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アゾフ - Wikipedia

アゾフロシア:Азовアゾーフ;Azov)はロシア連邦れんぽう南部なんぶロストフしゅう都市とし人口じんこうは8まん1924にん(2021ねん[1]ドンがわ沿いにあり、アゾフうみまではやく6kmとちかい。

アゾフの紋章もんしょう

紀元前きげんぜん1千年紀せんねんきにはスキタイ文化ぶんか勢力せいりょくけんはいっていた。紀元前きげんぜん3世紀せいきころボスポロス王国おうこくからきたギリシャじんは、ドンがわ河口かこう交易こうえきじょう重要じゅうよう土地とちであったため、ここに殖民しょくみん都市としタナイスロシアばん英語えいごばん古代こだいギリシア: Τάναϊς、「かわ」の) をつくった。かず世紀せいきミトリダテス戦争せんそうこり、紀元前きげんぜん63ねんにボスポロス王国おうこくマ帝国まていこく宗主そうしゅはいり、ボスポロス王国おうこくポレモ1せい英語えいごばん在位ざいい: 紀元前きげんぜん14ねん - 紀元前きげんぜん8ねん)によって居住きょじゅうかれた。その、ギリシアじん入植にゅうしょくしゃたちは再建さいけん成功せいこうしたが、西暦せいれき3世紀せいきゴートじんによってほろぼされた(なお、タナイス(現在げんざいNedvigovkaむら近辺きんぺん)は、19世紀せいき中頃なかごろから発掘はっくつすすめられている)。

5世紀せいきころフンおうデンキジック英語えいごばん宗主そうしゅAkatziroiくにおうKaradach居住きょじゅうはじめた。6世紀せいきころひがしマ帝国まていこくと、突厥宗主そうしゅハザール進出しんしゅつし、ビザンチン・サーサーン戦争せんそう英語えいごばんだいさんペルソ・テュルク戦争せんそうおこなった。7世紀せいき中頃なかごろ西にし突厥衰退すいたいしてハザール・カガンこく独立どくりつし、アラブ・ハザール戦争せんそう642ねん - 799ねん)をおこなった。

10世紀せいきハザール・カガンこく衰退すいたいし、この地域ちいきスラヴじんトムタラカン公国こうこく(Tmutarakan)りょうになる。

1067ねんには、キプチャクがこの地域ちいき支配しはいし、地名ちめいアザク(azak、「低地ていち」の)にえる。現在げんざいのアゾフの地名ちめいはここからている。13世紀せいきから14世紀せいきにかけてはジョチ・ウルスがこの支配しはいしたが、ヴェネツィアジェノヴァ商人しょうにんたちは許可きょかて、ターナという植民しょくみん都市とし現代げんだいのアゾフに位置いちする)をつくり、そこに定住ていじゅうした。

 
アゾフの要塞ようさい

1471ねんオスマン帝国ていこく侵攻しんこうによりターナ(アゾフ)は占領せんりょうされ、テュルクひとはアゾフに要塞ようさい建造けんぞうした。 1637ねんなつドン・コサックは4,000にん兵士へいしと200の大砲たいほうもちいて、要塞ようさい占領せんりょうした。ドン・コサックは5年間ねんかんそこを保持ほじしていたが、1641ねんなつより強大きょうだいなオスマンぐん要塞ようさい包囲ほうい、オスマンぐん要塞ようさい陥落かんらくさせることができずよく1642ねん撤退てったいした。オスマンぐん撤退てったい、トルコとの全面ぜんめん戦争せんそう危惧きぐするロシアツァーリミハイル・ロマノフ全国ぜんこく会議かいぎゼムスキー・ソボル)を召集しょうしゅうし、要塞ようさいをトルコにわたすことを決定けっていした。ドン・コサックは、要塞ようさい防御ぼうぎょ設備せつび破壊はかいしたのち退去たいきょした。

そのクリミア・ハンこく打撃だげきあたえるために、ミハイル・ロマノフのまごでツァーリのピョートル1せい大帝たいてい)がだいトルコ戦争せんそうじょうじてアゾフのさい占領せんりょう開始かいしした(アゾフ遠征えんせいロシアばん英語えいごばん)。1695ねん攻撃こうげき失敗しっぱいしたものの、1696ねん要塞ようさいさい占領せんりょうした。しかし、だい北方ほっぽう戦争せんそう最中さいちゅうの1711ねんにピョートル1せいプルートがわたたかでオスマンぐん包囲ほういされ、かいかこえ交渉こうしょうさいにアゾフ要塞ようさいのトルコへの返還へんかん同意どういした(プルト条約じょうやく)。

だいいち戦争せんそうにおけるロシア帝国ていこく勝利しょうりにより、キュチュク・カイナルジャ条約じょうやく(クチュク・カイナルジ条約じょうやく)がむすばれ、アゾフはロシアりょうとなった。

脚注きゃくちゅう

編集へんしゅう
  1. ^ city population”. 2 May 2023閲覧えつらん