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立岩真也「人間の特別?・1」
■「安楽死」を巡るシンポジウムの後
この原稿を書いている二日前、十月二日、「尊厳死・安楽死研究会」――というべたな名前がついている――の人たちの企画で公開シンポジウム「生存学×医療の哲学×生命倫理学――安楽死を巡る学説の展望と課題」があった。初回に紹介したCOEの企画の一つでもあった。
この主題について書いた本が私には『良い死』『唯の生』(筑摩書房、二〇〇八・二〇〇九)と二冊あり、他にも文章があって、ずいぶんな量になってしまっているのだが、言いたいことの基本は単純で、それは『通販生活』のインタビューに答えた約二頁分の短い文章――『良い死』の冒頭に再録した――でほぼ尽きている。他の人たちがたくさん語られたので、私は、半ば主催者側の者だったということもあり、一〇分ほどでそこに書いたことを繰り返したにすぎない。その後討議があり、かみ合ったところもあったし、そうでないところもあった。そのうち報告書が出るだろうから、それをご覧いただければと思う。
むしろ私には、催しにはつきもののの懇親会で、お名前は存知あげていたが直にお会いするのは初めてという倫理学者の江口聡さんと少ししたやりとりの方が残った。(本番の催しより飲み屋での議論の方が有益なことは、ことのよしあしは別に、よくある。)話題になった一つは、人間は特別か、それは正しいか、だとしてなぜか、という主題である。
これは「生命倫理」といった領域の主題に関わると気にさせられてしまうことではあって、拙著『私的所有論』(勁草書房、一九九七)でも第5章「線引き問題という問題」の第3節「人間/非人間という境界」で、我ながらかなり苦し紛れというところはあったが、言ってみた。そして、それからだいぶ経って、私自身の考えは前進しないながら、ピーター・シンガーや
ヘルガ・クーゼといった人たちが、そしてそれとだいぶ異なる立場から加藤秀一加藤秀一がこの主題について議論しているので、それらを検討するという文章を書き、それは『唯の生』の第1章「人命の特別を言わず/言う」になった。
京都の仏光寺通烏丸東入ルというところにある「閻魔堂」という飲み屋で、江口聡さんから読んだけどわからなかったと言われ、突っ込まれたのは、その部分だった。江口さんの仕事の中心はシンガーやクーゼの議論の紹介や検討というところにはないが、基本的にその人たちの主張(の多く)は擁護されてよいと考えておられる。私のその二人についての批判がわからなかったと言われ、様々な人の様々な話題が同時進行する酒の場でもあったから、きちんとした議論ができたわけでもないのだが、すこし話をした。
■人間の特別を巡る議論の一つについて
ここでは、私の方から言えると思ったことを、整理して言ってみよう。
次のように進む話があるとしよう。(1)人々が人間を特別扱いしている、それはよいとする。そして、それは、たんに人は他よりも尊重されるべきであると主張するだけでは――その理由を言っていないのだから――不十分だと考えるとするなら、その理由を言うことになる。すると、(2)人間に(相対的に)特徴的に存在するものは知的能力だということになる。そしてそれが人間の――すぐ次に見るように人間に限らないかもしれないのだが――特権性を正当化する根拠だとされる。すると、(3)一方には(相当の)知的能力を有している生物は、類人猿であるとか、他にもいる。他方、人間の中にもそうした能力が低いと思われる人たちがいる。とすると、(4)前者は特別に扱われるべきだが(例えば殺してならない)が、後者はその必要がない(例えば殺してもよい)★01。
筋の通った話のようにも思える。だが私は、どうもこの話がおかしいと思ってその文章を書いた。しかし、江口さんはわからないとおっしゃる。そこで私がおかしいと思った、そのことをもうすこし考えて説明したらよいようにも思った。
この話は結局どういうことになるのだろう。一つに(1)の主張から(1)(の一部)を否定する議論が生ずるということである。理論を辿っていくと、当初想定してものと別のことが出てくることがあることは認めた上で、さて、すると結局、(1)は間違いだということになるか。
とすると一つに、間違った前提から出発した議論は、その結果についても間違っているということにならないか。つまり、(3)は事実として認めるとして、(1)そして/あるいは(2)そして/あるいは(4)が間違っている。とくに(4)が論者の主張したいことであるとして、その(4)そのものが違うということにならないか。
そういうことではないと江口さんは言われたと思う。人々は(1)のように思っているのだが、そこから出発しつつ、その思い違いに気がついて、違う立場、つまり(4)を支持するべきであるという主張を受け入れることになるのだ。そんなことを言われたように思う。
しかし、だとしても(1)が――「本当は」――間違っているという理解はやはりそれでよいはずだ。とすると、何が(4)を支持する理由になるか。(1)でなく、(3)は事実についての言明なのだから措くとして、(2)ということになる。その上で(3)の事実命題を経由して(4)が正当化される。そんな論理の運びのように、やはり、思われる。さてそれでよいか。私にはそうは思われない。そのことを説明しなければならない。そして、では代わりに自分はどう思うか、言わねばならないことになる。この話、次回に続く。
■掲載される文章にはない註
★01 もちろんここで知的能力と言われるものがどんなものであるのかという問いもある。さきにあげた人たちは、「功利主義」の立場に立つ人たちでもあり、「快苦」を重視する人たちである。だとするとそれは生物のかなりの範囲を殺してならないということになり、他方で、殺してならない人間はだいぶ少なくなるようにも思われる。ただ実際の議論は、とくに後者についてそのように進んでないように思われ、そこは不思議にも思われるのだが、私は、その人たちのよい読者ではないから、その辺がどうなっているのかはここでは略するとしよう。
◆Eguchi Satoshi's Homepage http://melisande.cs.kyoto-wu.ac.jp/eguchi/
◆立岩 真也 2010/10/02 「争いを期待する――御挨拶に代えて」,公開シンポジウム「生存学×医療の哲学×生命倫理学――安楽死を巡る学説の展望と課題」,於:京都府中小企業会館
◆http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/61803564.html
◆http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/61803570.html