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立岩真也「人間の特別?・3」
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人間にんげん特別とくべつ?・3

ただせいあたりに・10

立岩たていわ しん 2011/02/01 『月刊げっかん福祉ふくし』93-(2011-2):
全国ぜんこく社会しゃかい福祉ふくし協議きょうぎかい http://www.shakyo.or.jp/

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ころすこと

 ころす(ころしてべる)がひところさないことに、すくなくともまえとしてはなっている。どうしてか、それでよいのかといういについて。まず前者ぜんしゃ、つまりころすことについて。『ただせい』(〇〇きゅう筑摩書房ちくましょぼう)にいたこと、前回ぜんかいみじかべたことにすこ言葉ことばそう。
 まず殺生せっしょうをしないことは自己じこ否定ひていてきおこないである。殺生せっしょうをしないことは、かなりの程度ていどできる。だが植物しょくぶつるいふくめれば、きているかぎりは殺生せっしょうをしている。
 それでも、それをわざとやめることはできる。しかしそれは、そのひとえさせてしまい、結果けっかころすことになる。ころさないことが目的もくてきだとして、それを否定ひていすることになる。それでもかまわないとうこともできるかもしれない。ただ、それをひとひとおしえて、そうするように仕向しむけ、それが実際じっさいおこなわれるなら、それはそのひところすことになるだろう。その意味いみでは、これは――極端きょくたんすすめ、他者たしゃたちにもおよぼすものとするなら――その倫理りんりみずからを否定ひていする倫理りんりである。
 ただ、人工じんこう栄養えいようるいで、生物せいぶつ一切いっさいころすことがなくなる可能かのうせいはあるとしよう。だから、そういう信仰しんこうをもっているひときられることはあるとしよう。
 だがそれにしても、そんなことをかんがえるのは人間にんげんなかでも一部いちぶだ。そんなことをかんがえもせず、毎日まいにちころしてべているひとたちはたくさんいる。その反対はんたいのことをかんがえついて、おこなひとは――すくなくともこれまでは――特別とくべつひとたちだ。そうしてひとたちがずっとやってきたことをいけないことだと、あたらしい原理げんりをもってきてえるのだろうかという疑問ぎもんはまずある。
 ただそれは、そのあたらしい原理げんり主張しゅちょうするひとたちによって、それを否定ひていする根拠こんきょにはならないとされるだろう。それはみとめるとしよう。ただひとつ、それがずいぶん「特権とっけんてき」なことであるとはえる。それはさきべたように、一部いちぶ人間にんげんおもいつくようなことであるという意味いみでもそうだが、さらにここでは生物せいぶつたちはここではかんがえにいれられていない。

人間にんげん特別とくべつ特別とくべつ人間にんげん

 それはまずに、そんなことをかんがえるのは人間にんげんだけだということだ。そしてつぎに、そんなことをかんがえたことのない動物どうぶつたちに(たとえば苦痛くつうかんじるだろう種類しゅるい動物どうぶつ捕獲ほかくかぎって)殺生せっしょうをやめさせようとしたとして、それは人間にんげんがわはっするおこないである。もちろんどうしておこなうのかということもある。たとえばすべてのそうした「危険きけんな」動物どうぶつつかまえ、人工じんこうえさあたえる、そして、それではかずえてしまうなはら、やはりらえて産児さんじ制限せいげんをするいったことを、冗談じょうだんのようではあるが、うことはできる。
 ただ、この主張しゅちょうをするひとたちはたぶんそんなことをかんがえておらず、かんがえたこともなく、人間にんげんたち(しかも実際じっさいにはその一部いちぶ)だけにこの倫理りんり遵守じゅんしゅをにもとめるのだろう。しかし他方たほう今度こんどは、こうして人間にんげんだけにかぎったことにするというてんで、これは人間にんげん特権とっけんしたおこないであり、この意味いみ十分じゅうぶんに「人間にんげん中心ちゅうしん主義しゅぎてき」な倫理りんりである。そしてそのうえで、かえせば、そしてそのようなことをおもいつかないひとたちはおろかであるということになり、殺生せっしょう実践じっせんかかわるひとたちは――この倫理りんり主唱しゅしょうしゃたち(のなか寛容かんようひとたち)はそのひとたちを寛容かんようしんをもってもとするだろうが――下等かとうひとであるともされてしまう。こうしてそれは人間にんげんなかにも序列じょれつ事実じじつじょうみとめる倫理りんりでもある。
 以前いぜんいたように、こうした倫理りんりかたひとたちは、あらかじめ、ほぼ無意識むいしきてきに――いまべた意味いみで――人間にんげん中心ちゅうしん主義しゅぎてきであるから、以上いじょうのようなことをわれてもこたえない、というか、ぴんとこないはずである。たとえばキリスト教きりすときょうてき世界せかいかんでは、人間にんげん特別とくべつ上級じょうきゅう造物ぞうぶつかみによってつくられた存在そんざい)であって、そこから、人間にんげん支配しはい使役しえきしたりすることも当然とうぜんとされることにもなるのだが、他方たほうで、いまてきたような人間にんげん中心ちゅうしんてきでないとしながら人間にんげん中心ちゅうしんてきな「動物どうぶつ生物せいぶつ愛護あいご」の主張しゅちょうてくることになる。

べつかんかた

 ただこんな発想はっそうをするひとたちがいることをみとめながら、わたしは、以上いじょうしるしたことを認識にんしきしたうえかんがえないといけないようにおもう。かんがえるとどうなるのか。よくわからない。ただ、つぎのようなことがかんがえられてきた、おもわれてきたのだとおもう。
 殺生せっしょうはたしかによくない。とくに――動物どうぶつ愛護あいごろんしゃがよくうように――苦痛くつうあたえることはよくない。そして、よくないとおもってしまうような存在そんざいとして人間にんげんがいてしまう。そして、そのことをなにか特別とくべつによいことであるとはおもわない、仕方しかたなくそんなことをおもってもしまうような存在そんざいとして自分じぶんたちがいるとおもう。このような意味いみで、殺生せっしょうしてしまう(ことをよくはないと自覚じかくし、しかしそれをめることもしない)自分じぶんたちが「罪人ざいにん」であるとまではわないまでも、なにか否定ひていてき存在そんざいであることをっている。
 ではここからは、「仕方しかたがない」という、ただそれだけがみちびかれることになるのだろうか。あるいは、来世らいせであったり極楽ごくらくであったりするものにおけるすくいをもとめるということになるのか。
 それだけのことではないようにわたしおもう。ただそれはまだうまくえないし、そもそもえることなのかもわからない。ただまずひとつ、今回こんかいべたようなこと、「愛護あいご」の主張しゅちょう身勝手みがってでなさそうでそうでもないことはえるようにおもう。まずはそれぐらいだ。ではもうひとつ、「ひところさない」ことについて。さらにわからないのだが、次回じかいに。


UP:20110116 REV:
立岩たていわ しん  ◇Shin'ya Tateiwa
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