(Translated by https://www.hiragana.jp/)
カイオ・ドゥイリオ級戦艦 - Wikipedia

カイオ・ドゥイリオきゅう戦艦せんかん

イタリア王立おうりつ海軍かいぐん運用うんようした戦艦せんかんかんきゅう
カイオ・デュイリオきゅうから転送てんそう
カイオ・ドゥイリオきゅう戦艦せんかん
かんきゅう概観がいかん
かんしゅ 戦艦せんかん
かんめい 人名じんめい
まえきゅう コンテ・ディ・カブールきゅう戦艦せんかん
つぎきゅう フランチェスコ・カラッチョロきゅう戦艦せんかん
orヴィットリオ・ヴェネトきゅう戦艦せんかん
性能せいのうしょもと改装かいそう
排水はいすいりょう 基準きじゅん:22,964トン(28,700トン)
常備じょうび:25,216トン(29,000トン)
全長ぜんちょう 176.1m(186.9m)
全幅ぜんぷく 28m
吃水きっすい 9.46m(常備じょうび:9.4m、満載まんさい:10.4m)
機関きかん ヤーロウしき重油じゅうゆせんしょうみずかんかん8
&ヤーロウしき石炭せきたん重油じゅうゆこんしょうみずかんかん12
+パーソンズしき低速ていそくタービン3
&パーソンズしき高速こうそくタービン34じく推進すいしん
(ヤーローしき重油じゅうゆせんしょうみずかんかん8
+ブルッゾーしきギヤード・タービン22じく推進すいしん
最大さいだい出力しゅつりょく 32,000hp(85,000hp)
最大さいだい速力そくりょく 21.5ノット(27ノット)
航続こうぞく距離きょり 10ノット/4,800うみさと
(12ノット/4,250海里かいり、20ノット/3,390海里かいり
燃料ねんりょう 石炭せきたん:1,476トン、重油じゅうゆ:845トン(重油じゅうゆ:2,550トン)
乗員じょういん 1,000めい(1,495めい
へいそう 30.5cm(46口径こうけい)3連装れんそうほう3+どう連装れんそうほう2
15.2cm(45口径こうけいたんそうほう16
7.6cm(50口径こうけいたんそうほう13
7.6cm(40口径こうけいたんそうほう6
4cm(39口径こうけいほう2もん
45cm水中すいちゅう魚雷ぎょらい発射はっしゃかん
(32cm(43.8口径こうけい)3連装れんそうほう2+どう連装れんそうほう2
13.5cm(45口径こうけい)3連装れんそうほう4
9cm(50口径こうけいたんそうほう10
37mm(54口径こうけい機銃きじゅう19
装甲そうこう 舷側げんそく:250mm
甲板かんぱん:97mm(135mm)
主砲しゅほうとう: 280mm(ぜんたて)、85mm(天蓋てんがい)
バーベット:230mm(280mm)
司令塔しれいとう:220mm(260mm)

カイオ・ドゥイリオきゅう戦艦せんかん (:Navi da battaglia della Classe Caio Duilio) はイタリア海軍かいぐん王立おうりつ海軍かいぐん戦艦せんかんかんきゅうコンテ・ディ・カブールきゅう戦艦せんかんつづき、イタリア海軍かいぐんだいいち世界せかい大戦たいせんなか竣工しゅんこうさせた3番目ばんめいしゆみきゅう戦艦せんかんかんきゅうである。

カイオ・ドゥイリオきょほう戦艦せんかんカイオ・ドゥイリオきゅう戦艦せんかん (初代しょだい)かんめいぐ2代目だいめにあたる。なお、カイオ・ドゥイリオのほう進水しんすい就役しゅうえきはやかったが、起工きこうはやかったアンドレア・ドーリアかんきゅうめいにアンドレア・ドーリアきゅう戦艦せんかんえい:Andrea Doria class battleship)と表記ひょうきする文献ぶんけんもある。

特徴とくちょう

編集へんしゅう
 
1923ねんほんきゅう武装ぶそう配置はいち装甲そうこう配置はいちしめした

基本きほんてき船体せんたい設計せっけいはカブールきゅう踏襲とうしゅうしているが、各所かくしょでカブールきゅうでの不具合ふぐあい改善かいぜんしている。船体せんたいたん船首せんしゅろうがたがたあらためられ、かんくびからカブールきゅうよりいだしん設計せっけいの「1909ねんがた 30.5cm(46口径こうけいほう」を1・2ばん主砲しゅほうとう背負せおしきに2司令塔しれいとうんだ開放かいほうしき操舵そうだ艦橋かんきょうと1ばん煙突えんとつあいだてられた前部ぜんぶさんきゃく檣までにて船首せんしゅろう甲板かんぱん終了しゅうりょうしており、そこからのち甲板かんぱん一段いちだんがって3ばん主砲しゅほう前向まえむきに1中部ちゅうぶ探照灯たんしょうとうだい後部こうぶさんきゃく檣、2ばん煙突えんとつ後部こうぶ見張みはしょ、4ばん・5ばん主砲しゅほうとううしきで背負せおしきに2配置はいちした。主砲しゅほうとうはカブールきゅうおなじく、1ばん、3ばん、5ばんのみ3連装れんそう砲塔ほうとうに、2ばん、4ばんのみ連装れんそう砲塔ほうとう変則へんそく配置はいちである。

ふくほう配置はいちはカブールきゅうおおきく変化へんかしており、口径こうけいも12cmほうから15.2cmほうしており「1909ねんがた15.2cm(45口径こうけいほう」を採用さいようした。理由りゆうとして従来じゅうらいの12cmほうではオーストリア=ハンガリー帝国ていこく海軍かいぐん整備せいびしている水雷すいらい巡洋艦じゅんようかん大型おおがたした駆逐くちくかんへの打撃だげきりょく不安ふあんがあり、速射そくしゃ性能せいのう犠牲ぎせいにしても確実かくじつ巡洋艦じゅんようかんきゅう撃破げきは可能かのうな15cmクラスのふくほう必要ひつようになったためである。また、装備そうび形式けいしき変化へんかしており1ばん・2ばん主砲しゅほうとう直下ちょっか放射状ほうしゃじょう左右さゆうにケースメイト配置はいちで44もんずつ、4ばん、5ばん主砲しゅほうとう直下ちょっか左右さゆう放射状ほうしゃじょうに44もんずつのかたふなばた8けい1616もん装備そうびした。カブールきゅうでは首尾しゅびせんに6もん以上いじょう指向しこうできる配置はいちとなっているが、ほんきゅうではかん首尾しゅび方向ほうこう指向しこうできるのは4もん減少げんしょうしているがぎゃく左右さゆう舷側げんそく方向ほうこう最大さいだい8もん指向しこうできるようになっている。これは、艦隊かんたい戦闘せんとう縦列じゅうれつ陣形じんけいもちいたとき舷側げんそく方向ほうこう最大限さいだいげん火力かりょく発揮はっきできるようにする工夫くふうである。

そのたい水雷すいらいてい迎撃げいげきように「7.6cm(50口径こうけいほう」をカブールきゅうおなじく13もん、「7.6cm(40口径こうけい高角こうかくほう」を6もん、45cm水中すいちゅう魚雷ぎょらい発射はっしゃかんたんそうで2装備そうびした。船体せんたい底部ていぶはカブールきゅう同様どうようかんくびかんななめになったぶん重量じゅうりょう軽減けいげんできるカットオフ方式ほうしきつづ採用さいようし、かじしゅかじふくかじ直列ちょくれつ装備そうびした。

戦歴せんれき

編集へんしゅう

だいいち世界せかい大戦たいせん

編集へんしゅう
 
アンドレア・ドーリアとカイオ・ドゥイリオ

ほんきゅう1911ねん海軍かいぐん計画けいかくにおいて建造けんぞう決定けっていされ、カイオ・ドゥイリオは1912ねん2がつ起工きこうされ、1913ねん4がつ進水しんすい1915ねん5月に竣工しゅんこうした。

一方いっぽう、アンドレア・ドーリアは1912ねん3がつ起工きこうされ、1913ねん3がつ進水しんすいしておりここまでは1ばんかんおなじペースで建造けんぞうすすんでいるが竣工しゅんこう1916ねん3がつやくいちねんぶんおくれて竣工しゅんこうしている。これは、だいいち世界せかい大戦たいせん開始かいしともな社会しゃかいてき混乱こんらんによりへいそう艤装ぎそう資材しざい調達ちょうたつおくれがたためである。

しかし、とにもかくにもほんきゅう2せき就役しゅうえきによりアドリア海あどりあかいはさんで対峙たいじするオーストリア=ハンガリー帝国ていこく海軍かいぐんいしゆみきゅう戦艦せんかんテゲトフきゅう」4せきたいしコンテ・ディ・カブールきゅう3せき+ほんきゅう2せきけい5せき対抗たいこう可能かのうとなった。

しかし、敵艦てきかんたい主力しゅりょくであるウニーティスきゅうがオーストリア=ハンガリー帝国ていこく海軍かいぐん現存げんそん艦隊かんたい主義しゅぎにより活発かっぱつであったために、ほんきゅう2せきともだいいち大戦たいせんちゅうおおきな作戦さくせん参加さんかしたことはなく、もっぱらティレニアうみイオニアかいあいだ船団せんだん護衛ごえい任務にんむオトラント海峡かいきょう封鎖ふうさ任務にんむ参加さんかする程度ていど過分かぶんなくだいいち世界せかい大戦たいせんった。

海軍かいぐん休日きゅうじつ改装かいそう

編集へんしゅう
 
近代きんだい改装かいそうほんきゅうのイラスト。

だいいち世界せかい大戦たいせんほんきゅうはカブールきゅうおなじく1920年代ねんだいに2せきとも近代きんだい改装かいそうおこなわれたが、カブールきゅう改良かいりょうがたであるほんきゅう不具合ふぐあいすくなく改装かいそう程度ていど必要ひつよう最小さいしょう限度げんどめられた。

しかし、カイオ・ドゥイリオは1925ねん4がつにラ・スペツィアわんにて停泊ていはくちゅうに3ばん主砲しゅほうとうない爆発ばくはつ事故じここした。さいわい、沈没ちんぼつにはいたらなかった。原因げんいん弾薬だんやくないそうやく自然しぜん発火はっか推測すいそくされた。一方いっぽう、アンドリア・ドーリアは1926ねん国王こくおうヴィットーリオ・エマヌエーレ3せい御座ぎょざかんつとめた。1928ねんには2せきともコンテ・ディ・カブールの使用しよう実績じっせきからかんくび甲板かんぱん左舷さげんにカタパルトが装備そうびされて水上すいじょう偵察ていさつ運用うんようされたが、1932ねんに2せきとも予備よびかんとなった。

このままけばイタリア海軍かいぐん海軍かいぐん計画けいかくにより近代きんだいてきしん戦艦せんかんってわられるはずであった。しかし、オーストリア=ハンガリー帝国ていこくあとあらたに仮想かそうてきとなった地中海ちちゅうかいはさんだ大国たいこくフランスフランス海軍かいぐん1931ねんしん戦艦せんかんダンケルクきゅう戦艦せんかん(33cmほう8もん、30ノット)の起工きこう発表はっぴょうしたことにより、にわかにほんきゅう重要じゅうようせいたかまった。

理由りゆうは、ダンケルクきゅう戦艦せんかんへの対抗たいこうかんとしてイタリア海軍かいぐんではしん戦艦せんかんヴィットリオ・ヴェネトきゅう」(38.1cmほう9もん速力そくりょく30ノット)を計画けいかくしていたが、1ばんかんヴィットリオ・ヴェネト」と「リットリオ」らだいいちグループの起工きこうがどういそいでも1934ねんからになり、イタリア海軍かいぐん建造けんぞうペースでははやくても竣工しゅんこう1940ねん計算けいさんされ、ダンケルクきゅう就役しゅうえきには到底とうていわないためである。そのため、イタリア海軍かいぐん窮余きゅうよさくとして練習れんしゅうかん任務にんむにあったコンテ・ディ・カブールきゅう徹底的てっていてき近代きんだい改装かいそうおこない、ダンケルクきゅう就役しゅうえきわせるため1933ねんからドックりさせてしまったのである。そのため、ほんきゅう2せきがカブールきゅうわりに練習れんしゅうかん任務にんむこととなり、さらにはフランス海軍かいぐんへの平時へいじそなえとして一線いっせんきゅうあつかいをけることとなったのである。

さいわい、カブールきゅう近代きんだい改装かいそう期間きかんちゅう大過たいかなく、無事ぶじにコンテ・ディ・カブールとジュリオ・チェーザレが1937ねん相次あいついでさい就役しゅうえきしたことによりほんきゅう役目やくめわったかにえた。だが、フランス海軍かいぐんはダンケルクきゅう2ばんかんストラスブール」をヴェネトきゅうだいいちグループとおなじく1934ねん起工きこうさせ、増強ぞうきょうされつづけるドイツ海軍かいぐんとイタリア海軍かいぐんへの対抗たいこうとして1935ねんに「リシュリューきゅう」(38cmほう8もん、30ノット)を1935ねんから続々ぞくぞく起工きこうさせたのである。この時点じてんでイタリア海軍かいぐんは、さらなる海軍かいぐん増強ぞうきょうのためにほんきゅう2せきをカブールきゅう近代きんだい改装かいそう経験けいけんと、ヴェネトきゅう設計せっけいによりられたしん技術ぎじゅつ投入とうにゅうしてカブールきゅう上回うわまわ近代きんだい改装かいそうほどこ決断けつだんをした。

だい改装かいそうと、その結果けっか

編集へんしゅう
 
近代きんだい改装かいそうのアンドレア・ドーリア。

カイオ・ドゥイリオは1937ねん4がつよりC.N.T,しゃジェノヴァ造船ぞうせんしょにて、アンドレア・ドーリアも同年どうねん同月どうげつにトリエステ造船ぞうせんしょにて近代きんだい改修かいしゅう工事こうじ実施じっしし、カイオ・ドゥイリオは1940ねん7がつ15にちさい就役しゅうえき、アンドレア・ドーリアはさんヶ月かげつおくれの同年どうねん10がつ20日はつかさい就役しゅうえきしたことわかるようにほんきゅうだい世界せかい大戦たいせんまでにわなかったのである。

改装かいそう主砲しゅほう

編集へんしゅう

改装かいそうまえ主砲しゅほうはカブールきゅうおなじく既存きそんの30.5cm砲身ほうしんのAうちつつボーリングしてほう口径こうけいを30.5cmから32cmにげるだい口径こうけいおこなった。この方法ほうほうならば既存きそん砲身ほうしん加工かこうするだけでコストもおさえられ、改造かいぞうほう補強ほきょうあげだん改正かいせいむため主砲しゅほうとうしん設計せっけいするよりは時間じかん短縮たんしゅくとなった。

この改造かいぞうにより「1934ねんがた 32cm(43.8口径こうけい)ほう」へとまれわり、性能せいのうてきにも砲弾ほうだん重量じゅうりょうは452 kgから525 kgへと増加ぞうかし、威力いりょく増加ぞうか見込みこまれた。同時どうじだいいち世界せかい大戦たいせんせんくんにより射程しゃていばすため仰角ぎょうかくげがおこなわれたがカブールきゅう最大さいだい仰角ぎょうかく27たいほんきゅうは30へとさらげられた。これにより射程しゃていはカブールきゅうの28,600mから29,400mへと延伸えんしんされ、砲弾ほうだん重量じゅうりょう増加ぞうかにより敵艦てきかん水平すいへい防御ぼうぎょへの貫通かんつう能力のうりょく増加ぞうかする見込みこみであった。

しかし、この改造かいぞう代償だいしょうとして口径こうけいは46口径こうけいから43.8口径こうけいにダウン、砲身ほうしんけずってうすくなったことにより命数めいすう減少げんしょう散布さんぷかいひろがった。しかし、発射はっしゃ速度そくど砲弾ほうだん重量じゅうりょうにもかかわらず改装かいそうまえおなじくまいぶん2はつ維持いじした。俯仰ふぎょう能力のうりょく最大さいだい仰角ぎょうかく30俯角ふかく5で、旋回せんかい角度かくど改造かいぞうまえの150から左右さゆう120へと減少げんしょうした。

おおきくわったのは主砲しゅほうとうすう後述こうじゅつする機関きかん強化きょうかともない、船体せんたい中央ちゅうおうの3ばん主砲しゅほうとう撤去てっきょして4となった。これによりもんすうは13もんから10もんへと減少げんしょうしたがって斉射せいしゃ投射とうしゃだんりょう改装かいそうまえの5.876トン(452kg×13)から5.25トン(525kg×10)へと減少げんしょうしている。砲弾ほうだん1はつたりの威力いりょく増加ぞうかしており一長一短いっちょういったんである。しかしながら撤去てっきょした3ばん砲塔ほうとうかく非常ひじょうちいさく、13もん斉射せいしゃできるシチュエーションは限定げんていされる。そのことかんがえるに総合そうごうてき火力かりょくはむしろ向上こうじょうしたともえる。

改装かいそうふくほう、その備砲びほう

編集へんしゅう

ふくほうをケースメイト配置はいちから砲塔ほうとう形式けいしき変更へんこうしたのはカブールきゅうおなじであるが、口径こうけい改装かいそうまえは15.2cmほうであったのが、改装かいそうしん設計せっけいの「1935ねんがた 13.5cm(45口径こうけい)速射そくしゃほう」を採用さいようした。改装かいそうまえくらべて口径こうけいちいさくなったのは奇異きいかんじられるが、イタリア火砲かほう製造せいぞう技術ぎじゅつ発達はったつによりちいさい口径こうけいぜん大戦たいせんの15.2cmほう上回うわまわ性能せいのうられたためである。その性能せいのう重量じゅうりょう32.7kgの砲弾ほうだん仰角ぎょうかく45射距離しゃきょり19,600mまでとどかせることができ、発射はっしゃ速度そくどまいぶん6~7はつ俯仰ふぎょう能力のうりょく最大さいだい仰角ぎょうかく45俯角ふかく5で、旋回せんかい角度かくどは240であった。このほうしん設計せっけいはこがた砲塔ほうとうおさめた。

カブールきゅう砲塔ほうとう連装れんそうしきで、2もん同一どういつほう接続せつぞくされたことにより散布さんぷかい問題もんだいがあったが、ほんきゅうではヴェネトきゅうおなじくさん連装れんそう砲塔ほうとうとなり、しかも3もん砲身ほうしん独立どくりつほう接続せつぞくされ別個べっこ俯仰ふぎょう発射はっしゃできた。しかし、ヴェネトきゅうでは艦橋かんきょうこう檣のりょうわきよん箇所かしょはいしていたが、ほんきゅうでは前部ぜんぶ艦橋かんきょうりょうわき前向まえむきに背負せおしきで2配置はいちされた。

これは、火力かりょくてきにダンケルクきゅう前方ぜんぽう火力かりょく8もんたいほんきゅう前方ぜんぽう火力かりょく5もんおとっており、それをおぎなうためにえて前方ぜんぽう方向ほうこう集中しゅうちゅう配置はいちしたとられる。この配置はいち方式ほうしきによりかんくび方向ほうこう最大さいだい12もんという強火つよびりょく指向しこうでき、左右さゆう方向ほうこうには最大さいだい6もんさら背負せおしき配置はいち採用さいようしたことにより後部こうぶ位置いちする高角こうかくほうぐん干渉かんしょうすることかん方向ほうこうにヴェネトきゅうおなじく最大さいだい6もん指向しこう出来できた。

高角こうかくほうではカブールきゅうにおいては平射へいしゃほう改造かいぞうしただけの「OTO 1930ねんがた 10cm(47口径こうけい)高角こうかくほう」であり、用兵ようへいがわにて問題もんだいとされていたが、ほんきゅうではヴェネトきゅうけに開発かいはつされたまったくのしん設計せっけいである「1939ねんがた 9cm(50口径こうけい)高角こうかくほう」を搭載とうさいすることができた。その性能せいのう重量じゅうりょう10kgの砲弾ほうだん仰角ぎょうかく45射距離しゃきょり13,000m、最大さいだい仰角ぎょうかく75高度こうど10,800mまでとどかせることが出来できた。発射はっしゃ速度そくどまいぶん12はつはやく、俯仰ふぎょう能力のうりょく仰角ぎょうかく75俯角ふかく3で、旋回せんかい角度かくど左右さゆう120であった。主砲しゅほうふくほう斉射せいしゃ爆風ばくふうけるため、装甲そうこうほどこされたシールドがほうかぶせられた。

また、カブールきゅうにおいて問題もんだいされていた高角こうかくほうかい不足ふそくは、前述ぜんじゅつとおふく砲塔ほうとう配置はいち変化へんかにより大幅おおはば改善かいぜんされ、高角こうかくほう配置はいち船体せんたい中央ちゅうおう直列ちょくれつたんそうほうかたふなばた5けい1010もん配置はいちされた。この配置はいちにより煙突えんとつ以外いがいさえぎもの箇所かしょかれた高角こうかくほうぐんひろかいられた。なお、高角こうかくほう射撃しゃげきしき装置そうちは2ほん煙突えんとつあいだに、りょう舷側げんそく見晴みはらしの場所ばしょ設置せっちされ、これと連動れんどうする航空機こうくうき追尾ついび装置そうち艦橋かんきょう後部こうぶりょうふなばた設置せっちされた。

また、高角こうかくほう補助ほじょするためにブレダしゃせい「37mm(54口径こうけい)機関きかんほう」を連装れんそうほう搭載とうさいするのはおなじだがカブールきゅうの6から15へと搭載とうさいすうは1.5ばいやされた。また、カブールきゅうでは13.2mm機銃きじゅうであったのをほんきゅう改装かいそうから「1935ねんがた 20mm(60口径こうけい)機関きかんほう」を採用さいようしており、連装れんそうほうで816もんへと装備そうびした。

改装かいそう防御ぼうぎょ

編集へんしゅう

船体せんたい防御ぼうぎょでは舷側げんそく装甲そうこう250mmとう変化へんかしていないが、船首せんしゅろう甲板かんぱん延長えんちょうされたのにともない、最上もがみ甲板かんぱんから水線すいせんまで舷側げんそくめんいちとなっている。舷側げんそく装甲そうこう最上さいじょう甲板かんぱんから120mm、だいいち甲板かんぱんから150mm、水線すいせん装甲そうこう上端じょうたんが220mmで水線すいせんが250mmで水面すいめん下部かぶが170mmである。水平すいへい防御ぼうぎょ最上さいじょう甲板かんぱんが30mm、だいいち甲板かんぱんが15mm、しゅ甲板かんぱんが80mmで合計ごうけい135mmであった。なお、しゅ甲板かんぱん舷側げんそく接触せっしょくする傾斜けいしゃが40mmである。

たい水雷すいらい防御ぼうぎょはカブールきゅうおなじく「プリエーゼしき水雷すいらい防御ぼうぎょ」が採用さいようされた。前後ぜんご主砲しゅほうとうあいだ舷側げんそく装甲そうこう下端かたんから、内側うちがわおおきくえがいてあつさ40mmの水雷すいらい防御ぼうぎょ隔壁かくへき配置はいちされており、舷側げんそくがいいたわせて円筒えんとうじょう空間くうかん形成けいせいしている。その中央ちゅうおうには、水密すいみつされた直径ちょっけい3.4mの中空なかぞら円筒えんとう保持ほじされており、全体ぜんたいとしてはじゅう円筒えんとうじょう構造こうぞうとなっている。そととううちとうあいだ液体えきたい重油じゅうゆとう)が充填じゅうてんされており、水中すいちゅう爆発ばくはつたいしては中央ちゅうおううちつつあつこわすることでばくあつ吸収きゅうしゅうし、また爆発ばくはつ断片だんぺんめる構造こうぞうとなっていた。

かえってダメージを増大ぞうだいしてしまうともわれるプリエーゼしき水雷すいらい防御ぼうぎょであるが、ほんきゅうはプリエーゼかみなりしたことがないため、ほんきゅうをもってその是非ぜひ判断はんだんすることは適当てきとうではない[1]

改装かいそう機関きかん

編集へんしゅう

しん戦艦せんかん対抗たいこうできる高速こうそくりょくるため、3ばん主砲しゅほうとう弾薬だんやく撤去てっきょ機関きかん増加ぞうかさせた。しかし、前述ぜんじゅつのプリエーゼしき水雷すいらい防御ぼうぎょほそ船体せんたいおさめたために、機関きかん前後ぜんご細長ほそなが形状けいじょうとなり、さらに、新設しんせつされた中央ちゅうおう隔壁かくへき機関きかん区画くかく左右さゆう分断ぶんだんされ、各々おのおの区画くかくかたれた。そのため、ボイラーとタービンの配置はいちおおきく改正かいせいされた。

その配置はいち方式ほうしきは、左舷さげんがわかんくびがわ低圧ていあつタービン2高圧こうあつタービン1減速げんそくギアで接続せつぞくしたものを1くみとするギヤード・タービン1背後はいごにボイラーをかく区画くかくごとに1ずつけい4右舷うげんがわは180回転かいてんしてかんくびからボイラー4かんがわにギヤード・タービン1配置はいちし2じくのスクリューじく駆動くどう推進すいしんする。そのため、じくすう改装かいそうまえの4じくから2じくへと減少げんしょうしたが、イタリア海軍かいぐんではすでじゅう巡洋艦じゅんようかんザラきゅうだい馬力ばりき機関きかんすくないじくすう推進すいしんする方式ほうしき確立かくりつしており、ほんきゅうでもそれをまえたものとられる。

また、ボイラー形式けいしき石炭せきたん重油じゅうゆ使用しようする改装かいそうまえから重油じゅうゆ統一とういつされたことで、過熱かねつ装備そうびするヤーロウしき重油じゅうゆせんしょうみずかんかんへと更新こうしんされ、これにブルッゾーしきギヤード・タービン2わせて、最大さいだい出力しゅつりょく改装かいそうまえの32,000hpから2.65ばいの85,000hpへと大幅おおはばにアップした。カブールきゅうで93,300hpあったのにくらべて出力しゅつりょく低下ていかしていたが、これは機関きかん耐久たいきゅうりょく重視じゅうしして出力しゅつりょくおさえたものとられる。それでも最大さいだい速力そくりょくは21.5ノットから27ノットへと大幅おおはば増加ぞうかしており、充分じゅうぶん高速こうそくである。

改装かいそうかんたい

編集へんしゅう

船体せんたい構造こうぞうは、カブールきゅうおなじく重量じゅうりょう増加ぞうかにより喫水きっすい沈下ちんかふせぐため、かんくび構造こうぞう外側そとがわあらたにかんくび構造こうぞう接続せつぞくして全長ぜんちょうばしたが、カブールきゅうやく10mびたのにたいほんきゅうは10.5mばされた。これにより船体せんたい縦横じゅうおうはば比率ひりつは6.03から6.5へとわり、クリッパー・バウがたかんくびへのかわそうともな高速こうそくしやすい船型せんけいとなった。(ヴェネトきゅうは6.8)

船首せんしゅろう甲板かんぱん改装かいそうまえでは1ばん煙突えんとつ後方こうほう終了しゅうりょうしていたのにたいし、改装かいそうでは3ばん主砲しゅほうとう基部きぶまで延長えんちょうしたことにより、ふく砲塔ほうとう高角こうかくほう波浪はろう影響えいきょうがたくなった。かん改装かいそうまえ変化へんかはないが、せんくんによりかんにあったたんそうしき水中すいちゅう魚雷ぎょらい発射はっしゃかん2撤去てっきょされた。

改装かいそう外観がいかん

編集へんしゅう

カブールきゅう同様どうよう開放かいほうしき艦橋かんきょう構造こうぞう三脚さんきゃくしきぜん檣は、プリエーゼ設計せっけい士官しかん得意とくいとする円筒えんとうかさねたような形状けいじょう密閉みっぺいしき艦橋かんきょうへと更新こうしんされた。ほんきゅう艦橋かんきょう構成こうせいはヴェネトきゅう設計せっけいれてより機能きのうした。 下部かぶから航海こうかい艦橋かんきょう戦闘せんとう艦橋かんきょうはか距儀とう上部じょうぶそうしき射撃しゃげき指揮しきしょもうけられた。かく区画くかく側面そくめん装甲そうこうおおわれ、たい巡洋艦じゅんようかん防御ぼうぎょほどこされていた。7.2mはか距儀は上下じょうげ段式だんしきとなっており、上段じょうだんはか距用、下段げだんたま観測かんそくようで、データーははか距儀とう上部じょうぶ射撃しゃげき指揮しきしょ方位ほういばんしつおくられ射撃しゃげき管制かんせいされた。艦橋かんきょう後方こうほうにはぜん檣がかれ、まえきゅうよりもたかくなったポール・マストがつ。ふくほうようはか距儀とう艦橋かんきょう独立どくりつしてその左右さゆうに1ずつが配置はいちされた。いただき上部じょうぶ装甲そうこうばんでカバーされた5mはか距儀、下部かぶふくほう指揮しきしょをもつ装甲そうこう司令塔しれいとうである。前後ぜんごはなれていた2ほん煙突えんとつも、前述ぜんじゅつ機関きかん配置はいち改善かいぜんにより等間隔とうかんかく配置はいちされ、端正たんせい印象いんしょうとなった。煙突えんとつ後部こうぶからこう檣のあいだのスペースは艦載かんさいていとなっているのはカブールきゅうおなじである。こう檣は改装かいそうまえ三脚さんきゃくしきであったが、改装かいそうおおきさのことなる円筒えんとうかさねたような装甲そうこう司令塔しれいとうとなっており、基部きぶいたほんのボート・ダビットにより艦載かんさいてい運用うんようされる。改装かいそうまえにあった開放かいほうしき後部こうぶ見張みはりしょ後部こうぶ装甲そうこう司令塔しれいとういただき上部じょうぶ移設いせつされ、探照灯たんしょうとうだい併設へいせつされた。

だい世界せかい大戦たいせんとその

編集へんしゅう

近代きんだい改装かいそうだい世界せかい大戦たいせん参加さんか1940ねん7がつ就役しゅうえきしたばかりのカイオ・ドゥイリオは英国えいこく艦隊かんたいによる「タラント空襲くうしゅう」により魚雷ぎょらい一発いっぱつ小破しょうはだい浸水しんすいしたので排水はいすい曳航えいこうされドックりとなり1941ねん5がつまで修理しゅうりとなった。かわりにアンドレア・ドーリアが穴埋あなうめとして1940ねん10がつ就役しゅうえきし、補充ほじゅうされた。 大戦たいせん初期しょき地中海ちちゅうかい方面ほうめん英軍えいぐん補給ほきゅう妨害ぼうがい作戦さくせん枢軸すうじくぐん船団せんだん護衛ごえい従事じゅうじし、とくほんきゅう2せき同時どうじ参加さんかした作戦さくせんとしてだい1シルテわん海戦かいせん有名ゆうめいである。1942ねん2がつマルタとう付近ふきん作戦さくせん活動かつどう従事じゅうじしたが、同年どうねんなつごろにイタリア海軍かいぐん燃料ねんりょう事情じじょう悪化あっかしたため、ほんきゅう2せきはタラント港湾こうわん停泊ていはくして練習れんしゅうかん任務にんむくこととなり、乗員じょういんおおくはヴェネトきゅう護衛ごえい艦艇かんてい配属はいぞくとなった。しかし、1943ねんにイタリア本土ほんど連合れんごうぐん攻撃こうげき目標もくひょうとなってからは、ふたた現役げんえきふくして移動いどう砲台ほうだいとして活動かつどうした。 同年どうねん9がつにイタリアの降伏ごうぶくけてタラントこうち、9がつ10日とおかにからマルタとう到着とうちゃくした。その紆余曲折うよきょくせつソ連それんがイタリア戦艦せんかんぜんかん保有ほゆう連合れんごうこくがわ主張しゅちょうしたため、処理しょり長引ながびいた)のすえ1944ねん6がつにイタリア海軍かいぐんせき復帰ふっきし、シチリアとうアウグスタみなとにて練習れんしゅうかん任務にんむにあたった。

だい世界せかい大戦たいせんは、イタリア艦隊かんたい主力しゅりょくかんとして1947ねん5月1にちから1949ねん11月まで艦隊かんたい旗艦きかんとなり、いでアンドレア・ドーリアが同年どうねん12がつから1951ねん3月9にちまで旗艦きかん任務にんむいだ。そのあいだNATO演習えんしゅうにも参加さんかし、イタリア海軍かいぐん健在けんざいぶりをしめした。しかし、老朽ろうきゅうにはえられず2せきとも1956ねん9月に除籍じょせきされ、11月にスクラップ処分しょぶんされて、44年余ねんよにわたるながかんせいえた。

同型どうけいかん

編集へんしゅう

参考さんこう図書としょ

編集へんしゅう
  • 世界せかい艦船かんせん増刊ぞうかんだい41しゅう イタリア戦艦せんかん」(海人あましゃ)
  • 世界せかい艦船かんせん増刊ぞうかんだい20しゅう だい2大戦たいせんのイタリア軍艦ぐんかん」(海人あましゃ)

脚注きゃくちゅう

編集へんしゅう
  1. ^ タラント空襲くうしゅうでは、カイオ・ドゥイリオが魚雷ぎょらいはつかみなりそこしているが、カブール同様どうよう魚雷ぎょらいかんそこ爆発ばくはつによりかんそこ破砕はさいされたもので、プリエーゼしき水雷すいらい防御ぼうぎょ有効ゆうこうせいとは無関係むかんけいである。

関連かんれん項目こうもく

編集へんしゅう