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立岩真也「もらったものについて・2」
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もらったものについて・2

立岩たていわ しん 2008/08/05
『そよかぜのようにまちよう』76:34-39

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  *『そよかぜのようにまちよう』はとてもおもしろい雑誌ざっしなので、ぜひってみてくださいませ。

就学しゅうがく闘争とうそうのこと
 さんじゅうねんほどまえはなしはじめたら、途中とちゅうまででわった。しかしつぎなにいたらよいだろう。いちきゅうななきゅうねんの「養護ようご学校がっこう義務ぎむ」のことにすこしふれ、そしてそのことについてなにかなかったから、そのはなしをするとよいのかもしれない。ただ、このことについては――おおくは品切しなぎ絶版ぜっぱんになってしまっているのではあるが――わりあいおおくのほんている。そしてわたし自身じしんはすこしもまじめにそのうごきにかかわったわけではない。そのことをくわしくくのにわたしてきしていない。ただ、それを遠巻とおまきにていて、そのときどんなことをかんがえていたのかなら、すこしくことはある。
 それでもいくらかはおもさねばならない。するとほんとにおぼえていないことにがつく。とくにわたし記憶きおくりょくがないというところもある。ただ、そうした特殊とくしゅ事情じじょうべつとしても、ほんとうにたくさんのことがわすれられていく。それはあまりよくないことで、記録きろくすることにもっと熱心ねっしんになったほうがよい。資料しりょうあつめたり年表ねんぴょうつくって(もらって)いるのにもそんなところがある。HPhttp://www.arsvi.comのなか障害しょうがいしゃ運動うんどうのための年表ねんぴょうがある。普通ふつうにグーグルなど検索けんさくしてもてくる。HPにはいってから、そのなか検索けんさくしてもらってもてくる。いくつかすでにあった年表ねんぴょう使つかわせてもらってつくったもので、増補ぞうほしなければとおもいつつ、そのままになっているものだ。
 するとたとえばいちきゅうはちいちねん国際こくさい障害しょうがいしゃねんだったといてある。だが、とくべつの記憶きおくはない。というか、わたしのまわりはこういうものをばかにする傾向けいこうのあるひとおおく、わたし自身じしん報道ほうどうのされかたなどにうんざりするところもあり、あまり関心かんしんをもたなかったというところもある。また、よくいちきゅうはちねんじゅうがつには東京とうきょうで「だいかい障害しょうがいしゃ自立じりつ生活せいかつセミナー」が開催かいさいされている。米国べいこくのバークレーなどでのうごきが日本にっぽんらされはじめたということである。このころから自立じりつ生活せいかつ運動うんどうは「ようぶつ」として紹介しょうかいされることになる。米国べいこくはじまってそれが日本にっぽん輸入ゆにゅうされたとわれるのである。(それは事実じじつではないことをいくいままでいてきた。)わたしはこのもよおしのことはまったくらなかったはずだ。障害しょうがいしゃ福祉ふくしといったものに直接ちょくせつ利害りがいもないし興味きょうみがあったわけでもない。
 そのもろもろあったのではあるが、学校がっこう教育きょういく関係かんけいするところでは、ななきゅうねん養護ようご学校がっこう義務ぎむ実施じっし前後ぜんご、とくに東京とうきょう周辺しゅうへんでは、金井かない康治こうじさんいちきゅうきゅうきゅうねんさんさい死去しきょ)の普通ふつう学校がっこう就学しゅうがく運動うんどう具体ぐたいてきかつ象徴しょうちょうてきなものとしてあった。さきの年表ねんぴょうると、ななななねん東京とうきょう城北しろきた養護ようご学校がっこうから<0034<足立区立花畑東小学校への転校を希望するが拒否される。七八年に自主登校が始まり、七九年に運動は全国に広がる。八一年――つまり国際障害者年――三月、当時の鈴木首相が「学校選択には親の意見尊重」と国会答弁、といった記述もある。そして一九八三年三月、「金井君就学闘争 区教委が校区校の花畑北中への入学を認め、二〇〇〇日余りの闘争に決着」などと出てくる。
 わたしいちきゅうななきゅうねん大学だいがくはいってよんねんいたから、かなりかぶっている。だが、その時々ときどきにはいてっていたはずだが、たとえばいったんの決着けっちゃくたのが、大学だいがくたのとおなはちさんねんさんがつだったというのは、年表ねんぴょうて、へー、とおもったというぐらいだ。直接ちょくせつ関係かんけいしたのではないということもあるかもしれない。前回ぜんかい名前なまえした高橋たかはし秀年ひでとしというおとこはそこにかなり真面目まじめかかわっていた。また、ずいぶんうことになって、いまはアフリカのことでわたしたちの――グローバルCOE「生存せいぞんがく創成そうせい拠点きょてん」というものの――企画きかく協力きょうりょくしてくれている斉藤さいとう龍一郎りゅういちろう東京大学とうきょうだいがく教育きょういく学部がくぶ卒業そつぎょう解放かいほう書店しょてん勤務きんむ現在げんざいアフリカ日本にっぽん協議きょうぎかい事務じむ局長きょくちょう)もこのいちけんかかわっていたという。だがわたしは、このけん集会しゅうかいだとかデモだとかに参加さんかしたことはなかった。
 ただ、このことについて普通ふつう学校がっこうへの就学しゅうがく支持しじする自治じちかい決議けつぎやらにすこしかかわった(賛成さんせいした)ことはあった。前回ぜんかいにもいたけれど、この主題しゅだいは、「左派さは」ということになるひとたちのあいだ争点そうてんひとつだった。こんなことも説明せつめいしないとならないようになりつつあるのだろうとおもうのだが、共産党きょうさんとうけいひとたちとそうでないひとたちが、ひとたちからればどうでもいいようなあらそいをしていた。つまり、「そうでないひとたち」(のある部分ぶぶん)が養護ようご学校がっこう義務ぎむ反対はんたいして、金井かないさんはじめいくつかの就学しゅうがく運動うんどう支持しじした。そして本誌ほんし『そよかぜのようにまちよう』にしても、季刊きかん福祉ふくし労働ろうどう現代書館げんだいしょかん)にしても、そうでないけいひとたちがはじめたメディアであったのだ。そして、東京とうきょう大学だいがくであれば、いち年生ねんせいぜん学生がくせいぞくする教養きょうよう学部がくぶ、そして法学部ほうがくぶ経済学部けいざいがくぶといった学部がくぶ自治じちかい多数たすうは、共産党きょうさんとうけいひとたちだったが、そのころ文学部ぶんがくぶ学生がくせい自治じちかいである文学部ぶんがくぶ学友がくゆうかいはそうでないひとたちが多数たすうをとっていた。哲学てつがく東洋とうよう社会しゃかいがくといったあたりにそういう傾向けいこうひとたちが一定いっていいた記憶きおくがある。わたし社会しゃかい学科がっかにいてそんな傾向けいこうだった。それで毎度まいど学生がくせい大会たいかい金井かない就学しゅうがく闘争とうそうへの支持しじ議決ぎけつしたりしていたのである。学友がくゆうかい委員いいんちょうというのになりかけたこともあったが、それはのち新聞しんぶんしゃつとめるようになったひとけてくれて、わたし議長ぎちょうとかそんなのでおちゃにごしていた。(ちなみに、本誌ほんしってそう意味いみがあるのかわからないが、わたしは、以前いぜんそうして対立たいりつしたひとたちと、べつに喧嘩けんかをしたいわけではなく、とくにこれから、いっしょにやっていける部分ぶぶんがある部分ぶぶんについては、いっしょがよいとおもっている。)

学校がっこうについておもっていたこと
 この運動うんどう事件じけんについては異議いぎなしだったし、いまでも異議いぎない。基本きほんはそれでよいおもっている。ただ、様々さまざまかんがえていくとこれはなかなかやっかいな問題もんだいだろうなとは、その当時とうじからおもっていた。わたしたちはこのあとじゅうねんほどして、なま技法ぎほうというほんしてもらうことになるのだが(いちきゅうきゅうねん増補ぞうほ改訂かいていばんいちきゅうきゅうねん藤原ふじわら書店しょてん)、そこにも、教育きょういくはなし労働ろうどうはなしむずかしいからこのほんではしないといたのだった。
 入学にゅうがく選抜せんばつについて、身体しんたい障害しょうがい論外ろんがいとして、知的ちてき障害しょうがいとなるとどうなのだろうとおもってしまう。あるいは、小学校しょうがっこう中学校ちゅうがっこう<0035<はよしとして、高校もよしとして、大学となるとどうなのだろう。入試全般をやめてしまうというのはなかなかよい気がしたが、すこし現実的に考えてしまうと、どうなんだろうと思って、どう考えたらよいかよくわからなかった。
 わからないところをのこしながら、おおむね、金井かないさんを支持しじしているひとたちがよいとおもった。よいとおもったが、わからないところものこった。「理論りろんてき」にどう、ということもあるが、ここではすこしやはり、むかしはなしをしよう。
 前回ぜんかいわたしおこなっていた小学校しょうがっこうにも特殊とくしゅ学級がっきゅうがあったことはいた。それでも私立しりつ学校がっこうなどはなかったから、校区こうくにいるどもはみな学校がっこうだった。中学校ちゅうがっこうもそうだった。高校こうこうには入学にゅうがく試験しけんはあったが、学校がっこうがいろいろあるというよりは、おな学校がっこうなかに「普通ふつう」「商業しょうぎょう」「家庭かてい」「水産すいさん」というのがあった。最後さいごのはしまならではの学科がっかで、遠洋えんよう漁業ぎょぎょう実習じっしゅうかけたり――わたし従兄弟いとこがそれにって、まぐろの土産みやげをもってきてくれて、べておいしかった記憶きおくがある――さかな缶詰かんづめなど実習じっしゅうつくったりしていた学科がっかだったが、なくなってしまったとく。普通ふつう勉強べんきょうができるひとはい学科がっかということになっていたのだが、わたし小学校しょうがっこう以来いらい友人ゆうじんは、なぜだか方程式ほうていしきがわからないのだったが、おなじその普通ふつうにいた。
 そしてそれはよいことだったようにおもった。もちろん、どんなふうに輪切わぎりにしてもできるできないのは、学校がっこうないにも学級がっきゅうないにもしょうじるのだが、そういう田舎いなか学校がっこうではははなはだしいものがあった。そういう場所ばしょにずっといて、ともかく、理由りゆうなどなにもなくひとはできたりできなかったりするものであり、それは、それ以下いかでもないしそれ以上いじょうでもないということを、そこにいたひとたちはっていたとおもう。学校がっこうという仕組しくみはそれとちがうところでうごいているのだが、そこにいるひとは、努力どりょくであるとか、そんなこともあまり関係かんけいがなく、あるものはあるとわかっていたとおもう。
 ただ他方たほうわたしは、学校がっこうとか学級がっきゅうという空間くうかんがだるいともおもってきた。ひとあつめてやっているのだから仕方しかたがないところはあるとおもいながらも、みんないっしょというのは退屈たいくつだった。中学校ちゅうがっこうときだと小説しょうせつむとか、高校こうこうのときだとべつ科目かもくのことをしているとか、だいたいべつのことしていたり、ていたりした。それに文句もんくわれないのであれば、そしてどこの学校がっこうでもそうだとおもうが、高校生こうこうせいになって、学年がくねんがっていくにつれて、「内職ないしょく」についてはとやかくわれなくなってくるから、それはそれでなんとかはなったのだが、なんかもうすこしましなやりかたはないのかということもおもっていた。
 こうして、いろいろなひとがいたほうがよいというおもいと、ひとあつめてひとところというのはだるいなというおもいと、両方りょうほうがあったのだ。そして、大学だいがくった。
 大学だいがくったら、そこのおおくの学生がくせいはいわゆる進学校しんがくこう出身しゅっしんひとだった。もちろんあまりめつけてしまうのはよろしくないのであって、いろいろなひとがいたのではある。また、わたしがいたのは文学部ぶんがくぶだったので、法学部ほうがくぶとか経済けいざいがくくらべればいくらか主流しゅりゅうはずれているところもあった。ただ、やはり、おおざっぱにいうと、このひとたちは「かたよっている」ようにおもえた。なかにはいろいろなひとがいることを、もちろんわかってはいるようなのだが、そのわかりかたがなにか抽象ちゅうしょうてきであるようにおもった。そしてみずからについても、実際じっさいにはそう利口りこうではないのに利口りこうだとおもっているか、おもいたいひとたちがいるようであった。それははたからとき<0036<にも、あまりおもしろくない感じがした。それはよくないことだと思った。それは、「共学派」への支持を強めることになったはずだ。

変革へんかく、は無理むりそうだったこと
 とはいえ、ではどうしよう、となるとよくかわらない。そんなかんじだった。そのころ東京大学とうきょうだいがくができてひゃくねんちましたということで、おいをしましょうというできごとがあったのだが、なかに、いったいそれはそんなにほめられたことであるのかとったひとたちがいて、それをいいだしたのは、わたしたちよりすこしうえの「こちらがわ陣営じんえい」のひとたちだった。そんなことをって、そしてそのうちいくつか事件じけんのようなものがこって、だれがやったとか、処分しょぶんがどうとか、といったことがあり、それでまたひともめ、といったような具合ぐあいだった。
 わたしも、たしかにそうほめられたものではないとおもったから、「解体かいたい」もいいかもとおもったところはあった。ただ、それもってみるだけ、というかんじはあった。そしてそれは、教育きょういく学校がっこう大学だいがくというだけですむはなしでもない。さてさて、となかなかすっきりしない。自分じぶんたち自身じしんがすっきりしないということもあり、またそと人々ひとびとにもけてないというか相手あいてにされていないというか、そのことをわかってはいた。そうまじめにおもめてやっていたのではないから、そう深刻しんこくであったわけでもないのだが、基本きほんてきあかるくはなかった。
 そういう方面ほうめんわたしと、勉強べんきょう方面ほうめんわたしは、わたし場合ばあい――とくによいことだとはおもわないが――一致いっちしていて、卒業そつぎょう論文ろんぶんというのも「能力のうりょく主義しゅぎ」をどうかんがえるかといった主題しゅだいのものだったはずで、それはそれでまとまったはなしにはなったが、このままだとあまりさきがないかんじがした。
 そのころ影響えいきょうけていたのは、前回ぜんかいもすこしてきた見田みたはじめかい真木まきゆうかいろんだった。またもう一人ひとりおな駒場こまばのキャンパスにいたこうまつわたるという哲学てつがくしゃろんだった。それは、ごくみじかくすると、分業ぶんぎょう固定こていによって、人々ひとびと共同きょうどうせいきょうはたらけせい不可視ふかしのものになり、個々人ここじん能力のうりょく一人ひとりひとりのものとおもわれるようになって、そして…、というすじはなしだった。それはそれなりにすじかよっているはなしではあるし、そんな現実げんじつ存在そんざいすることもたしかなことであるともおもった。ただ、まずひとつ、それでどうするのさ、というかんじがやはりのこる。
 それにこたえがまるで用意よういされていないわけではないのだが、ただ、実際じっさいうまくいくかとなるとどうなのかなというかんじがしたのである。さきのはなしは、結局けっきょく社会しゃかいのありかたひと意識いしき規定きていするというはなしである。となると、社会しゃかいわらないとひとわらないことになるのだが、では社会しゃかいはどうやったらわるのかというはなしになって、そこでまりになってしまいそうにおもえるのだ。それにたいして、廣松ひろまつというひと――にかぎらないのだが――のろんは、これも乱暴らんぼうにまとめると、多数決たすうけつなんていうかったるいことをやっていたらそれはたしかにわらないだろうと、だからそういうのはあきらめて、とにかく乱暴らんぼうでもえてしまおう、社会しゃかいがいったんわってしまったら、ひと意識いしきはそれにつれてわるからあとはうまくいくだろう、というものだった。
 これもすじかよっている。そして、その当時とうじにあった「しん左翼さよく」の運動うんどうというのも、だいたいそういう発想はっそうのものだった。けれど、なにかがんばればどうかなるというようなかんじはどうにもしないわけだった。普通ふつうかんがえたらはないことはあきらかだった。それでたぶんわたし(たち)は、一方いっぽうではそういうすじはなしんだり自分じぶんでもいたりしつつも、まあ無理むりだろうね、というかんじで、でもいろいろとにくわないことはあるから、そのひとつひとつについて、まけ<0037<ける確率が高いにしても、まあやれるところまでやってみようか、当面それ以外やりようがないわけだし、とか、そんな感じだったと思うのだ。

もうすこかんがえていようとおもったこと
 ただそれでも、なんかもうすこしかんがえようというものはあるのではないか。だからさらに学問がくもんをしよう、というほどすっきりしたすじはなしではないのだが、就職しゅうしょく活動かつどうをすることはしなかった。ほんのすこし、報道ほうどうとか出版しゅっぱんとか、そんなところはどうかなともすこしおもいはしたが、ひとのことをいたり、ひとかせるよりは自分じぶんほうがよいようにおもった。
 大学院だいがくいんくことになった。大学院生だいがくいんせい自治じちかいというのもあったけれども、それは基本きほんてき大学院生だいがくいんせいとしての自分じぶんたちの要求ようきゅうをいくらかみとめてもらうというぐらいもので、どうというほどのものではなかった。当時とうじ大学院だいがくいんというのは、ねんいて修士しゅうし論文ろんぶんというのが重視じゅうしされていた。アルバイトをして、ほんやら論文ろんぶんやらををあつめてんで、ということでだいたいぎた。それで論文ろんぶんをとにかくくにはいてしたのだが、それはできのわるいものなので、どうでもよいとしよう。「学問がくもんてき」には、どこがどううまくいかなかったのかということも意味いみのないことではないかもしれないが、それはここではよい。
 そして、とにかく博士はかせ課程かていにあがった。そして、「自立じりつ生活せいかつ」についての調査ちょうさをすることになった。そのことについてまたくことがあったらそのときに、ということにしよう。
 では、学校がっこうほうはどうなったのか。わたしは、その博士はかせ課程かていはいってからじゅうねんって、私的してき所有しょゆうろんというほんしてもらうことになった(いちきゅうななななねん、勁草書房しょぼう)。そのだいしょう能力のうりょく主義しゅぎ否定ひていする能力のうりょく主義しゅぎ肯定こうてい」5せつ結論けつろん応用おうよう問題もんだいへの回答かいとうけない問題もんだい」の2として「他者たしゃがあることの経験けいけん――たとえば学校がっこうについて」というところがある。この部分ぶぶんんだことがあるひとがいるというはなしいたことがない。つまりだれんでいないとおもう。だが、いたことはいた。この部分ぶぶんわっていない。それでもいくつかのことをいた。たとえばつぎのようなことがいてある。

 「αあるふぁβべーたふたつある。βべーた全体ぜんたいからαあるふぁいたのこりである。経験けいけんまなぶ(べき)ことのなかで、αあるふぁ独立どくりつ獲得かくとくされうる部分ぶぶんである。αあるふぁ他者たしゃがあることの経験けいけん他者たしゃがいる社会しゃかいがあるという経験けいけんである。βべーた特定とくていの「教科きょうか」をさない。おな教科きょうかなかβべーたαあるふぁ存在そんざいする。またαあるふぁなかには、βべーたについて差異さいがあることの経験けいけんふくまれる。しかし、βべーたαあるふぁとは連続れんぞくてきではあるのだがわかれる。おしえられることのすべてが人間にんげん具体ぐたいせいかかわりと関係かんけいをもつはずだという主張しゅちょう否定ひていしうるとおもう。両者りょうしゃにはかなりみずあぶらてきなところがたしかにある。しかし、どちらか一方いっぽうだけというのはもっとつらい。両方りょうほうともてられない。てられないところからかんがえていくしかないとおもう。
 学校がっこう生活せいかつだという主張しゅちょうは、βべーたとされている学校がっこうが、そのためになが時間じかんごす生活せいかつであることによってαあるふぁとなっており、ならば障害しょうがいふくめた生活せいかつとしてあるべきだという主張しゅちょうである。だれもがくことになっている学校がっこうというを、いわゆる「勉強べんきょう」とはべつ関係かんけい契機けいきとしようとする。
 これにたいして、学校がっこうというのはたかだかβべーたるための手段しゅだんではないか、そこに「生活せいかつ」を必要ひつようはないのではないかという主張しゅちょうもある。そしてこのような意見いけんは「勉強べんきょう」をなによりも大切たいせつなものとかんがえる人達ひとたちからだけわれるわけではない。学校がっこうがなんでもやろう<0038<としすぎてはいないか、それで学校が息苦しくなっているのではないかという見方からも出てくる。こういうことをどう考えたらよいのか。」(三五九−三六〇頁)
 「こん現在げんざいじんあつまる、ゆえにαあるふぁという契機けいきふくでは、隔離かくり禁止きんしする。しかし、そのが、たとえばβべーたという目的もくてきによって規定きていされるかぎり、どちらをどの程度ていど重視じゅうしするのかという問題もんだいのこる。これは当然とうぜんのことで、βべーたαあるふぁふたつをててしまったとき両者りょうしゃ完全かんぜん調和ちょうわする可能かのうせいのないことはえている。ただ、βべーた同時どうじαあるふぁ必要ひつようなものとしててるときβべーたにおける効率こうりつせいだけが計算けいさんされればよいというわけではなくなる。βべーたαあるふぁよりつね優先ゆうせんしなければならないとはえなくなる。ここで、排除はいじょしようとする理由りゆう説明せつめいし、納得なっとくもとめなければならないのは排除はいじょしようとするがわである。排除はいじょしないことがどれほどマイナスなのかを挙証きょしょうする責任せきにん排除はいじょしようとするがわにある。」(さんろくいちさんろくぺーじ

 こういうことをいているから、おまえはなしはよくわからないとわれるのかもしれない。しかし、そんなにややこしいことをいているわけではない。になっていることは、さきにいたことそのままである。とくに最初さいしょ引用いんようはそうだ。社会しゃかいひと様々さまざまいることを、具体ぐたいてきらねばならない。そしてそのなかで実際じっさいにやっていくのがよい。そうっている。これはどこでもきなところをえらべるという権利けんりからものをっていくいいかたとすこしちがう。その権利けんりはきっと大切たいせつではあるが、しかしそれは、自分じぶんたちだけがあつまってやっていくからひとたちはれないことをみとめることにもなりうる。
 ただもうひとつ、たかだか教育きょういく長々ながながとした生活せいかつであってしまっているというのもあまりにいらないというかんじがあって、それをどうかんがえたらよいかという疑問ぎもん最初さいしょ引用いんようしめされる。双方そうほうをいれてかんがえたらどうなるか。すこしかんがえてみたというわけだ。それは、そのほんのその箇所かしょでも完結かんけつはしていない。ただ、じゅうねんほどまえからってきたことについて、そのあたりにもらったことから、かんがえてみたことをいてみたということだ。<0039<

立岩たていわ しん也 2007/11/10 「もらったものについて・1」,『そよかぜのようにまちよう』75:32-36,
立岩たていわ しん也 2009/**/** 「もらったものについて・3」,『そよかぜのようにまちよう』77:

言及げんきゅう

稲場いなば 雅紀まさのり山田やまだ しん立岩たていわ しん也 2008/11/30 流儀りゅうぎ生活せいかつ書院しょいん


UP:20080601 REV:20080726
『そよかぜのようにまちよう』  ◇せい辿たどどうさぐる――身体しんたい×社会しゃかいアーカイブの構築こうちく  ◇病者びょうしゃ障害しょうがいしゃ運動うんどう研究けんきゅう  ◇障害しょうがいしゃ運動うんどうのための年表ねんぴょう
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