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オットー・リリエンタール - Wikipedia

オットー・リリエンタール

German aviation pioneer

オットー・リリエンタールOtto Lilienthal1848ねん5月23にち - 1896ねん8がつ10日とおか)は、ドイツ初期しょき航空こうくう工学こうがく応用おうよう空気くうき力学りきがく発展はってん貢献こうけんした航空こうくうパイオニアの1人ひとりユダヤけい[2][3]ドイツじん。およそ20ねんおよとり羽根はねによる飛行ひこう研究けんきゅうしたうえジョージ・ケイリーによる考案こうあんハンググライダー実際じっさいつく小高こだかおかから飛行ひこうする無数むすう試験しけんおこない、その詳細しょうさい記録きろくったことられる。このことから事実じじつじょうジョージ・ケイリー確立かくりつした実験じっけん手法しゅほういだ功績こうせきつ。リリエンタールが滑空かっくうする様子ようす撮影さつえいした写真しゃしん雑誌ざっし新聞しんぶん掲載けいさいされ、飛行ひこうする機械きかい実用じつようされる可能かのうせいについて科学かがくかい一般いっぱん大衆たいしゅう認知にんちさせつつ好意こういてきかんがかたをするようになる下地したじつくるとともライト兄弟きょうだいあゆみちひらいた先駆せんくしゃ一人ひとり

オットー・リリエンタール
Otto Lilienthal, c. 1896
生誕せいたん Karl Wilhelm Otto Lilienthal
(1848-05-23) 1848ねん5月23にち
プロイセン王国の旗 プロイセン王国おうこく アンクラム
死没しぼつ (1896-08-10) 1896ねん8がつ10日とおか(48さいぼつ
ドイツの旗 ドイツ帝国ていこく ベルリン
死因しいん グライダーの墜落ついらく事故じこ
国籍こくせき ドイツの旗 ドイツ
職業しょくぎょう 技師ぎし
著名ちょめい実績じっせき 滑空かっくう実験じっけん
配偶はいぐうしゃ アグネス・フィッシャー (1878)
子供こども 4にん[1]
親戚しんせき グスタフ・リリエンタール英語えいごばんおとうと
署名しょめい
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プロイセン王国おうこくポメラニア地方ちほうアンクラムスウェーデンから移住いじゅうしたユダヤけい中流ちゅうりゅういえまれた。両親りょうしんは8にんをもうけたが、成人せいじんしたのはオットー、グスタフ英語えいごばん、マリーの3にんだけである[4]。オットーとグスタフは生涯しょうがいにわたって様々さまざまなことを一緒いっしょおこなった。

アンクラムの中等ちゅうとう学校がっこうまなび、おとうとのグスタフ(1849ねん - 1933ねん)とともとりかた研究けんきゅうして有人ゆうじん飛行ひこう発案はつあん魅了みりょうされた[5]。オットーとグスタフはそとけの飛行ひこうつばさ制作せいさくしたが、飛行ひこう失敗しっぱいした。その2年間ねんかんポツダム工業こうぎょう学校がっこうかよい、プロの設計せっけい技師ぎしになるまえにシュワルツコフしゃ訓練くんれんけた。かれはその父親ちちおや意志いしはんし、ベルリンの王立おうりつ技術ぎじゅつアカデミーへ参加さんかするつもりだった。

1867ねん初期しょき空気くうき力学りきがく実験じっけん開始かいししたが、ひろしふつ戦争せんそう従軍じゅうぐんしたときに中断ちゅうだんした。様々さまざま技術ぎじゅつけい会社かいしゃ技師ぎしとしてやとわれ、最初さいしょ取得しゅとくした特許とっきょ採掘さいくつかんするものだった。ヴェーバーしゃやとわれ、かれ空気くうき力学りきがく系統けいとうてき実験じっけん開始かいしし、アルプスのがけからりるためにオーストリアへした。ドイツへもどると、1878ねん6月6にちにアグネス・フィッシャーと結婚けっこんし、その5ねんにはボイラーと蒸気じょうき機関きかんつく会社かいしゃ設立せつりつした。1889ねん、オットーは『飛行ひこう技術ぎじゅつ基礎きそとしてのとり飛翔ひしょう(Der Vogelflug als Grundlage der Fliegekunst)』を出版しゅっぱんした。

つまはピアノと声楽せいがくまなんでおり、リリエンタールもホルン演奏えんそうし、テノールのよいこえうたった[6]結婚けっこんはベルリンにみ、4にん(オットー、アンナ、フリッツ、フリーダ)をもうけた[1]

飛行ひこう実験じっけん

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とり飛翔ひしょう』(1889) にあるシュバシコウつばさ図解ずかい
 
飛行ひこうちゅうのリリエンタール(1895ねんごろ)

初期しょきには回転かいてんアーム(“whirling arm”。風洞ふうどうとはぎゃくに、静止せいしした空気くうきちゅうつばさ模型もけい回転かいてん運動うんどうさせる実験じっけん装置そうち)を利用りようして、またのちには自然しぜんふうちゅうつばさがた実験じっけんおこない、たんなるいたじょうつばさがたをした平板へいばんつばさよりも、つばさつる中央ちゅうおう付近ふきんがふくらんだキャンバつばさほう高性能こうせいのうであることをしめした。

リリエンタール最大さいだい貢献こうけんは、空気くうきよりおも機体きたいでの飛行ひこうげたことである。ベルリン近郊きんこう人工じんこうおかつくり、そこや自然しぜんおかから飛行ひこう実験じっけんおこなった。とくにリノウ近辺きんぺんおかをよく使つかっていた。

1894ねんにアメリカで取得しゅとくした特許とっきょでは、パイロットがぼうにぎって操縦そうじゅうするハンググライダーをしるしている[7]パーシー・ピルチャーとリリエンタールの考案こうあんした操縦そうじゅうようフレームが今日きょうハンググライダーなどにかされている。最初さいしょつくった Derwitzer で1891ねんから飛行ひこう実験じっけん開始かいしし、おとうとグスタフととも自分じぶんたちで設計せっけいしたグライダーで2,000かい以上いじょう飛行ひこうおこない、1896ねんにグライダーの墜落ついらく死亡しぼうした。そう飛行ひこう時間じかんは5あいだだった[8]

1891ねん実験じっけん開始かいしした時点じてんで、飛行ひこう距離きょりやく25m程度ていどだった。おかうえから写真しゃしん一番いちばんよいポジションで写真しゃしんるよう怒鳴どなり、毎秒まいびょう10mのかいかぜ上昇じょうしょう気流きりゅうとらえて飛行ひこうした。1893ねんにはリノウのおかで250mの飛行ひこう距離きょり達成たっせいしている。この記録きろくはその自身じしんやぶることができず、かれくなるまで人々ひとびとやぶれなかった[8]

リリエンタールはとりとくコウノトリ)の飛行ひこう正確せいかく描写びょうしゃし、あげこう曲線きょくせん英語えいごばん使つかってつばさ空気くうき力学りきがく特性とくせいあらわした。信頼しんらいできるデータをあつめるため、多数たすう実験じっけんおこなった。

プロジェクト

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現存げんそんする1894ねんせいグライダー6の1つ。水平すいへい尾翼びよく復元ふくげんはじ各部かくぶ修復しゅうふくされている(米国べいこく国立こくりつ航空こうくう宇宙うちゅう博物館はくぶつかん)。

有人ゆうじん飛行ひこう実験じっけんおこなったのは6ねんほどだが、そのあいだ単葉たんようオーニソプター複葉ふくようなど様々さまざま機種きしゅ開発かいはつしている[9]安定あんていてき飛行ひこう達成たっせいするため、重量じゅうりょう均等きんとう分散ぶんさんされるよう注意深ちゅういぶか設計せっけいしている。そして現代げんだいハンググライダーのように、操縦そうじゅうしゃ身体しんたいをずらして重心じゅうしん移動いどうさせることで操縦そうじゅうした。しかし操縦そうじゅうむずかしく、失速しっそくしやすく、そこから回復かいふくさせるのはむずかしかった。その原因げんいんの1つは、現代げんだいのハンググライダーのようにからだ機体きたいからげるのではなく、かたつばさ固定こていしたてんである。そのためうごかせるのが下半身かはんしんだけとなり、重心じゅうしん移動いどう十分じゅうぶんおこなえなかった。

リリエンタールは安定あんていせい確保かくほすべく様々さまざまなことをためしており、その成功せいこう度合どあいは様々さまざまだった。つばさはば半分はんぶんにしてつばさ面積めんせき維持いじする複葉ふくようやちょうつがいで連結れんけつされた尾翼びよく機体きたい着陸ちゃくりく尾翼びよくげることで着陸ちゃくりくしやすくした)などがある。また、とりのようにばたく必要ひつようがあるとかんがえ、ばたくための動力どうりょくそなえたオーニソプター開発かいはつしようとした。

オットー・リリエンタールが製作せいさくした飛行機ひこうき
名称めいしょう 日付ひづけ つばさ グライダー ちゅう
はば
(ft)
面積めんせき
(sq ft)
最大さいだいちょう
(ft)
なが
(ft)
重量じゅうりょう
(kg)
Derwitzer Glider 1891 25
(later 18)
108
(later 84)
6.6 12.8 18 つばさきょくりつながさの1/10
Südende Glider 1892 31 158 8.2 3.3 24 つばさきょくりつながさの1/20
Maihöhe Rhinow Glider 1893 22 or 23 150 8.2 14.3 20
Small Ornithopter 1893-1896 22 129 8.2 5.5 オーニソプター
炭酸たんさんガスのシリンダーを装備そうび重量じゅうりょうは10kg)
Lilienthal Normalsegelapparat 1894 22 - 23 140-146 7.9 / 8.2 16.1 - 17.4 20 すくなくとも9販売はんばい
ロンドン、モスクワ、ミュンヘン(一部いちぶ)、ワシントンD.C.の博物館はくぶつかん実物じつぶつ所蔵しょぞう
Sturmflügelmodell 1894 20 104 6.6 14.8 ウィーン技術ぎじゅつ博物館はくぶつかん英語えいごばん実物じつぶつ所蔵しょぞう
Vorflügelapparat 1895 29 204 9.8 18.4
Small Biplane 1895 19.7 / 17.1 104 / 105 7.2 / 6.9 15.7 複葉ふくよう
Big Biplane 1895 21.6 / 20.7 146 / 112 7.5 / 7.5 16.1 複葉ふくよう
Big Ornithopter 1896 27.9 188 8.2 17.4 オーニソプター
 
ベルリンの記念きねん除幕じょまくしき模様もよう。グスタフ(ひだり)と Paul Baylich。(1932ねん8がつ

一方いっぽうでリリエンタールは発明はつめいとして煙管きせるボイラーよう小型こがた蒸気じょうき機関きかんなどを考案こうあんした。かれ蒸気じょうき機関きかん当時とうじ小型こがた蒸気じょうき機関きかんなかでも安全あんぜんせいたかかった。その発明はつめいによって利益りえき飛行ひこう実験じっけん資金しきんとしている。その発明はつめいをしたころおとうとグスタフはオーストラリアんでおり、1885ねんにグスタフがかえってきてから空気くうき力学りきがく飛行ひこう実験じっけんおこなうようになった。

生涯しょうがいに25の特許とっきょ取得しゅとくしたことがられている[10][11]

った場所ばしょ

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最初さいしょ飛行ひこう訓練くんれんおこなったのは、ベルリン近郊きんこうのシュテーグリッツにある "Maihöhe" というおかだった。そのおか頂上ちょうじょうに4mのたかさの小屋こやて、10mのたかさからてるようにした。小屋こやはグライダーの保管ほかん場所ばしょとしても使つかわれた[12]

1884ねん自宅じたく付近ふきんのリヒターフェルデに "Fliegeberg"(「飛行ひこうさん」の)と名付なづけた円錐えんすいがたおかきずいた[13]。きれいな円錐えんすいがたにしたことで、どの方向ほうこうからかぜいていても飛行ひこう実験じっけんできるようになった[9]たかさは15mである。飛行ひこう実験じっけんさいにはつね見物けんぶつきゃくあつまった[14]

1932ねん、ベルリンの建築けんちく Fritz Freymüller がそのおかさい設計せっけいし、リリエンタールの記念きねんつくえた[15]頂上ちょうじょうにはちいさな寺院じいんふう建築けんちくぶつてられており、わずかに傾斜けいしゃしたまる屋根やね複数ふくすうはしらささえている。その中央ちゅうおう有名ゆうめい飛行ひこう詳細しょうさいしるした銀色ぎんいろ地球儀ちきゅうぎかれている[16]没後ぼつご36周年しゅうねんとなる1932ねん8がつ10日とおか除幕じょまくしきおこなわれ、おとうとグスタフと助手じょしゅだった Paul Baylich も出席しゅっせきした。

世界せかいてき名声めいせい

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リリエンタールのグライダーの模型もけい

リリエンタールの飛行ひこう実験じっけんはドイツだけでなく世界中せかいじゅう報道ほうどうされ、その写真しゃしん様々さまざま出版しゅっぱんぶつ掲載けいさいされた。オットマール・アンシュッツといった初期しょき写真しゃしんやアメリカじん物理ぶつり学者がくしゃロバート・ウィリアム・ウッドがリリエンタールの飛行ひこう実験じっけん写真しゃしん撮影さつえいした。

リリエンタールは Verein zur Förderung der Luftschifffahrt航空こうくう振興しんこう協会きょうかい)の会員かいいんで、実験じっけん詳細しょうさいどう協会きょうかい会誌かいし Zeitschrift für Luftschifffahrt und Physik der Atmosphäre定期ていきてき掲載けいさいされ、一般いっぱん週刊しゅうかん Prometheus にも掲載けいさいされた。それらの翻訳ほんやくがアメリカ、フランス、ロシアで出版しゅっぱんされている。サミュエル・ラングレー(アメリカ)、ニコライ・ジュコーフスキー(ロシア)、パーシー・ピルチャー(イギリス)、ヴィルヘルム・クレス(オーストリア)といった様々さまざま人々ひとびと世界中せかいじゅうからかれいにた。ジュコーフスキーはリリエンタールの飛行ひこう機械きかい航空こうくう分野ぶんやもっと重要じゅうよう発明はつめいだったとしるしている。ほかにもオクターヴ・シャヌートをはじめとするおおくの航空こうくうパイオニアとっている。

最期さいご飛行ひこう

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1896ねん8がつ9にちまえ週末しゅうまつ同様どうようリノウのおかかった。そのはよくれていて、あまりあつくなかった(やく20℃)。最初さいしょ飛行ひこう通常つうじょうのグライダーを使つかい、やく250mを飛行ひこう。4かい飛行ひこうちゅう失速しっそくし、なんとか体勢たいせいなおそうとしたが失敗しっぱいし、やく15mのたかさから墜落ついらく[17]

助手じょしゅの Paul Beylich がリリエンタールを馬車ばしゃせていえまではこび、そこで医師いし診察しんさつけた。だいさん頸椎損傷そんしょうしており、もなく意識いしき不明ふめいとなっている。同日どうじつベルリンまで列車れっしゃはこばれ、翌朝よくあさには当時とうじヨーロッパでもっと手術しゅじゅつがうまいとわれていた Ernst von Bergmann診療しんりょうしょはこまれた。そして4あいだ事故じこ発生はっせいから36あいだ)に死去しきょ。グスタフへの最期さいご言葉ことばは「犠牲ぎせいはらわれなければならない(Opfer müssen gebracht werden)」だった[12]

没後ぼつごリリエンタールの遺体いたいはルリンの公共こうきょう墓地ぼち埋葬まいそうされた。

後世こうせいへの影響えいきょう

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リリエンタールの記念きねん(ベルリン、2006ねん
 
べつ記念きねん
 
ベルリンで発行はっこうされた切手きって(1978)

ベルリン・テーゲル空港くうこうは、オットー・リリエンタール空港くうこうともばれている。

ライト兄弟きょうだいへの影響えいきょう

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1889ねん発行はっこうした研究けんきゅう資料しりょう実験じっけん記録きろく航空こうくう技術ぎじゅつ基礎きそとしてのとり飛行ひこう』には、自然しぜんふうちゅうでの実験じっけんにより円弧えんこつばさのデータがふくまれていた。ライト兄弟きょうだいは、オクターヴ・シャヌート一部いちぶ英訳えいやくされたこのほん入手にゅうしゅし、かれらが「リリエンタールのひょう」とんだこのつばさがたデータも利用りようして、1900ねん1901ねんグライダー製作せいさくした。しかしながら、いずれも計算けいさんどおりの十分じゅうぶん揚力ようりょくられなかった。これは、以下いかのようなてん原因げんいんだったとされる。

  1. リリエンタールのひょうは、中央ちゅうおう付近ふきんがふくらんだ円弧えんこじょうつばさがた、かつ、つばさはしがとがったつばさ平面へいめんがたについてのデータであったのにたいして、グライダーにはぜんえん付近ふきんがふくらんだつばさがた、かつ、ほぼ矩形くけいつばさ平面へいめんがた採用さいようしたこと
  2. 不正確ふせいかくスミートン係数けいすう使用しようしたこと
  3. アスペクトちいさすぎた(これはリリエンタールのひょうとは直接ちょくせつ関係かんけいしない)

オットー自身じしんあやまったスミートン係数けいすう使用しようしており、ライト兄弟きょうだいもそれを根拠こんきょとして使用しようしたとおもわれるが、計算けいさん過程かていでその影響えいきょうされていたため、「ひょう」の数値すうちそのものはただしかった。ところが、はじめライト兄弟きょうだいはこれにづかず、次第しだいに「ひょう」の数値すうちそのものをうたがうようになり、結局けっきょく自分じぶんたちで風洞ふうどう実験じっけんおこなってただしいスミートン係数けいすうた。ただし、かれらものちには「ひょう」が適用てきようできる条件じょうけんただしく認識にんしきしたようである[18]

19世紀せいき飛行ひこうんだ人々ひとびとなかで、オットー・リリエンタールはあきらかにもっと重要じゅうようである。… かれすうひゃくねんまえから滑空かっくうこころみられてきたことは事実じじつであり、19世紀せいきにもケイリー、スペンサー(en)、ウェナムムイヤールといった人々ひとびと滑空かっくうこころみたが、かれらのこころみはまったくの失敗しっぱいであり価値かちある結果けっかさなかった。

1909ねん9がつ、オーヴィル・ライトがドイツをおとずテンペルホーフ飛行場ひこうじょう飛行ひこうデモンストレーションをおこなった。そのさいにリリエンタールの未亡人みぼうじん招待しょうたいし、リリエンタールの功績こうせき敬意けいいあらわかれらへの影響えいきょうみとめた。

動力どうりょく飛行ひこうこころ

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墜落ついらく直前ちょくぜん、リリエンタールが動力どうりょく開発かいはつりかかっていたことは有名ゆうめいである。しかしかればそうとしていたのが固定こていつばさではなくオーニソプター一種いっしゅであったことはあまりられていない。それは炭酸たんさんガスエンジン(圧縮あっしゅく空気くうきエンジン)を動力どうりょくとしていた。特許とっきょ取得しゅとく1893ねん)ののち、1号機ごうき1894ねん)と2号機ごうき1896ねん)がつくられた。前者ぜんしゃは2馬力ばりき小型こがたで、後者こうしゃはその大型おおがたばんつばさ面積めんせき20平方へいほうメートル)であった。かれ事情じじょう正確せいかくうと、有名ゆうめい墜落ついらくきたのは2号機ごうき動力どうりょく飛行ひこうこころみるまえ、エンジンをはずした状態じょうたい滑空かっくう試験しけんをしている最中さいちゅうのことであった。

「もしも1896ねん墜落ついらく事故じこがなければ、人類じんるいはつ動力どうりょく飛行ひこうは、ライト兄弟きょうだい登場とうじょうつことなくリリエンタールによってげられていただろう」という論調ろんちょうがかつては有力ゆうりょくだった。しかしかれ動力どうりょくオーニソプターであったことから、今日きょうではそのかんがえは疑問ぎもんされている。むしろ、ライト兄弟きょうだいがリリエンタールのをきっかけとしてみずか飛行機ひこうき開発かいはつしたそれが人類じんるいはつ動力どうりょく飛行ひこうはやめたものとえるかもれない。

オットーのおとうと・グスタフ(かれおも初期しょきころ実験じっけん協力きょうりょくしゃであった)はオットーの死後しご、そのをついでオーニソプター研究けんきゅう開発かいはつんだ。グスタフは1933ねん病死びょうしするまでそれを継続けいぞくしたが、さしたる成果せいかられなかったという。

リリエンタールメダル

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滑空かっくうでの顕著けんちょ功績こうせきとなえ、1938ねん以降いこう国際こくさい航空こうくう連盟れんめいからリリエンタールメダルが授与じゅよされる。


リリエンタールは定期ていきてき飛行ひこう滑空かっくう)の様子ようす写真しゃしん撮影さつえいさせていた。とくオットマール・アンシュッツ有名ゆうめいである。1891ねん以降いこうは、みずからも飛行ひこう様子ようす撮影さつえいしていた[20]かれ試験しけん飛行ひこう撮影さつえいした写真しゃしんすくなくとも137てんあり、なかには良質りょうしつなものもある。すべての現存げんそんする写真しゃしんOtto Lilienthal Museum のサイトで公開こうかいされている。ミュンヘンのドイツ博物館はくぶつかん保管ほかんしていたネガは、だい世界せかい大戦たいせんなか破壊はかいされた[21]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b "Otto Lilienthal." Encyclopedia of World Biography, 2004. Retrieved: 7 January 2012.
  2. ^ Noah J. Efron "A Chosen Calling: Jews in Science in the Twentieth Century" p.14
  3. ^ "American Hebrew and Jewish Tribune", だい140かんだい8ごうには「かれがユダヤじんかどうかは議論ぎろんまとになっているが、すくなくとも祖先そせん一部いちぶがユダヤじんだったことは公的こうてき記録きろくらして間違まちがいない」とある。
  4. ^ Anderson 2001, p. 156
  5. ^ Encyclopedia of Transportation. New York: Rand-McNally, 1977.
  6. ^ Anderson 2001, p. 157
  7. ^ "Flying-Machine Otto Lilienthal. Patents. Retrieved: 16 November 2012.
  8. ^ a b "From Lilienthal to the Wrights." Otto Lilienthal Museum. Retrieved: 8 January 2012.
  9. ^ a b "Pioneers of Flight: Otto Lilienthal." Discovery Channel. Retrieved: 8 January 2012.(2011ねん11月29にち時点じてんアーカイブ
  10. ^ "Patent archives of the Museum." Otto Lilienthal Museum. Retrieved: 13 January 2012.
  11. ^ Patente Otto Lilienthal
  12. ^ a b Chanute, O. "The Flying Man." Progress in Flying Machines. Retrieved: 16 November 2012.
  13. ^ "The man who jumped off hills: Otto Lilienthal's Fliegerberg." journeytoberlin.com. Retrieved: 8 January 2012.
  14. ^ Shlomovitz, Netanel. "Before the Beginning." Israeli Air Force. Retrieved: 8 January 2012.
  15. ^ "From Lichtenrade to Lichterfelde Süd" (in German) Berlin.de. Retrieved: 8 January 2012.
  16. ^ "Monument to Otto Lilienthal." Nature, Volume 130, Issue 3277, 20 August 1932, p. 270.
  17. ^ Harsch, Viktor, Benny Bardrum and Petra Illig. "Lilienthal's Fatal Glider Crash in 1896: Evidence Regarding the Cause of Death." Aviation, Space, and Environmental Medicine, Volume 79, Issue 101, October 2008, pp. 993–994. Retrieved: 7 January 2012.
  18. ^ Crouch 1989, pp. 226–228
  19. ^ Aero Club of America Bulletin, September 1912.
  20. ^ Lukasch, Bernd. "Lilienthal and Photography." Otto Lilienthal Museum. Retrieved: 13 January 2012.
  21. ^ "Lilienthal Photo archives." Otto Lilienthal Museum. Retrieved: 13 January 2012.

参考さんこう文献ぶんけん

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  • ロルフ・シュトレール 『航空こうくう発達はったつ物語ものがたり松谷まつや健二けんじ やく白水しろみずしゃ1965ねん
  • 鈴木すずき真二しんじ 『ライト・フライヤーごうなぞ技法ぎほうどう出版しゅっぱん2002ねんISBN 978-4765544313
  • John D. Anderson, Jr., A History of Aerodynamics and Its Impact on Flying Machines, Cambridge University Press; 1997, ISBN 978-0521454353(hardcover); 1999, ISBN 978-0521669559(paperback)
  • Anderson, John D. (2001), A History of Aerodynamics and Its Impact on Flying Machines, Cambridge, UK: Cambridge University Press, ISBN 978-0-52166-955-9 
  • Crouch, Tom D. (1989), The Bishop's Boys: A Life of Wilbur and Orville Wright, New York: W. W. Norton & Company, ISBN 0-393-30695-X 
    • Tom D. Crouch 『ライト父子ふしでん: はつ航空こうくう技師ぎしライト兄弟きょうだい人生じんせい織田おだつよし やく合同ごうどう会社かいしゃ 織田おだ春風はるかどう2023ねんISBN 978-4991333903
  • Lilienthal, Otto. Birdflight as the Basis of Aviation. First edition, 1911 reprinted 2001: ISBN 0-938716-58-1. (Translation from German edition, Berlin 1889: Der Vogelflug als Grundlage der Fliegekunst reprinted 2003: ISBN 3-9809023-8-2.
    • オットー・リリエンタール 『とり飛翔ひしょう田中たなか豊助とよすけ 原田はらだいくうま やく東海大学とうかいだいがく出版しゅっぱんかい2006ねんISBN 978-4486031765
  • Nitsch, Stephan. From the jump to the flight. Berlin" Brandenburgisches Verlagshaus, 1991. ISBN 3-327-01090-0.

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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