シヨウグンとは、1963年生まれの日本の競走馬である。あくまでシヨウグンであり、ショウグンではない。(当時の規定では馬名に小文字が使えなかったため)ただし、読み方はショウグンで合っている。
その名の通り大物の片りんを見せていたが、いまいち大物になりきれなかった馬である。だがそれがいい。
主な勝ち鞍
1966年:スプリングステークス
大物の血統
父は皐月賞、ダービーの二冠を達成した顕彰馬トサミドリ、母ミゴレットはアイルランドから輸入された牝馬で、母の父は1948年の凱旋門賞を制したミゴリという良血であった。
大物登場
1965年の10月に中山の芝1200メートルでデビュー。このレースには名馬スピードシンボリも出走していたが、これを4着に下して勝利。いきなり大器の片りんを見せつけた。
明けて4歳(1966年)となり、2月に2戦目に出走したが、これは2着に終わる。続く3月に150万下ひなぎくSに出走。闘将加賀武見騎手から売出し中だった中野渡清一騎手に乗り換わったのが幸いしたのか、無事勝利。オープン馬の仲間入りを果たした。
重賞初出場となった次走のスプリングSでは、阪神3歳Sを制した関西の雄、ニホンピローエースを下して重賞初制覇を達成。中野渡騎手にとっても重賞初制覇であり、ますます大物の風格は高まった。
大物のクラシック
続く皐月賞、相棒中野渡騎手を背にしたシヨウグンははニホンピローエースを抑えて堂々の1番人気に推された。
レースはニホンピローエースが逃げを打ち、馬群の前方につけたシヨウグンが追う形となった。
シヨウグンは第4コーナーで馬群を抜け出し、トップで快足を飛ばすニホンピローエースをよく追ったものの、4分の1馬身届かず2着。勝ちきれないところを見せつけてしまった。
シヨウグンはダービーに直接向かわずにニホンピローエースとともにNHK杯に出走。またしても1番人気に押されたが、皐月賞未出走だった後の菊花賞馬、ナスノコトブキの前にまたしても2着。勝ちきれないところをまたしても見せてしまった。
それでもファンのシヨウグンへの期待は大きく、続く日本ダービーでも堂々の1番人気となった。
前走は4着だったニホンピローエースは距離不安がささやかれ2番人気。伏兵ナスノコトブキは3番人気となってダービーは幕を開けた。
だがレースは荒れに荒れ、好スタートを切った12番人気のテイトオーが直線で抜け出し、後続を4馬身離して圧勝。続く2着は18番人気のソロモンが入り、配当金は複連(当時馬連はなかった)で5160円という当時の最高記録となった。当時馬連があったとしたら10万馬券にはなっただろう。
ナスノコトブキは3着でこれに続いたが、シヨウグンは新馬戦で負かした27番人気のスピードシンボリに次ぐ9着に終わり、ファンの期待を完全に裏切ってしまった。
ちなみにニホンピローエースは20着。寺山修二はニホンピローエースに惚れ込み、単勝を10万円も買っていたという。\(^o^)/
大物その後
その後シヨウグンは7月に白百合Sに出走。ここでは1番人気に応えて勝利したものの、その後長い休養に入った。
明け6歳の夏に復帰。2戦したものの1番人気にも1着にもなれず、そのまま引退。種牡馬となった。
中野渡騎手はその後オークスを制したものの、牡馬クラシックは勝つ機会を得られなかった。最大のチャンスとしてマルゼンスキーの主戦騎手となったものの、持ち込み馬だったので結局出走できず、ついに牡馬クラシックを獲得できずに現役を引退した。
お父さんは大物
当時は内国産種牡馬冷遇の時代であった。名種牡馬トサミドリの産駒も例外ではなく、母系が良血のシヨウグンもあまり人気を集めることができず、生産頭数は少なかった。
だが、シヨウグンの産駒は意外に走った。地方競馬の活躍馬を多く輩出し、代表産駒のシヨウマリアは道営競馬で北海道三歳優駿を制覇して中央入りし、クラシック戦線で戦った。
母の父としても函館記念を勝ったヒガシマジョルカや愛知杯を勝ったウエスタンジヨージを輩出するなど、母の父としてもなかなか優秀で、大物ではないが、その割によく走る馬主孝行な馬を多く輩出している。
シヨウグンは大物か?
Wikipediaに項目がないあたり大物らしさは感じられないが、スピードシンボリを破り、皐月賞とダービーで一番人気になり、地味にいい産駒を出す。興味深いエピソードが多い実に味のある馬である。
大物ではないかもしれないがこういう味のある馬が筆者は大好きである。誰が何と言おうと好きである。好きなものは好きだからしょうがない!!
血統表
クロス:Blandford 3×5(15.63%)
主な産駒
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