小杉こすぎ 雅之まさゆき進すすむ(こすぎ まさのしん、天保てんぽう14年ねん10月1日にち(1843年ねん11月22日にち) - 明治めいじ42年ねん(1909年ねん)8月がつ21日にち)は、江戸えど幕末ばくまつ~明治めいじ期きの武士ぶし・幕臣ばくしん・逓信ていしん官僚かんりょう。正せい六ろく位い勲くん六ろく等とう。諱いみなは直道なおみち。号ごうは竹たけ筠。維新いしん後ご、雅みやび三さんと改名かいめい。
安政あんせい4年ねん(1857年ねん)、長崎ながさき海軍かいぐん伝習でんしゅう所しょ三さん期生きせいに選えらばれ、機関きかん学がくを学まなぶ。その後ご、軍艦ぐんかん操みさお練ねり所しょ教授きょうじゅ方かた手伝てつだえとなり、万延まんえん元年がんねん(1860年ねん)、咸臨丸かんりんまるの太平洋たいへいよう横断おうだん時じには蒸気じょうき方かたの見習みならい士官しかんを務つとめた。慶応けいおう3年ねん(1867年ねん)、軍艦ぐんかん蒸気じょうき役やく一等いっとうとなり、開陽かいよう丸まる機関きかん長ちょうを務つとめた。戊辰戦争ぼしんせんそうでは榎本えのもと武揚ぶように従したがい、箱はこ館かん政権せいけんでは江差えさし奉行ぶぎょう並なみとなった。
赦免しゃめん後ご、明治めいじ7年ねん、内務省ないむしょう駅逓えきてい寮りょう十じゅう等とう出仕しゅっし、以後いご、明治めいじ14年ねん、農のう商務省しょうむしょう商務しょうむ局きょく二に等とう属ぞく、管かん船せん局きょく准じゅん奏そう任にん御用ごよう掛かけ(同僚どうりょうに小笠原おがさわら賢けん蔵ぞう、矢田やた堀ほり鴻ひろしら幕府ばくふ海軍かいぐん関係かんけい者しゃ)、明治めいじ18年ねん、逓信ていしん省しょう管かん船せん局きょく御用ごよう掛かけ准じゅん奏そう任にん(同僚どうりょうに矢田やた堀ほり鴻ひろし、森本もりもと弘ひろし策さく)、司つかさ検けん官かん、船舶せんぱく課長かちょう、大阪おおさか船舶せんぱく司し検けん所長しょちょうを歴任れきにん、海事かいじ行政ぎょうせいを担当たんとうした。退官たいかん後ご、大阪おおさか商船しょうせんの監督かんとく部長ぶちょうとなった。
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