難病ゆえの身を引き裂くような棘(いばら)の道を、全ての延命拒否患者は歩まねばなりません。私も此処二章その2その3を通して申し上げますようにALSも初期、言いかえますと麻痺も呼吸障害も軽い内には、人生に挫折したという苦悶から自然心が発した「死にたい」との願いも、にわか雨のように気紛れなもので日のだいたいは忘れていられたのでした。と申しますのは、私・妻・一人娘は2000年6月から2002年4月の間、大黒柱として働く妻に代わり母に私の介護をしてもらうため、私の実家に移り住んでいたのです。やはり、大人数で住むのはいいものです。一日中誰かの笑顔を見られて、その笑顔により病気からなる麻痺の苦しさも和らぎ、その和らぎにより「死にたい」との願いも、先にも申し上げましたように日のだいたいは忘れていられたからです。
その3、せざるを得ないもの
ですが、ALSも重篤(じゅうとく)になりますと麻痺の一症状として、誤って唾液を気管支に入れてしまいむせ込み続け、目をシロクロさせてしまったりします。これは人を簡単に肺炎にしてしまう、かなり危険な症状です。ゆえ、肺炎防止のために喋れなくはなりますが、喉に孔をあけ部品を取り付けます。ある日突然として人とコミュニケーションが計れなくなる。人生に於いて、これほどショッキングな出来事はないと言えるものの一つと思いますが、皆さんは如何思われますでしょうか?例えば、平気でいられるようなことなのでしょうか?お教え下さい。また、同様麻痺の一症状として、舌の麻痺により口から物を飲み込めなくなります。ゆえ、餓死しないため味はわからなくなりますが、お腹に孔をあけ栄養剤を入れられるようにします。味がわからない食事ほど虚しいものはありませんが、三度の食事もろくろく摂れなくなった私を見かねた家人の説得もあり、手術は絶対にしないと言い続けてはいましたが、2002年4月末お腹に孔をあけるため入院することにしました。私は2001年12月には既に喉の手術は済ませていましたので、その時にはお腹の手術と腕を痛めた母を私の介護から永久に解放するために、長期入院に入ったのでした。ところが、2ヶ月も独り気ままにインドやヨーロッパなどを放浪した割に孤独に慣れなかった私には、家族の笑顔が見られないことがよほど堪(こた)えたのでしょう。まるでどしゃぶりの雨のように「死にたい」との願いが、気弱(きよわ)になった私に襲い来たと同時に、あらためて自身が棘の道を歩んでいることを自覚したのでした。
その4、黄泉の隣り
まして病院というところは、一般のかたの日常とは隔絶した死が香る世界が広がっています。私が入院した時も、夜な夜な他の病気と思われるかたの嗚咽が病棟に響き渡ったり、親しかった患者さんが突然として帰らぬ人になったり、燐りのベッドに寝ておられた患者さんが知らぬ間臨終になっていたりするような、あちらの世界とつながっているところなのです。
さて此処で、ここまで述べ来たことを再び噛み締めてみますことをお許し下さい。そんな、どんどん重篤になって行く身体状況、孤独に慣れないということから来る寂しいなどの諸々の心理、人を絶望の淵へと追い込む入院環境などにより、延命拒否を決めた2年前の時点より絶望してしまい、より延命拒否の意志を強めてしまっていたのでした。
三章、自身に問う
その1、私のした問い掛けとは
ところが、「あと何週間くらいの命かな?」と、月明りのようにぼんやりと考え出した2002年6月末頃のある日、2000年6月から2003年3月末まで診て貰っていた国立病院の元主治医の指導で、ピアサポートという患者仲間を励ます所謂“人に尽くす活動”をしていたからでしょうか?いや、間違いなくそれをしていたからです。大袈裟な言いようですが、朝日に照らされた大地の如くクッキリとそしてハッキリと、「自分自身が延命して、人に尽くすという生きがいの元、幸せにならなければ、俺がしているピアサポートなど単なる患者による、ALSになってからの苦労話に過ぎず、愚痴ほどではないが無意味だ!」と思いました。そして、前記のよう、ピアサポートのことに端を発した「生きる!」との思いは、瞬く間に気球船サイズまでに膨らんでいったのです。ですが、それはやはり心のどこかに介護・住いなどの先への不安を抱えたもので、気球船の例え通り何処へ行くやらわからない、下手をしたら先への不安から元の「死にたい」との気持に戻ってしまうような、不安定なものでした。やはり、「生きる!」と決めた限りは大空をゆったり目的地に向って進む飛行船のように、「生きる!」という目的に向って進まねばなりません。そこで、あらためて「生きる!」との決意を強固に固めるために、次のようなことを自分自身に問い掛けてみました。
「俺は家族をこの人生のなかで愛し切って来れただろうか?人や草花は?自分自身は?そして、それらを愛することによって得られる喜びや楽しさがもたらす満足感は、この人生で得られたのだろうか?いや、得られたのなら、“こんな病気にならなかったらいつかある筈の娘の結婚式に出て、妻とその喜びをわかちあえたのに”などと思い煩って、真夜中に口惜し泣などする筈はない。俺はやはり、これまでの人生で得られる筈のものを得られておらず、それを、いやそれらを得られるまで“本当は、このまま病気ごときでおめおめと死にたくなどないんだ”と思っている。なあ!そうだろう俺?」
その2、貴方もなさいませんか?
と、“自身への問い掛け”をした結果、「生きる!」との決意をあらためて、本当にあらためて固めたのでした。これは、裏を返せば「本当は、死にたくなどない」ということです。「死にたい死にたい」と、2年に渡り願っていた私でさえこの変わりようです。今、死にたいと衝動的に思っている貴方がもし、私のように“自身への問い掛け”をしたなら、「本当は、死にたくなどない」と思うかもしれません。いや、間違いなくそう思う筈です。前述した“自身への問い掛け”の経験と、後述する全ての章の内容からそう確信します。貴方も一度、“自身への問い掛け”をしてみたらどうでしょうか?否、どうかそうして下さい。
四章、諦めずに
その1、私という人間
ところで、元来私という人間は諦めが悪く、小学校6年からの17年間、長いブランクはありましたが、ふられてもふられても独身時代の妻に付きまとったすえ、結婚という喜びを手に入れたり。去り行く髪にどうしても別れを告げられず、35年に渡り頭皮に育毛剤を摩り込んだりする、とにかく周りから嘲笑されてもしつこくやるような、先にも述べましたように諦めの悪い奴なのです。そんな私なのに、前述のような“自身への問い掛け”を、ALSとの告知を受けてからの2年後の2002年6月末にするまでは、自分でも不思議な位“生きてゆく”ことを諦めていました。私は思います。“自身への問い掛け”ほど、己の考え方を変えるものはないと。そんな私の心の変化をお伝えしたく、“自身への問い掛け”から到った思いを、ここでは判り易くする狙いから、前述しました問い掛けと対比した形で記しますので、お読み下さい。
「俺は家族をこれから先の人生のなかで今まで以上に愛し、人や草花を愛し、自分自身をゆき過ぎることなく愛してゆこう。そして、これからの人生で、愛することによって得られる喜びや楽しさから来る満足感を、少しでも感じられるように生きよう。加えて、死んでしまったら出られないいつかある筈の娘の結婚式に出て、妻とその喜びをわかちあい、これまでの人生を、そしてこれからの人生をも悔いなきものとしよう。それから死んでも遅そくなど無い。そのためにはまず、人工呼吸器で延命することを、主治医と妻に話そう」。
その2、元主治医の意
そして同月末私は、妻同席のもと元主治医に延命することを伝えたのでした。実はその時まで、延命するとの意志変更は誰にも告げていませんでしたので、それを聞いた時の妻の顔ときたら、“まるで死んだ亭主が生き返った!”時のような驚きに満ちた顔をしていました。内緒ですが妻は、勤め先の部下30人が震え上がるほどの厳しい教育をする、昔で言う鬼軍曹かスパルタ軍の将官と言った性格を持つ女性、いやオンナなのです。そんな、気強い妻を出し抜け、日頃から頭が上がらない強恐妻家の私は、少し愉快な気分になったことを、此処に今、告白致します。加えて、元主治医はその時“我が意を得たり”とばかりに目を細めていたことを、憶えています。今にして思いますに、結局元主治医が私にピアサポートをやらせたのは、“生きる喜びと命の大切さを噛み締めさせ、延命することを決意させる!”ためだったのではないでしょうか?
その3、驚きの長さ
話は変わりますが、このように、実際に対比のアレンジをしますと、“私の心の変化を記した”前記文が、お読み下さいましたように短くなってしまいます。ですが、この思いに到るまでをもし細かく述べるとなると、私の半生とALSになってからの苦悶と心の変遷を記し出版した、『しあわせの王様』という本に加えて、愛する母の「私が生きている限り介護は私がします。だからあなたは人工呼吸器を着けて生き続けなさい!」という言葉を添えた『迷い』なる講演用の文章を、計算してみますと、黙読ならだいたい3時間、朗読なら6時間ぐらいは読み上げ続けねばならないことになってしまいます。このエッセイを書いている私が、驚いています。
五章、悔いなく死ぬには
その1、表には出さない願い
ここでの話は本筋からそれ、タイトルのことになりますことをお許し下さい。さて、批判への不安を隠さず申し上げますが、この五章のタイトル「悔いなく死ぬには」をご覧になられ、恐らく多くのかたが「何でこんな、死ぬことを勧めるようなタイトルをつけるのだ」と、怒にも似たショックを覚えられたことと思います。そんな、ショックを覚えられたかたがた、本当に申し訳ありません。実は、この四章のタイトル「悔いなく死ぬには」、「前向きに生き人生を満足のゆくものとする」という、私の願いを込めた、表には出さない続きがあるのです。しかしながら、もし私の願いを込めた続きを表に出し、「悔いなく死ぬには、前向きに生き人生を満足のゆくものとする」というタイトルにしますと、長くなり過ぎてしまいどなたにも憶えて頂けません。ゆえ、タイトルとして相応しい長さにするために、その前半部分のみを抜き出し、この五章のタイトルとしました。そう言えば、このエッセイ自体のタイトル『私は!悔いなく死にたい!!』も、ショッキングなものでしたね。どうか、お許し下さい。でも、そのタイトル『私は!悔いなく死にたい!!』にも、「悔いなく死ぬには」と同じ、表には出さない願いを込めた続きがあるものとして書きました。つまり、「(そのためには今日をそして明日からを)前向きに生き人生を満足のゆくものとする」という、私の願いを込めた続きがあるものとして。
その2、生きたい!
話を本筋に戻します。さて、どなたでもご存知のことですが、世の中には癌・脳疾患など多種多様な病気或いは事故・天災・内紛更には戦争などで、“生きたいと願いながらも、死なざるを得ない”かたが沢山おられます。また、危篤状態というギリギリのところにありながらも生き続け、人生を満足のゆくものにせんと、無意識のうちにも頑張っているかたもおられます。そんな前者の、例えば病気のかたの「もっともっと生きたいのに何で死ななくてはならないのだ?」という、答が“病気”と実は“そのかた”も判っているだけに、医師にも誰にもぶつけられない疑問と、行き場の無い悔しさを考えますと私は、何もして差し上げられないもどかしさが胃の腑を熱くすると同時に、“そのかた”の死にゆく悲しさ悔しさが、かつて絶望の淵に立たされたことがあっただけに痛いほど解かり、目を曇らすほどの涙を流します。また、後者のかたには影ながら、その人生を満足のゆくものにせんとする頑張りに、声援を雲に託して送ります。悲しいかなそれをすることだけが、今の私に出来ることの全てなのです。
その3、真のメッセージ
かつて、ある世界的にその名が知られている、精神科医でもあり、終末期医療並びにサナトロジー、所謂、死の科学のパイオニア的存在であるかたが、ご自分の死を悟られた時に、死にゆく人だからこそ書ける本を著わしました。実は、その冒頭には、「「一生」とよばれるこの時間のあいだには、学ぶべきさまざまなレッスンがある。とりわけ死に直面した人たちとともにいるとき、そのことを痛感する。死に行く人々は人生の終わりに多くを学ぶが、ほとんどの場合、学んだ教訓を生かすための時間が残されていない。1995年にアリゾナの砂漠に移住した私は、ある年の母の日に脳卒中で倒れ、麻痺状態に陥った。それから数年間は、死の戸口に立たされたままだった。すぐにも死がやってくるだろうと、幾度となく覚悟した。そして幾度となく、それが訪れてこないことに失望した。準備はできていたからである。でも、死ななかった。なぜなら、私にはまだ学ぶべきレッスンが、最後のレッスンがあったからだった。そのレッスンの数々は人間の生に関する究極の真実であり、命そのものの秘密である。私はもう一冊、本を書きたいと思うようになった。今度は「死とその過程」についてではなく、「生とその過程」、つまり人生と生き方についての本を。(後略)」
という、2004年残念ながら故人になられた、“そのかた”のメッセージが書かれていました。2006年に始めてそれを読んだ時私は、「死がせまりつつあるのに、人生と生き方について考えるとは凄い!」とだけ…思いました。それから3年後の今、叔父二人や旧友の15歳だった難病のお嬢さん、そして多くの同胞(はらから)の死という悲しみを経て読み直してみますと、その冒頭のメッセージが持っている真のメッセージが判ったような気がしました。勿論私は霊能力者でも陰陽と書く陰陽(おんみょう)士、或いは密教僧でもありませんので、加持祈祷をして、黄泉の世界に旅立たれた“そのかた”に何かを尋ねたりするなどという、ミラクルなことは出来ません。したがいまして、本当に真のメッセージがあるかは、悔しいかなわかりません。しかしながら、読者が読後、その人なりの感想を持つことは自然なことです。ゆえ、この場合冒頭のメッセージのみとはなりますが、私なりの感想として、“判ったような気がした真のメッセージ”をご紹介します。それは、
「人は、病気・天災・事故・戦争などにより、死なざるを得ない時にあっても、残されし時、すなわち残された人生を満足のゆくものにせんとする努力をせねばならない。さすれば、きっと“悔いなく死ねる”ことであろう。」
具体的には、「その2、生きたい!」で申し上げた、“生きたいと願いながらも、死なざるを得ない”前者のかたのような状態に置かれても、同じく「その2」で申し上げた後者のかたのように、ギリギリのところにありながらも生き続け、人生を満足のゆくものにするために頑張って欲しいということです。これを、さらに今は死ぬような状態に置かれていないかたのために申し上げますと、
「いつ果てるか判らない人生を悔いなきものにするためには、今を精一杯そして思い切り前向きに生きなければならない。」
と、なります。
その4、今日をそして明日からを
さて、このエッセイ『私は!悔いなく死にたい!!』の二章、三章、四章で私が述べ来た自分史を、一口で語れるようにまとめてみますと、
「私舩後は2年もの間、延命拒否を続けたがために、棺に片足を入れてしまった。だが、死期が迫って来た頃のある日、俺は本当に死にたいのかと“自身への問い掛け”をした。その結果、人生も新たに「生きてゆく!」ことにしたのであった」。
とまるで、連続ドラマの“前回までの荒筋”のようなまとめになってしまいましたが、おおまかには、このような経緯で今に至っています。そんな私がここ“その4”で、一章で申し上げると予告した二つの願いの内の一つ目に、今、衝動的に死にたいと思っている貴方と死にたいのに、どうしようかと迷っている貴方に申し上げたいことは、「私と共に明日へと向い歩んでみませんか?」という、お願いとも言えるお誘いです。そして二つ目は、やや長くなりますが、「人はいつか必ず死ぬのに、私は本当に今死にたいのかと、“自身への問い掛け”をしてみて下さい。きっと、貴方の心の奥の奥に住む本当の貴方が「私は生きたいんだ!本当に生きたいんだ!!」という筈です。それが聞こえたなら、貴方のダイヤモンドより貴重な人生を、悔いなきものにするために今日をそして明日からを、精一杯そして思い切り生きて下さい。」というお願いです。ところで、お願いをおき入れ下さいます貴方に私から、これから向う今日そして明日にお役に立つと、私が信じるショートエッセイをプレゼントします。このエッセイは、5年前に書いたものですが、その思いは今も変わりません。お読み下さい。
ショートエッセイ/『生きてゆく』
『生きてゆく』とは、“挑戦者”として『人生ゲーム』を楽しむ事。
人生とは『永遠の眠り』につくまでは、ゲームの繰り返しです。これを私は、『人生ゲー ム』と呼んでいます。これに、常に勝ち続ける事はあり得ません。でも、負けたからといって、そこでグズグズしていると、瞬く間に歳を重ねてしまいます。それは実に寂しい事です。つまり、人生『死』んだも同じです。だから私は、良い事すなわち“勝ち”も、悪い事すなわち“負け”も同じに味わい、楽しめればと思っています。良い事は素直に喜び、悪い事でも次に期待する。という具合に、例え負けてもその場に立ち止まる事無く、次は勝つぞと前に進むのです。人生の終りがいつなのかは、誰にもわかりません。が、立ち止まれば終り、繰り返しますがすなわち『死』と同じです。『永遠の眠り』につくまでは “挑戦者”として、『人生ゲーム』を続けて行きます。そこには、『死』の付け入る隙、つまり『死』を恐れる暇などはありません。『生きてゆく』とは、そういう事だと私は思います。[2004年夏に記す]。
六章、ラストメッセージ
今、衝動的に死にたいと思っている貴方!死にたいのに、どうしようかと迷っている貴方!最後に私らしくしつこくもう一度お願いします。「人はいつか必ず死ぬのに、私は本当に今死にたいのか」と、“自身への問い掛け”をしてみて下さい。きっと、貴方の心の奥の奥に住む本当の貴方が「私は本当は生きたいんだ!本当に本当に生きたいんだ!!だから、生きて行こう。ね!」と、貴方の耳元でキッパリと言う筈です。心の奥の奥から登り来た自分の真意に驚く貴方を優しく見つめながら…。それが聞こえたなら貴方の、天に唯一の太陽の輝きのような人生を悔いなきものにするために、今日をそして明日からを精一杯そして思い切り生きて下さい。
「寒さにふるえた者ほど太陽の暖かさを感じる。人生の悩みをくぐった者ほど生命の尊さを知る」:ホイットマン
では、またお会いしましょう。