アレクサンダー・ハミルトン
アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 10ドル 紙幣 しへい (SERIES 2004A)。アレクサンダー・ハミルトンの肖像 しょうぞう 画 が は、1805年 ねん に画家 がか ジョン・トランブル が描 えが いたものを元 もと にしている。
ハミルトンは英 えい 領 りょう 西 にし インド諸島 しょとう のネイビス島 とう に生 う まれる。父親 ちちおや はスコットランドの地主 じぬし の四 よん 男 なん だが、ハミルトンが生 う まれたときはカリブ海 かりぶかい の小 ちい さな島 しま の一 いち 商人 しょうにん にすぎず、しかものち破産 はさん し零落 れいらく していく。母 はは はフランスのユグノー の子孫 しそん という。アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の「建国 けんこく の父 ちち 」たちは皆 みな 、成功 せいこう した入植 にゅうしょく 者 しゃ からの名門 めいもん 富裕 ふゆう 層 そう の出 だし であったが、誇 ほこ るべき家柄 いえがら も無 な く内縁 ないえん 関係 かんけい の両親 りょうしん の間 あいだ に生 う まれたハミルトンは例外 れいがい とも言 い える存在 そんざい であった。
1768年 ねん に兄 あに とともに孤児 こじ となり、ニューヨーク商人 しょうにん のクルーガーとビークマン所有 しょゆう のセント・クロイ島 とう にある店 みせ で働 はたら きはじめ、4年 ねん 後 ご には店主 てんしゅ に代 か わって店 みせ を任 まか されることもあり、その経営 けいえい 能力 のうりょく は高 たか く評価 ひょうか されていた。1771年 ねん にセント・クロイ島 とう で発行 はっこう されている新聞 しんぶん に自作 じさく の詩 し を掲載 けいさい され、文才 ぶんさい の片鱗 へんりん を示 しめ す。その翌年 よくねん に、ハリケーン来襲 らいしゅう を報 ほう じた手紙 てがみ が新聞 しんぶん 記者 きしゃ に優 すぐ れた文章 ぶんしょう として認 みと められ、『ザ・ロイヤル・ダニッシュ・アメリカン・ガゼット』誌 し に掲載 けいさい された。店主 てんしゅ と親類 しんるい 縁者 えんじゃ の援助 えんじょ により、1773年 ねん よりニューヨーク市 し のキングズカレッジ(現 げん コロンビア大学 ころんびあだいがく )に入学 にゅうがく し、行政 ぎょうせい 学 がく ・政治 せいじ 学 がく を学 まな ぶかたわら、歴史 れきし ・文学 ぶんがく ・政治 せいじ 哲学 てつがく などの広 ひろ い分野 ぶんや にわたる読書 どくしょ を始 はじ めた。この偶然 ぐうぜん と幸運 こううん で貧 まず しい一 いち 苦学 くがく 生 せい に過 す ぎなかったハミルトンは自 みずか らの天賦 てんぷ の才 ざい を発揮 はっき できる好機 こうき を天 てん から授 さず かったのである。
1774年 ねん サミュエル・シーバリーの大陸 たいりく 会議 かいぎ 非難 ひなん を反駁 はんばく した論文 ろんぶん 『大陸 たいりく 会議 かいぎ の措置 そち に関 かん する敵 てき の中傷 ちゅうしょう に対 たい し、その措置 そち を全面 ぜんめん 的 てき に擁護 ようご す』を公刊 こうかん 。これは独立 どくりつ 革命 かくめい に関 かん してハミルトンが執筆 しっぴつ した最初 さいしょ の公的 こうてき 文書 ぶんしょ である。1775年 ねん 2月 がつ 、さらに大陸 たいりく 会議 かいぎ を擁護 ようご し、愛国 あいこく 派 は の見解 けんかい を表明 ひょうめい した『その農民 のうみん の見解 けんかい を論駁 ろんばく す』を公刊 こうかん 。同年 どうねん 6月 がつ 、『ケベック法 ほう に関 かん する所見 しょけん 』を発表 はっぴょう し、イギリス本国 ほんごく が植民 しょくみん 地 ち 支配 しはい を強 つよ めるためにカナダのカトリック教徒 きょうと を利用 りよう する計画 けいかく があることを批判 ひはん 。10月、大衆 たいしゅう の印刷 いんさつ 業者 ぎょうしゃ への暴行 ぼうこう を非難 ひなん 。
1776年 ねん 3月 がつ 14日 にち 、ニューヨーク植民 しょくみん 地 ち 砲兵 ほうへい 中隊 ちゅうたい を指揮 しき する大尉 たいい に任命 にんめい され、独立 どくりつ 戦争 せんそう に従軍 じゅうぐん 、幾多 いくた の会戦 かいせん に参加 さんか して軍人 ぐんじん としても優 すぐ れた才能 さいのう を発揮 はっき した。1777年 ねん からジョージ・ワシントン 総 そう 司令 しれい 官 かん の副官 ふっかん に任命 にんめい され、中佐 ちゅうさ として軍務 ぐんむ に奔走 ほんそう するかたわら、ヒューム 、ホッブズ などの読書 どくしょ と研究 けんきゅう に努 つと めた。1778年 ねん に『プブリウス書簡 しょかん 』を新聞 しんぶん 紙上 しじょう に発表 はっぴょう し、軍需 ぐんじゅ 品 ひん 納入 のうにゅう をめぐる不正 ふせい 事件 じけん を摘発 てきはつ し、大陸 たいりく 会議 かいぎ の欠陥 けっかん もあわせて批判 ひはん する。1779年 ねん 12月から翌年 よくねん の3月 がつ にかけて、独立 どくりつ 運動 うんどう の指導 しどう 者 しゃ に書簡 しょかん をおくり、その中 なか ですでに合衆国 がっしゅうこく 銀行 ぎんこう 設立 せつりつ の構想 こうそう を立 た てている。1781年 ねん 7月 がつ 12日 にち から4回 かい にわたって連載 れんさい された論文 ろんぶん 『大陸 たいりく 主義 しゅぎ 者 しゃ 』では、強力 きょうりょく な中央 ちゅうおう 政府 せいふ 樹立 じゅりつ の必要 ひつよう を説 と いた。10月14日 にち にヨークタウン陥落 かんらく の陣頭 じんとう 指揮 しき をとり、10番 ばん 堡塁 ほうるい をおとし勝利 しょうり している。
軍務 ぐんむ を解 と かれ1782年 ねん から弁護士 べんごし 開業 かいぎょう を目指 めざ し、ブラックストーン 、グロティウス 、プッフェンドルフについて勉強 べんきょう する。4月18日 にち から新聞 しんぶん 掲載 けいさい された『大陸 たいりく 主義 しゅぎ 者 しゃ 』の続編 ぞくへん で、通商 つうしょう 規制 きせい の必要 ひつよう を説 と く。7月22日 にち にニューヨーク邦 くに 大陸 たいりく 会議 かいぎ 議員 ぎいん に選出 せんしゅつ され、そこで大陸 たいりく 会議 かいぎ の課税 かぜい 権 けん 強化 きょうか を提唱 ていしょう 。1784年 ねん 1月 がつ からの『フォーションからの書簡 しょかん 』で、ニューヨーク邦 くに におけるイギリス忠誠 ちゅうせい 派 は への不当 ふとう な処置 しょち を批判 ひはん した。
1786年 ねん ニューヨーク邦 くに 議会 ぎかい により、アナポリス会議 かいぎ の委員 いいん に選出 せんしゅつ され、フィラデルフィアに新 あたら しい議会 ぎかい を開催 かいさい するよう各 かく 邦 くに に要望 ようぼう した声明 せいめい 文 ぶん を起草 きそう 。1787年 ねん 3月 がつ ニューヨーク邦 くに 議会 ぎかい により憲法 けんぽう 制定 せいてい 会議 かいぎ (連合 れんごう 規約 きやく 改正 かいせい のための特別 とくべつ 会議 かいぎ 、フィラデルフィア憲法 けんぽう 制定 せいてい 会議 かいぎ )への代表 だいひょう として派遣 はけん され、9月17日 にち にアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 憲法 けんぽう の草稿 そうこう を作成 さくせい し、ついで憲法 けんぽう 草案 そうあん に署名 しょめい をする。10月27日 にち からジェームズ・マディソン 、ジョン・ジェイ と協力 きょうりょく して翌年 よくねん 5月 がつ 28日 にち までに『ザ・フェデラリスト 』論文 ろんぶん を執筆 しっぴつ し新聞紙 しんぶんし 上等 じょうとう に発表 はっぴょう して、合衆国 がっしゅうこく 憲法 けんぽう 批准 ひじゅん を促進 そくしん した。1789年 ねん 9月 がつ 11日 にち 、ワシントン内閣 ないかく の財務 ざいむ 長官 ちょうかん に任命 にんめい される。
1790年 ねん から1791年 ねん までにハミルトンによって連邦 れんぽう 議会 ぎかい に提出 ていしゅつ された報告 ほうこく 書 しょ は、《公 おおやけ 信用 しんよう 》《未 み 占有 せんゆう 地 ち 》《蒸留 じょうりゅう 酒税 しゅぜい 》《国立 こくりつ 銀行 ぎんこう 》《貨幣 かへい 鋳造 ちゅうぞう 所 しょ 設立 せつりつ 》《製造 せいぞう 業 ぎょう 》と実 じつ に多種 たしゅ 多様 たよう 。一方 いっぽう 「マリア・レイノルズ事件 じけん 」で不倫 ふりん が暴露 ばくろ されたり、公債 こうさい 操作 そうさ による不当 ふとう 利益 りえき 獲得 かくとく の疑惑 ぎわく が取 と りざたされ、トーマス・ジェファーソン をはじめとする政敵 せいてき との確執 かくしつ が強 つよ まる。1792年 ねん にハミルトンが主導 しゅどう して導入 どうにゅう した蒸留 じょうりゅう 酒税 しゅぜい によって、1794年 ねん に発生 はっせい したウィスキー税 ぜい 反乱 はんらん においては、諸 もろ 州 しゅう の民兵 みんぺい 隊 たい からなる1万 まん 2000の連邦 れんぽう 軍 ぐん に文民 ぶんみん 顧問 こもん として帯同 たいどう し、鎮圧 ちんあつ する。イギリスとの妥協 だきょう の一環 いっかん として1795年 ねん に結 むす ばれたジェイ条約 じょうやく の正当 せいとう 性 せい を『カミュラス』論文 ろんぶん で擁護 ようご し、連邦 れんぽう 議会 ぎかい に批准 ひじゅん させた。この年 とし に財務 ざいむ 長官 ちょうかん を辞任 じにん している。1798年 ねん から陸軍 りくぐん 検閲 けんえつ 総監 そうかん として、新 あたら しく編成 へんせい された連邦 れんぽう 軍 ぐん の軍制 ぐんせい ・兵制 へいせい 確立 かくりつ を遂行 すいこう 。1803年 ねん には弁護士 べんごし としての名声 めいせい は最高潮 さいこうちょう に達 たっ した。
しかしながら、出自 しゅつじ のハンディは初代 しょだい 大統領 だいとうりょう ジョージ・ワシントンという後 のち 盾 たて の亡 な き後 あと 、ハミルトンの人生 じんせい を暗 くら いものにしていく。連邦 れんぽう 党 とう の党首 とうしゅ でありながら、大統領 だいとうりょう になる政治 せいじ 状況 じょうきょう は生 う まれず、また政治 せいじ 的 てき な判断 はんだん で往年 おうねん の鋭 するど さはなく迷走 めいそう の迷路 めいろ に陥 おちい ったようであった。
マリア・レイノルズ事件 じけん とアーロン・バーとの対立 たいりつ
編集 へんしゅう
アレクサンダー・ハミルトンとアーロン・バーの決闘 けっとう (1804年 ねん )
ハミルトンは1794年 ねん にマリア・レイノルズ事件 じけん でその名声 めいせい が傷 きず つき、政治 せいじ 的 てき ダメージを受 う けることとなる。マリアの夫 おっと ジェームズはハミルトンとマリアとの性的 せいてき 関係 かんけい を認 みと めていたにもかかわらず、ハミルトンを恐喝 きょうかつ し金銭 きんせん を要求 ようきゅう した。ジェームズ・レイノルズは偽造 ぎぞう の罪 つみ で逮捕 たいほ されたとき、ジェームズ・モンロー を始 はじ めとする数 すう 名 めい のリパブリカン党 とう 員 いん と連絡 れんらく を取 と った。彼 かれ らはハミルトンの元 もと を訪 おとず れマリアとの関係 かんけい を問 と いただしたが、ハミルトンは関係 かんけい を認 みと めながらも無罪 むざい であることを強調 きょうちょう した。モンローは事 こと の詳細 しょうさい を公表 こうひょう しないことを約束 やくそく したが、トーマス・ジェファーソンにはそのつもりがなかった。ハミルトンは情事 じょうじ の公表 こうひょう を強 し いられ、それは家族 かぞく および支持 しじ 者 しゃ に衝撃 しょうげき を与 あた えた。噂 うわさ された不義 ふぎ によるモンローとの決闘 けっとう は前 ぜん 上院 じょういん 議員 ぎいん のアーロン・バー によって避 さ けられた。
皮肉 ひにく にもバーは後 ご のマリア・レイノルズの離婚 りこん 訴訟 そしょう において、いくつかの疑問 ぎもん を提示 ていじ することでハミルトンを元気 げんき づけた。しかしながら、ハミルトンとバーのニューヨーク法曹界 ほうそうかい における関係 かんけい は、憎悪 ぞうお であった。実際 じっさい 彼 かれ らの家族 かぞく はしばしば関係 かんけい することがあった。バーが1791年 ねん の上院 じょういん 議員 ぎいん 選 せん でハミルトンの義父 ぎふ フィリップ・スカイラー を破 やぶ ったとき、ハミルトンはバーを陥 おとしい れるための秘密 ひみつ 工作 こうさく を始 はじ めた。
ハミルトンの1795年 ねん の財務 ざいむ 長官 ちょうかん 辞任 じにん は公 おおやけ の活動 かつどう からの引退 いんたい とはならなかった。弁護士 べんごし 業 ぎょう の再開 さいかい でハミルトンは政界 せいかい に対 たい してアドバイザーおよび友人 ゆうじん として関係 かんけい を保 たも っていた。ハミルトンはワシントンの退任 たいにん 演説 えんぜつ に影響 えいきょう を及 およ ぼしていたと考 かんが えられている。ハミルトンと、ワシントンの後任 こうにん ジョン・アダムズ との関係 かんけい は緊張 きんちょう していた。連邦 れんぽう 党 とう の大統領 だいとうりょう 候補 こうほ としてアダムズの指名 しめい を妨 さまた げようとするハミルトンの工作 こうさく は党 とう を分割 ぶんかつ し、1800年 ねん の大統領 だいとうりょう 選 せん でジェファーソン派 は のリパブリカン党員 とういん の勝利 しょうり に寄与 きよ した。
ジェファーソンの大統領 だいとうりょう 就任 しゅうにん 後 ご 、バーではなくハミルトンの起用 きよう を選択 せんたく したことはバーに対 たい するハミルトンの最初 さいしょ の打撃 だげき だった。バーは1804年 ねん にニューヨーク州 しゅう 知事 ちじ 選 せん に連邦 れんぽう 党 とう から出馬 しゅつば しようとしたが、無所属 むしょぞく 候補 こうほ として出馬 しゅつば した。ある新聞 しんぶん がチャールズ・D・クーパーのハミルトンによるものと思 おも われる「卑劣 ひれつ な見解 けんかい 」を掲載 けいさい した。政治 せいじ 的 てき 名誉 めいよ 回復 かいふく の機会 きかい と考 かんが えたバーはハミルトンに対 たい して謝罪 しゃざい を要求 ようきゅう した。ハミルトンはバーが新聞 しんぶん の言及 げんきゅう した事実 じじつ を証明 しょうめい できなかったとして要求 ようきゅう を拒絶 きょぜつ した。
バーとハミルトンの決闘 けっとう は、三 さん 年 ねん 前 まえ にハミルトンの息子 むすこ フィリップが父親 ちちおや の名誉 めいよ を守 まも るために決闘 けっとう を行 おこな い敗 やぶ れた場所 ばしょ と同 おな じニュージャージー州 しゅう ウィホーケン の岩 いわ 棚 だな の上 うえ で1804年 ねん 7月 がつ 11日 にち に行 おこな われることとなった。ハミルトンは息子 むすこ の死 し から決闘 けっとう に反対 はんたい したが、決闘 けっとう は夜明 よあ けに始 はじ まりバーはハミルトンの下 しも 胸部 きょうぶ を撃 う った。ハミルトンの銃弾 じゅうだん はバーから外 はず れたとも言 い われるし、銃 じゅう が点火 てんか しなかったとも言 い われる。ハミルトンは翌日 よくじつ 死去 しきょ し、マンハッタンのトリニティ教会 きょうかい 墓地 ぼち に埋葬 まいそう された。バーはハミルトンに対 たい する殺人 さつじん とその後 ご の反逆 はんぎゃく 裁判 さいばん でニューヨークから逃亡 とうぼう し、1836年 ねん に死去 しきょ した。
ハミルトンの人間 にんげん 観 かん に大 おお きく影響 えいきょう したのはスコットランド哲学 てつがく であり、とりわけデイヴィッド・ヒューム のそれは決定的 けっていてき なほどであった。ハミルトンの政治 せいじ 制度 せいど にかかわる主要 しゅよう 論文 ろんぶん の基調 きちょう となっている「あらゆる人間 にんげん は悪人 あくにん である」は、ヒュームの『人間 にんげん 本性 ほんしょう 論 ろん 』からであるのは言 い うまでもない。かくしてハミルトンが、デモクラシー を危険 きけん 視 し して(直接 ちょくせつ 選挙 せんきょ の原則 げんそく 禁止 きんし など)それに制限 せいげん を課 か す制度 せいど づくりを提唱 ていしょう したのである。アダム・スミス の影響 えいきょう もかなり強 つよ い。
ハミルトンは、統一 とういつ された中央 ちゅうおう 政府 せいふ を有 ゆう する必要 ひつよう があると考 かんが えていた。また、後述 こうじゅつ する近代 きんだい 的 てき な資本 しほん 主義 しゅぎ の基盤 きばん を連邦 れんぽう 政府 せいふ によってたつものとした。連邦 れんぽう 主義 しゅぎ を参照 さんしょう のこと。この考 かんが えは、現在 げんざい の民主党 みんしゅとう の基本 きほん 思想 しそう の一 ひと つを構成 こうせい している。
ハミルトンの法 ほう 思想 しそう は、英国 えいこく 思想 しそう における二 に 人 にん の法 ほう 思想 しそう を総合 そうごう 化 か して形成 けいせい されている。それは、エドワード・コーク 卿 きょう の『英国 えいこく 法 ほう 提要 ていよう 』『判例 はんれい 集 しゅう 』とブラックストン の『イギリス法 ほう 釈義 しゃくぎ 』である。ハミルトンの出世 しゅっせ 作 さく である20歳 さい のときの『反駁 はんばく された農民 のうみん 』でもアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の古典 こてん となった『ザ・フェデラリスト』でも、ブラックストンからの引用 いんよう が多 おお い。 [要 よう 出典 しゅってん ]
ハミルトンは、17世紀 せいき 初頭 しょとう の古 ふる き英国 えいこく の法 ほう 思想 しそう にもとづき、国王 こくおう なし、貴族 きぞく なしの政体 せいたい において、コモン・ロー の精神 せいしん 「法 ほう の支配 しはい 」を制度 せいど 化 か できるよう、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 憲法 けんぽう を起草 きそう した。 [要 よう 出典 しゅってん ] アメリカにおける立憲 りっけん 主義 しゅぎ の創始 そうし 者 しゃ である。アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 憲法 けんぽう は、成文 せいぶん 憲法 けんぽう 典 てん の誕生 たんじょう であった。
アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 憲法 けんぽう がジョン・マーシャル の判決 はんけつ (1803年 ねん )を通 つう じて司法 しほう の違憲 いけん 立法 りっぽう 審査 しんさ 権 けん を「発明 はつめい 」したが、それはハミルトンが書 か いた『ザ・フェデラリスト』の第 だい 78篇 へん その他 た の法理 ほうり に依拠 いきょ した。ハミルトンは、それを、コーク卿 きょう (英国 えいこく 王座 おうざ 裁判所 さいばんしょ 主席 しゅせき 判事 はんじ )の1610年 ねん の判決 はんけつ や、コークの『法 ほう の支配 しはい 』『コモン・ロー の制定 せいてい 法 ほう に対 たい する優位 ゆうい 』などから着想 ちゃくそう した。
なお、ハミルトンは、シャルル・ド・モンテスキュー の『法 ほう の精神 せいしん 』から三権分立 さんけんぶんりつ を学 まな んだ。
ハミルトンの著作 ちょさく 全体 ぜんたい を流 なが れる、政府 せいふ に関 かん する、ハミルトンが強 つよ く求 もと める、その要件 ようけん は次 つぎ の四 よっ つの柱 はしら にまとめられる。
騎士 きし 道 どう 的 てき な倫理 りんり にたつ政府 せいふ 。すなわち, dignity(威厳 いげん )& grace(高雅 こうが ), intellectuality(知的 ちてき 性 せい ), pride(矜持 きょうじ )、justice(正義 まさよし ), morality(道徳 どうとく 性 せい )。[要 よう 出典 しゅってん ]
活力 かつりょく に満 み ちた強 つよ くエネルギッシュな政府 せいふ (strong&energetic)。政府 せいふ のweakness(意志 いし ・信念 しんねん の強靭 きょうじん 性 せい や指導 しどう 力 りょく の欠如 けつじょ )は、国民 こくみん の侮蔑 ぶべつ を招 まね く/倫理 りんり ・道徳 どうとく 性 せい を顕現 けんげん できない/智慧 ちえ が生 う まれない。[要 よう 出典 しゅってん ]
国民 こくみん からのrespect&trust(尊敬 そんけい と信頼 しんらい )を獲得 かくとく した政府 せいふ 。これが国民 こくみん への強権 きょうけん 発動 はつどう を不用 ふよう にして国民 こくみん の自由 じゆう を擁護 ようご する。[要 よう 出典 しゅってん ]
国家 こっか を富 と ませる智慧 ちえ と策 さく をもつ政府 せいふ 。[要 よう 出典 しゅってん ]
実質 じっしつ 的 てき な初代 しょだい 外務 がいむ 大臣 だいじん であったハミルトンが新生 しんせい の国家 こっか である米国 べいこく に対 たい して、絶 た えず説 と いた外交 がいこう の心得 こころえ は、次 つぎ の徳性 とくせい であった。すなわち、外交 がいこう は国益 こくえき を完遂 かんすい するものだが、[要 よう 出典 しゅってん ]
外国 がいこく から何時 いつ もrespect(尊敬 そんけい )されdisgrace(侮蔑 ぶべつ )を受 う けないこと。[要 よう 出典 しゅってん ]
justice(道義 どうぎ )/honor(名誉 めいよ )/honest(正直 しょうじき )/character(品性 ひんせい )を失 うしな わないこと。 [要 よう 出典 しゅってん ]
ハミルトンは政治 せいじ における倫理 りんり ・道徳 どうとく と宗教 しゅうきょう 信仰 しんこう を重視 じゅうし したが、それを凝集 ぎょうしゅう 的 てき に訴 うった えた一 ひと つは、初代 しょだい 大統領 だいとうりょう ジョージ・ワシントン の三 さん 選 せん を辞退 じたい し引退 いんたい する決意 けつい 表明 ひょうめい でもあった、ハミルトンが代筆 だいひつ した『告別 こくべつ の辞 じ 』(1796年 ねん 9月 がつ )であろう。ここでハミルトンは以下 いか のように述 の べた。 [要 よう 出典 しゅってん ]
「美徳 びとく もしくは道徳 どうとく 性 せい は、民選 みんせん 政府 せいふ に欠 か いてはならない源泉 げんせん である、とはまったくの真理 しんり である」 [要 よう 出典 しゅってん ]
「国民 こくみん 的 てき 道徳 どうとく が宗教 しゅうきょう 的 てき 原理 げんり を排除 はいじょ しても維持 いじ できるとは、頭 あたま で考 かんが えても、経験 けいけん からしても、思 おも えない」 [要 よう 出典 しゅってん ]
そして、この倫理 りんり ・道徳 どうとく を国策 こくさく の根本 こんぽん とするのは、ハミルトンがアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の財政 ざいせい 制度 せいど を創設 そうせつ ・整備 せいび していく際 さい にも、また独立 どくりつ 戦争 せんそう 時 じ の借金 しゃっきん を全額 ぜんがく 額面 がくめん どおり弁済 べんさい する際 さい にも(『公 おおやけ 信用 しんよう について第 だい 一 いち 報告 ほうこく 書 しょ 』、1790年 ねん 1月 がつ )、貫 つらぬ いた。1792年 ねん の『財源 ざいげん 制度 せいど の擁護 ようご III』でハミルトンは「道徳 どうとく と正義 せいぎ に関 かん する確立 かくりつ しているルールは、個人 こじん と同様 どうよう 、国家 こっか にも適用 てきよう される。よって…国家 こっか もまたその約束 やくそく を守 まも り、契約 けいやく を果 は たし、各 かく 国民 こくみん の財産 ざいさん 権 けん を尊重 そんちょう すべきある。そうしなければ、社会 しゃかい や政府 せいふ に関係 かんけい して、善 ぜん と悪 あく 、あるいは正義 せいぎ と不 ふ 正義 せいぎ を差別 さべつ するすべての思考 しこう を終焉 しゅうえん させる」と説 と いている。なお、『公 おおやけ 信用 しんよう について第 だい 二 に 報告 ほうこく 書 しょ 』は1795年 ねん 1月 がつ である。
パセーイク川 がわ の大滝 おおたき のそばに建 た てられたハミルトンの銅像 どうぞう
ハミルトンは、13邦 くに (人口 じんこう は約 やく 270万 まん 人 にん )が独立 どくりつ するに当 あ たって、大国 たいこく である英国 えいこく (人口 じんこう 2,000万 まん )とフランス (人口 じんこう 2,700万 まん )の係争 けいそう や戦争 せんそう に巻 ま き込 こ まれないよう、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく のモンロー主義 しゅぎ の起源 きげん となった、外国 がいこく とは極力 きょくりょく 関係 かんけい しない“無関係 むかんけい 主義 しゅぎ ”というべき「中立 ちゅうりつ 」外交 がいこう を新生 しんせい の小国 しょうこく であるアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の外交 がいこう における国是 こくぜ とした。が、それはあくまでも、建国 けんこく 初期 しょき の国力 こくりょく と国内外 こくないがい の情勢 じょうせい を判断 はんだん しての、一時 いちじ 的 てき ・便宜 べんぎ 的 てき なものであった。
1793年 ねん 2月 がつ の英 えい 仏 ふつ 戦争 せんそう の勃発 ぼっぱつ に際 さい し、ヨーロッパ から遠 とお い地 ち の利 り を活用 かつよう して「中立 ちゅうりつ 」の選択 せんたく を国益 こくえき としたハミルトンではあったが、一般 いっぱん 理論 りろん としては、屈辱 くつじょく 的 てき な平和 へいわ の受諾 じゅだく には断固 だんこ 反対 はんたい であった。「中立 ちゅうりつ 」のためにも強力 きょうりょく な軍事 ぐんじ 力 りょく の保持 ほじ が必要 ひつよう であることを訴 うった えた。
「他国 たこく の野心 やしん とか敵意 てきい に対 たい してアメリカを守 まも る能力 のうりょく を連邦 れんぽう 政府 せいふ から奪 うば ってしまうべきでない」(『ザ・フェデラリスト』第 だい 34篇 へん )
「国家 こっか とは絶対 ぜったい 的 てき な不名誉 ふめいよ に対 たい しては意気地 いくじ なく屈従 くつじゅう してはならない(剣 けん を抜 ぬ け)」(1790年 ねん 、ワシントンへの献策 けんさく レター)。
1798年 ねん 、ナポレオン・ボナパルト の革命 かくめい フランスとの戦争 せんそう という危機 きき の到来 とうらい のなかで、常備 じょうび 陸軍 りくぐん の創設 そうせつ と強力 きょうりょく な海軍 かいぐん 力 りょく (フリゲート 12隻 せき )建設 けんせつ に国論 こくろん をまとめたのもハミルトンであった。このときの7本 ほん の論考 ろんこう が『見解 けんかい (The Stand)、1798年 ねん 3~4月 がつ 』である。そして、ハミルトンは、陸軍 りくぐん 大将 たいしょう で総 そう 司令 しれい 官 かん のワシントンに次 つ ぐ、陸軍 りくぐん 少将 しょうしょう となった。なお、この本格 ほんかく 的 てき な米 べい 仏 ふつ 全面 ぜんめん 戦争 せんそう は、ナポレオンの譲歩 じょうほ で回避 かいひ された。また、この『見解 けんかい 』で、革命 かくめい フランスが狂 くる ったイデオロギー信条 しんじょう に基 もと づく侵略 しんりゃく の野望 やぼう を持 も ち剣 けん でドグマを強制 きょうせい せんとしていると、エドマンド・バーク と同様 どうよう の評価 ひょうか をフランス革命 かくめい に対 たい して示 しめ した。
ハミルトンのアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく への貢献 こうけん は、憲法 けんぽう や政治 せいじ 制度 せいど ばかりでなく、新生 しんせい の国家 こっか の財政 ざいせい /金融 きんゆう /貨幣 かへい /通商 つうしょう /産業 さんぎょう 政策 せいさく の基礎 きそ を未来 みらい 図 ず とともに整備 せいび したことである。アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 経済 けいざい にとって不可欠 ふかけつ であった初 はつ の連邦 れんぽう 中央 ちゅうおう 銀行 ぎんこう (1791~1811年 ねん )の設立 せつりつ と初 はつ のアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 造幣局 ぞうへいきょく の設置 せっち による初 はつ のドル硬貨 こうか の発行 はっこう (1792年 ねん )は、ハミルトン一人 ひとり の成果 せいか であったといってよい。
なぜなら、この中央 ちゅうおう 銀行 ぎんこう の設立 せつりつ には、閣僚 かくりょう のトーマス・ジェファーソン や大物 おおもの 政治 せいじ 家 か のマディソンが激 はげ しく反対 はんたい していた。日頃 ひごろ は良 よ き協力 きょうりょく 者 しゃ のランドルフもこれには否定 ひてい 的 てき で、大統領 だいとうりょう のワシントンすら乗 の り気 き ではなかったが、それほどの抵抗 ていこう をも排除 はいじょ し達成 たっせい を果 は たした。ハミルトンなくしては、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく は空中 くうちゅう 分解 ぶんかい し消滅 しょうめつ してしまっていただろうし、20世紀 せいき 以降 いこう の世界 せかい 的 てき な大 だい 国家 こっか に成長 せいちょう することなど万 まん が一 いち にもありえなかっただろう。このワシントンを最後 さいご の瞬間 しゅんかん に翻意 ほんい させた、またアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 憲法 けんぽう の解釈 かいしゃく にとって重要 じゅうよう な法理 ほうり 論 ろん として後世 こうせい に残 のこ った、ハミルトンの大統領 だいとうりょう 宛 あて 意見 いけん 書 しょ が「国立 こくりつ 銀行 ぎんこう 設立 せつりつ に関 かん する法律 ほうりつ の合憲 ごうけん 性 せい 」(1791年 ねん 2月 がつ 23日 にち )である。このようにアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 憲法 けんぽう は、憲法 けんぽう 解釈 かいしゃく を主 おも にハミルトンとこのハミルトンを崇拝 すうはい する連邦 れんぽう 最高 さいこう 裁判所 さいばんしょ 首席 しゅせき 判事 はんじ ジョン・マーシャル に委 ゆだ ねることによって、“アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の生 い きた憲法 けんぽう ”として長寿 ちょうじゅ と輝 かがや きをもつものとなった。
通貨 つうか に関 かん するハミルトンの主張 しゅちょう は『造幣局 ぞうへいきょく 設立 せつりつ に関 かん する報告 ほうこく 書 しょ 』(1791年 ねん 1月 がつ 28日 にち )にある。純 じゅん 農業 のうぎょう 国 こく であった新生 しんせい の小国 しょうこく であるアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく を、産業 さんぎょう 資本 しほん をつくり母国 ぼこく ・英国 えいこく を凌 しの ぐ大 だい 産業 さんぎょう 国家 こっか に発展 はってん させるというハミルトンの「国家 こっか 百 ひゃく 年 ねん の計 けい 」は、1791年 ねん 12月に議会 ぎかい に財務 ざいむ 長官 ちょうかん 名 めい で提出 ていしゅつ した『製造 せいぞう 業 ぎょう に関 かん する報告 ほうこく 書 しょ 』にある。実際 じっさい にアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく が産業 さんぎょう 国家 こっか として爆発 ばくはつ 的 てき な発展 はってん をし始 はじ めたのは19世紀 せいき 末 すえ であり、英国 えいこく を追 お い抜 ぬ いたのは第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 期 き であった。
2006年 ねん に、ブッシュ政権 せいけん の経済 けいざい 政策 せいさく に対抗 たいこう する案 あん としてブルッキングス研究所 けんきゅうじょ により発表 はっぴょう された「ハミルトン・プロジェクト」は、米国 べいこく 初代 しょだい 財務 ざいむ 長官 ちょうかん のハミルトンにちなんで名 な づけられた[1] 。オバマ大統領 だいとうりょう の就任 しゅうにん 演説 えんぜつ はこのハミルトン・プロジェクトをもとにしている。
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