大使館前で星条旗を逆さに広げる学生グループ
事件を報じる1979年11月5日の日付のイランの新聞
シュレッダーにかけられた大使館の機密書類
10月22日以降、アメリカが元皇帝を受け入れたことにイスラム法学校の学生らが反発し、テヘランにあるアメリカ大使館を囲んだ抗議デモを行った。
これに対し、アメリカ大統領、国務省、CIA、アメリカ大使館いずれも、事が大きくなる可能性を真剣に考慮せず放置していた。この対応については占拠事件発生後、アメリカ国内で大きな批判を浴びた。
なお、この学生と暴徒らによる行動は、革命政府の保守派と革命防衛隊が裏でコントロールしていたため、穏健なメフディー・バーザルガーン首相ら政府閣僚および警察はこれに対する制止は事実上できなかった。その後デモ参加者は増え続け、ついに11月4日午前に学生と暴徒たちの一部が塀を乗り越えて大使館の敷地内に侵入した。
大使館の敷地には次々に学生と暴徒たちが侵入してきたが、警備にあたっていたアメリカ海兵隊員も、事態の悪化を恐れてこれに対して制止、発砲することはできなかったため、学生と暴徒たちは間もなく大使館の建物内に侵入しこれを占拠、アメリカ人外交官や海兵隊員とその家族の計52人を人質に、元皇帝のイラン政府への身柄引き渡しを要求した[3]。
このイラン人らによる行為とイラン当局側の対応は、「外交関係に関するウィーン条約」による、「接受国(大使館所在当該国)は、私人による公館への侵入・破壊及び公館の安寧・威厳の侵害を防止するために、適当なすべての措置をとる特別の義務を負う(同22条2)」という規定に違反していたため、諸外国からの大きな非難を浴びた。だが、学生と暴徒、さらに革命政府とイスラム革命防衛隊は、これらの非難に耳を貸すことはなかった。
なお、大使館員や領事館員、海兵隊員らは、大使館の建物を占拠されるまでのわずかな間に、大量の各種機密書類やアメリカ合衆国ドル紙幣をシュレッダーにかけたり焼却処分にしたほか、通信機器やビザのスタンプなどを破壊することに成功した。しかしシュレッダーにかけられた書類の多くは、イラン当局に動員された主婦や子供たちにより時間をかけて復元され、大使館員や情報部員の情報を含めた機密情報がイラン当局側に渡ることになった。
なお、11月4日の占拠事件発生の際、複数の領事部のメンバーが大使館からの脱出に成功している。領事部にいた館員のうちの1人は最終的にイギリス大使館に逃れ、同大使館の現地人職員の手引きで出国ビザを取得し、後に空路で脱出した。また、総領事らのグループも大使館から脱出したが、イギリス大使館に直接向かうルートをとらなかったため、早期にイラン当局に捕えられ大使館に戻された。
別の6名の領事部員達のグループも脱出に成功したがイギリス大使館にたどり着くことができず、電話が通じたタイ人のアメリカ大使館の主任料理人と大使館占拠当時イラン外務省に出向いていた公使の手引きで、テヘラン市内の大使館のセイフ・ハウスに避難し数日間を過ごした。家から家へと移動し、その後イギリスの民間人の住宅やカナダ大使や同国の出入国管理局高官の公邸、スウェーデン大使館やスウェーデン領事のアパートに分散して匿われた後、占拠されていない外交官向け住居が数週間に渡り避難所として使用された。
対欧米融和的なメフディー・バーザルガーン政権が崩壊したため、彼らはこの苦難が早期には終結しない事を悟った。カナダ人外交官のジョン・シェアダウンを経由して、ケン・テイラー大使率いるカナダ大使公邸に集まったが、そこに79日間にわたり隠れざるを得なくなった。
共同作戦のために創作された映画「アルゴ」のポスター
作戦成功後にアントニオ・J・メンデスを祝福するカーター大統領
「カナダありがとう」と書かれた幕を掲げるアメリカ人
テイラー大使は、本国の外務省に対してこれらの6人の救出を依頼した。直ちにカナダ政府はアメリカ政府にこの事実を伝え、脱出計画の依頼を受けたアメリカ中央情報局(CIA)のアントニオ・J・メンデスらが、館員らをカナダから派遣された農業調査員や英語教師、映画の撮影スタッフに偽装させて脱出させる計画を立案した。
救出作戦の実行に際してカナダ政府は枢密院令を出し、この6人とメンデスらCIAの作戦グループにカナダのパスポート