東京大会組織委員会の会長代行を務めた遠藤利明氏は文部科学副大臣だった2007年、私的諮問機関に「『スポーツ立国』ニッポン」と題した報告書を作らせた。
五輪のメダルが「真の先進国『日本』のプレゼンスとアイデンティティーを高める」とうたった。2006年トリノ冬季五輪で金メダル一つの「惨敗」に終わったのが契機だ。
五輪メダルの多寡が、「国力」を測るバロメーター、という発想だ。
東京五輪の招致でスポーツ強化への国の予算は増えた。日本オリンピック委員会(JOC)は当初、東京で「金メダル30個、世界3位」と野心的な目標を掲げ、実際に金メダル27個で世界3位を確保した。
しかし、今後はどうか。日本の経済力が低下すれば、スポーツに回る予算も減る可能性がある。人口は1億2000万人台から、2070年には3割減ると予測される。
1964年東京五輪当時は東京都内の0~14歳の人口が65歳以上の5倍いたが、今は高齢者が約2倍だ。出生率は1.20。少子化の進行はアスリート年代の先細りを意味する。主催国の特権で予選免除の種目もあった東京大会のようなメダルラッシュは、望みにくい。
一方、日本経済が「失われた30年」と揶揄(やゆ)されたなか、野球の大谷翔平を代表格に、ゴルフの畑岡奈紗、松山英樹、テニスの錦織圭、バスケットボールの八村塁、サッカーの三笘薫ら世界で活躍する日本人が続々出た。そうした選手たちはふだん、「国家」を背負う意識は希薄だろう。
国際体操連盟(FIG)会長で、国際オリンピック委員会(IOC)委員でもある渡辺守成さんは「五輪の表彰式で国旗掲揚や国歌斉唱をやめるのがナショナリズムを過熱させない一案かもしれない」と言う。
東京五輪で初採用されたスポーツクライミング、スケートボードなど「アーバン(都市型)スポーツ」に共通するのは、「敵味方というより、競技を愛する仲間、同志の感覚だ」。渡辺さんは、そこにスポーツの未来を見る。
私は勝ち負けにこだわるのは人間の本能だと思うし、「世界最大の運動会」で自国選手のメダルに一喜一憂することに目くじらを立てることはないと思う。冷戦期の旧共産主義国や近年のロシアのようにドーピングに手を染め、「国家ぐるみ」で強化する国威発揚型が論外なのは言うまでもない。
韓国では少子化のなか、少数精鋭のエリート強化を見直す声が出始めている。日本でも、子どもの自律を促す受け皿作りの芽吹きが出てきている。
「スポーツは楽しいものだ」
五輪選手の活躍がめざましいノルウェーでは、子どもたちをはぐくむこんな指針が掲げられている。私は、そこにスポーツの原点を見る。