「司馬伷/司馬チュウ」(シバチュウ 227 ~ 283)とは、三国志の勝利者「司馬懿」のポケモン「シバチュウ」・・・ではなく、息子である。
異母兄は司馬師と司馬昭。
字(あざな)は「子将」。
この記事の本来の表記は「司馬伷」ですが、「伷」の字が表記できないブラウザを考慮して、
「司馬チュウ」と記述する場合や「司馬伷(司馬チュウ)」と併記する場合があります。 |
正史では
司馬懿の第四子(第五子とも)として生まれる。
魏の時代には、兗州刺史そして征慮将軍に任じられ、若くして評判が高かったらしいのだが、皇帝の曹髦が専横する司馬一族に対して挙兵した際に軍を率いてあたるも、一喝されて退散したというヘタレエピソードが残っている。
甥の司馬炎が魏から禅譲をうけて皇帝に即位して晋王朝を建国すると東方の軍権を任され、揚州の石苞が謀反の疑いにより都に召還された際には、同母弟の司馬駿と共に石苞の監視役となった。
司馬炎の呉征伐では、孫皓が降伏を申し入れる相手となる等の功績をあげ、戦功により大将軍となったが、驕る事なく謙虚さを保ち、司馬氏の宗室の重鎮となった。
謙虚さゆえに民衆からも官僚からも人気の高かった司馬伷(司馬チュウ)が死の床に伏した際は、生母の伏夫人と同じ墓に葬ってほしいという願いと、四人の息子に所領を分割して相続させる事を願い出て許された。
しかし息子達のうち、司馬澹・司馬繇・司馬漼の三人は、晋王朝の滅亡のきっかけとも言われる八王の乱に関与し、司馬繇は司馬穎に殺され、司馬澹は石勒に殺される等、内ゲバによる司馬氏同士による血で血を洗う戦いを起こし、司馬伷(司馬チュウ)の孫にあたる司馬睿は東晋を建国する等、司馬氏自らにより司馬氏の栄光は崩れ去る事となった。
演義では
司馬炎の旗下の将軍として呉征伐に従軍し、正史と異なり自分の陣へ孫酷が降伏に訪れる事なく、同僚の王濬の元へと降伏に赴いた。
※その他「司馬伷(司馬チュウ)」の詳細についてはWikipediaの該当記事参照
関連動画
▼唐咨が連れてきた伊織軍の水軍担当として登場するiM@s架空戦記「美妓皇帝」
同時に水軍を任されることになった「唐彬」「王威」と3人ワンセットで扱われている。
「唐彬です!」
「司馬伷です!」
「王威です!」
関連データ
コーエーの三國志シリーズにおける司馬伷(司馬チュウ)の能力一覧。
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関連項目
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