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チェシン公国 - Wikipedia
チェシン公国こうこく
Księstwo Cieszyńskie (pl)
Těšínské knížectví (cs)
Herzogtum Teschen (de)
ポーランド王国 1281ねん - 1918ねん ポーランド第2共和国
チェコスロヴァキア
チェシン公国の国章
くにあきら
公用こうよう ラテン語らてんごドイツ後期こうき)、ポーランド民衆みんしゅう)、チェコ
宗教しゅうきょう プロテスタントローマ・カトリック
首都しゅと チェシン
チェシンこう
1290ねん - 1315ねん ミェシュコ1せい
1895ねん - 1918ねんフリードリヒ
変遷へんせん
公国こうこくとして分立ぶんりつ 1281ねん
ボヘミア王冠おうかんりょうしんぞく1327ねん
ハプスブルク君主くんしゅこく支配しはい1653ねん
スパ会議かいぎ1920ねん7がつ28にち

チェシン公国こうこくまたはテッシェン公国こうこくチェコ: Těšínské knížectví; ドイツ: Herzogtum Teschen; ラテン語らてんご: Ducatus Tessinensis; ポーランド: Księstwo Cieszyńskie)は、高地たかちシロンスクチェシン首都しゅととする独立どくりつ公国こうこくで、シロンスク公国こうこくぐんひとつ。

公国こうこくはシロンスク南東なんとうチェシン・シレジア位置いちしていた。公国こうこく1281ねん封建ほうけんてき分裂ぶんれつ状態じょうたいおちいっていたポーランド王国おうこくから分立ぶんりつし、1290ねんよりピャストのシロンスク諸公しょこう統治とうちけた。チェシン公国こうこくからは、オシフィエンチム公国こうこくザトル公国こうこくのような小規模しょうきぼ公国こうこくなん分立ぶんりつしていった(オシフィエンチムは1315ねんかれ、ザトルはオシフィエンチムから1454ねんかれた)。

1327ねん、チェシンこうカジミェシュ1せいボヘミアおうヨハン・フォン・ルクセンブルク臣従しんじゅうした。これにより、公国こうこく法的ほうてきにはボヘミア王冠おうかんりょう自治じちてき封土ほうどレーエン)となった。ピャスト統治とうちしゃたちなん公国こうこく以外いがい地域ちいき領有りょうゆうしたこともあった。シェヴィエシュ公国こうこくや、グウォグフ公国こうこく半分はんぶんビトム公国こうこく一部いちぶなどである。1431ねんボレスワフ1せいぬと、公国こうこくではおおやけエウフェミアと4にん息子むすこ共同きょうどう統治とうち開始かいしされた。1442ねんには公国こうこくは4兄弟きょうだいあいだ分割ぶんかつされたため、兄弟きょうだい全員ぜんいん公式こうしきにはチェシンの公爵こうしゃくとなったが、実際じっさい統治とうちしゃボレスワフ2せいプシェミスワフ2せいで、後者こうしゃ1452ねんのボレスワフの死後しご単独たんどく統治とうちしゃとなった。

ヴァツワフ3せいアダム統治とうち公国こうこく君臣くんしん信教しんきょう一致いっち原則げんそくCuius regio, eius religio)にしたがってプロテスタント国家こっかとなったが、その後継こうけいしゃアダム・ヴァツワフ体制たいせい宗教しゅうきょうカトリックもどした。1653ねん、ピャスト最後さいご統治とうちしゃだったエルジュビェタ・ルクレツィアぬと、公国こうこくはボヘミア王家おうけであるハプスブルク領土りょうど併合へいごうされた。

18世紀せいきはじめ、神聖しんせいローマ皇帝こうていけんボヘミアおうカール6せい同盟どうめい関係かんけいきずくためサヴォイア公国こうこくモンフェッラート公国こうこく譲渡じょうとし、同国どうこく母方ははかた祖母そぼエレオノーラ・マグダレナ・ゴンザーガ血統けっとうてき権利けんりから相続そうぞくするはずだった従兄じゅうけいロレーヌこうレオポルトにチェシンを補償ほしょうとしてあたえた。レオポルトの死後しごは、その息子むすこでカール6せいむすめマリア・テレジアおっとである皇帝こうていフランツ1せい相続そうぞくした。シロンスクのだい部分ぶぶん1742ねんだいいちシュレージエン戦争せんそう結果けっかプロイセン王国おうこく併合へいごうされたが、チェシンはオーストリアりょうシュレージエンとどまった。

フランツ1せいはチェシンをむすめマリア・クリスティーナとそのおっとザクセン公子こうしアルベルト・カジミール相続そうぞくさせたため、夫妻ふさいはザクセン=テッシェン公爵こうしゃく夫妻ふさいばれた。アルベルトとマリア・クリスティーナには実子じっしがなかったため、寡夫やもめとなったアルベルトがぬと、公国こうこく夫妻ふさい養子ようしむかえたマリア・クリスティーナのおいカール相続そうぞくし、ハプスブルク=ロートリンゲン分家ぶんけであるあたらしいチェシン公家くげ(ハプスブルク=テッシェン)が成立せいりつした。チェシンこう(テッシェンこう)の称号しょうごうはカールの長男ちょうなんアルブレヒトがれ、1895ねんからはそのおいフリードリヒ名乗なのった。

チェシン公国こうこく1804ねんオーストリア帝国ていこく1867ねん以後いごオーストリア=ハンガリー帝国ていこく)の一部いちぶとなった。だいいち世界せかい大戦たいせん終結しゅうけつすると、ポーランドやチェコが民族みんぞく国家こっか成立せいりつさせ、公国こうこく1920ねん7がつ開催かいさいされたスパ会議かいぎ結果けっかポーランドだい共和きょうわこくチェコスロヴァキアとのあいだ分割ぶんかつされた。

人口じんこう統計とうけい

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オーストリア=ハンガリー帝国ていこく政府せいふが1910ねんった国勢調査こくせいちょうさでは、公国こうこくは43まん4000にん住民じゅうみんかかえており、うちポーランド話者わしゃが23まん4000にん(53.9%)、チェコ話者わしゃが11まん6000にん(26.7%)、ドイツ話者わしゃが7まん7000にん(17.7%)、そのが7000にん(1.6%)であった。

チェシンこう

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チェシン公国こうこくのポーランド地図ちず、20世紀せいき
 
ヨハン・ホマンによる、1746ねん制作せいさくのチェシン公国こうこく地図ちず
シロンスク・ピャスト
ハプスブルクロレーヌハプスブルク=ロートリンゲン

参考さんこう文献ぶんけん

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  • Biermann, Gottlieb (1894) (German). Geschichte des Herzogthums Teschen (2nd edition ed.). Teschen: Verlag und Hofbuchhandlung Karl Prochaska. OCLC 34926439. http://www.kc-cieszyn.pl/biblioteka/strony/ramka.php?autor=biermann&licz=1 
  • Žáček, Rudolf (2004). Dějiny Slezska v datech. Praha: Libri. ISBN 80-7277-172-8 

外部がいぶリンク

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