二見ふたみ 甚郷(ふたみ じんごう、1888年ねん10月16日にち - 1968年ねん11月17日にち)は、日本にっぽんの政治せいじ家か、外交がいこう官かん。宮崎みやざき県知事けんちじ(公選こうせん第だい3代だい)。宮崎みやざき市し長ちょう(第だい9代だい)。衆議院しゅうぎいん議員ぎいん(1期き)。参議院さんぎいん議員ぎいん(1期き)。
宮崎みやざき県けん東諸県ひがしもろかた郡ぐん高岡たかおか町まち(現げん宮崎みやざき市し)出身しゅっしん。宮崎みやざき県立けんりつ宮崎みやざき中学校ちゅうがっこう、第だい七なな高等こうとう学校がっこう造づくり士し館かんを経へて、1915年ねん東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく法学部ほうがくぶ政治せいじ学科がっか卒そつ。同年どうねん外交がいこう官かん及領事りょうじ官かん試験しけんに合格ごうかくし外務省がいむしょうに入省にゅうしょう、1923年ねん退官たいかん。1928年ねんに衆議院しゅうぎいん議員ぎいんに当選とうせん。1933年ねんには在郷ざいきょう軍人ぐんじんの国家こっか主義しゅぎ団体だんたいである明倫めいりん会かいを結成けっせいし宣伝せんでん部長ぶちょうに就任しゅうにん[1]。1941年ねん駐ちゅうタイ公使こうしを経へて、1945年ねん宮崎みやざき市し長ちょうとなる。1947年ねんの公選こうせん制せいとなっての最初さいしょの県知事けんちじ選せんでは、得票とくひょう数すう1位いとなるも法定ほうてい得票とくひょう数すうに届とどかず、安中あんなか忠雄ただおとの決選けっせん投票とうひょうとなるが、投票とうひょう直前ちょくぜんに公職こうしょく追放ついほうされた[2]。公職こうしょく追放ついほう解除かいじょ後ごの1955年ねんの知事ちじ選挙せんきょで当選とうせんし知事ちじを1期き務つとめた。1959年ねん知事ちじを辞職じしょく。同年どうねんの第だい5回かい参議院さんぎいん議員ぎいん通常つうじょう選挙せんきょで宮崎みやざき地方区ちほうくから自由民主党じゆうみんしゅとう公認こうにんで立候補りっこうほして当選とうせんし、参議院さんぎいん議員ぎいんとなり、1期き務つとめた。
1968年ねん11月17日にち死去しきょ、81歳さい。死没しぼつ日びをもって正せい五ご位いから従したがえ四よん位いに叙じょされる[3]。