肥前忠広(刀剣乱舞)とは、ブラウザゲーム『刀剣乱舞-ONLINE-』に登場する刀剣男士である。
イラストレーター:煮たか / CV:小松昌平
ああ、俺は人斬りの刀だよ。よーく分かってる
おれは肥前忠広。大業物と名高いが、元の主のせいですっかり人斬りの刀だよ。
折れても使い続けたってのは、物持ちが良かったんだか貧乏性だったんだか……
(刀帳)
岡田以蔵が使用していたとされる脇差。
粗暴で敵を斬ること以外興味のないように見えるが、
敵を斬ること以外に己の存在価値を見いだせずにいる、というのが真相。
めしは食う専門。
(公式Twitter)
刀種は脇差。
2019年4月24日からのイベント「特命調査 文久土佐藩」にて、南海太郎朝尊(刀剣乱舞)と共に実装。
初出は4月17日に公開されたムービーで、シルエットでの登場となった。
その後4月23日にチラ見せが入り、4月25日に情報解禁となった。
イベント開始直後に「入電」が入り、暗号化された通信により映像と音声が届く。指示された通りに播磨屋橋に向かうと「先行調査員」として姿を見せるが、この時は口元を赤い布で覆っていた。
直後に素性を明かし、以後は調査に同道。南海と合流し、高知城下を逃げ回るボスを捕まえる事となる。その後高知城に鎮座するボスを倒す事で、調査報酬として政府より贈られ、晴れて本丸の刀剣男士として参加する事となった。
一振目の入手後は、二周目以降の高知城最終ボスからのレアドロップ、もしくは10周・20周目の報酬として入手できる。一振だけならば無課金でも充分に手が届く為、お財布と相談の上でイベントを回すのが吉である。
赤みを帯びた蓬髪に鋭い目つきが特徴の青年。脇差の中では比較的年齢が高く見える。
戦装束は和装だがあちこち破れており、襟には返り血と思われる染みがついているなど、元主を想起させる剣呑なイメージを与える。また帯は革ベルトとなっており、ちょっぴり和洋折衷。首に巻いた包帯は、元主の最期や、かつて折れた事を彷彿とさせるが……。
内番は赤一色のパーカーで、素足でスニーカーの踵を履き潰している。
紋は岡田家の家紋「二手杵」に、武市家の「丸に柿の花」と坂本家の「組あい角に桔梗」の一部を組み合わせている。
見た目にたがわず、ぶっきらぼうかつ無気力な物言いが特徴。
「人斬りの刀」である事を自覚しており、審神者に対しても「俺に近づくな……斬るぞ」と容赦はない。
負傷しても「使えるうちは直して再利用するんだろ?」と嘯き、刀装や鍛刀でも面倒くささが先に立つ。
内番でも同様で、畑仕事では「めしは食う専門だよ、おれはよぉ」と宣言するなど、とことんブレない。
出陣すると「それじゃ、斬りに行くかねぇ」と呟き、戦場では敵を前に昂る事もなく「それじゃあ、斬るとするか」と、淡々と対峙。
一方で近侍にして放置していると「斬りたいわけじゃねえんだ……斬りたいわけじゃねえんだよ……誰も信じてくれねえだろうが」と呟き、公式Twitterでも言及されている通り、己の存在価値について懊悩している様子。
更に刀剣破壊時にはその本心を吐露しており、切ない内容となっている。
同郷の陸奥守吉行(刀剣乱舞)が特命調査に参加している場合、会話イベントが発生。また二振で出陣し、その後南海を加えた三振で出陣すると、回想が発生。
南海の事は「南海先生」、陸奥守の事は「陸奥守」と呼び、比較的南海に対しては態度が柔らかい。一方で陸奥守については呆れ半分、苛立ち半分といった様子で、陸奥守からは「しょうひねくれちゅう」「いらち」(せっかち)と評されている。
Lv20で特にランクアップ。
脇差の中では衝力と打撃がトップ、必殺が2位。統率はワーストとなっている。
要は史実を斬ればいいんだろう
安土桃山~江戸時代初期の刀工、肥前忠広(肥前忠吉)作の脇差。
岡田以蔵所持。
初代忠広は当初忠吉と称し、後に改名した。本名は橋本新左衛門。
橋本家は龍造寺氏に仕える武士だったが、天正12年(1584年)の沖田畷の戦いで祖父が戦死、更に父の病没により家は断絶。13歳の忠吉は同地に住まう刀工に養われ、鍛刀を学んだ。
その後慶長元年(1596年)に上京して埋忠明寿に師事。僅か三年で秘伝を伝授され、慶長3年(1598年)に佐賀藩に戻ると、鍋島勝茂に仕えて作刀を続けた。鍋島家の庇護を受けて門弟は100名を超え、最上大業物に数えられるなど、高く評価されている。
岡田以蔵が所持した脇差はこの初代忠広作で、元々は陸奥守吉行と共に坂本家に伝来していた。
これが以蔵の手に渡ったのは、馬が土佐藩を脱藩する際に姉・栄から龍馬に渡され、更に以蔵に渡されたとも、龍馬の兄・権平から龍馬に渡され、幾人かの手を経て以蔵の手に渡されたともされている。
しかしながらこの脇差は文久2年(1862年)閏8月20日の本間精一郎暗殺の際に物打ちから折れ、短刀として作り直された。異説では帽子が折れ、刀としては使い物にならなくなってしまったともされる。
その後も以蔵は土佐勤王党・武市半平太(瑞山)に示唆され、次々と「天誅」と称した暗殺を決行、後世に「人斬り以蔵」と呼ばれる事となる。しかし、彼がどの時期まで肥前忠広の脇差を所持していたかは定かではない。
土佐勤王党の壊滅、および以蔵の処刑後は人手を転々とし、昭和初期には東京・靖国神社の遊就館に展示されていたとされているが、現在は所在不明だという。
あぁ、あいつが関連動画か
ニコニコ市場に押し込みかけるわけでもあるまいし
関連コミュニティか? どーでもいいじゃねえか
終わった……関連項目はねえのか
-
ページ番号: 5561699
-
-
リビジョン番号: 2886894
-