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東氏津波古殿内 - Wikipedia

ひがし津波つなみ古殿ふるとのない

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ひがし津波つなみ古殿ふるとのない(とううじつはことぅんち)は琉球りゅうきゅう王国おうこく氏族しぞくひとつ。東開とうかいきょく東風平こちひら親方おやかたせいしん元祖がんそとする琉球りゅうきゅう士族しぞくくびさと士族しぞく)。きゅうくびさと士族しぞくひがしせい大宗たいそう

ひがし津波つなみ古殿ふるとのない
本姓ほんせい ひがし
いえ 東開とうかいきょく東風平こちひら親方おやかたせいしん
種別しゅべつ 士族しぞく琉球りゅうきゅう士族しぞくしゅさと士族しぞく
出身しゅっしん 琉球りゅうきゅう王国おうこくくびさと
おも根拠地こんきょち 琉球りゅうきゅう王国おうこく
著名ちょめい人物じんぶつ 東元ひがしもとおさむ東風平こちひら親方おやかたせいきょうさんつかさかん)、津波古つはこ親方おやかたせいただしなおたいおう侍講じこう
支流しりゅう分家ぶんけ あんひとし与座よざ屋宜やぎ与那覇よなはなど
凡例はんれい / Category:日本にっぽん氏族しぞく

概要がいよう

初代しょだい東開とうかいきょく東風平こちひら親方おやかたせいしん三山さんやま分立ぶんりつ時代じだいなか山王さんのう察度おう末裔まつえいなみ上宮かみみや建立こんりゅうしたとつたわる崎山さきやまさとぬし末裔まつえいで、崎山さきやまさとぬし察度息子むすこという伝承でんしょうがある。分家ぶんけあんひとし与座よざ屋宜やぎ与那覇よなは与那嶺よなみねひとしがある。名乗なのあたませいひがしせい

系譜けいふ

  • 一世いっせい東開とうかいきょく東風平こちひら親方おやかたせいしん東風平こちひらあいだせつなそう地頭じとう
  • せい東元ひがしもとおさむ東風平こちひら親方おやかたせいきょう東風平こちひらあいだせつなそう地頭じとうさんつかさかん
  • さんせいひがしそうひさし屋宜やぎ親方おやかた政長まさなが中城なかしろあいだきり屋宜やぎ地頭じとうしゃ国富こくふぜいあたま
  • よんせいひがしうけたまわはじめ屋宜やぎさと之子ゆきこしん雲上うんじょう政知まさとも双紙ぞうし理大りだい筆者ひっしゃおう世子せいし佐敷さしき王子おうじ朝良ともよし与力よりき
  • せいひがしひょうはん与那覇よなはおや雲上うんじょうせいしゅう南風原はえばるあいだきり与那覇よなは地頭じとうおう世子せいし佐敷さしき王子おうじ尚文なおふみ与力よりき近習きんじゅむかい島尻しまじり中城なかしろ親方おやかたあさ寿ことぶきづけしゅばん書役かきやくむかい国頭くにがみ親方おやかたあさ与力よりきなお摩文仁まぶに王子おうじちょうもとしゃ大屋おおやなおしつおう姫宮ひめみやひら公主こうしゅだいおや
  • ろくせいひがしけいてる与那覇よなはおや雲上うんじょうせいぼう南風原はえばるあいだきり与那覇よなは地頭じとうしょう王子おうじちょうしゅう与力よりき評定ひょうじょうしょ筆者ひっしゃもう座喜味ざきみ親方おやかたもりいん与力よりき系図けいず筆者ひっしゃ右筆ゆうひつやくやま奉行ぶぎょう算用さんよう奉行ぶぎょう
  • ななせいひがしかん与那覇よなはおや雲上うんじょう政久まさひさ南風原はえばるあいだきり与那覇よなは地頭じとう右筆ゆうひつしょうづけ右筆ゆうひつやく国頭くにがみざいばん
  • はちせいひがし咸熈・あんひとしおや雲上うんじょうせいふく宜野湾ぎのわんあいだきりやすじん地頭じとう中頭なかがみ方代ほうだいかん筆者ひっしゃ右筆ゆうひつしょうづけ評定ひょうじょうしょ筆者ひっしゃしょうづけ砂糖さとうぞう大屋おおやした番頭ばんがしらけいりょうあいだざいばん
  • きゅうせいひがしますあんひとしさと之子ゆきこしん雲上うんじょうせいけい(「たま加勢かせい筆者ひっしゃなお今帰仁なきじん王子おうじ朝忠ちょうちゅう与力よりき評定ひょうじょうしょよせ筆者ひっしゃ評定ひょうじょうしょ筆者ひっしゃしょうづけ米藏よねぞう大屋おおやなお読谷よみたん王子おうじちょうつね与力よりきくにしょう読谷よみたん王子おうじちょうつね右筆ゆうひつやくなお浦添うらぞえ王子おうじちょうひさし与力よりきおう世子せいしなおあきら右筆ゆうひつやく御物ぎょもつだいおやせっみつぎせんざい
  • じゅうせいひがしとくむねあんひとしさと之子ゆきこしん雲上うんじょうせいきよし中城なかしろ御殿ごてん御物ぎょもつ国頭くにがみかた神水じんずいけんしゃきゅう地蔵じぞう大屋おおや佐敷さしき御殿ごてんだいおやだいあずかなかした番頭ばんがしら鍛冶たんや奉行ぶぎょう
  • じゅういちせい東邦とうほうえいあんひとしさと之子ゆきこしん雲上うんじょうせいもりじゅうはちさい死去しきょ
  • じゅうせいひがし順法じゅんぽうあずかさん親方おやかたせい輔(具志頭ぐしかみあいだきり与座よざ地頭じとう国学こくがく筆者ひっしゃ平等びょうどうしょ大屋おおや見習みならい英国えいこくせん来航らいこう通事つうじ平等びょうどうしょ大屋おおやあしやく平等びょうどうしょ大屋おおや、「りつ刑法けいほうてん)」編修へんしゅうやく護送ごそうせんわき筆者ひっしゃ唐物とうぶつかた御用ごようがかりやく平等びょうどうしょ加勢かせい大屋おおやなお浦添うらぞえ王子おうじちょう憙のものかただいおや、糾華じんさいちゅう近習きんじゅしょうづけ平等びょうどうしょ大屋おおやおもしょう唐船とうせん官舎かんしゃ近習きんじゅやくせっみつぎせんざいむかい翁長おなが親方おやかたあさてんそうづけ所帯じょたいがかりげきしめせ刑法けいほう條目じょうもくぬしさい南風みなみかぜ平等びょうどう学校がっこう奉行ぶぎょう勘定かんじょう奉行ぶぎょうむかい具志川ぐしかわ王子おうじちょうじきだいおや南風みなみかぜ平等びょうどうそう横目よこめ
  • じゅうさんせい東国とうごくきょう津波古つはこ親方おやかたせいただし佐敷さしきあいだきり津波古つはこ地頭じとうかんせい国学こくがく講談こうだん系図けいずかりちゅう系図けいずちゅうこう奉行ぶぎょう講談こうだん読上よみあげやく書院しょいんなおたいおう侍講じこうさるこう吟味ぎんみやく所帯じょたいかた吟味ぎんみやく平等びょうどうこれがわ双紙ぞうし奉行ぶぎょう、請封進貢しんこう使者ししゃ東京とうきょう使者ししゃ
  • じゅうよんせいひがしあさとう津波古つはこおや雲上うんじょうせい衡(したしょうあかあたま書院しょいんしょうあかあたま書院しょいん童子どうじ小性こしょう書院しょいん小性こしょう寺社じしゃちゅう
  • じゅうせいひがしもりひとし津波古つはこ政昭まさあき
  • じゅうろくせいせいこう
  • じゅうななせい政弘まさひろ当主とうしゅ

系統けいとうあゆ

  • 元祖がんそ東風平こちひら親方おやかたせいしん父母ちちははつま不明ふめいなおえんおうだい東風平こちひらあいだせつなそう地頭じとうにんじられ、むらさきかんむり拝受はいじゅ。1524ねん首里崎山しゅりさきやまむら幸地こうじ請地うけちたまわり、他人たにんがこの土地とちおかしてはならないというおうしるし頂戴ちょうだいした。この居住きょじゅうしてひさしいが、だい地震じしん住宅じゅうたくこわれたので菜園さいえんにした。
  • せい東風平こちひら親方おやかたせいきょうは、ちち跡目あとめいで東風平こちひらあいだせつなそう地頭じとうとなり、むらさきかんむりじょせられなお清王せいおうだいさんつかさかん宰相さいしょう)となった。屋良やらもりじょういしぶみに「東風平こちひらおおやくもいうし」とあり、うしわらわめいである。
  • さんせい屋宜やぎ親方おやかた政長まさながなおやすしおうだい中城なかしろあいだきり屋宜やぎ地頭じとうたまわった。しゃ国富こくふぜいあたま警備けいび編成へんせい隊長たいちょう)となり、大島おおしまおもむいて仕置しおき処罰しょばつ)をおこなむらさきかんむりじょせられた。
  • よんせいせいたかしは、じゅうろくさい若里わかさと之子ゆきこしたがえはちひん)のとき薩摩さつまぐん侵攻しんこう識名しきなにおいてたたか戦死せんしした。跡目あとめせいたかしおとうと屋宜やぎさと之子ゆきこしん雲上うんじょう政知まさともいだ。政知まさとも双紙ぞうし理大りだい筆者ひっしゃ城中じょうちゅう管掌かんしょう褒賞ほうしょう書記官しょきかん)、世子せいし佐敷さしき王子おうじ朝良ともよしなおきょうなおゆたかおう長男ちょうなん与力よりき従者じゅうしゃ)となりかんむりじょせられた。
  • せい与那覇よなはおや雲上うんじょうせいしゅうは、世子せいし佐敷さしき王子おうじ尚文なおふみちょうえきなおゆたかおう次男じなん与力よりき従者じゅうしゃ)となり筑登座敷ざしきしたがえきゅうひん)をじょせられた。1634ねんさつふう完了かんりょう御札おさつ使者ししゃとして尚文なおふみ京都きょうとうえこくするとき与力よりき従者じゅうしゃ)や近習きんじゅやく世話せわやく)となった。1638ねんむかい島尻しまじり中城なかしろ親方おやかたあさ寿ことぶき薩摩さつまおもむときせいしゅうづけしゅ文筆ぶんぴつできる従者じゅうしゃ)となった。そのは、ばん書役かきやく辞令じれいしょしるし)となった。かんむりじょせられさんつかさかんむかい国頭くにがみ親方おやかたあさ与力よりき従者じゅうしゃ)となった。そのふたたび、ばん書役かきやく辞令じれいしょしるし)となった。なお摩文仁まぶに王子おうじちょうもと尚弘なおひろひとしなおしつおう三男さんなん)のしゃ大屋おおや秘書官ひしょかん主任しゅにん)となり、南風原はえばるあいだきり与那覇よなは地頭じとうたまわ座敷ざしきしたがえよんひん)をじょせられた。なおしつおう姫宮ひめみやひら公主こうしゅ宮平みやだいらおきなぬしなおしつおうじょだいおや家令かれい)となった。
  • ろくせい与那覇よなはおや雲上うんじょうせいぼうは、摂政せっしょうなお王子おうじちょうしゅうはねあさしゅう与力よりき従者じゅうしゃ)となり筑登座敷ざしきしたがえきゅうひん)をじょせられた。評定ひょうじょうしょ筆者ひっしゃ政務せいむ書記官しょきかん)となった。かんむりじょせられ年頭ねんとう使もう座喜味ざきみ親方おやかたもりいん与力よりき従者じゅうしゃ)となった。そのふたたび、評定ひょうじょうしょ筆者ひっしゃ政務せいむ書記官しょきかん)となり西原いりばるあいだ切石きりいしみね地頭じとうたまわった。摂政せっしょうしょう大里おおさと王子おうじちょうあきららによる系図けいず改正かいせいときけいてるせいぼう)は評定ひょうじょうしょ筆者ひっしゃ政務せいむ書記官しょきかん)と系図けいず筆者ひっしゃ国史こくしいえ書記官しょきかん)を兼務けんむした。そのは、右筆ゆうひつやく文書ぶんしょ作成さくせいかん)となり座敷ざしきしたがえよんひん)をじょせられた。ちち跡目あとめいで南風原はえばるあいだきり与那覇よなは地頭じとうたまわった。やま奉行ぶぎょう林政りんせい長官ちょうかん)をつとめ、ろくじゅうさいときさる口座こうざしたがえさんひん)をじょせられた。算用さんよう奉行ぶぎょうしょ勘定かんじょう長官ちょうかん)をつとめた。
  • ななせい与那覇よなはおや雲上うんじょう政久まさひさは、右筆ゆうひつしょうづけ文書ぶんしょ作成さくせいかん試補しほ)となり若里わかさと之子ゆきこしたがえはちひん)にじょせられた。のちに、かんむりじょせられた。右筆ゆうひつやく文書ぶんしょ作成さくせいかん)となりとう座敷ざしきしたがえひん)をじょせられた。のちに、座敷ざしきしたがえよんひん)をじょせられた。1715ねん薩摩さつま通達つうたつ国書こくしょ和文わぶんくようにわれ、政久まさひさ薩摩さつま年間ねんかん和文わぶんによる公文書こうぶんしょ学習がくしゅうして帰国きこくした。そのも、右筆ゆうひつやく文書ぶんしょ作成さくせいかん)となった。のちに、国頭くにがみざいばん地方ちほう行政ぎょうせい監督かんとくかん)となった。1724ねんわずらって辞職じしょくし、ちちつづいて南風原はえばるあいだきり与那覇よなは地頭じとうたまわった。
  • はちせいあんひとしおや雲上うんじょうせいそいは、中頭なかがみ方代ほうだいかん筆者ひっしゃ中頭なかがみぐん代官だいかん書記官しょきかん)となりかんむりじょせられた。右筆ゆうひつしょうづけ文書ぶんしょ作成さくせいかん試補しほ)、評定ひょうじょうしょ筆者ひっしゃしょうづけ政務せいむ書記官しょきかん試補しほ)となった。そのは、砂糖さとうぞう大屋おおや黒糖こくとう収納しゅうのうする役所やくしょ主任しゅにん)となりとう座敷ざしきしたがえひん)をじょせられた。した番頭ばんがしらしょぶんまわししき執行しっこう城中じょうちゅう取締とりしまり責任せきにんしゃ)となり、座敷ざしきしたがえよんひん)をじょせられ宜野湾ぎのわんあいだきりやすじん地頭じとうたまわった。けいりょうあいだざいばん地方ちほう行政ぎょうせい監督かんとくかん)となった。
  • きゅうせいあんひとしさと之子ゆきこしん雲上うんじょうせいけいは、「たま加勢かせい筆者ひっしゃ書記官しょきかん補助ほじょしゃ)となり若里わかさと之子ゆきこしたがえはちひん)にじょせられた。なお今帰仁なきじん王子おうじ朝忠ちょうちゅう今帰仁なきじんちょうよし名乗なのりあさあらためた)与力よりき従者じゅうしゃ)となりかんむりじょせられた。評定ひょうじょうしょよせ筆者ひっしゃ政務せいむ書記官しょきかん補佐ほさ)、評定ひょうじょうしょ筆者ひっしゃしょうづけ政務せいむ書記官しょきかん試補しほ)、米藏よねぞう大屋おおや年貢ねんぐ収納しゅうのうする役所やくしょ主任しゅにん)となった。そのは、なお読谷よみたん王子おうじちょうつねなおなおけいおう次男じなん名乗なのり朝憲ちょうけんあらためた)与力よりき従者じゅうしゃ)、あさつねくにしょうとなり、せいけいくにしょう右筆ゆうひつやく文書ぶんしょ作成さくせいかん)となった。のちに、なお浦添うらぞえ王子おうじちょうひさしなおなおきよしおう次男じなん与力よりき従者じゅうしゃ)となった。そのは、世子せいしなおあきらなおきよしおう長男ちょうなん)の右筆ゆうひつやく文書ぶんしょ作成さくせいかん)となりとう座敷ざしきしたがえひん)をじょせられた。御物ぎょもつだいおや財政ざいせい行政ぎょうせいかん)となおあきらつましょうなぎさあいだ按司)の御物ぎょもつかた財政ざいせい係官かかりかん)を兼務けんむした。そのは、せっみつぎせんざい買取かいとり責任せきにんしゃ)となった。
  • じゅうせいあんひとしさと之子ゆきこしん雲上うんじょうせいきよしは、若里わかさと之子ゆきこしたがえはちひん)やかんむりじょせられ中城なかしろ御殿ごてん御物ぎょもつかた世子せいし邸宅ていたく財政ざいせい係官かかりかん)となった。そのは、国頭くにがみかた神水じんずいけんしゃ国頭くにがみぐん神水じんずい係官かかりかん)となった。のちに、きゅう地蔵じぞう大屋おおや旅費りょひ褒賞ほうしょうべいぜに出納すいとう管理かんりする役所やくしょ主任しゅにん)となりとう座敷ざしきしたがえひん)をじょせられた。佐敷さしき御殿ごてんだいおや王妃おうひ公務こうむかんする行政ぎょうせいかん)、だいあずかなか戸籍こせき民事みんじかんする役所やくしょ主席しゅせき補佐ほさかん)、した番頭ばんがしらしょぶんまわししき執行しっこう城中じょうちゅう取締とりしまり責任せきにんしゃ)となった。そのは、鍛冶たんや奉行ぶぎょう鍛冶たんやかんする役所やくしょ長官ちょうかん)をつとめた。
  • じゅういちせいあんひとしさと之子ゆきこしん雲上うんじょうせいもりは、若里わかさと之子ゆきこしたがえはちひん)をじょせられたが、じゅうはちさいくなっている。
  • じゅうせいあずかさん親方おやかたせい輔は、国学こくがく筆者ひっしゃ学問がくもんかんする書記官しょきかん)となり若里わかさと之子ゆきこしたがえはちひん)をじょせられた。平等びょうどうしょ大屋おおや見習みならい判事はんじ見習みならい)となりかんむりじょせられた。1822ねん英国えいこくせん来航らいこうとき通事つうじとなった。そのは、平等びょうどうしょ大屋おおやあしやく判事はんじ補佐ほさ)、平等びょうどうしょ大屋おおや判事はんじ)となった。1827ねん英国えいこくせん来航らいこうときふたた通事つうじとなった。「りつ刑法けいほうてん)」編修へんしゅうやくとなった。のちに、護送ごそうせんわき筆者ひっしゃ護送ごそうせんふく書記官しょきかん)と唐物とうぶつかた御用ごようがかりやく礼物れいもつ出納すいとう責任せきにんしゃ)を兼務けんむした。そのは、平等びょうどうしょ加勢かせい大屋おおや判事はんじ補助ほじょしゃ)となった。のちに、摂政せっしょうしょう浦添うらぞえ王子おうじちょう憙(なおもと魯、なおおう三男さんなんなお韶威の子孫しそん浦添うらぞえちょう熹)のものかただいおや財政ざいせい行政ぎょうせいかん)となりとう座敷ざしきしたがえひん)をじょせられた。糾華じんさいちゅう華人かじん貸借たいしゃくかかわる役所やくしょ主席しゅせき補佐ほさかん)、近習きんじゅしょうづけ国王こくおう内輪うちわ世話せわやく試補しほ)となった。そのは、平等びょうどうしょ大屋おおやおも主席しゅせき判事はんじ)となり座敷ざしきしたがえよんひん)をじょせられた。しょう唐船とうせん官舎かんしゃしょう唐船とうせん管理かんり責任せきにんしゃ)、近習きんじゅやく国王こくおう内輪うちわ世話せわやく)となった。せっみつぎせんざい買取かいとり責任せきにんしゃ)となり具志頭ぐしかみあいだきり与座よざ地頭じとうたまわった。あずかやま改名かいめいした。のちに、さる口座こうざしたがえさんひん)をじょせられた。検使けんしむかい翁長おなが親方おやかたあさてんしょうづけ監督かんとくかん試補しほ)となった。そのは、所帯じょたいがかり租税そぜい国庫こっこ出納すいとう責任せきにんしゃ)となりむらさきかんむりじょせられた。げきしめせ刑法けいほう條目じょうもくぬしさい役所やくしょ通達つうたつ刑法けいほう布告ふこく文書ぶんしょ責任せきにんしゃ)となった。のちに、南風みなみかぜ平等びょうどう学校がっこう奉行ぶぎょう南風みなみかぜ地区ちく学校がっこう行政ぎょうせい役所やくしょ)、勘定かんじょう奉行ぶぎょうしょやく会計かいけい検査けんさ長官ちょうかん)をつとめた。そのは、むかい具志川ぐしかわ王子おうじちょうじきなお弼、なおそだておう三男さんなんだいおや家令かれい)、南風みなみかぜ平等びょうどうそう横目よこめ南風みなみかぜ地区ちく警察けいさつちょう)となった。せい輔は牧志まきし朝忠ちょうちゅう(板良敷いたらしき朝忠ちょうちゅう)に英語えいごおしえた。1861ねん宮古島みやこじま讒書事件じけん前島まえじましりあずかじん村役人むらやくにん)・波平なみひらめぐみきょう)のとき平等びょうどうしょ大屋おおや担当たんとう判事はんじ)だった。
  • じゅうさんせい津波古つはこ親方おやかたせいせいは、若里わかさと之子ゆきこしたがえはちひん)をじょせられかんせい留学生りゅうがくせい)となった。そのかんむりじょせられた。のちに、とう座敷ざしきしたがえひん)をじょせられた。国学こくがく講談こうだん最高さいこう学府がくふ講師こうし)となり座敷ざしきしたがえよんひん)をじょせられた。系図けいずかりちゅう国史こくしいえかんする役所やくしょ事務じむかん)、系図けいずちゅう国史こくしいえかんする役所やくしょ主席しゅせき補佐ほさかん)となった。そのは、こう奉行ぶぎょう田畑たはたしょ知行ちぎょう唐船とうせん出入でいりの点検てんけんかんする役所やくしょ長官ちょうかん)をつとめた。のちに、講談こうだん読上よみあげやく主席しゅせき講師こうし)、書院しょいん薩摩さつま幕府ばくふ交際こうさいおこな御殿ごてん責任せきにんしゃ)、なおたいおう侍講じこう教授きょうじゅ)となった。佐敷さしきあいだきり津波古つはこ地頭じとうたまわさるこう吟味ぎんみやく財政ざいせい以外いがい国政こくせい次官じかん)となった。そのは、所帯じょたいかた吟味ぎんみやく租税そぜい国庫こっこ出納すいとうかんする役所やくしょ次官じかん)、平等びょうどうこれがわ司法しほうくびさと土地とち山林さんりん布告ふこく令達れいたつかんする役所やくしょ責任せきにんしゃ)となった。のちに、双紙ぞうし奉行ぶぎょう城中じょうちゅう管掌かんしょう褒賞ほうしょうかんする役所やくしょ長官ちょうかん)をつとめた。1864ねんには請封進貢しんこう使者ししゃとして清国きよくにわたった。また、明治維新めいじいしんとき琉球りゅうきゅう王国おうこくからの東京とうきょう使者ししゃとして東京とうきょう明治めいじ政府せいふ)に駐在ちゅうざいした。
  • じゅうよんせい津波古つはこおや雲上うんじょうせい衡は、したしょうあかあたましょぶんまわししき執行しっこう城中じょうちゅう取締とりしまり役所やくしょ下働したばたらきするもの)となり、書院しょいんしょうあかあたま薩摩さつま幕府ばくふ交際こうさいおこな御殿ごてん下働したばたらきするもの)、書院しょいん童子どうじ小性こしょう薩摩さつま幕府ばくふ交際こうさいおこな御殿ごてん下働したばたらきするもの)となり若里わかさと之子ゆきこしたがえはちひん)をじょせられた。書院しょいん小性こしょう薩摩さつま幕府ばくふ交際こうさいおこな御殿ごてん下働したばたらきするもの)となりかんむりじょせられた。寺社じしゃちゅう寺社じしゃかんする役所やくしょ主席しゅせき補佐ほさかん)となりとう座敷ざしきしたがえひん)をじょせられた。

分家ぶんけ

  • 分家ぶんけよんせい知念ちねん親方おやかたせいさだ(1624ねん天啓てんけいみかど使者ししゃらい琉で薩摩さつま報告ほうこくむすめおもえきん)はなおしつおう側室そくしつになった。)
  • 分家ぶんけせい佐久さくがわ親方おやかた政武まさたけ伊江島いえじま漂着ひょうちゃく異国いこくせんけん薩摩さつま報告ほうこくせいさだ次男じなん。)
  • 分家ぶんけせい知念ちねん親方おやかたせいきょう世子せいしなおさだ安否あんぴいに薩摩さつまうえこく知念ちねん殿どのない。)
  • 分家ぶんけろくせい高安たかやす親方おやかた政幸まさゆき(1698ねん八重山やえやま久米島くめじま漂着ひょうちゃくした異国いこくじんみつげせん便乗びんじょうさせてふくしゅうへ。せいきょう次男じなん。)
  • 分家ぶんけ天願てんがん親方おやかたせい(1742ねんみつぎけん薩摩さつまへ。1796ねんよしみけいみかど即位そくい慶賀けいが正使せいし清国きよくにわたった。1809ねん年頭ねんとう使およ借用しゃくようぎんりょうけん薩摩さつまうえこく。)
  • 分家ぶんけ大山おおやま親方おやかた政綱せいこう(1828ねん年頭ねんとう使
  • 分家ぶんけ浦崎うらさき親方おやかた政行まさゆき(1842ねん年頭ねんとう使
  • 分家ぶんけ浦崎うらさき親方おやかたせいしゅ(1855ねん年頭ねんとう使

もんちゅう家名かめい

津波古つはこ知念ちねん宮里みやさと小波蔵こはぐら喜久よしひさがわけんはま佐久さくがわ具志堅ぐしけんとくむらいねぶく屋嘉やか奥間おくまめい嘉山かやま与那覇よなは奥原おくはら久場くば真志喜ましき瀬嵩せだけ仲本なかもと儀間ぎま玻名城はなしろ佐久さくほんむらきちいえすうよんじゅうさつ。(「しゅう」より)

ひがしもんちゅう逸話いつわ

津波つなみ古殿ふるとのない津波古つはこ)は公文書こうぶんしょ作成さくせい法律ほうりつあん英語えいご通訳つうやく侍講じこうなど学識がくしきふか知識ちしきじんおおい。「牧志まきしおんかわ事件じけん」では、玉川たまがわ王子おうじちょうたちなお灝王なななんなおまき)も拷問ごうもんにかけられるところを、津波古つはこ親方おやかたせいせいは、風説ふうせつをもとに高官こうかんとしれるのに反対はんたいおうははうったえてけいまぬかれさせた。1879ねん琉球りゅうきゅう処分しょぶんによるおけけんに、開化かいかとう頑固がんことう対立たいりつしたおり、津波古つはこ親方おやかたせいせい中立ちゅうりつ穏健おんけん姿勢しせいり、なおたいおうすくなからず感化かんかけた。一世いっせい東風平こちひら親方おやかたせいしん宅地たくちたまわった場所ばしょは、崎山さきやま御嶽おんたけとなりという。御嶽おんたけ地所じしょにはもとさき山里やまざとぬし居住きょじゅうし、ここから高麗こうらいかわら出土しゅつどくびさとじょうからもおな年代ねんだい高麗こうらいかわらており、察度おう時代じだいものという。崎山さきやまさとぬしなみ上宮かみみや創建そうけん察度おうというつたえとひがし元祖がんそという口碑こうひがある。沖縄おきなわけん那覇なはくびさと崎山さきやままち崎山さきやま御嶽おんたけがある崎山さきやま公園こうえんには、「ひがしせいはいしょ」ときざまれた石碑せきひ現在げんざいのこされている。

津波古つはこ親方おやかたせいただし東国とうごくきょう

じゅうさんせい津波古つはこ親方おやかたせいただし東国とうごくきょう)は1816ねんまれ。1840ねん北京ぺきん国土こくどかん留学りゅうがくし、6年間ねんかんまなぶ。儒学じゅがくしゃまごころもげん帰国きこく国学こくがく最高さいこう学府がくふ講師こうしなおたいおう侍講じこう教授きょうじゅ)をつとめた。琉球りゅうきゅう王国おうこく末期まっき代表だいひょうする知識ちしきじん一人ひとりで、理知的りちてきでバランス感覚かんかく政治せいじ幕末ばくまつ琉球りゅうきゅう政治せいじ)としてられる。津波古つはこ親方おやかたせいせいざい東京とうきょう使者ししゃとして東京とうきょう駐在ちゅうざいちゅう明治めいじ8(1875)ねん琉球りゅうきゅうから東京とうきょう出向でむいたいけじょう安規やすのりさんつかさかん)、与那原よなばるりょうすぐる東京とうきょう使者ししゃ)、幸地こうちちょうつねくさりこれがわ)らにたいし、明治めいじ政府せいふが、清国きよくにとの関係かんけい断絶だんぜつ命令めいれいなどをつたえたさい交渉こうしょうっている。明治めいじ政府せいふによる琉球りゅうきゅう処分しょぶん(沖縄おきなわけん設置せっち)のうごきをめぐって、琉球りゅうきゅう王国おうこく内部ないぶ紛糾ふんきゅうしたさいも、つね冷静れいせい判断はんだんくだすよう、なおたいおうへ「みずかすすんで版籍はんせき奉還ほうかんすること国益こくえきである」と意見いけん具申ぐしんしたが、激動げきどう渦中かちゅう死去しきょ(1877ねん)したため、その資質ししつ十分じゅうぶんかされなかった。「当時とうじ碩学せきがく本国ほんごくきょう津波古つはこ親方おやかたせいせい)のごときは、明治めいじ4(1871) ねんけるかくはん廃藩置県はいはんちけん処分しょぶんて、琉球りゅうきゅう将来しょうらい揣摩しまし、視察しさついん内地ないちはん派遣はけんして、その状況じょうきょう調査ちょうさせしめ、むしよりすすんで、版籍はんせき奉還ほうかんすをもっ琉球りゅうきゅう国益こくえきなりと主張しゅちょうし、けんさくするところありしも、当時とうじ国論こくろんこれ腐儒ふじゅまがひとげんとして一顧いっこあたえられざりきといふ。またかれは、本土ほんど事情じじょうらしむるために、はじめて当時とうじ新聞紙しんぶんしなおたいおうまつりたるにり、益々ますます世人せじん指弾しだんけたり。(津波古つはこ親方おやかたせいせいおう知的ちてき顧問こもんとして、漢学かんがくはいして洋学ようがくまなび、とく今後こんご理化学りかがくにつけねばならぬと強調きょうちょうし、本土ほんど廃藩置県はいはんちけん実施じっしされると、ただちに視察しさついんはん派遣はけんして、その状況じょうきょう調査ちょうささせ、そのうえで、琉球りゅうきゅうみずかすすんで版籍はんせき奉還ほうかんませて日本にっぽん合流ごうりゅうすべきと主張しゅちょうした。)」と、津波古つはこ親方おやかたせいせい言行げんこうが、当時とうじ内務省ないむしょう出張所しゅっちょうしょ吏員りいんであった河原田かわらだもりよし著書ちょしょの「琉球りゅうきゅう紀行きこう」などによってのこされている。中国ちゅうごく事情じじょうあかるく、中国ちゅうごく大陸たいりく周辺しゅうへんでの西洋せいよう諸国しょこく侵食しんしょくぶりを憂慮ゆうりょし、中国ちゅうごく当路とうろ洋学ようがく人物じんぶつのないことに慨嘆がいたんしていた。 琉球りゅうきゅう処分しょぶんさいなおたいおう版籍はんせき奉還ほうかん決意けついうながし、亀川かめかわ親方おやかたもりたけし中心ちゅうしんとする久米くめむら士族しぞくもう反対はんたいって、穏便おんびん裁定さいていおこなわせたのも津波古つはこ親方おやかたせいせい中心ちゅうしんとするおうがわつかまつたち(さんつかさかんむべわんあさなど)だったという。津波古つはこ親方おやかたせいせい北京ぺきん英語えいごなどの語学ごがく堪能かんのう人物じんぶつであった。琉球大学りゅうきゅうだいがく図書館としょかんに「東国とうごくきょう詩集ししゅう」が所蔵しょぞうされている。高弟こうていに「琉球りゅうきゅう見聞けんぶんろく」の著者ちょしゃである喜舎場ちしゃばちょうけんがいる。津波古つはこ親方おやかたせいせいだい城立じょうりゅうひろし著書ちょしょの「琉球りゅうきゅう処分しょぶん」に登場とうじょうする人物じんぶつである。

東国とうごくきょう漢詩かんし

東国とうごくきょう津波古つはこ親方おやかたせいせい)がいたものひとつに、「りゅうぶねきおいわたり」という漢詩かんしがある。


りゅうぶねきおいわたり

石榴ざくろ如火しか江頭えがしら  (石榴ざくろ ごと江頭えがしらしかえ)

江頭えがしらひとやかましきおいりゅうぶね  (江頭えがしら ひとやかましくりゅうぶねきそう)

ぎんしょう琅琅人海じんかい  (ぎんしょう 琅琅として人海じんかいのごとくで)

旌旗せいき彷彿ほうふつしゅかすみりゅう  (旌旗せいき 彷彿ほうふつとしてしゅかすみながれる)

しろたまらんとべげき  (しろたま みだび なみげきとなり)

後先あとさきしょう逐光閃電  (後先あとさき そうう ひかりは閃電す)

ろうくん倚扇せんはたすわ  (ろうくん おうぎに倚りてふねはたし)

そう佳人かじん臨淵とも  (そう佳人かじん ふちのぞみてうらやむ)

きみ聞靈均一きんいつ  (きみかずや れい均一きんいつたびりて)

れいじん憐湘こう     (ひとをして湘江を憐ましむ を)

こうみずきよせんねん     (こうみず きよきことせんねん

すわえじんいんためりゅうせん  (すわえじん これりてためりゅうせんをなす)

今日きょうりゅうぶねおどけ顛  (今日きょうりゅうぶねいたずらおどけき顛る)

俯仰ふぎょう往事おうじあずかこんこと  (俯仰ふぎょう往事おうじこんこと

歸來きらい獨吟どくぎんはなれ騒篇  (帰来きらいしてひとはなれ騒篇をぎんず)


意訳いやく):「あかえるように石榴ざくろ(ザクロ)のはなきし見物けんぶつ人々ひとびとのざわめきのなか、いよいよりゅうぶねハーリー)のはじまりだ。銀色ぎんいろふえとりきよらかなさえずりのようになかしたひとすうれず、林立りんりつするはたふうにはためき、まるで朝焼あさやけか夕焼ゆうやけがあかながれるよう。さてはやくも競漕きょうそうはじまると、枻のげるしろみずたまみだび、なみのようにはしる。さきふねふね、いずれおとらず稲妻いなづまのようにやましい。貴公子きこうしが、しゅちからえるはたってふねはたましまし、そのうつくしい姿すがたは、美人びじんうらやむほど。あなたはいたことがないか。こごめはらってから、人々ひとびとは湘江にいつまでもこころかれ、あわれんでいるということを。その湘江のみずせんねんわらずきよらかにんでいる。すわえひとたちは、こごめはらのためにりゅうぶね競漕きょうそうをするようになったというが、今日きょうりゅうぶねはわざとふね転覆てんぷくさせたりして、たのしいあそびのようだ。うつむいたりあおいだりして、いにしえのことやいまのことにおもいをめぐらし、ふか感慨かんがいいてかえり、一人ひとりこごめはらしのんではなれ騒(すわえ)をぎんじる。」(「琉球りゅうきゅう漢詩かんしたび」より)

津波古つはこ親方おやかたせいせい逸話いつわ

琉球りゅうきゅう古典こてん音楽おんがく野村のむらりゅうひらいた野村のむらさと之子ゆきこしんくも上安かみやすちょう野村のむらやすしちょう)は機知きちむが、学者がくしゃはだ津波古つはこ親方おやかたせいせいとはソリがわなかった。ある玉川たまがわ御殿ごてん歌会うたかいもよおされた。うたげがり、つぎうたさんせんうつろうと、津波古つはこ親方おやかたせいせい野村のむらさと之子ゆきこしんくも上安かみやすちょうに「うたシャーターはそろったか」とくと、「がくシャーターがなにおおせる。がくシャーターのものも、ぶたシャーターのものおなじではないですか」と津波古つはこ親方おやかたせいせいをやりこめた。なおたいおう別荘べっそう茶屋ちゃや御殿ごてん宴会えんかいをもった。野村のむらさと之子ゆきこしんくも上安かみやすちょう文字もじ面白おもしろさをて、津波古つはこ親方おやかたせいせいが「先生せんせいはサー、むずかしいのをかれるね」とったので、野村のむらさと之子ゆきこしんくも上安かみやすちょうは「いまおっしゃったサーはなんてるのですか」といた。津波古つはこ親方おやかたせいせいが「らん」とこたえると「しょうです。和文わぶん小夜さよふけてはしょういてあります」とったので津波古つはこ親方おやかたせいせい苦笑にがわらいするしかなかった。(「ひがしなぎさ随筆ずいひつ」より)

ひがし人々ひとびと

具志堅ぐしけんまさし冶著しょの「ぞくハブしょうのたわごと」では「ひがしせい始祖しそ」とだいし、かん憲和のりかず海軍かいぐん少将しょうしょう)もひがしせい紹介しょうかいしている。 に、なお学院がくいんグループ(沖縄尚学おきなわしょうがく高等こうとう学校がっこう附属ふぞく中学校ちゅうがっこうなど)の創立そうりつしゃである名城めいじょう政雄まさお名城めいじょう政次郎まさじろうみずいずみ酒造しゅぞうみずいずみ酒造しゅぞう株式会社かぶしきがいしゃ)の久本ひさもとまさしあつしひがしせいである。また、おやとまり一郎いちろう株式会社かぶしきがいしゃ琉球新報りゅうきゅうしんぽうしゃもと会長かいちょう沖縄おきなわセルラー電話でんわ株式会社かぶしきがいしゃもと会長かいちょう)もひがしせい

ひがし石碑せきひ墓碑ぼひ

  • ひがしはいしょ」は沖縄おきなわけん那覇なは崎山さきやままち崎山さきやま公園こうえんにある。
  • ひがしふとそう上代じょうだいはか」は一世いっせいからななせいまでのはかとなっている。
  • ちゅうむね墓碑ぼひは、東風平こちひら親方おやかたせい支流しりゅう高良こうらちかし雲上うんじょう政重まさしげ座波ざはおや雲上うんじょうせいしげる知念ちねん親方おやかたせいさだ以降いこうはか)とある。
  • ひがし宗家そうけはか

むんじゅるぶし

琉球りゅうきゅう舞踊ぶようざつおどり(ぞうおどり)のひとつに「むんじゅるぶし」があり、これには「津波古つはこ」というてくる。津波古つはこひがし津波つなみ古殿ふるとのない)のものうたったものだというせつがある。


「むんじゅるぶし

むんじゅる平笠ひらかさきよらものや 女童おんなわらべいただきにちいいせて(はなしみやう)

はなしゅぬのまえゆいさいとぼけらしもの(はなしみやう)

あきらおさめざかからやううなよ むんじゅる平笠ひらかさかぶるなよ(津波古つはこの)

津波古つはこあるじまえが にやれゆんど(津波古つはこの)

いものうまさやとうかんだ べいのうまさや赤地あかじまい(神酒みきづくりての)

神酒みきづくりてのうまさや しろふぇとうかんだ(神酒みきづくりての)


意訳いやく):ムンジュルかさうつくしいものよ むすめあたまにちょっとせて(はなめは) はな手拭てぬぐいぜんむすびにして 青年せいねんれさせる(はなめは) あきら喜名きなざかとおるときはむすめさんよ ムンジュルかさはかぶらないで(津波古つはこの) 津波古つはこのご主人しゅじんさまが さらにれてんでしまうよ(津波古つはこの) いものおいしいのはからいも べいのおいしいのは赤地あかじまい神酒みきつくっての) 神酒みきつくっておいしいのは しろからいも神酒みきつくっての)


「ムンジュル」とはむぎガラでつくったよけかさのことである。この「むんじゅるぶし」はちゅうおどりでおどられる。「舞踊ぶよう稲嶺いなみね粟国島あぐにじまうたわれている民謡みんようならってきたのをにいたおどりの名手めいしゅ玉城たまき盛重もりしげ振付ふりつけたもの」(「琉球りゅうきゅう舞踊ぶよう入門にゅうもん宜保ぎぼ栄治郎えいじろう)。粟国島あぐにじま発祥はっしょううたであり、もと粟国島あぐにじま民謡みんよう

参考さんこう文献ぶんけん

  • 沖縄おきなわもん中大ちゅうだい辞典じてん那覇なは出版しゅっぱんしゃ、1992ねん
  • 士族しぞくもん中家ちゅうか比嘉ひかちょうすすむちょたま出版しゅっぱん、2005ねん
  • 沖縄おきなわのサムレー(いえにみる士族しぞく)』比嘉ひかちょうすすむちょたま出版しゅっぱん、1990ねん
  • かみハブしょうのたわごと具志堅ぐしけんまさし冶著、1982ねん
  • ぞくハブしょうのたわごと具志堅ぐしけんまさし冶著、1985ねん
  • 琉球りゅうきゅう王国おうこく衰亡すいぼう島津しまつ与志よしちょ岩波書店いわなみしょてん、1992ねん
  • 琉球りゅうきゅう処分しょぶんうえ)、(した)』だい城立じょうりゅうひろしちょ講談社こうだんしゃ、2010ねん
  • 琉球りゅうきゅう漢詩かんしたび茅原かやはらみなみりゅうちょ琉球新報りゅうきゅうしんぽうしゃ、2001ねん
  • 琉球りゅうきゅう歴史れきし便覧びんらん宮里みやさと朝光ともみつ監修かんしゅう月刊げっかん沖縄おきなわしゃ、1987ねん
  • 琉球りゅうきゅう舞踊ぶよう入門にゅうもん宜保ぎぼ栄治郎えいじろうちょ那覇なは出版しゅっぱんしゃ、2009ねん

外部がいぶリンク

関連かんれん項目こうもく