ベートーヴェン、謎なぞに包つつまれた“空白くうはくの10年ねん”…『第だい九きゅう』は欧州おうしゅうを揺ゆるがす危険きけん思想しそうだった？

　今年ことしはベートーヴェン生誕せいたん250周年しゅうねんの記念きねんすべき年としでした。世界中せかいじゅうのオーケストラをはじめ多おおくの音楽家おんがくかたちが今年ことしのベートーヴェン・イヤーに備そなえていただけでなく、ベートーヴェン・ファンも楽たのしみにしていたわけですが、新型しんがたコロナウイルスの影響えいきょうにより昨年さくねんの今頃いまごろには予想よそうもしていなかった状況じょうきょうになってしまいました。

　世界せかいでは、まだまだ自由じゆうにコンサートを開催かいさいできない国々くにぐにも多おおくありますが、日本にっぽんでは夏なつの前まえくらいから徐々じょじょに演奏えんそうを再開さいかいしており、現在げんざいは多おおくのオーケストラが感染かんせん対策たいさくを万全ばんぜんにしながら演奏えんそうを繰くり広ひろげています。しかし残念ざんねんなことに、毎年まいとし12月がつに盛さかんに演奏えんそうされているはずの『第だい九きゅう』に関かんしては、キャンセルやプログラム変更へんこうするケースが多おおくなっています。これには、日本にっぽんの『第だい九きゅう』の特殊とくしゅな事情じじょうがあるのです。

　まずは、原則げんそく的てきにプロのオーケストラでは、どんなに上手じょうずに演奏えんそうできても、アマチュア演奏えんそう家かが参加さんかできないのです。たとえば、「普段ふだんは会社かいしゃ員いんだけど、フルートが普通ふつうのプロ以上いじょうにうまいから、週末しゅうまつにはオーケストラのエキストラをして副ふく収入しゅうにゅうを得えている」という奏者そうしゃはいないでしょう。

　ところが、例外れいがいはあります。それは合唱がっしょう団だんです。演奏えんそう機会きかいが多おおい大都市だいとし圏けんはともかく、合唱がっしょうの仕事しごとだけでは食たべていけないので、日本にっぽんではプロの合唱がっしょう団だんは片手かたてで数かぞえられるくらいしかありません。そのため、特とくに地方ちほうのプロ・オーケストラは、『第だい九きゅう』のように合唱がっしょう団だんが必要ひつような曲きょくを演奏えんそうする場合ばあい、アマチュア合唱がっしょう団だんと一緒いっしょにステージに立たち、入場にゅうじょう料りょうを取とって、プロの演奏えんそう会かいとして成立せいりつさせています。日本にっぽんのアマチュア合唱がっしょう団だんのレベルが相当そうとう高たかいこともその理由りゆうのひとつですが、今年ことしの状況じょうきょう下かでは、このやり方かたが問題もんだいとなってしまいました。

　プロの合唱がっしょう団だんとは違ちがい、アマチュアは9月がつ頃ごろから毎週まいしゅう、リハーサルに通かよいながら合唱がっしょう指導しどう者しゃにしごき抜ぬかれて、12月の本番ほんばんを迎むかえます。しかし今年ことし前半ぜんはんは、今後こんごの状況じょうきょうがまったく見みえなかったためにリハーサルが早々そうそうと中止ちゅうしされ、12月の『第だい九きゅう』演奏えんそう会かい自体じたいがキャンセルになってしまったのです。

　もちろん、すべてが中止ちゅうしとなったわけではなく、例たとえばプロの合唱がっしょう団だんとの共演きょうえんをしたりして『第だい九きゅう』を演奏えんそうしているオーケストラは多数たすうありますので、インターネット等とうでお探さがしください。

ベートーヴェンが『第だい九きゅう』に込こめた“少すこし危険きけんな”メッセージ

　残念ざんねんながら、今年ことしは『第だい九きゅう』の生なま演奏えんそうを聴きく機会きかいが減へっているので、代かわりにというわけではありませんが、『第だい九きゅう』に込こめられたベートーヴェンの“少すこし危険きけんな”メッセージをお教おしえしようと思おもいます。

　『第だい九きゅう』が初演しょえんされたのは1824年ねんですが、その数すう年ねん前まえから中南米ちゅうなんべいのペルーやメキシコがスペインから、ブラジルがポルトガルから、相次あいついで独立どくりつしていました。前年ぜんねんの1823年ねんには、とうとうアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくのモンロー大統領だいとうりょうが、アメリカ大陸あめりかたいりくとヨーロッパ大陸たいりく間あいだの相互そうご不干渉ふかんしょうを提唱ていしょうするに及およんだことは、これまで植民しょくみん地ちから多おおくの富とみを得えていた欧米おうべい諸国しょこくとっては、大おおきな出来事できごとだったはずです。

　それには伏線ふくせんがありました。それはフランス革命かくめいの英雄えいゆうナポレオンの台頭たいとうです。彼かれによって、ヨーロッパ全土ぜんどにまき散ちらされた自由じゆう主義しゅぎは、それまで貴族きぞく階級かいきゅうも特権とっけんを謳歌おうかしていた王侯おうこう貴族きぞくの存在そんざいをなくしかねない危険きけん思想しそうでした。

　その後ご、あえなくナポレオンが失脚しっきゃくしてしまったことにより、富とみを搾取さくしゅしていた植民しょくみん地ちの独立どくりつを後押あとおししかねないナショナリズムも含ふくめて、自由じゆう主義しゅぎが一旦いったん収おさまりを見みせたことは王侯おうこう貴族きぞくたちを安堵あんどさせました。そして1814年ねんから翌年よくねんにかけて、フランス以外いがいの国々くにぐにの参加さんかによって行おこなわれたウィーン会議かいぎにて、オーストリアの宰相さいしょうメッテルニヒの中心ちゅうしん的てきな尽力じんりょくにより、これまでの王侯おうこう貴族きぞくによる旧きゅう体制たいせいを維持いじするウィーン体制たいせいが決きめられたのです。。『第だい九きゅう』初演しょえんの9年ねん前まえのことでした。

　そんな最中さいちゅうのウィーンで『第だい九きゅう』を初演しょえんすれば、ベートーヴェンは警察けいさつの尋問じんもんを受うけるだけでなく、一いち歩ほ間違まちがえば、政治せいじ犯はんとして収監しゅうかんされてもおかしくなかったかもしれません。

　一番いちばんの問題もんだいは、ベートーヴェンの音楽おんがくではなく『第だい九きゅう』に使つかわれている歌詞かしでした。そこには、何なん度ども「人類じんるいみんな兄弟きょうだい」という言葉ことばが出でてきますが、当時とうじはこれが非常ひじょうに危あぶない自由じゆう主義しゅぎ的てきな言葉ことばでした。“人類じんるいみんな”の中なかには、貴族きぞく階級かいきゅうや一般いっぱん民衆みんしゅうだけでなく、搾取さくしゅをし続つづけているアジアやアメリカ大陸あめりかたいりくの人々ひとびとまで含ふくまれるため、ウィーン体制たいせい下か、しかも、宰相さいしょうメッテルニヒのおひざ元もとでもあるウィーンで初演しょえんすること自体じたい、政府せいふに対たいする挑戦ちょうせんとなります。

　『第だい九きゅう』の歌詞かし自体じたい、もともとはドイツの啓蒙けいもう思想家しそうかシラーが書かいた「自由じゆう賛歌さんか」を、フランス革命かくめい直後ちょくご、ドイツの自由じゆう主義しゅぎ者しゃの学生がくせいが、フランス国歌こっかのメロディーに合あわせて歌うたっていたものなので、これ自体じたい、明あきらかに貴族きぞく階級かいきゅうにとっては危険きけんな自由じゆう思想しそうでした。ちなみに、ベートーヴェン交響こうきょう曲きょく第だい9番ばんで一番いちばん有名ゆうめいなメロディーで歌うたい始はじめられる「歓喜かんき」という言葉ことばも、もともとは「自由じゆう」という暗黙あんもくの意味いみが隠かくされていたそうです。

「歓喜かんき！美うつくしい神かみの炎ほのおよ」（原文げんぶん）

「自由じゆう！美うつくしい神かみの炎ほのおよ」（”自由じゆう“に置おき換かえたもの）

　こうしてみると、まったく意味いみが変かわります。しかも、ベートーヴェンはシラーの原作げんさくにはない、こんな言葉ことばを付つけ足たしています。これは、最初さいしょにバリトン歌手かしゅによって歌うたわれます。

「友ともよ！こんな調しらべではなく、もっと心地ここちの良よいものを歌うたおう、もっと喜よろこびに満みち溢あふれるものを」

　“喜よろこび”という言葉ことばは、わかる人ひとにとっては“自由じゆう”となります。“こんな調しらべではなく”は、ウィーン体制たいせいの否定ひていと思おもえなくもありません。ウィーン会議かいぎの真まっ最中さいちゅうの頃ころに『第だい九きゅう』を初演しょえんしていたとしたら、その後ごのベートーヴェンの余生よせいは政治せいじ犯はんが入はいる暗くらい牢獄ろうごくの中なかだったかもしれないと思おもいます。

ベートーヴェン、謎なぞに包つつまれた空白くうはくの10年間ねんかん

　本ほん連載れんさい記事きじ『貧困ひんこんイメージの強つよいベートーヴェン、実じつは莫大ばくだいな遺産いさんを残のこしていた』で書かいたように、貧乏びんぼうに苦くるしんだイメージが強つよく、実際じっさいに質素しっそな生活せいかつをしていたベートーヴェンでしたが、実じつは膨大ぼうだいな遺産いさんを残のこしていました。そこからわかるように、ベートーヴェンには経済けいざい的てきセンスがありました。しかも、それだけでなく、政治せいじ的てきセンスもあったのかもしれません。

　ベートーヴェンは1815年ねんあたりから『第だい九きゅう』の作曲さっきょくを始はじめています。しかし、これまでは矢継やつぎ早ばやに交響曲こうきょうきょくを作曲さっきょくしていたベートーヴェンが、完成かんせいに9年間ねんかんもかかっていることは不思議ふしぎです。しかも、前まえに交響曲こうきょうきょくを初演しょえんしてから10年間ねんかん、新あたらしい交響曲こうきょうきょくを発表はっぴょうしなかった理由りゆうは謎なぞに包つつまれているのです。

　ベートーヴェンは、中南米ちゅうなんべいの国々くにぐにの独立どくりつやアメリカのヨーロッパとの決別けつべつ宣言せんげんが出でてくるような時期じき、ウィーン体制たいせいが弱よわくなるのを待まって、1824年ねんに『第だい九きゅう』を完成かんせいさせて初演しょえんしたのかもしれません。それでも、ベートーヴェンの自由じゆう主義しゅぎを訴うったえる気持きもちは、後世こうせいの我々われわれにも強つよく感かんじさせます。

『第だい九きゅう』が、人類じんるいに与あたえられた偉大いだいな芸術げいじゅつということに違ちがいはありません。僕ぼくが、「最後さいごに指揮しきをしたい曲きょくを選えらべ」といわれたら、迷まよいなく『第だい九きゅう』を選えらぶでしょう。自由じゆうという、人間にんげんとして当然とうぜんの権利けんりを、強つよい意思いしで音楽おんがく表現ひょうげんしたベートーヴェン。『第だい九きゅう』を聴きくたびに大おおきな力ちからを与あたえてくれるのは、こういうところに理由りゆうがあるのかもしれません。

（文ぶん＝篠崎しのざき靖男やすお／指揮しき者しゃ）