牧山まきやま 耕こう蔵ぞう(まきやま こうぞう、1882年ねん1月がつ20日はつか[1] - 1961年ねん6月5日にち)は、日本にっぽんの政治せいじ家か。衆議院しゅうぎいん議員ぎいん(8期き)。所属しょぞく政党せいとうは立憲りっけん政友せいゆう会かい→政友せいゆう本ほん党とう→立憲りっけん民政みんせい党とう→同どう交会。
現在げんざいの長崎ながさき県けん壱岐いき市し出身しゅっしん。1906年ねん早稲田大学わせだだいがく政治せいじ経済けいざい科か卒そつ。朝鮮ちょうせんに渡わたり、京きょう城じょう居留民きょりゅうみん団だん議員ぎいん、京きょう城じょう学校がっこう組合くみあい会議かいぎ員いん、朝鮮ちょうせん新聞しんぶん(英語えいご版ばん)社しゃ社長しゃちょうなどを務つとめる。1917年ねんの第だい13回かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいん総そう選挙せんきょで初はつ当選とうせん。以来いらい連続れんぞく8期き務つとめる。第だい二に次じ若槻わかつき内閣ないかくで海軍かいぐん政務次官せいむじかんに就任しゅうにん、1936年ねんには列国議会同盟れっこくぎかいどうめい会議かいぎ(開催かいさい国こくハンガリー)に日本にっぽん議員ぎいん団だんの団長だんちょうとして参加さんかした。1942年ねんの第だい21回かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいん総そう選挙せんきょ(いわゆる「翼賛よくさん選挙せんきょ」)で非ひ推薦すいせんで立候補りっこうほしたが落選らくせんした。戦後せんごは公職こうしょく追放ついほうとなり、追放ついほう解除かいじょ後ごの1953年ねんの第だい26回かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいん総そう選挙せんきょで長崎ながさき2区くから分ぶん党派とうは自由党じゆうとう公認こうにんで立候補りっこうほしたが落選らくせん。その後ごは立候補りっこうほすることなく1961年ねん死去しきょ。
この他ほか、長崎ながさき日にち日にち新聞しんぶん社しゃ、佐世保させぼ新聞しんぶん社しゃ、国際こくさい観光かんこう興業こうぎょう各かく社長しゃちょうなどを務つとめた。
長野ながの県けん軽井沢かるいざわ町まちに別荘べっそうを所有しょゆうし、旧きゅう軽井沢かるいざわにある景勝けいしょう地ち・雲くも場じょう池ちの所有しょゆう者しゃでもあった[2]。のちに、一部いちぶの土地とちを除のぞいてブリヂストンの石橋いしばし家かに雲くも場じょう池ちの所有しょゆう権けんを譲渡ゆずりわたしている[2]。
孫まごに西武百貨店せいぶひゃっかてんの常務じょうむ取締役とりしまりやく等とうを務つとめた[3]牧山まきやま圭けい男おとこがおり[2]、彼かれの妻つまは白洲しらす次郎じろうの長女ちょうじょ・牧山まきやま桂子けいこである。