イーストエンド・オブ・ロンドン (East End of London) は、イングランド のロンドン においてシティ・オブ・ロンドン の中世 ちゅうせい 期 き の防壁 ぼうへき の東側 ひがしがわ とテムズ川 がわ の北側 きたがわ の地域 ちいき を指 さ す。しかし、正式 せいしき な地域 ちいき の境界 きょうかい は存在 そんざい しない。ウエストエンド に対 たい する下町 したまち 。テムズ川 がわ が曲 きょく 流 なが しており、それに沿 そ って港湾 こうわん 施設 しせつ が建 た ち並 なら ぶ。
ブリック・レーン(2005年 ねん )
ジョン・ロックが1747年 ねん に完成 かんせい させたロンドン地図 ちず の一部 いちぶ 、イーストエンドの外 そと には農地 のうち が広 ひろ がる。
オリンピック・パーク
かつて切 き り裂 さ きジャック の現場 げんば となった所 ところ である。毎年 まいとし 恒例 こうれい で、9月にイースト・ミーツ・ウェスト・カーニバル、12月にはスピタルフィールズ の音楽 おんがく 祭 さい がある。
1720年 ねん 頃 ごろ にはイーストエンドはロンドンの一部 いちぶ と認識 にんしき されていたようである。当時 とうじ の歴史 れきし 家 か ジョン・ストライプの記述 きじゅつ に "ロンドンはシティ、ウエストミンスター 、サザーク そして「塔 とう の向 む こう」から成 な る" という一文 いちぶん がある。これはロンドン塔 とう の東 ひがし のことである。
当初 とうしょ 、イーストエンドはシティの防御 ぼうぎょ 壁 かべ 外側 そとがわ の住宅 じゅうたく 地 ち と街道 かいどう 沿 ぞ いの集落 しゅうらく で成 な り立 た っていたが、テムズ川 がわ 北岸 ほくがん は沼地 ぬまち と農地 のうち であり、海運 かいうん 業者 ぎょうしゃ とイギリス海軍 かいぐん にとって必要 ひつよう な条件 じょうけん を満 み たす地域 ちいき であった。プール・オブ・ロンドン を東 ひがし に拡張 かくちょう する形 かたち で船 ふね の建造 けんぞう 、修理 しゅうり に関 かん する産業 さんぎょう が盛 さか んになった。農村 のうそん であったスピタルフィールズでは副業 ふくぎょう として絹織物 きぬおりもの が生産 せいさん され、移民 いみん 労働 ろうどう 者 しゃ も集 あつ まるようになった[1] 。最初 さいしょ はアイルランド 人 ひと 、続 つづ いてアシュケナージ・ユダヤ 人 ひと が続 つづ き、20世紀 せいき にバングラデシュ 人 ひと が続 つづ いた。経験 けいけん を要 よう しない単純 たんじゅん 労働 ろうどう は、イーストエンドでの低 てい 所得 しょとく と貧困 ひんこん を招 まね いた。これは18世紀 せいき 中期 ちゅうき に改革 かいかく 論 ろん 者 しゃ の注意 ちゅうい を引 ひ き、労働 ろうどう 組合 くみあい や労働 ろうどう 協会 きょうかい が作 つく られた。イーストエンドの急進 きゅうしん 主義 しゅぎ は、労働党 ろうどうとう の編成 へんせい と女性 じょせい 参政 さんせい 権 けん の成立 せいりつ に貢献 こうけん した。
イーストエンドの語 かたり が持 も つ軽蔑 けいべつ 的 てき な意味合 いみあ いは19世紀 せいき 後半 こうはん に生 う まれたが、これはシティの人口 じんこう の増加 ぞうか によって極端 きょくたん な過密 かみつ 状態 じょうたい になり、貧困 ひんこん 層 そう と移民 いみん 層 そう が東部 とうぶ へ移住 いじゅう せざるを得 え なくなったことが起因 きいん している[2] [3] 。
低 てい 所得 しょとく 層 そう が東部 とうぶ に向 む かった要因 よういん としては、ドックランズ (港湾 こうわん 施設 しせつ )周辺 しゅうへん に低 てい 賃金 ちんぎん の労働 ろうどう 者 しゃ 向 む けの仕事 しごと が豊富 ほうふ にあったこと、大気 たいき 汚染 おせん や水質 すいしつ 汚染 おせん を引 ひ き起 お こす事業 じぎょう 所 しょ が東部 とうぶ に点在 てんざい しており住宅 じゅうたく の家賃 やちん が安 やす かったこと(これはロンドンの風向 かざむ きや水 みず の流 なが れが西 にし から東 ひがし の方向 ほうこう であるため)、国王 こくおう の宮殿 きゅうでん がウエストミンスター(西部 せいぶ )にあるため反対 はんたい の東部 とうぶ に向 む かった、などの理由 りゆう が指摘 してき されている。
1827年 ねん のセイント・キャサリン・ドックズ の建設 けんせつ と1840年 ねん から1875年 ねん にかけて建設 けんせつ された多 おお くのターミナル駅 えき によってシティのスラムが一掃 いっそう され、多 おお くの人々 ひとびと がイーストエンドへ移 うつ り住 す んだことから、さらなる悪化 あっか を引 ひ き起 お こした。およそ1世紀 せいき の間 あいだ 、イーストエンドは貧困 ひんこん 、人口 じんこう 過密 かみつ 、病気 びょうき 、犯罪 はんざい を意味 いみ した[4] 。
低 てい 所得 しょとく 者 しゃ 用 よう の公共 こうきょう 住宅 じゅうたく を建設 けんせつ する試 こころ みは、ロンドン・シティ・カウンシル によって1900年代 ねんだい 初期 しょき に始 はじ まった。しかし、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん では、ドック、鉄道 てつどう 、工業 こうぎょう 地帯 ちたい が継続 けいぞく 的 てき に攻撃 こうげき 目標 もくひょう となり、イーストエンドを荒廃 こうはい させた。1950年代 ねんだい にはさらに東方 とうほう に新 あたら しい住宅 じゅうたく 地 ち が建設 けんせつ され、郊外 こうがい へ住民 じゅうみん の離散 りさん をもたらした[4] 。1960年代 ねんだい 以降 いこう はコンテナ輸送 ゆそう が主流 しゅりゅう となり、旧式 きゅうしき のドックランズ のドックは次々 つぎつぎ に閉鎖 へいさ された。ここで仕事 しごと をしていた港湾 こうわん 労働 ろうどう 者 しゃ の多 おお くが失業 しつぎょう した。
1980年代 ねんだい 後半 こうはん に始 はじ まったカナリー・ワーフ 開発 かいはつ はイギリス最大 さいだい 規模 きぼ の都市 とし 再 さい 開発 かいはつ であり、他 ほか にもストラトフォード のオリンピック・パーク 、ショーディッチ のテック シティなど、イーストエンドは近年 きんねん 劇的 げきてき な変化 へんか を遂 と げた。しかしながら、一部 いちぶ ではイギリスで最悪 さいあく の貧困 ひんこん 層 そう を含 ふく んでおり改善 かいぜん の努力 どりょく が続 つづ けられている[5] 。
^ Bethnal Green: Settlement and Building to 1836 , A History of the County of Middlesex: Volume 11: Stepney, Bethnal Green (1998), pp. 91–5 Date accessed: 17 April 2007
^ Oxford Dictionary of London Place Names , A Mills (2000)
^ Andrew August Poor Women's Lives: Gender, Work, and Poverty in Late-Victorian London , pp 35-6 (Fairleigh Dickinson University Press, 1999) ISBN 0838638074
^ a b The East End Alan Palmer , (John Murray, London 1989) ISBN 071955666X
^ Chris Hammett Unequal City: London in the Global Arena (2003) Routledge ISBN 0-415-31730-4