電柱でんちゅうたおかた数時間すうじかんはな
壮絶そうぜつすぎるコントづくりの現場げんば

 清水しみずがデビューした番組ばんぐみでは、ドラマパートの合間あいまはさまれる、西田にしだ敏行としゆきたにあきらなどがえんじるショートコントを担当たんとうした。プロのコント作家さっかたちからおしえをけながら、コントづくりをまなんでいったという。

ビートたけし、ドリフのコント職人が「時代の終わり」を直感した2組の天才芸人とは?Comedian Kinichi Hagimoto:July 8, 2012 in Tokyo, Japan.  Photo:Sports Nippon/Getty Images

「この番組ばんぐみのギャラは、よくできた台本だいほんは1ほん5000えん。ちょっと手直てなおしが必要ひつようなら3000えん全然ぜんぜんダメなら0えんという条件じょうけん作家さっかくわわりました。1ねん年収ねんしゅうが22まんえんでしたから、そこそこ採用さいようされていたことになります。でも、ついさっきまで大学生だいがくせいだった素人しろうとですから、いくらみじかいコントとはいえ、毎週まいしゅうのようにはネタをつくれませんでした」

 そのなかで、先輩せんぱいからおそわったコントのつくかたの1つが、「電話でんわちょうむ」こと。喫茶店きっさてん電話でんわちょうをめくり色々いろいろ職業しょくぎょううつしながら、コントの設定せっていかんがえていく。そこには、萩本はぎもと欽一きんいちならではのコントづくりのヒントがかくされていた。

萩本はぎもとさんのコントは、“設定せっていみょう”が大事だいじなんです。AさんとBさんの関係かんけいせい面白おもしろさとか、このシチュエーションで出会であった2人ふたりとか、そういうところにわらいをもとめるのが特徴とくちょうでした。だから、電話でんわちょう電気でんきさんをのちに、お医者いしゃさんをみてパッと設定せっていおもくようなことがありましたね」

 この番組ばんぐみでコント作家さっかとしてのうでみがなかで、コントの王道おうどうともうべきザ・ドリフターズの番組ばんぐみかかわることになる。それが、フジテレビの看板かんばん番組ばんぐみ『ドリフだい爆笑ばくしょう』だった。

ビートたけし、ドリフのコント職人が「時代の終わり」を直感した2組の天才芸人とは?Ken Shimura performs as ballerina during The Drifter's New Year's Performance on January 2, 1977 in Tokyo, Japan.  Photo:Sports Nippon/Getty Images

「よくられていますが、ドリフの現場げんばはいかりや(長介ちょうすけ)さんが仕切しきっていまして、とにかく、会議かいぎながい。うーんってかんがんで、そのままちゃったり(笑)。コント台本だいほんたいするチェックもきびしくて、『だれだ、こんな医者いしゃコントをいたやつは!』って、なぜこの台本だいほんがいけないのかをとうとうとかたりながら、ご自身じしんなにかをおもかれたり。だから、この番組ばんぐみでの台本だいほんはたたきだいであって、ほとんどいかりやさんのアイデアがはいっていました」

 つね緊張きんちょうかんめる現場げんばでは、いかりや長介ちょうすけのコントにたいするこだわりが遺憾いかんなく発揮はっきされたという。

「ドリフのコントは、萩本はぎもとさんとはちがい“フリとオチ”のコントなんです。いかにして、フリの部分ぶぶんをシリアスに仕上しあげて、オチにかってドーンとひっくりかえすか。その緊張きんちょう緩和かんわつくすために、こまかいところまで徹底てっていしてつくむ。だから、どうやって演者えんじゃがコケるか、電柱でんちゅうをどっちにたおすかだけで、平気へいきで3あいだぐらい会議かいぎをしちゃうんですよ」

 萩本はぎもと欽一きんいちとドリフの両者りょうしゃから、「つくんだわらい」をたたまれた清水しみず。80年代ねんだい後半こうはんになると、(現在げんざいにもつづく)まったことなるコントづくりの現場げんばはいり、時代じだいうつわりをって体感たいかんしていく。

ビートたけし、ドリフのコント職人が「時代の終わり」を直感した2組の天才芸人とは?「ドリフだい爆笑ばくしょう」の前身ぜんしん、「8だョ!全員ぜんいん集合しゅうごう」の収録しゅうろく風景ふうけいひだりからいかりや長介ちょうすけ加藤茶かとうちゃ仲本なかもと工事こうじ高木たかぎブー、志村しむらけん(撮影さつえい1981ねん02がつ18にち) Photo:JIJI