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立岩真也「人間の特別?・1」
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人間にんげん特別とくべつ?・1

ただせいあたりに・8

立岩たていわ しん 2010/12/01 『月刊げっかん福祉ふくし』93-(2010-12):
全国ぜんこく社会しゃかい福祉ふくし協議きょうぎかい http://www.shakyo.or.jp/

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安楽あんらく」をめぐるシンポジウムののち

  この原稿げんこういているにちまえじゅうがつにち、「尊厳そんげん安楽あんらく研究けんきゅうかい」――というべたな名前なまえがついている――のひとたちの企画きかく公開こうかいシンポジウム「生存せいぞんがく×医療いりょう哲学てつがく×生命せいめい倫理りんりがく――安楽あんらくめぐ学説がくせつ展望てんぼう課題かだいがあった。初回しょかい紹介しょうかいしたCOEの企画きかくひとつでもあった。
  この主題しゅだいについていたほんわたしにはただせい筑摩書房ちくましょぼう〇〇はち〇〇きゅう)とさつあり、ほかにも文章ぶんしょうがあって、ずいぶんなりょうになってしまっているのだが、いたいことの基本きほん単純たんじゅんで、それは『通販生活つうはんせいかつ』のインタビューにこたえたやくぺーじぶんみじか文章ぶんしょう――『』の冒頭ぼうとうさいろくした――でほぼきている。ひとたちがたくさんかたられたので、わたしは、なか主催しゅさいしゃがわものだったということもあり、いちふんほどでそこにいたことをかえしたにすぎない。その討議とうぎがあり、かみったところもあったし、そうでないところもあった。そのうち報告ほうこくしょるだろうから、それをごらんいただければとおもう。
  むしろわたしには、もよおしにはつきもののの懇親こんしんかいで、お名前なまえ存知ぞんちあげていたがじかにおいするのははじめてという倫理りんり学者がくしゃ江口えぐちさとしさんとすこししたやりとりのほうのこった。(本番ほんばんもよおしよりでの議論ぎろんほう有益ゆうえきなことは、ことのよしあしはべつに、よくある。)話題わだいになったひとつは、人間にんげん特別とくべつか、それはただしいか、だとしてなぜか、という主題しゅだいである。
『唯の生』表紙   これは「生命せいめい倫理りんり」といった領域りょういき主題しゅだいかかわるとにさせられてしまうことではあって、拙著せっちょ私的してき所有しょゆうろん(勁草書房しょぼういちきゅうきゅうなな)でもだいしょう線引せんひ問題もんだいという問題もんだい」のだいせつ人間にんげん人間にんげんという境界きょうかい」で、わがながらかなりくるまぎれというところはあったが、ってみた。そして、それからだいぶって、わたし自身じしんかんがえは前進ぜんしんしないながら、ピーター・シンガーヘルガ・クーゼといったひとたちが、そしてそれとだいぶことなる立場たちばから加藤かとう秀一ひでかず加藤かとう秀一ひでかずがこの主題しゅだいについて議論ぎろんしているので、それらを検討けんとうするという文章ぶんしょうき、それは『ただせい』のだいしょう人命じんめい特別とくべつわず/う」になった。
  京都きょうとふつこうてらどおり烏丸からすまひがしにゅうルというところにある「閻魔えんまどう」というで、江口えぐちさとしさんからんだけどわからなかったとわれ、まれたのは、その部分ぶぶんだった。江口えぐちさんの仕事しごと中心ちゅうしんはシンガーやクーゼの議論ぎろん紹介しょうかい検討けんとうというところにはないが、基本きほんてきにそのひとたちの主張しゅちょう(のおおく)は擁護ようごされてよいとかんがえておられる。わたしのそのにんについての批判ひはんがわからなかったとわれ、様々さまざまひと様々さまざま話題わだい同時どうじ進行しんこうするさけでもあったから、きちんとした議論ぎろんができたわけでもないのだが、すこしはなしをした。

人間にんげん特別とくべつめぐ議論ぎろんひとつについて

  ここでは、わたしほうからえるとおもったことを、整理せいりしてってみよう。
  つぎのようにすすはなしがあるとしよう。(1)人々ひとびと人間にんげん特別とくべつあつかいしている、それはよいとする。そして、それは、たんにひとよりも尊重そんちょうされるべきであると主張しゅちょうするだけでは――その理由りゆうっていないのだから――不十分ふじゅうぶんだとかんがえるとするなら、その理由りゆううことになる。すると、(2)人間にんげんに(相対そうたいてきに)特徴とくちょうてき存在そんざいするものは知的ちてき能力のうりょくだということになる。そしてそれが人間にんげんの――すぐつぎるように人間にんげんかぎらないかもしれないのだが――特権とっけんせい正当せいとうする根拠こんきょだとされる。すると、(3)一方いっぽうには(相当そうとうの)知的ちてき能力のうりょくゆうしている生物せいぶつは、類人猿るいじんえんであるとか、ほかにもいる。他方たほう人間にんげんなかにもそうした能力のうりょくひくいとおもわれるひとたちがいる。とすると、(4)前者ぜんしゃ特別とくべつあつかわれるべきだが(たとえばころしてならない)が、後者こうしゃはその必要ひつようがない(たとえばころしてもよい)★01
  すじとおったはなしのようにもおもえる。だがわたしは、どうもこのはなしがおかしいとおもってその文章ぶんしょういた。しかし、江口えぐちさんはわからないとおっしゃる。そこでわたしがおかしいとおもった、そのことをもうすこしかんがえて説明せつめいしたらよいようにもおもった。
  このはなし結局けっきょくどういうことになるのだろう。ひとつに(1)の主張しゅちょうから(1)(の一部いちぶ)を否定ひていする議論ぎろんしょうずるということである。理論りろん辿たどっていくと、当初とうしょ想定そうていしてものとべつのことがてくることがあることはみとめたうえで、さて、すると結局けっきょく、(1)は間違まちがいだということになるか。
  とするとひとつに、間違まちがった前提ぜんていから出発しゅっぱつした議論ぎろんは、その結果けっかについても間違まちがっているということにならないか。つまり、(3)は事実じじつとしてみとめるとして、(1)そして/あるいは(2)そして/あるいは(4)が間違まちがっている。とくに(4)が論者ろんしゃ主張しゅちょうしたいことであるとして、その(4)そのものがちがうということにならないか。
  そういうことではないと江口えぐちさんはわれたとおもう。人々ひとびとは(1)のようにおもっているのだが、そこから出発しゅっぱつしつつ、そのおもちがいにがついて、ちが立場たちば、つまり(4)を支持しじするべきであるという主張しゅちょうれることになるのだ。そんなことをわれたようにおもう。
  しかし、だとしても(1)が――「本当ほんとうは」――間違まちがっているという理解りかいはやはりそれでよいはずだ。とすると、なにが(4)を支持しじする理由りゆうになるか。(1)でなく、(3)は事実じじつについての言明げんめいなのだからくとして、(2)ということになる。そのうえで(3)の事実じじつ命題めいだい経由けいゆして(4)が正当せいとうされる。そんな論理ろんりはこびのように、やはり、おもわれる。さてそれでよいか。わたしにはそうはおもわれない。そのことを説明せつめいしなければならない。そして、ではわりに自分じぶんはどうおもうか、わねばならないことになる。このはなし次回じかいつづく。


掲載けいさいされる文章ぶんしょうにはない註

★01 もちろんここで知的ちてき能力のうりょくわれるものがどんなものであるのかといういもある。さきにあげたひとたちは、「功利こうり主義しゅぎ」の立場たちばひとたちでもあり、「かい」を重視じゅうしするひとたちである。だとするとそれは生物せいぶつのかなりの範囲はんいころしてならないということになり、他方たほうで、ころしてならない人間にんげんはだいぶすくなくなるようにもおもわれる。ただ実際じっさい議論ぎろんは、とくに後者こうしゃについてそのようにすすんでないようにおもわれ、そこは不思議ふしぎにもおもわれるのだが、わたしは、そのひとたちのよい読者どくしゃではないから、そのあたりがどうなっているのかはここではりゃくするとしよう。

◆Eguchi Satoshi's Homepage http://melisande.cs.kyoto-wu.ac.jp/eguchi/

立岩たていわ しん也 2010/10/02 あらそいを期待きたいする――挨拶あいさつえて」公開こうかいシンポジウム「生存せいぞんがく×医療いりょう哲学てつがく×生命せいめい倫理りんりがく――安楽あんらくめぐ学説がくせつ展望てんぼう課題かだい,於:京都きょうと中小ちゅうしょう企業きぎょう会館かいかん

http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/61803564.html
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/61803570.html


UP:20101104 REV:
立岩たていわ しん  ◇Shin'ya Tateiwa
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