オットー・リリエンタール (Otto Lilienthal 、1848年 ねん 5月23日 にち - 1896年 ねん 8月 がつ 10日 とおか )は、ドイツ の初期 しょき 航空 こうくう 工学 こうがく (応用 おうよう 空気 くうき 力学 りきがく )発展 はってん に貢献 こうけん した航空 こうくう パイオニアの1人 ひとり 。ユダヤ系 けい [2] [3] ドイツ人 じん 。およそ20年 ねん に及 およ ぶ鳥 とり の羽根 はね による飛行 ひこう を研究 けんきゅう した上 うえ でジョージ・ケイリー による考案 こうあん のハンググライダー を実際 じっさい に作 つく り小高 こだか い丘 おか から飛行 ひこう する無数 むすう の試験 しけん を行 おこな い、その詳細 しょうさい な記録 きろく を採 と った事 こと で知 し られる。この事 こと から事実 じじつ 上 じょう ジョージ・ケイリー が確立 かくりつ した実験 じっけん 手法 しゅほう を引 ひ き継 つ いだ功績 こうせき を持 も つ。リリエンタールが滑空 かっくう する様子 ようす を撮影 さつえい した写真 しゃしん が雑誌 ざっし や新聞 しんぶん に掲載 けいさい され、飛行 ひこう する機械 きかい が実用 じつよう 化 か される可能 かのう 性 せい について科学 かがく 界 かい や一般 いっぱん 大衆 たいしゅう へ認知 にんち させつつ好意 こうい 的 てき な考 かんが え方 かた をするようになる下地 したじ を作 つく ると共 とも にライト兄弟 きょうだい が歩 あゆ む道 みち を開 ひら いた先駆 せんく 者 しゃ の一人 ひとり 。
プロイセン王国 おうこく ポメラニア地方 ちほう アンクラム のスウェーデン から移住 いじゅう したユダヤ系 けい の中流 ちゅうりゅう の家 いえ に生 う まれた。両親 りょうしん は8人 にん の子 こ をもうけたが、成人 せいじん したのはオットー、グスタフ (英語 えいご 版 ばん ) 、マリーの3人 にん だけである[4] 。オットーとグスタフは生涯 しょうがい にわたって様々 さまざま なことを一緒 いっしょ に行 おこ なった。
アンクラムの中等 ちゅうとう 学校 がっこう に学 まな び、弟 おとうと のグスタフ(1849年 ねん - 1933年 ねん )と共 とも に鳥 とり の飛 と び方 かた を研究 けんきゅう して有人 ゆうじん 飛行 ひこう の発案 はつあん に魅了 みりょう された[5] 。オットーとグスタフは外 そと 付 づ けの飛行 ひこう 翼 つばさ を制作 せいさく したが、飛行 ひこう に失敗 しっぱい した。その後 ご 2年間 ねんかん ポツダム の工業 こうぎょう 学校 がっこう に通 かよ い、プロの設計 せっけい 技師 ぎし になる前 まえ にシュワルツコフ社 しゃ で訓練 くんれん を受 う けた。彼 かれ はその後 ご 父親 ちちおや の意志 いし に反 はん し、ベルリンの王立 おうりつ 技術 ぎじゅつ アカデミーへ参加 さんか するつもりだった。
1867年 ねん 、初期 しょき の空気 くうき 力学 りきがく の実験 じっけん を開始 かいし したが、普 ひろし 仏 ふつ 戦争 せんそう に従軍 じゅうぐん したときに中断 ちゅうだん した。様々 さまざま な技術 ぎじゅつ 系 けい の会社 かいしゃ に技師 ぎし として雇 やと われ、最初 さいしょ に取得 しゅとく した特許 とっきょ は採掘 さいくつ 機 き に関 かん するものだった。ヴェーバー社 しゃ に雇 やと われ、彼 かれ は空気 くうき 力学 りきがく の系統 けいとう 的 てき な実験 じっけん を開始 かいし し、アルプスの崖 がけ から飛 と び降 お りるためにオーストリアへ引 ひ っ越 こ した。ドイツへ戻 もど ると、1878年 ねん 6月6日 にち にアグネス・フィッシャーと結婚 けっこん し、その5年 ねん 後 ご にはボイラーと蒸気 じょうき 機関 きかん を作 つく る会社 かいしゃ を設立 せつりつ した。1889年 ねん 、オットーは『飛行 ひこう 技術 ぎじゅつ の基礎 きそ としての鳥 とり の飛翔 ひしょう (Der Vogelflug als Grundlage der Fliegekunst)』を出版 しゅっぱん した。
妻 つま はピアノと声楽 せいがく を学 まな んでおり、リリエンタールもホルン を演奏 えんそう し、テノール のよい声 こえ で歌 うた った[6] 。結婚 けっこん 後 ご はベルリンに住 す み、4人 にん の子 こ (オットー、アンナ、フリッツ、フリーダ)をもうけた[1] 。
『鳥 とり の飛翔 ひしょう 』(1889) にあるシュバシコウ の翼 つばさ の図解 ずかい
飛行 ひこう 中 ちゅう のリリエンタール(1895年 ねん ごろ)
初期 しょき には回転 かいてん アーム(“whirling arm”。風洞 ふうどう とは逆 ぎゃく に、静止 せいし した空気 くうき 中 ちゅう で翼 つばさ 模型 もけい を回転 かいてん 運動 うんどう させる実験 じっけん 装置 そうち )を利用 りよう して、また後 のち には自然 しぜん 風 ふう 中 ちゅう で翼 つばさ 型 がた の実験 じっけん を行 おこな い、単 たん なる板 いた 状 じょう の翼 つばさ 型 がた をした平板 へいばん 翼 つばさ よりも、翼 つばさ 弦 つる の中央 ちゅうおう 付近 ふきん がふくらんだキャンバ翼 つばさ の方 ほう が高性能 こうせいのう であることを示 しめ した。
リリエンタール最大 さいだい の貢献 こうけん は、空気 くうき より重 おも い機体 きたい での飛行 ひこう を成 な し遂 と げたことである。ベルリン 近郊 きんこう に人工 じんこう の丘 おか を造 つく り、そこや自然 しぜん の丘 おか から飛行 ひこう 実験 じっけん を行 おこ なった。特 とく にリノウ近辺 きんぺん の丘 おか をよく使 つか っていた。
1894年 ねん にアメリカで取得 しゅとく した特許 とっきょ では、パイロットが棒 ぼう を握 にぎ って操縦 そうじゅう するハンググライダーを記 しる している[7] 。パーシー・ピルチャー とリリエンタールの考案 こうあん した操縦 そうじゅう 用 よう フレームが今日 きょう のハンググライダー などに生 い かされている。最初 さいしょ に作 つく った Derwitzer で1891年 ねん から飛行 ひこう 実験 じっけん を開始 かいし し、弟 おとうと グスタフと共 とも に自分 じぶん たちで設計 せっけい したグライダーで2,000回 かい 以上 いじょう の飛行 ひこう を行 おこな い、1896年 ねん にグライダーの墜落 ついらく で死亡 しぼう した。総 そう 飛行 ひこう 時間 じかん は5時 じ 間 あいだ だった[8] 。
1891年 ねん の実験 じっけん を開始 かいし した時点 じてん で、飛行 ひこう 距離 きょり は約 やく 25m程度 ていど だった。丘 おか の上 うえ から写真 しゃしん 家 か に一番 いちばん よいポジションで写真 しゃしん を撮 と るよう怒鳴 どな り、毎秒 まいびょう 10mの向 む かい風 かぜ の上昇 じょうしょう 気流 きりゅう を捉 とら えて飛行 ひこう した。1893年 ねん にはリノウの丘 おか で250mの飛行 ひこう 距離 きょり を達成 たっせい している。この記録 きろく はその後 ご 自身 じしん も破 やぶ ることができず、彼 かれ が亡 な くなるまで他 た の人々 ひとびと も破 やぶ れなかった[8] 。
リリエンタールは鳥 とり (特 とく にコウノトリ科 か )の飛行 ひこう を正確 せいかく に描写 びょうしゃ し、揚 あげ 抗 こう 曲線 きょくせん (英語 えいご 版 ばん ) を使 つか って翼 つばさ の空気 くうき 力学 りきがく 特性 とくせい を表 あらわ した。信頼 しんらい できるデータを集 あつ めるため、多数 たすう の実験 じっけん を行 おこな った。
現存 げんそん する1894年 ねん 製 せい グライダー6機 き の1つ。水平 すいへい 尾翼 びよく 復元 ふくげん を始 はじ め各部 かくぶ は修復 しゅうふく されている(米国 べいこく 国立 こくりつ 航空 こうくう 宇宙 うちゅう 博物館 はくぶつかん )。
有人 ゆうじん 飛行 ひこう 実験 じっけん を行 おこな ったのは6年 ねん ほどだが、その間 あいだ に単葉 たんよう 機 き 、オーニソプター 、複葉 ふくよう 機 き など様々 さまざま な機種 きしゅ を開発 かいはつ している[9] 。安定 あんてい 的 てき 飛行 ひこう を達成 たっせい するため、重量 じゅうりょう が均等 きんとう に分散 ぶんさん されるよう注意深 ちゅういぶか く設計 せっけい している。そして現代 げんだい のハンググライダー のように、操縦 そうじゅう 者 しゃ が身体 しんたい をずらして重心 じゅうしん を移動 いどう させることで操縦 そうじゅう した。しかし操縦 そうじゅう は難 むずか しく、失速 しっそく しやすく、そこから回復 かいふく させるのは難 むずか しかった。その原因 げんいん の1つは、現代 げんだい のハンググライダーのように体 からだ を機体 きたい から吊 つ り下 さ げるのではなく、肩 かた を翼 つばさ に固定 こてい した点 てん である。そのため動 うご かせるのが下半身 かはんしん だけとなり、重心 じゅうしん の移動 いどう が十分 じゅうぶん に行 おこな えなかった。
リリエンタールは安定 あんてい 性 せい を確保 かくほ すべく様々 さまざま なことを試 ため しており、その成功 せいこう の度合 どあ いは様々 さまざま だった。翼 つばさ 幅 はば を半分 はんぶん にして翼 つばさ 面積 めんせき を維持 いじ する複葉 ふくよう 機 き やちょうつがいで連結 れんけつ された尾翼 びよく を持 も つ機体 きたい (着陸 ちゃくりく 時 じ に尾翼 びよく を上 あ げることで着陸 ちゃくりく しやすくした)などがある。また、鳥 とり のように羽 は ばたく必要 ひつよう があると考 かんが え、羽 は ばたくための動力 どうりょく を備 そな えたオーニソプター も開発 かいはつ しようとした。
オットー・リリエンタールが製作 せいさく した飛行機 ひこうき
名称 めいしょう
日付 ひづけ
翼 つばさ
グライダー
注 ちゅう
幅 はば (ft )
面積 めんせき (sq ft )
最大 さいだい 長 ちょう (ft)
長 なが さ (ft)
重量 じゅうりょう (kg)
Derwitzer Glider
1891
25 (later 18)
108 (later 84)
6.6
12.8
18
翼 つばさ の曲 きょく 率 りつ は長 なが さの1/10
Südende Glider
1892
31
158
8.2
3.3
24
翼 つばさ の曲 きょく 率 りつ は長 なが さの1/20
Maihöhe Rhinow Glider
1893
22 or 23
150
8.2
14.3
20
Small Ornithopter
1893-1896
22
129
8.2
5.5
オーニソプター炭酸 たんさん ガスのシリンダーを装備 そうび (重量 じゅうりょう は10kg)
Lilienthal Normalsegelapparat
1894
22 - 23
140-146
7.9 / 8.2
16.1 - 17.4
20
少 すく なくとも9機 き を販売 はんばい 。 ロンドン、モスクワ、ミュンヘン(一部 いちぶ )、ワシントンD.C.の博物館 はくぶつかん が実物 じつぶつ を所蔵 しょぞう 。
Sturmflügelmodell
1894
20
104
6.6
14.8
ウィーン技術 ぎじゅつ 博物館 はくぶつかん (英語 えいご 版 ばん ) が実物 じつぶつ を所蔵 しょぞう 。
Vorflügelapparat
1895
29
204
9.8
18.4
Small Biplane
1895
19.7 / 17.1
104 / 105
7.2 / 6.9
15.7
複葉 ふくよう 機 き
Big Biplane
1895
21.6 / 20.7
146 / 112
7.5 / 7.5
16.1
複葉 ふくよう 機 き
Big Ornithopter
1896
27.9
188
8.2
17.4
オーニソプター
ベルリンの記念 きねん 碑 ひ の除幕 じょまく 式 しき の模様 もよう 。グスタフ(左 ひだり )と Paul Baylich。(1932年 ねん 8月 がつ )
一方 いっぽう でリリエンタールは発明 はつめい 家 か として煙管 きせる ボイラー用 よう の小型 こがた 蒸気 じょうき 機関 きかん などを考案 こうあん した。彼 かれ の蒸気 じょうき 機関 きかん は当時 とうじ の小型 こがた 蒸気 じょうき 機関 きかん の中 なか でも安全 あんぜん 性 せい が高 たか かった。その発明 はつめい によって得 え た利益 りえき を飛行 ひこう 実験 じっけん の資金 しきん としている。その発明 はつめい をしたころ弟 おとうと グスタフはオーストラリア に住 す んでおり、1885年 ねん にグスタフが帰 かえ ってきてから空気 くうき 力学 りきがく や飛行 ひこう の実験 じっけん を行 おこな うようになった。
生涯 しょうがい に25の特許 とっきょ を取得 しゅとく したことが知 し られている[10] [11] 。
最初 さいしょ に飛行 ひこう 訓練 くんれん を行 おこ なったのは、ベルリン近郊 きんこう のシュテーグリッツにある "Maihöhe" という丘 おか だった。その丘 おか の頂上 ちょうじょう に4mの高 たか さの小屋 こや を建 た て、10mの高 たか さから飛 と び立 た てるようにした。小屋 こや はグライダーの保管 ほかん 場所 ばしょ としても使 つか われた[12] 。
1884年 ねん 、自宅 じたく 付近 ふきん のリヒターフェルデに "Fliegeberg"(「飛行 ひこう 山 さん 」の意 い )と名付 なづ けた円錐 えんすい 形 がた の丘 おか を築 きず いた[13] 。きれいな円錐 えんすい 形 がた にしたことで、どの方向 ほうこう から風 かぜ が吹 ふ いていても飛行 ひこう 実験 じっけん できるようになった[9] 。高 たか さは15mである。飛行 ひこう 実験 じっけん の際 さい には常 つね に見物 けんぶつ 客 きゃく が集 あつ まった[14] 。
1932年 ねん 、ベルリンの建築 けんちく 家 か Fritz Freymüller がその丘 おか を再 さい 設計 せっけい し、リリエンタールの記念 きねん 碑 ひ に作 つく り変 か えた[15] 。頂上 ちょうじょう には小 ちい さな寺院 じいん 風 ふう の建築 けんちく 物 ぶつ が建 た てられており、わずかに傾斜 けいしゃ した丸 まる い屋根 やね を複数 ふくすう の柱 はしら で支 ささ えている。その中央 ちゅうおう に有名 ゆうめい な飛行 ひこう の詳細 しょうさい を記 しる した銀色 ぎんいろ の地球儀 ちきゅうぎ が置 お かれている[16] 。没後 ぼつご 36周年 しゅうねん となる1932年 ねん 8月 がつ 10日 とおか に除幕 じょまく 式 しき が行 おこな われ、弟 おとうと グスタフと助手 じょしゅ だった Paul Baylich も出席 しゅっせき した。
リリエンタールのグライダーの模型 もけい
リリエンタールの飛行 ひこう 実験 じっけん はドイツだけでなく世界中 せかいじゅう で報道 ほうどう され、その写真 しゃしん が様々 さまざま な出版 しゅっぱん 物 ぶつ に掲載 けいさい された。オットマール・アンシュッツ といった初期 しょき の写真 しゃしん 家 か やアメリカ人 じん 物理 ぶつり 学者 がくしゃ ロバート・ウィリアム・ウッド がリリエンタールの飛行 ひこう 実験 じっけん の写真 しゃしん を撮影 さつえい した。
リリエンタールは Verein zur Förderung der Luftschifffahrt (航空 こうくう 振興 しんこう 協会 きょうかい )の会員 かいいん で、実験 じっけん の詳細 しょうさい は同 どう 協会 きょうかい の会誌 かいし Zeitschrift für Luftschifffahrt und Physik der Atmosphäre に定期 ていき 的 てき に掲載 けいさい され、一般 いっぱん 週刊 しゅうかん 誌 し Prometheus にも掲載 けいさい された。それらの翻訳 ほんやく がアメリカ、フランス、ロシアで出版 しゅっぱん されている。サミュエル・ラングレー (アメリカ)、ニコライ・ジュコーフスキー (ロシア)、パーシー・ピルチャー (イギリス)、ヴィルヘルム・クレス (オーストリア)といった様々 さまざま な人々 ひとびと が世界中 せかいじゅう から彼 かれ に会 あ いに来 き た。ジュコーフスキーはリリエンタールの飛行 ひこう 機械 きかい が航空 こうくう 分野 ぶんや で最 もっと も重要 じゅうよう な発明 はつめい だったと記 しる している。他 ほか にもオクターヴ・シャヌート をはじめとする多 おお くの航空 こうくう パイオニアと会 あ っている。
1896年 ねん 8月 がつ 9日 にち 、前 まえ の週末 しゅうまつ と同様 どうよう リノウの丘 おか に向 む かった。その日 ひ はよく晴 は れていて、あまり暑 あつ くなかった(約 やく 20℃)。最初 さいしょ の飛行 ひこう は通常 つうじょう のグライダーを使 つか い、約 やく 250mを飛行 ひこう 。4回 かい 目 め の飛行 ひこう 中 ちゅう に失速 しっそく し、なんとか体勢 たいせい を立 た て直 なお そうとしたが失敗 しっぱい し、約 やく 15mの高 たか さから墜落 ついらく [17] 。
助手 じょしゅ の Paul Beylich がリリエンタールを馬車 ばしゃ に乗 の せて家 いえ まで運 はこ び、そこで医師 いし の診察 しんさつ を受 う けた。第 だい 三 さん 頸椎 を損傷 そんしょう しており、間 ま もなく意識 いしき 不明 ふめい となっている。同日 どうじつ 、ベルリン まで列車 れっしゃ で運 はこ ばれ、翌朝 よくあさ には当時 とうじ ヨーロッパで最 もっと も手術 しゅじゅつ がうまいと言 い われていた Ernst von Bergmann の診療 しんりょう 所 しょ に運 はこ び込 こ まれた。そして4時 じ 間 あいだ 後 ご (事故 じこ 発生 はっせい から36時 じ 間 あいだ 後 ご )に死去 しきょ 。グスタフへの最期 さいご の言葉 ことば は「犠牲 ぎせい は払 はら われなければならない (Opfer müssen gebracht werden)」だった[12] 。
没後 ぼつご リリエンタールの遺体 いたい はルリンの公共 こうきょう 墓地 ぼち に埋葬 まいそう された。
リリエンタールの記念 きねん 碑 ひ (ベルリン、2006年 ねん )
別 べつ の記念 きねん 碑 ひ
ベルリンで発行 はっこう された切手 きって (1978)
ベルリン・テーゲル空港 くうこう は、オットー・リリエンタール空港 くうこう とも呼 よ ばれている。
1889年 ねん に発行 はっこう した研究 けんきゅう 資料 しりょう ・実験 じっけん 記録 きろく 『航空 こうくう 技術 ぎじゅつ の基礎 きそ としての鳥 とり の飛行 ひこう 』には、自然 しぜん 風 ふう 中 ちゅう での実験 じっけん により得 え た円弧 えんこ 翼 つばさ のデータが含 ふく まれていた。ライト兄弟 きょうだい は、オクターヴ・シャヌート の手 て を経 へ て一部 いちぶ が英訳 えいやく されたこの本 ほん を入手 にゅうしゅ し、彼 かれ らが「リリエンタールの表 ひょう 」と呼 よ んだこの翼 つばさ 型 がた データも利用 りよう して、1900年 ねん と1901年 ねん にグライダー を製作 せいさく した。しかしながら、いずれも計算 けいさん 通 どお りの十分 じゅうぶん な揚力 ようりょく が得 え られなかった。これは、以下 いか のような点 てん が原因 げんいん だったとされる。
リリエンタールの表 ひょう は、中央 ちゅうおう 付近 ふきん がふくらんだ円弧 えんこ 状 じょう の翼 つばさ 型 がた 、かつ、翼 つばさ 端 はし がとがった翼 つばさ 平面 へいめん 形 がた についてのデータであったのに対 たい して、グライダーには前 ぜん 縁 えん 付近 ふきん がふくらんだ翼 つばさ 型 がた 、かつ、ほぼ矩形 くけい の翼 つばさ 平面 へいめん 形 がた を採用 さいよう したこと
不正確 ふせいかく なスミートン係数 けいすう を使用 しよう したこと
アスペクト比 ひ が小 ちい さすぎた(これはリリエンタールの表 ひょう とは直接 ちょくせつ 関係 かんけい しない)
オットー自身 じしん も誤 あやま ったスミートン係数 けいすう を使用 しよう しており、ライト兄弟 きょうだい もそれを根拠 こんきょ として使用 しよう したと思 おも われるが、計算 けいさん 過程 かてい でその影響 えいきょう は打 う ち消 け されていたため、「表 ひょう 」の数値 すうち そのものは正 ただ しかった。ところが、はじめライト兄弟 きょうだい はこれに気 き づかず、次第 しだい に「表 ひょう 」の数値 すうち そのものを疑 うたが うようになり、結局 けっきょく 、自分 じぶん たちで風洞 ふうどう 実験 じっけん を行 おこな って正 ただ しいスミートン係数 けいすう を得 え た。ただし、彼 かれ らも後 のち には「表 ひょう 」が適用 てきよう できる条件 じょうけん を正 ただ しく認識 にんしき したようである[18] 。
19
世紀 せいき に
飛行 ひこう に
取 と り
組 く んだ
人々 ひとびと の
中 なか で、オットー・リリエンタールは
明 あき らかに
最 もっと も
重要 じゅうよう である。…
彼 かれ の
数 すう 百 ひゃく 年 ねん も
前 まえ から
滑空 かっくう が
試 こころ みられてきたことは
事実 じじつ であり、19
世紀 せいき にも
ケイリー 、スペンサー(
en )、
ウェナム 、
ムイヤール といった
人々 ひとびと が
滑空 かっくう を
試 こころ みたが、
彼 かれ らの
試 こころ みは
全 まった くの
失敗 しっぱい であり
価値 かち ある
結果 けっか を
生 う み
出 だ さなかった。
1909年 ねん 9月 がつ 、オーヴィル・ライトがドイツを訪 おとず れテンペルホーフ飛行場 ひこうじょう で飛行 ひこう デモンストレーションを行 おこな った。その際 さい にリリエンタールの未亡人 みぼうじん を招待 しょうたい し、リリエンタールの功績 こうせき に敬意 けいい を表 あらわ し彼 かれ らへの影響 えいきょう を認 みと めた。
墜落 ついらく 死 し の直前 ちょくぜん 期 き 、リリエンタールが動力 どうりょく 機 き の開発 かいはつ に取 と りかかっていたことは有名 ゆうめい である。しかし彼 かれ が飛 と ばそうとしていたのが固定 こてい 翼 つばさ 機 き ではなくオーニソプター の一種 いっしゅ であったことはあまり知 し られていない。それは炭酸 たんさん ガス エンジン(圧縮 あっしゅく 空気 くうき エンジン)を動力 どうりょく としていた。特許 とっきょ 取得 しゅとく (1893年 ねん )の後 のち 、1号機 ごうき (1894年 ねん )と2号機 ごうき (1896年 ねん )が作 つく られた。前者 ぜんしゃ は2馬力 ばりき の小型 こがた 機 き で、後者 こうしゃ はその大型 おおがた 化 か 版 ばん (翼 つばさ 面積 めんせき 20平方 へいほう メートル)であった。彼 かれ の死 し の事情 じじょう を正確 せいかく に言 い うと、有名 ゆうめい な墜落 ついらく が起 お きたのは2号機 ごうき で動力 どうりょく 飛行 ひこう を試 こころ みる前 まえ 、エンジンを外 はず した状態 じょうたい で滑空 かっくう 試験 しけん をしている最中 さいちゅう のことであった。
「もしも1896年 ねん の墜落 ついらく 事故 じこ がなければ、人類 じんるい 初 はつ の動力 どうりょく 飛行 ひこう は、ライト兄弟 きょうだい の登場 とうじょう を待 ま つことなくリリエンタールによって成 な し遂 と げられていただろう」という論調 ろんちょう がかつては有力 ゆうりょく だった。しかし彼 かれ の動力 どうりょく 機 き がオーニソプター であったことから、今日 きょう ではその考 かんが えは疑問 ぎもん 視 し されている。むしろ、ライト兄弟 きょうだい がリリエンタールの死 し をきっかけとして自 みずか ら飛行機 ひこうき 開発 かいはつ に乗 の り出 だ したそれが人類 じんるい 初 はつ の動力 どうりょく 飛行 ひこう を早 はや めたものと言 い えるかも知 し れない。
オットーの弟 おとうと ・グスタフ(彼 かれ は主 おも に初期 しょき の頃 ころ 、実験 じっけん の協力 きょうりょく 者 しゃ であった)はオットーの死後 しご 、その後 ご をついでオーニソプター の研究 けんきゅう 開発 かいはつ に取 と り組 く んだ。グスタフは1933年 ねん に病死 びょうし するまでそれを継続 けいぞく したが、さしたる成果 せいか は得 え られなかったという。
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