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ジョルジュ・メリエス - Wikipedia

ジョルジュ・メリエス

フランスの映画えいが監督かんとく (1861 - 1938)

ジョルジュ・メリエスフランス語ふらんすご: Georges Méliès)、出生しゅっしょうめいマリー・ジョルジュ・ジャン・メリエスフランス語ふらんすご: Marie Georges Jean Méliès、1861ねん12月8にち - 1938ねん1がつ21にち)は、フランス映画えいが監督かんとく俳優はいゆうマジシャンである。映画えいが創成そうせいにおいて様々さまざま技術ぎじゅつ開発かいはつした人物じんぶつであり、世界せかいはつ職業しょくぎょう映画えいが監督かんとくのひとりといわれている[1]

ジョルジュ・メリエス
Georges Méliès
Georges Méliès
本名ほんみょう マリー・ジョルジュ・ジャン・メリエス(Marie Georges Jean Méliès)
生年月日せいねんがっぴ (1861-12-08) 1861ねん12月8にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (1938-01-21) 1938ねん1がつ21にち(76さいぼつ
出生しゅっしょう フランスの旗 フランス帝国ていこく パリ
死没しぼつ フランスの旗 フランス共和きょうわこく パリ
職業しょくぎょう 映画えいが監督かんとく映画えいがプロデューサー脚本きゃくほん俳優はいゆうマジシャン
ジャンル 映画えいが舞台ぶたい
活動かつどう期間きかん 1888ねん1923ねん
配偶はいぐうしゃ Eugènie Gènin(1885ねん – 1913ねん死別しべつ
ジュアンヌ・ダルシー(1926ねん - 1938ねん1がつ21にち死別しべつ
おも作品さくひん
ロベール=ウーダン劇場げきじょうにおける婦人ふじん雲隠くもがく』(1896ねん
ドレフュス事件じけん』(1899ねん
シンデレラ』(1899ねん
月世界げっせかい旅行りょこう』(1902ねん
不可能ふかのうとおたび英語えいごばん』(1904ねん
極地きょくち征服せいふく英語えいごばん』(1912ねん
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SFX創始そうししゃで、多重たじゅう露光ろこうてい速度そくど撮影さつえい、ディゾルブ、ストップ・トリックなどの技法ぎほう創出そうしゅつしたほか、手作業てさぎょう着色ちゃくしょくしたカラー映画えいがつくっている。また、メリエスは劇映画げきえいがつくった最初さいしょ映画えいが監督かんとくのひとりでもある[2]かれもっと有名ゆうめい作品さくひんには『月世界げっせかい旅行りょこう』(1902ねん)と『不可能ふかのうとおたび英語えいごばん』(1904ねん)があるが、どちらもジュール・ヴェルヌのようなスタイルで不思議ふしぎ宇宙うちゅう旅行りょこうえがいた作品さくひんであり、黎明れいめいもっと重要じゅうようSF映画えいがの1ほんとみなされている。最初さいしょホラー映画えいが製作せいさくでもられており、1896ねんの『悪魔あくまかん英語えいごばん』にまでさかのぼる。

編集へんしゅう
 
メリエスの生誕せいたんしめ記念きねん銘板めいばん

1861ねん12月8にちパリでジャン=ルイ=スタニスラス・メリエス(Jean-Louis-Stanislas Méliès)とオランダじんつまヨハンナ=カタリナ・シュエリンフ(Johannah-Catherine Schuering)のあいだまれる[3]ちちは1843ねんいち人前にんまえくつ職人しょくにんとしてパリにてきて、ブーツ工場こうじょうはたらはじめ、そこでつまとなる女性じょせい出会であった。ははちちはオランダ王宮おうきゅうにブーツをおさめていたブーツ職人しょくにんだったが、工房こうぼう火事かじ壊滅かいめつしてしまい、パリにてきていた。2人ふたり結婚けっこんし、高級こうきゅうブーツをつく工房こうぼうひらき、アンリとガストン・メリエスという2人ふたり息子むすこまれた。ガストンがまれたころには裕福ゆうふくになっている[3]。ジョルジュ・メリエスは7さいから学校がっこうかよっていたが、その学校がっこうひろしふつ戦争せんそう砲撃ほうげきされた。その一流いちりゅうリセ・ルイ=ル=グランかよっている。絵画かいが才能さいのう発揮はっきし、10さいかみせいパペット人形にんぎょうげきつくり、10代のころはさらに洗練せんれんされた精密せいみつマリオネットつくっている。1880ねん、バカロレアを取得しゅとく[3]

映画えいが製作せいさくはじめたころ「芸術げいじゅつてきなものをせるはずもない文盲もんもう」などと批判ひはんされたが、自身じしん回想かいそうろくでは正式せいしき古典こてん教育きょういくけていることを強調きょうちょうしている[3]。しかし同時どうじに、自身じしん創造そうぞうせい知性ちせいよりも本能ほんのうてきなものだとみとめてもいる[3]

 
『ロベール=ウーダン劇場げきじょうにおける婦人ふじん雲隠くもがくれ』

学校がっこうると、2人ふたりあにとも実家じっかくつ手伝てつだうようになり、そこでかたならった。3年間ねんかん徴兵ちょうへいて、ちちによりロンドンかされ、一家いっか友人ゆうじんのもとで事務じむいんとしてはたらく。ロンドン滞在たいざいちゅうエジプシャン・ホールジョン・ネヴィル・マスケリン英語えいごばんイリュージョンにし、ステージ・マジック熱中ねっちゅうするようになった[3]。1885ねんエコール・デ・ボザール絵画かいがまなびたいというあらたな希望きぼういてパリにもどった。しかし芸術げいじゅつになるなら資金しきん援助えんじょしないとちちがいいはったため、実家じっか工房こうぼう機械きかい監督かんとくすることで妥協だきょうした。同年どうねんあに義理ぎりいもうととの結婚けっこんばなしがったが、それを拒否きょひしてウジェニー・ジェナン(Eugénie Genin)と結婚けっこんした。彼女かのじょ一家いっか友人ゆうじんむすめで、かなりの持参じさんきんたされていた。その2にん、ジョルジェット(Georgette、1888年生ねんせい)とアンドレ(1901年生ねんせい)をもうけた。

実家じっか工房こうぼうはたらきつつ、ステージ・マジックへの興味きょうみはぐくつづけ、ロベール=ウーダン劇場げきじょう舞台ぶたい参加さんかするようになった。ロベール=ウーダン劇場げきじょう有名ゆうめいなマジシャンジャン・ウジェーヌ・ロベール=ウーダン創設そうせつした劇場げきじょうである。またエミール・ヴォワザン(Emile Voisin)から奇術きじゅつほどきをけて、Musée Grévin(パリのろう人形にんぎょうかん)やギャラリー・ヴィヴィエンヌでショーを開催かいさいした[3]

1888ねんちち引退いんたいすると一家いっか事業じぎょう自分じぶん相続そうぞくぶん2人ふたりあにり、そのかねつま持参じさんきん使つかってロベール=ウーダン劇場げきじょうった。その劇場げきじょう壮麗そうれいで、舞台ぶたい照明しょうめいもあり、様々さまざま仕掛しかけやなんたいかのオートマタもあったが、それでできるイリュージョンはすで時代遅じだいおくれのものだった。そのためメリエスが新装しんそうオープンさせてもきゃくりは低調ていちょうだった。その9年間ねんかん、メリエスは30以上いじょうあたらしいイリュージョンを考案こうあんし、ロンドンでたような喜劇きげき仕立したてや恋愛れんあいげき仕立したてのげきみ、観客かんきゃくすうやした。有名ゆうめいなイリュージョンとして、講演こうえんちゅう教授きょうじゅくびはなされ、くび胴体どうたいもどるまではなつづけるというものがある。ロベール=ウーダン劇場げきじょうったさいどう劇場げきじょう主任しゅにん技師ぎしウジェーヌ・カルメル(Eugène Calmel) をそのままやとっている。また、演者えんじゃとしてジュアンヌ・ダルシーもいた。のちにメリエスの愛人あいじんとなり、さらにのち2人ふたりつまとなった。このころ、いとこの Adolphe Méliès が編集へんしゅうするリベラルな新聞しんぶん La Griffe で、風刺ふうし漫画まんがとしてもはたらいていた[3]

劇場げきじょうぬしとして、メリエスは舞台ぶたいつことが徐々じょじょっていき、裏方うらかたまわることがおおくなっていった。監督かんとく、プロデューサー、脚本きゃくほん大道具おおどうぐ小道具こどうぐなどをつとめ、同時どうじあらたなマジックの「ネタ」を考案こうあんした。劇場げきじょう人気にんきになると、有名ゆうめいなマジシャンを何人なんにんれてきた。イリュージョンや演劇えんげき合間あいま妖精ようせいのパントマイムやオートマタのパフォーマンスをおこない、幻灯げんとうのショー、ゆきるとか稲妻いなづまはしるといった特殊とくしゅ効果こうかおこなった。1895ねん Chambre Syndicale des Artistes Illusionistes の会長かいちょうえらばれた[3]

初期しょき映画えいが製作せいさく

編集へんしゅう

1895ねん12月28にち、パリのグラン・カフェ地階ちかいのサロン・ナンディアンで、おなじくフランスのリュミエール兄弟きょうだいによる映画えいが公開こうかいた。メリエスはすぐさま1まんフランでカメラを1だいってほしいとリュミエール兄弟きょうだいもうたが、拒否きょひされた(同時どうじフォリー・ベルジェールなどからさらに高額こうがく提示ていじがあったためだという)。メリエスはロンドンにおもむいてアニマトグラフの発明はつめいしゃロバート・W・ポールから映画えいがのフィルムをなんほんかと映写機えいしゃき購入こうにゅうした。ロベール=ウーダン劇場げきじょうでは1896ねん4がつには日々ひび興行こうぎょう一部いちぶとして映画えいが上映じょうえいしている[3]。そして技師ぎしリュシアン・コルスタン(Lucien Korsten)とリュシアン・ルロ(Lucien Reulos)のたすけをりてアニマトグラフの映写機えいしゃき参考さんこうにして映画えいがようカメラをつくはじめた[4]オートマタ特殊とくしゅ効果こうかよう装置そうち部品ぶひん流用りゅうようしてじつどうするカメラをてることができた。しかし、パリにはまだ撮影さつえいよう使用しようのフィルムがっておらず、現像げんぞうしょもなかったので、メリエスはロンドンでパーフォレーションのないフィルムを購入こうにゅうし、試行しこう錯誤さくごしながら自分じぶん現像げんぞうした[3]。1896ねん9がつ、コルスタンおよびルロと連名れんめいで Kinètographe Robert-Houdin と名付なづけた鋳鉄ちゅうてつせいカメラけん映写機えいしゃき特許とっきょ取得しゅとくした。動作どうさおんはかなり騒々そうぞうしく、メリエスは「コーヒーミル」と「マシンガン」とんでいた。1897ねんにはパリでももっとよいカメラを購入こうにゅう可能かのうになり、メリエスはさっそくゴーモンリュミエール兄弟きょうだいパテのカメラをなんだい購入こうにゅうした[3]

メリエスは1896ねんから1913ねんまでに531作品さくひん映画えいが撮影さつえいしており、作品さくひんながさは1ふん程度ていどから40ふんまで様々さまざまである。あつかっている主題しゅだいはメリエスが劇場げきじょう披露ひろうしていたマジックショーにており、ものえるとかおおきさが変化へんかするといった「トリック」や不思議ふしぎ現象げんしょうふくまれている。それら初期しょき特殊とくしゅ効果こうか映画えいがにはプロットとえるものが基本きほんてきになかった。そういった特殊とくしゅ効果こうかはプロットを強化きょうかするためというよりも、なに可能かのうかをしめすためだけに使つかわれている。メリエスの初期しょき映画えいがおおくは、単一たんいつのカメラによる合成ごうせい撮影さつえいされており、それだけで映画えいが全編ぜんぺん構成こうせいしている。たとえば『一人ひとりオーケストラ』では多重たじゅう露光ろこう使つかい、メリエスが1人ひとり7やくえんじ、同時どうじ画面がめんうつっている[5]のちバスター・キートンはこの技法ぎほうをさらに洗練せんれんさせ『キートンの即席そくせきひゃくにんげい英語えいごばん』(1921) で使つかった。

 
こまった一夜いちや』のワンシーン

メリエスが映画えいが撮影さつえいしはじめたのは1896ねん5がつのことで、8がつにはロベール=ウーダン劇場げきじょう上映じょうえいおこなっている。1896ねんまつ、ルロとともスター・フィルム創業そうぎょうし、コルスタンが主要しゅようカメラマンとなった。初期しょき作品さくひんおおくはリュミエール兄弟きょうだい作品さくひんのコピーまたはリメイクで、それによって1にち2000にん集客しゅうきゃくがあるグラン・カフェにおうとした。たとえば最初さいしょ作品さくひんとされる『カードあそ (Une partie de cartes)』もリュミエール作品さくひんエカルテあそ (Partie d'écarté)』とよくている。しかしメリエスの初期しょき作品さくひんにはかれ芝居しばいとスペクタクルをこの傾向けいこうあらわれており、『こまった一夜いちや』という作品さくひんは、ホテルの宿泊しゅくはくきゃくおおきなむしおそわれるはなしである。より重要じゅうよう差異さいとして、リュミエール兄弟きょうだいかれらの発明はつめい科学かがく歴史れきし研究けんきゅうにとって重要じゅうようだとかんがえており、世界中せかいじゅうにカメラマンを派遣はけんして民族みんぞくがくてきなドキュメンタリー映画えいがらせた。一方いっぽうメリエスのスター・フィルムはマジックやイリュージョンの延長線えんちょうせんじょうにある娯楽ごらくてき方向ほうこうかじった。メリエスは当初とうしょから映画えいが撮影さつえい特有とくゆう特殊とくしゅ効果こうか実験じっけんし、ときにはその技法ぎほう発明はつめいした。回想かいそうろくによれば、あるシーンを撮影さつえいちゅうにカメラが一時いちじてき故障こしょうし、映写えいしゃしてみるとバスが霊柩車れいきゅうしゃわり、女性じょせい男性だんせいわったという。この偶然ぐうぜんからカメラをめて被写体ひしゃたいえるというトリックを発見はっけんした[3]おなじトリックはすでにトーマス・エジソンが『メアリ王女おうじょ処刑しょけい』(1895) で斬首ざんしゅシーンに使つかっている。メリエスがこのトリックを最初さいしょ使つかったのは『ロベール=ウーダン劇場げきじょうにおける婦人ふじん雲隠くもがく』(1896) で、舞台ぶたいから人間にんげんえるという当時とうじすで古典こてんてきとなっていたマジック(背後はいごかく使用しよう)を映画えいがてき強化きょうかし、人間にんげん骸骨がいこつえ、さらに人間にんげん舞台ぶたいじょうさい登場とうじょうさせた[3]

1896ねん9がつ、パリ近郊きんこうモントルイユ映画えいがスタジオをはじめた。おも舞台ぶたいとなる建物たてものかべ天井てんじょうもガラスでできていて、ひる照明しょうめいなしで撮影さつえいできるようにしてあり、舞台ぶたい寸法すんぽうはロベール=ウーダン劇場げきじょうのものとおなじである。楽屋がくややセットをつくるための格納庫かくのうこ建設けんせつしている。それぞれのいろはモノクロのフィルムで撮影さつえいしたときおもいがけないあかるさの灰色はいいろになる可能かのうせいがあるため、役者やくしゃ衣装いしょう化粧けしょう、セットなどはすべ様々さまざまあかるさの灰色はいいろ着色ちゃくしょくされた。メリエスはこのスタジオを「写真しゃしんかん劇場げきじょう舞台ぶたい融合ゆうごうしたもの」としょうした[3]舞台ぶたいでのマジックやミュージカル手法しゅほうならって、セットのまえ役者やくしゃえんじるという手法しゅほう採用さいよう。これ以降いこうメリエスはモントルイユとロベール=ウーダン劇場げきじょうおこなったりたりする生活せいかつとなった。あさ7にスタジオりし、10あいだセットの製作せいさく指揮しきし、午後ごご5着替きがえて劇場げきじょうもどって6までにその出演しゅつえんしゃむかれる。手早てばや夕食ゆうしょくをとり、午後ごご8からのショーにうよう劇場げきじょうもどり、そのあいだにセットのデザインをスケッチする。ショーがわるとモントルイユにもどってた。金曜日きんようび土曜日どようびはそれまでにつくったセットを使つかって撮影さつえいおこない、日曜日にちようび祝日しゅくじつ劇場げきじょう昼間ひるま興行こうぎょうてた[3]

 
舞踏ぶとうかいのあとの入浴にゅうよく』のワンシーン

1896ねんには78作品さくひん、1897ねんには53作品さくひん映画えいが製作せいさく。その様々さまざまなジャンルの映画えいがつづけた。リュミエールふうのドキュメンタリー、喜劇きげき歴史れきし再現さいげん、ドラマ、マジック、おとぎばなしなどがおもなジャンルとなった。ジョルジュ・ブリュネルは1897ねんに「メリエスとルロは特色とくしょくある奇想天外きそうてんがい場面ばめん芸術げいじゅつてき場面ばめん劇場げきじょう再現さいげんした場面ばめんなどをつくり、街頭がいとう撮影さつえいしただけのほか映画えいがとはことなるジャンルをした」としるしている[3]。リュミエール兄弟きょうだいパテ同様どうようポルノ映画えいが製作せいさくしており、L'Indiscret aux Bains de merLe Magnétiseur、『舞踏ぶとうかいのあとの入浴にゅうよく』などがある。とくに『舞踏ぶとうかいのあとの入浴にゅうよく』はメリエス作品さくひん現存げんそんする唯一ゆいいつのポルノ映画えいがで、ジュアンヌ・ダルシー主演しゅえんしている。また1896ねんから1900ねんまでのあいだに、10ほん広告こうこく映画えいが製作せいさくしており、ウィスキー、チョコレート、離乳食りにゅうしょくなどの商品しょうひんのコマーシャルをつくった。1897ねん9がつ、ロベール=ウーダン劇場げきじょう映画えいがかん転換てんかんし、映画えいが上映じょうえいしゅとして合間あいまにマジックをおこなうようにした。しかし、1897ねん12がつまつには映画えいが上映じょうえい土曜どようよるのみに限定げんていしている[3]

 
天文学てんもんがくしゃゆめ』のワンシーン

1898ねんには30ほんしか製作せいさくしていないが、さらに野心やしんてき精巧せいこう映画えいがつくるようになっていった。アメリカ海軍かいぐんメインごう沈没ちんぼつ再現さいげんした Visite sous-marine du Maine、マジック映画えいが Illusions fantasmagoriques、おとぎばなしの『天文学てんもんがくしゃゆめ英語えいごばん』などがある。『天文学てんもんがくしゃゆめ』ではメリエスが天文学てんもんがくしゃえんじ、つき悪魔あくま天使てんし登場とうじょうする。La Tentation de saint Antoine宗教しゅうきょう皮肉ひにくった映画えいがで、イエス・キリストぞう誘惑ゆうわくてき女性じょせい(ジュアンヌ・ダルシー)に変化へんかする。メリエスはその宗教しゅうきょう皮肉ひにくった映画えいがをいくつも製作せいさくした。また特殊とくしゅ効果こうか実験じっけんつづけており、Salle a manger fantastique では撮影さつえいにフィルムをぎゃくまわしにしている。また、くろ背景はいけい役者やくしゃえんじさせ、フィルムをもどしてべつ映像えいぞう再度さいど撮影さつえいするというじゅう露光ろこうによる合成ごうせい実験じっけんしている。たとえば La Caverne maudite では洞窟どうくつないただよ透明とうめい幽霊ゆうれいえがき、『いくつものあたまおとこ』ではメリエスが自分じぶんあたまを3かいのぞき、4つのあたま合唱がっしょうしてみせた。現代げんだいれば粗雑そざつだが、こういった特殊とくしゅ効果こうか実現じつげんすることはむずかしく熟練じゅくれんようした。1907ねんのインタビューでメリエスは「役者やくしゃことなるシーンを10かいえんじて、そのあいだ自分じぶんうごきをおぼえておく必要ひつようがあり、まえのシーンで自分じぶんがどこにどういう格好かっこうでいたのかを正確せいかくおぼえてえんじなければならない」とべている[3]

 
『シンデレラ』のワンシーン

1899ねんにも特殊とくしゅ効果こうか実験じっけんつづけている。たとえば Cléopâtreクレオパトラえがいた歴史れきし映画えいがではなくミイラ現代げんだいよみがえるホラー映画えいがで、2005ねんパリ発見はっけんされるまでフィルムが現存げんそんしないとおもわれていた。このとし、メリエスの2つの作品さくひん有名ゆうめいになる。同年どうねんなつ当時とうじ論争ろんそうとなっていたドレフュス事件じけんえがいた『ドレフュス事件じけん』を製作せいさく。フランス陸軍りくぐん所属しょぞくのユダヤじん大尉たいいアルフレド・ドレフュスがスパイ容疑ようぎ告発こくはつされた事件じけんである。メリエスはドレフュスであり、ドレフュスが冤罪えんざいであり不当ふとうデビルズとう監獄かんごく収監しゅうかんされたというように同情どうじょうてきえがいた。この映画えいが上映じょうえいされると、両派りょうは口論こうろんから乱闘らんとう発展はってんしたため、警察けいさつ映画えいが結末けつまつ部分ぶぶん上映じょうえい禁止きんしした[3]。また同年どうねん後半こうはん上映じょうえい時間じかん7ふん、20のシーンで構成こうせいされ35にん以上いじょう出演しゅつえんした映画えいがシンデレラ』を製作せいさく。この映画えいがはヨーロッパやアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく各地かくち上映じょうえいされ、だい成功せいこうおさめた。シグムンド・ルービン英語えいごばんらアメリカの映画えいが配給はいきゅう業者ぎょうしゃは、エジソンの映画えいが市場いちば支配しはいすすなか、それに対抗たいこうできる魅力みりょくてき作品さくひん必要ひつようとしていた。メリエスの作品さくひんとく人気にんきがあり、『シンデレラ』は1899ねん12月のはつ公開こうかい以降いこう毎年まいとしのようにさい上映じょうえいされている[6]トーマス・エジソン代表だいひょうされるアメリカの映画えいが製作せいさくしゃ海外かいがいからの競争きょうそう相手あいて参入さんにゅう憤慨ふんがいし、『シンデレラ』の成功せいこうはメリエスの作品さくひんがアメリカ国内こくない上映じょうえいされないよう画策かくさくしたが、もなく海賊版かいぞくばん出回でまわるようになった。メリエスらは海外かいがい市場いちば対抗たいこうするため Chambre Syndicale des Editeurs Cinématographiques という組合くみあい結成けっせい。メリエスが1912ねんまで組合くみあいちょうつとめ、ロベール=ウーダン劇場げきじょうがその本部ほんぶとなった。そのころ、映画えいがでの収益しゅうえきをモントルイユのスタジオ拡充かくじゅう使つかい、より精巧せいこうなセットをつくれるようになり、つづける衣装いしょう小道具こどうぐなどをおさめる倉庫そうこ増設ぞうせつした[3]

国際こくさいてき成功せいこう

編集へんしゅう
 
一人ひとりオーケストラ』のワンシーン

1900ねんには33作品さくひん製作せいさくしており、なかには13ふんながさの『ジャンヌ・ダルク英語えいごばん』がある。『一人ひとりオーケストラ』では特殊とくしゅ効果こうかをさらに進化しんかさせ、メリエス本人ほんにんを7にん同時どうじ登場とうじょうさせてオーケストラをえんじている。また Le Rêve de Noël という作品さくひんでは、イエス・キリスト誕生たんじょう場面ばめん特殊とくしゅ効果こうか使つかってえがいている[3]。1901ねん映画えいが製作せいさくつづけて成功せいこうおさめ、メリエスの名声めいせい頂点ちょうてんたっした。La Chrysalide et le papillon d'or では、あるおとこ毛虫けむしつばさのあるうつくしい女性じょせい変化へんかさせ、つぎ自身じしん毛虫けむし変化へんかする。また、シャルル・ペロー物語ものがたりもとづいたおとぎばなし Le Petit chaperon rougeあかずきん)や『あおひげ英語えいごばん』といった作品さくひんもある。『あおひげ』ではメリエスが主人公しゅじんこうあおひげえんじ、ジュアンヌ・ダルシーらが共演きょうえんしている。この映画えいがではクロスカッティングやマッチカットといった技法ぎほう使つかい、登場とうじょう人物じんぶつ部屋へやから部屋へや移動いどうする様子ようすえがいている。エジソンの会社かいしゃの1902ねん映画えいがジャックとまめ英語えいごばん』は、メリエスの『あおひげ』などの作品さくひん技法ぎほう真似まねたものだが、あまり成功せいこうしなかった[7]同年どうねん製作せいさくL'Omnibus des toqués blancs et noirs黒人こくじんやく使つかったバーレスクで、バスの4にん白人はくじん乗客じょうきゃく1人ひとりおおきな黒人こくじん変化へんかして、バス運転うんてんしゅがそれをつというはなしである[3]。1902ねんになるとカメラを移動いどうさせて登場とうじょう人物じんぶつおおきさが変化へんかしたようにせるトリックの実験じっけんはじめた。台車だいしゃせたカメラを前方ぜんぽう移動いどうさせたもので、同時どうじにカメラマンは正確せいかくにフォーカスを調整ちょうせいし、役者やくしゃ必要ひつようおうじて位置いち調整ちょうせいしなければならなかった[3]。その技法ぎほう最初さいしょ使つかった作品さくひんLe Diable géant ou Le Miracle de la madonne で、メリエスえんじるサタン巨大きょだいしてウィリアム・シェイクスピアのジュリエットをおびやかすが、そこに聖母せいぼマリアあらわれるとサタンがちいさくなるというはなしだった。おな技法ぎほうは『ゴムあたまおとこ英語えいごばん』でも使つかわれており、メリエスえんじる科学かがくしゃあたま巨大きょだいする。この技法ぎほうふくかれ長年ながねん改良かいりょうしてきた特殊とくしゅ効果こうか技術ぎじゅつ集大成しゅうたいせいともいうべき映画えいががこのとし製作せいさくされた[3]

1902ねん5がつ有名ゆうめいな『月世界げっせかい旅行りょこう』を製作せいさく宇宙船うちゅうせんつきさるシーンでよくられている。ジュール・ヴェルヌの『月世界げっせかい旅行りょこう』とH・G・ウェルズの『月世界げっせかい最初さいしょ人間にんげん』を参考さんこうにした。メリエスは『天文学てんもんがくしゃゆめ』(1898) でえんじた天文学てんもんがくしゃによく教授きょうじゅえんじている。その教授きょうじゅ天文てんもん学会がっかい会長かいちょうで、つき旅行りょこう監督かんとくつとめている。巨大きょだい弾丸だんがんのような形状けいじょう宇宙船うちゅうせんかれ研究所けんきゅうじょつくられ、それに6にんおとこんでつき目指めざす。宇宙船うちゅうせん巨大きょだい大砲たいほう発射はっしゃされ、つきえんじるおとこさる。6にんおとこ月面げつめん探検たんけんし、ねむりにつく。ゆめなかかれらのまわりを星座せいざおどり、フォリー・ベルジェール所属しょぞく軽業師かるわざしえんじるつきじん襲撃しゅうげきしてくる。つきじんからのがれて宇宙船うちゅうせんにたどりき、なんとかつきはなれ、地球ちきゅううみ着水ちゃくすいする(水槽すいそう多重たじゅう露光ろこうかさねて深海しんかい雰囲気ふんいきしている)。最後さいごに6にん研究所けんきゅうじょ生還せいかんし、後援こうえんしゃらに歓迎かんげいされた[3]。14ふんというメリエスとしてはそれまでで最長さいちょう作品さくひんであり、製作せいさくは1まんフランだった。モノクロばん手描てがきでいろをつけたカラーばん興行こうぎょうぬしらに販売はんばいし、フランスだけでなく世界中せかいじゅうだい成功せいこうおさめた。これによりメリエスはアメリカでも有名ゆうめいになり、トーマス・エジソンカール・レムリ違法いほうコピーした海賊版かいぞくばんいちもうけした。この著作ちょさくけん侵害しんがいをきっかけとして、メリエスはスター・フィルムのニューヨーク支社ししゃげ、あにガストン・メリエス支社ししゃちょうとなった。ガストンはくつでは事業じぎょう失敗しっぱいしていた。1902ねん11月にニューヨークにいたガストンは、アメリカでの著作ちょさくけん侵害しんがい証拠しょうこ発見はっけんたとえば、バイオグラフしゃ英語えいごばん映画えいがプロモーターのチャールズ・アーバン英語えいごばんにロイヤルティを支払しはらっていた[8]。ニューヨークには Lucien Reulos (ガストンの義理ぎりいもうとおっと)がついてった[4]

1902ねんのメリエスの成功せいこうはさらにつづき、3つの作品さくひんたった。『エドワードななせい戴冠たいかんしき』では、イギリス国王こくおうエドワード7せい戴冠たいかんしき再現さいげんした。この映画えいが実際じっさい戴冠たいかんしきまえ撮影さつえいされており、スター・フィルムのロンドンでの代理人だいりにんチャールズ・アーバンが仕切しきった。実際じっさい戴冠たいかんしき予定よていには上映じょうえい可能かのうとなっていたが、エドワード7せい健康けんこう状態じょうたい問題もんだいしょうじ、戴冠たいかんしきが6週間しゅうかん延期えんきされた。そこでメリエスは実際じっさい行列ぎょうれつ撮影さつえいして映画えいがくわえた。映画えいがたり、エドワード7せいもこれを鑑賞かんしょうした。つぎ作品さくひんジョナサン・スウィフトの『ガリヴァー旅行りょこう』にもとづいた Le Voyage de Gulliver à Lilliput et chez les géantsダニエル・デフォーの『ロビンソン・クルーソー』にもとづいた Les Aventures de Robinson Crusoé だった[3]

1903ねん製作せいさくの『妖精ようせいたちの王国おうこく英語えいごばん』について映画えいが評論ひょうろんジャン・ミトリは「うたがいもなくメリエスの最高さいこう傑作けっさくで、ともかく最高さいこうてき」とひょうした[3]。18ものセットを使つかった30構成こうせい大作たいさくである。ロサンゼルスのトーマス・リンカーン・タリー英語えいごばんは「『月世界げっせかい旅行りょこう』より面白おもしろい」と広告こうこくって1903ねんに Lyric Theater で上映じょうえいした。ロサンゼルス・タイムズかみは「エキスパートが時間じかんかねをかけて映画えいが限界げんかいしめした興味深きょうみぶか作品さくひん」とひょうした[9]。この映画えいがのプリントは英国えいこく映画えいが協会きょうかいアメリカ議会ぎかい図書館としょかん保管ほかんされている。このとし、メリエスは特殊とくしゅ効果こうか完成かんせいけた努力どりょくつづけた。Le Parapluie fantastique では変化へんか速度そくどはやくし、『音楽おんがくきょう』では7じゅう多重たじゅう露光ろこうによる合成ごうせいためしている。そのとし最後さいごに『ファウスト』を題材だいざいにした Faust aux enfers製作せいさく。これはエクトル・ベルリオーズのオペラを参考さんこうにしているが、ストーリーよりも地獄じごくたび特殊とくしゅ効果こうかでいかに表現ひょうげんするかに重点じゅうてんかれている。たとえば、地下ちか庭園ていえんかべみずかべなどが登場とうじょうする[3]。1904ねんには続編ぞくへん Faust and Marguerite製作せいさく。こちらはシャルル・グノーのオペラにもとづいている。この2つの映画えいがつなわせたはんつくっており、オペラの主要しゅようなアリアで同期どうきさせている。1904ねんにも『セビリアの理髪りはつ』にもとづいた Le Barbier de Séville文芸ぶんげい路線ろせん追求ついきゅうした。これらの作品さくひん観客かんきゃくにも評論ひょうろんにもけがよく、メリエスの名声めいせいはさらにたかまった[3]

 
不可能ふかのうとおたび』で太陽たいよう宇宙船うちゅうせんもうとするシーン

1904ねん製作せいさく最大さいだい作品さくひんは『不可能ふかのうとおたび英語えいごばん』で、『月世界げっせかい旅行りょこう』にており、大洋たいようなか太陽たいようなど世界中せかいじゅうたびする映画えいがである。メリエスは Institute of Incoherent Geography の技術ぎじゅつしゃ Mabouloff のやくで、『月世界げっせかい旅行りょこう』の教授きょうじゅのような役回やくまわりである。Mabouloff はいちぎょうを Automobouloff というものでのたびさそう。あるおとこアルプス山脈あるぷすさんみゃく最高峰さいこうほうへとたびするが、そのものはそのままのぼつづけ、太陽たいようにまで到達とうたつする。太陽たいようには『月世界げっせかい旅行りょこう』でのつきのようにかおがあり、そのものいちみにする。結局けっきょく地球ちきゅうもどって潜水せんすいかん大洋たいようなかすすみ、出発しゅっぱつてんもどって歓迎かんげいされる。24ぶん作品さくひんで、これもたった。映画えいが評論ひょうろん Lewis Jacobs は「この映画えいがはメリエスのぜん才能さいのうあらわしている…かれのトリックの複雑ふくざつさ、機械きかい装置そうちかれ資力しりょく設定せってい想像そうぞうせい豪華ごうか背景はいけいにより、その当時とうじ最高さいこう傑作けっさくとなった」とひょうしている[3]。1904ねんフォリー・ベルジェール監督かんとく Victor de Cottens はメリエスにかれのレビューの一部いちぶとして上映じょうえいする映画えいが特殊とくしゅ撮影さつえい依頼いらいした。その結果けっか完成かんせいしたのがベルギーおうレオポルト2せい皮肉ひにくった Le Raid Paris-Monte Carlo en deux heures である。この映画えいがはフォリー・ベルジェールでまず上映じょうえいされ、そのメリエスがスター・フィルムの作品さくひんとして販売はんばいした[3]。1904ねんまつトーマス・エジソンは Paley & Steiner の製作せいさくした映画えいががエジソンの製作せいさくした映画えいがとストーリー・登場とうじょう人物じんぶつ撮影さつえいまでそっくりだとしてうったえた。エジソンは理由りゆうしめさずに、パテやスター・フィルムも同時どうじうったえている。Paley & Steiner は示談じだんえらび(のちにエジソンが買収ばいしゅう)、このうったえが法廷ほうていまれることはなかった[10]

1905ねん、Victor de Cottens からシャトレでのレビュー Les Quarte Cent Coups du diable への協力きょうりょく依頼いらいされた。メリエスはそのために2つの短編たんぺん映画えいが Les Voyage dans l'espaceLe Cyclone製作せいさくし、レビュー全体ぜんたい脚本きゃくほんにも協力きょうりょくした。1905ねんはまたジャン・ウジェーヌ・ロベール=ウーダン生誕せいたん100周年しゅうねんでもあり、ロベール=ウーダン劇場げきじょうでも記念きねん公演こうえんおこない、メリエスもすうねんぶりに舞台ぶたいあらたなマジック Les Phénomènes du spiritisme披露ひろうした。おなじころモントルイユのスタジオのぞう改築かいちくおこない、電気でんき照明しょうめい設置せっちし、2つ舞台ぶたいつくり、衣装いしょうした。1905ねんは22作品さくひん製作せいさくしており、冒険ぼうけんもの『せんいち物語ものがたり』、リップ・ヴァン・ウィンクル伝説でんせつRobert Planquette のオペラにもとづいたおとぎばなし La Légende de Rip Van Winkle などがある。1906ねん製作せいさくしたのは18作品さくひんで、Les Quarte Cent Coups du diableLa Fée Carabosse ou le poignard fatal などがある。メリエスを有名ゆうめいにしたおとぎばなしけい映画えいが人気にんき低下ていかしはじめており、犯罪はんざいものや家族かぞくものといったあらたなジャンルを模索もさくしはじめた。アメリカのガストン・メリエスは、以前いぜんの3作品さくひん(『シンデレラ』、『あおひげ』、『ロビンソン・クルーソー』)の価格かかくげなければならなくなった。1905ねんまつには、ガストンはスター・フィルムのぜん作品さくひん価格かかくを20%値下ねさげして、げを回復かいふくさせた[3]

その映画えいが製作せいさく

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モントルイユのスタジオにいるメリエス

1907ねん、メリエスは舞台ぶたいでのあらたなイリュージョンを3つ考案こうあんし、ロベール=ウーダン劇場げきじょう披露ひろうした。映画えいがは19作品さくひん製作せいさくしており、ジュール・ベルヌ作品さくひんのパロディ『海底かいてい2まんマイル英語えいごばん』、『ハムレット』を短編たんぺんしたものなどがある。ジャン・ミトリやジョルジュ・サドゥールといった映画えいが評論ひょうろんは1907ねんからメリエスの凋落ちょうらくはじまったと指摘してきし、「一方いっぽうではそれまでのものをかえし、他方たほうでは他者たしゃあたらしいものの模倣もほうになっていった」とひょうしている[3]。1908ねんトーマス・エジソンはアメリカとヨーロッパの映画えいが業界ぎょうかい制御せいぎょする手段しゅだんとしてモーション・ピクチャー・パテンツ・カンパニー (MPPC) を結成けっせい。これにはメリエスのスター・フィルムもふくおおくの映画えいが製作せいさく会社かいしゃ参加さんかした。スター・フィルムは毎週まいしゅう1000フィートのフィルムをMPPCに供給きょうきゅうすることを義務付ぎむづけられ、その義務ぎむたすためにメリエスはそのとしに68作品さくひん製作せいさくした。ガストン・メリエスはシカゴあらたなスタジオ Méliès Manufacturing Company をつくり、おとうとがエジソンへの義務ぎむたすのをけようとした。しかし1908ねんちゅうはガストンはまった映画えいが完成かんせいさせていない。このとしメリエスは野心作やしんさく La Civilisation à travers les âges製作せいさく。これは人類じんるい歴史れきしカインとアベルから1907ねんハーグ陸戦りくせん条約じょうやくまで悲観ひかんてきえがいたもので、興行こうぎょうてきにはたらなかったが、メリエスは生涯しょうがい最高さいこう傑作けっさくとしてほこりにおもっていた[3]

1909ねんはいると映画えいが製作せいさくめ、2がつにはパリで開催かいさいされた International Filmmakers Congress のだい1かい会合かいごう議長ぎちょうつとめた。出席しゅっせきしゃおおくはメリエスもふくめエジソンの独占どくせんこころよおもっておらず、なんとかその状況じょうきょうくつがえしたいとかんがえていた。この会議かいぎでは、今後こんご映画えいが販売はんばいするのではなく4カ月かげつ契約けいやくでリースすること、リースさき会員かいいんかぎること、フィルムの規格きかくさだめることで合意ごういした。しかしメリエスにとっては2つ合意ごうい問題もんだいで、メリエスの作品さくひん上映じょうえいしているのは映画えいがかんよりも見世物みせもの小屋こや音楽おんがくホールなどがおおく、かれらは会員かいいんになるはなかった。メリエスはある雑誌ざっしのインタビューに「わたし企業きぎょうではなく、独立どくりつしたプロデューサーだ」とこたえている[3]。1909ねんあきから映画えいが製作せいさく再開さいかいおなじころガストンは Méliès Manufacturing Company をニュージャージーしゅうフォートリー移転いてんし、そのとしは3ほん映画えいが製作せいさくした。1910ねん、ガストンはテキサスしゅうサンアントニオに Star Films Ranch というあらたなスタジオをもうけ、そこで西部せいぶげき製作せいさく開始かいし。1911ねんにはスター・フィルムのアメリカ支社ししゃAmerican Wildwest Productions改称かいしょうし、カリフォルニアしゅう南部なんぶあらたなスタジオを開設かいせつした。ガストンは1910ねんから1912ねんにかけて130以上いじょう映画えいが製作せいさくし、MPPCへのスター・フィルムの義務ぎむ大半たいはんたした。おなじ1910ねんから1912ねんにかけてジョルジュ・メリエスが製作せいさくしたのはわずか20作品さくひんである[3]

1910ねんには14作品さくひん製作せいさくし、Les Illusions fantaisistes では舞台ぶたいじょうのマジックをあつかっている。ロベール=ウーダン劇場げきじょうごすことがおおくなり、Spiritualist Phenomena というあらたなレビューをつくった。同年どうねんにスター・フィルムはゴーモン映画えいが配給はいきゅうまかせる契約けいやくむすんだ。また同年どうねんあきにはシャルル・パテ英語えいごばん取引とりひきし、そのことがメリエスの映画えいが製作せいさくしゃとしての経歴けいれき終止符しゅうしふ原因げんいんとなった。その取引とりひきとは、パテがメリエスに巨額きょがく映画えいが製作せいさくあたえるわりに、製作せいさくした映画えいがはパテが配給はいきゅうし、編集へんしゅうけんもパテがわつというものだった。また、取引とりひき一環いっかんとしてパテはメリエスの自宅じたくとモントルイユのスタジオに抵当ていとうけん設定せっていした。メリエスはさっそく映画えいが製作せいさくにとりかかり、1911ねんには『ミュンヒハウゼン男爵だんしゃく幻覚げんかく英語えいごばん』や Le Vitrail diabolique など7作品さくひん製作せいさく。ほんの10ねんまえには大人気だいにんきだったおとぎばなしてき映画えいがだが、これらの作品さくひん興行こうぎょうてきには失敗しっぱいし、赤字あかじとなった[3]

1912ねん野心やしんてき作品さくひんつくつづけており、とくに『極地きょくち征服せいふく英語えいごばん』が有名ゆうめいである。当時とうじ、1909ねんロバート・ピアリーきた極点きょくてん到達とうたつし、1911ねんロアール・アムンセン南極なんきょくてん到達とうたつしていた。それをまえた映画えいがだが、しも巨人きょじん(12にんがかりで操作そうさした)などのファンタジーてき要素ようそふくんでいた。またジュール・ベルヌの『ハテラス船長せんちょう冒険ぼうけん』の要素ようそふくんでおり、『月世界げっせかい旅行りょこう』、『不可能ふかのうとおたび』とわせてさんさくばれることもある。『極地きょくち征服せいふく』も興行こうぎょうてきには失敗しっぱいし、パテはメリエス作品さくひん編集へんしゅうけん行使こうしすることをめた。メリエス最後さいごのおとぎばなしてき作品さくひんとなった『シンデレラ』[11]は、しん技術ぎじゅつディープフォーカスカメラを使つかいロケ撮影さつえいした54ぶん作品さくひんだった。パテはメリエスの長年ながねんのライバルだっフェルディナン・ゼッカフランス語ふらんすごばん編集へんしゅうまかせ、33ふん短縮たんしゅくしたが、これも興行こうぎょうてきには失敗しっぱいわった。その作品さくひん同様どうよう結果けっかおわり、1912ねんまつにはメリエスはパテとの契約けいやく破棄はきすることにした。一方いっぽうガストンは1912ねんなつ家族かぞく撮影さつえいスタッフ20にんれてタヒチとうにいた。そして1913ねんまでかけて南太平洋みなみたいへいようとアジアを撮影さつえいしてまわり、ニューヨークにいる息子むすこ撮影さつえいしたフィルムをおくっていた。しかしおくられてきたフィルムはダメージをけていて使つかえないことがおおく、ガストンはMPPCへのスター・フィルムの義務ぎむたせなくなった。撮影さつえい旅行りょこうからもどったガストンは5まんドルの損失そんしつ計上けいじょうすることになり、スター・フィルムのアメリカ支社ししゃ売却ばいきゃくせざるをなくなった。ガストンはヨーロッパにもどり、1915ねんくなった。ガストンとジョルジュがかおわせることはなかった[3]

1913ねん、パテとの契約けいやく破棄はきしたが、同時どうじにそれまでけていた巨額きょがく製作せいさく返済へんさいしなければならなくなった。しかし1914ねんだいいち世界せかい大戦たいせんはじまって支払しはらい猶予ゆうよれいたため、パテはメリエスの自宅じたくとモントルイユのスタジオをさえできなくなった。いずれにしてもメリエスは破産はさんし、映画えいが製作せいさくつづけられなくなった。回想かいそうろくでメリエスは、賃貸ちんたいシステムに馴染なじめなかったてんあにガストンが財政ざいせいめん失敗しっぱいしたてんだいいち世界せかい大戦たいせん恐怖きょうふなどを映画えいが製作せいさくめたおも原因げんいんとしている。同時どうじに1913ねん5がつつまウジェニー・ジェナンがくなった。そのとき息子むすこアンドレは12さいだった。戦争せんそうによりロベール=ウーダン劇場げきじょう閉鎖へいさされ、メリエスは2人ふたりれてすう年間ねんかんパリをはなれた。1917ねん、フランス陸軍りくぐんはモントルイユのスタジオの建物たてもの傷痍軍人しょういぐんじんのための病院びょういんとして使用しよう。メリエスはモントルイユの2つ舞台ぶたい劇場げきじょうとし、1923ねんまでそこで24以上いじょうのショーやレビューをもよおした。また戦時せんじちゅう、フランス陸軍りくぐんはフィルムにふくまれるセルロイドとぎんさい利用りようするため、メリエスの映画えいが原版げんばん400ほん以上いじょう没収ぼっしゅうしている。陸軍りくぐん軍靴ぐんかのかかと部分ぶぶんなどにメリエスのフィルムを使つかった。1923ねん、オスマンどおりというあらたな大通おおどおりを建設けんせつするため、ロベール=ウーダン劇場げきじょうこわされた。同年どうねん、パテはついにスター・フィルムとモントルイユのスタジオを獲得かくとく。やけになったメリエスは、モントルイユのスタジオに保管ほかんされていたすべてのネガやセットや衣装いしょうやしてしまった。そのため、おおくの作品さくひん現存げんそんしないという状態じょうたいになった。それでも200以上いじょうのメリエス作品さくひん現存げんそんしている。

晩年ばんねん

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すべてをうしなったメリエスは、おおやけ姿すがたせなくなった。1920年代ねんだいちゅうごろにはモンパルナスえき周辺しゅうへんあめ玩具おもちゃをし、映画えいが製作せいさくしゃらがあつめた基金ききんによる援助えんじょいつないでいた。1925ねん長年ながねん愛人あいじんだったジュアンヌ・ダルシー結婚けっこんし、パリにんだ。1920年代ねんだいまつごろ、何人なんにんかのジャーナリストがメリエスとかれ業績ぎょうせき調しらはじめ、あらたな関心かんしんまれた。映画えいがかいさい評価ひょうかされるようになり、1929ねん12月にはサル・プレイエル回顧かいこてん開催かいさいされた。それについてメリエスは回想かいそうろくで「人生じんせい最高さいこう瞬間しゅんかん経験けいけんした」としるしている[3]

1931ねんレジオンドヌール勲章くんしょう受章じゅしょう。プレゼンターはルイ・リュミエールつとめた[12]。リュミエールはメリエスを「映画えいがてきスペクタクルの創造そうぞうしゃ」とひょうした[3]。しかしどんなに賞賛しょうさんけても、生活せいかつらくにはならなかった。Eugène Lauste という映画えいが製作せいさくしゃてた手紙てがみでメリエスは、「うんよく、健康けんこう状態じょうたいはよい。しかし毎日まいにち14あいだやすく、ふゆさむさのなかなつあつさのなかはたらつづけることはむずかしい」としるしている[3]。1932ねん映画えいがかいはメリエスと孫娘まごむすめマドレーヌとつまジュアンヌ・ダルシーに La Maison du Retrait du Cinéma(映画えいが業界ぎょうかいじんのための老人ろうじんホームとしてオルリー建設けんせつ)の部屋へや提供ていきょうした。メリエスはこれに感激かんげきし、あるジャーナリストに「これでパンと住処すみか心配しんぱいしなくてむのは、最高さいこう満足まんぞくだ」と手紙てがみいた[3]。オルリーではわか映画えいが監督かんとく共同きょうどう脚本きゃくほんいたりしたが、どれも実際じっさい作品さくひんにはならなかった。たとえば、ハンス・リスターミュンヒハウゼン男爵だんしゃくあらたな脚本きゃくほんき、アンリ・ラングロワジョルジュ・フランジュマルセル・カルネジャック・プレヴェールともLe Fantôme du métroだいした作品さくひん構想こうそうした[13]晩年ばんねんにはプレヴェールととも広告こうこく仕事しごと若干じゃっかんおこなっている。1935ねん、ラングロワとフランジュはルネ・クレールともなってメリエスと[14]翌年よくねんにはオルリーの老人ろうじんホームない使つかわれていない建物たてもの映画えいがフィルムのコレクションの保管ほかんしょとしてりた。そして、その保管ほかんしょかぎをメリエスにあづけており、メリエスはのちシネマテーク・フランセーズ一部いちぶとなるコレクションの最初さいしょ管理人かんりにんとなった[15]結局けっきょく1913ねん以降いこうあらたな映画えいが製作せいさくできなかったし、1923ねん以降いこう舞台ぶたいつこともなかったが、くなるまで脚本きゃくほんつづけ、わか映画えいが製作せいさくしゃらに助言じょげんつづけた[3]

1937ねんまつおも病気びょうきにかかり、ラングロワがパリのレオポルド・ヴェラン病院びょういんへの入院にゅういん手配てはいした。ラングロワが手厚てあつ看護かんごし、直前ちょくぜんにはフランジュが見舞みまいにおとずれた。かれらが病床びょうしょうおとずれると、メリエスは最後さいごのシャンパンボトルのコルクがはじけてあわがあふれているせた。そして「ともわらえ、わたしわらってくれ。わたしはあなたかたゆめたのだから」とった[16]。1938ねん1がつ21にちがんにより死去しきょ。その数時間すうじかんまえにはもう1人ひとり映画えいが先駆せんくしゃエミール・コールくなっている。ペール・ラシェーズ墓地ぼち埋葬まいそうされた[17]

フィルモグラフィー

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月世界げっせかい旅行りょこう』の有名ゆうめい場面ばめん。メリエスみずかがおのあるつきえんじた

様々さまざま原因げんいんにより、メリエスのぜん531作品さくひんのうち現存げんそんするのはやく200作品さくひんとなっている。メリエス自身じしんがオリジナルのネガを焼却しょうきゃくしており、フランス陸軍りくぐんがプリントを没収ぼっしゅうしたこともあり、1950ねんより以前いぜんのフィルムの80%は自然しぜん劣化れっかした。あらたにフィルムが発見はっけんされることもあるが、現存げんそんする作品さくひんだい部分ぶぶんアメリカ議会ぎかい図書館としょかん保存ほぞんされていたものである。これは、ガストン・メリエスがスター・フィルムのアメリカ支社ししゃげた1902ねん以降いこう著作ちょさくけんまもるため、映画えいがかくフレームを印画いんがけたものを提出ていしゅつしていたためである[3]

以下いかおも作品さくひん一覧いちらんは、『魔術まじゅつメリエス 映画えいが世紀せいきひらいたわが祖父そふ生涯しょうがい』にもとづく[18]

大衆たいしゅう文化ぶんかにおける言及げんきゅう

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ メリエスの素晴すばらしき映画えいが魔術まじゅつ&月世界げっせかい旅行りょこう”. エスパース・サロウ. 2015ねん8がつ14にち閲覧えつらん
  2. ^ Gress, Jon (2015). Visual Effects and Compositing. San Francisco: New Riders. p. 23. ISBN 9780133807240. https://books.google.com/books?id=9XrjBAAAQBAJ&pg=PA23 2017ねん2がつ21にち閲覧えつらん 
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as Wakeman, John. World Film Directors, Volume 1. The H. W. Wilson Company. 1987. pp. 747-765.
  4. ^ a b Lucien Reulos
  5. ^ Fry & Fourzon, The Saga of Special Effects, pp. 8
  6. ^ Musser, Charles. History of the American Cinema: Volume 1, The Emergence of Cinema. Charles Scribner's Sons, Inc. 1990. p. 277.
  7. ^ Musser. p. 325.
  8. ^ Musser. p. 364.
  9. ^ Musser. p. 299.
  10. ^ Musser. p. 402.
  11. ^ 1899ねんの『シンデレラ』とはことなる。原題げんだいは "Cendrillon" (1899) と "Cendrillon ou La Pantoufle mystérieuse" (1912) である。
  12. ^ Elizabeth Ezra. Georges Méliès: the birth of the auteur (Manchester: Manchester University Press, 2000): 20.
  13. ^ Myrent, Glenn & Langlois, Georges P.. Henri Langlois: First Citizen of Cinema. Twayne Publishers. 1986. p. 40.
  14. ^ Myrent & Langlois. p. 28.
  15. ^ Myrent & Langlois. p. 37.
  16. ^ Myrent & Langlois. p. 40-41.
  17. ^ “Georges Melies. French Motion Picture Producer a Pioneer in Industry.”. New York Times. (1938ねん1がつ23にち). http://select.nytimes.com/gst/abstract.html?res=FA0C1EFC355A157A93C1AB178AD85F4C8385F9 2008ねん5がつ9にち閲覧えつらん 
  18. ^ マドレーヌ・マルテット=メリエス『魔術まじゅつメリエス 映画えいが世紀せいきひらいたわが祖父そふ生涯しょうがい』フィルムアートしゃ、1994ねん4がつ、487-502ぺーじISBN 978-4845994281 
  19. ^ The Altering Eye: Contemporary International Cinema by Robert Phillip Kolker (Open Book Publishers, 2009) p. 148.
  20. ^ Queen Promo Videos: Heaven For Everyone Ultimate Queen. Retrieved 14 November 2011
  21. ^ 12 Best Music Video Movie Homages: Smashing Pumpkins – Tonight, Tonight”. Total Film (2010ねん4がつ7にち). 2012ねん3がつ28にち閲覧えつらん
  22. ^ Stylus Staff (2006ねん7がつ20日はつか). “Stylus Magazine's Top 100 Music Videos of All Time”. StylusMagazine.com. 2007ねん4がつ16にち閲覧えつらん
  23. ^ 歴史れきし見据みすえる、マーティン・スコセッシ監督かんとく作品さくひんオススメ5せん”. cinemas PLUS (2021ねん1がつ8にち). 2021ねん1がつ31にち閲覧えつらん

関連かんれん文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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関連かんれん文献ぶんけん

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外部がいぶリンク

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