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ヒッタイト - Wikipedia

ヒッタイト

紀元前きげんぜん15世紀せいきごろにアナトリア半島はんとう王国おうこくきずいた民族みんぞく
ヒッタイト王国おうこく
Ḫa-at-tu-ša / 𒄩𒀜𒌅𒊭
紀元前きげんぜん16世紀せいき - 紀元前きげんぜん1180ねん シロ・ヒッタイト国家
フリギア
リュディア
メディア王国
アケメネス朝
ヒッタイトの位置
ヒッタイト王国おうこく最大さいだい範囲はんい地図ちず紀元前きげんぜん1350ねんから1300ねんあいだにヒッタイト王国おうこく支配しはいしていた領域りょういきみどりせんしめしている。
公用こうよう ヒッタイトルウィパラーフルリアッカド、そのアナトリア
首都しゅと クッシャラ英語えいごばん
ハットゥシャ
元首げんしゅとう
紀元前きげんぜん1586ねん - 紀元前きげんぜん1556ねん ハットゥシリ1せい
紀元前きげんぜん1321ねん - 紀元前きげんぜん1295ねんムルシリ2せい
変遷へんせん
ラバルナ1せいによる建国けんこく 紀元前きげんぜん16世紀せいき
ヒッタイト中興ちゅうこうしん王国おうこく時代じだい幕開まくあトゥドハリヤ1せい
周辺しゅうへん海洋かいよう民族みんぞくによる包囲ほうい滅亡めつぼう紀元前きげんぜん1180ねん

ヒッタイト(/ˈhɪtaɪts/)(英語えいご: Hittites[ˈhɪtts]古代こだいギリシア: Χετταίοιラテン語らてんご: Hetthaei)は、紀元前きげんぜん1600ねんごろアナトリアきた中部ちゅうぶ位置いちするハットゥシャ中心ちゅうしんとした王国おうこく樹立じゅりつするじょう重要じゅうよう役割やくわりたしたアナトリアじんである。この王国おうこくは、アナトリアのだい部分ぶぶんだけでなく、レバント北部ほくぶ上部じょうぶメソポタミア一部いちぶふく領域りょういき領有りょうゆうしていたシュッピルリウマ1せいした紀元前きげんぜん14世紀せいきなかばにその絶頂ぜっちょうたっした。

概要がいよう

編集へんしゅう

紀元前きげんぜん15世紀せいきから紀元前きげんぜん13世紀せいきあいだに、慣習かんしゅうてきにヒッタイトとばれるハットゥシャの王国おうこくは、近東きんとう支配しはいのためにエジプトしん王国おうこくなかアッシリア帝国ていこくミタンニ帝国ていこく競合きょうごうするようになった。ちゅうアッシリア帝国ていこく最終さいしゅうてき優勢ゆうせい勢力せいりょくとしてあらわれ、ヒッタイト王国おうこくおおくを併合へいごうしたが、のこりの部分ぶぶんはこの地域ちいきへのフリュギアひと新参しんざんしゃによって略奪りゃくだつされた。紀元前きげんぜん1180ねん以降いこう青銅器せいどうき時代じだい後期こうき崩壊ほうかいに、ヒッタイトじんはいくつかの独立どくりつしたシロ・ヒッタイト国家こっか分裂ぶんれつし、そのうちのいくつかはしんアッシリア王国おうこく屈服くっぷくするまえ紀元前きげんぜん8世紀せいきまで存続そんぞくした。

ヒッタイトインド・ヨーロッパ語族ごぞくアナトリア言語げんごのうちのひとつで、密接みっせつ関連かんれんしているルーアンとともに、歴史れきしてき記録きろくされている最古さいこのインド・ヨーロッパであり[1]、その話者わしゃによってnešili「ネサの言語げんご」とばれている。ヒッタイトじん自分じぶんたちのくにをハットゥシャ王国おうこく(アッカドではハッティ)とんでいたが、これは紀元前きげんぜん2千年紀せんねんきはじめまでこの地域ちいきんでいたハッティじん由来ゆらいする。しかしハッティじん言語げんごであるハッティは、ヒッタイトとは無関係むかんけい言語げんごである[2]慣習かんしゅうてきな「ヒッタイトじん」という名称めいしょうは、19世紀せいき考古学こうこがく最初さいしょかれらが聖書せいしょのヒッタイトじんであると識別しきべつしたことによるものである。

 
ハットゥシャげんトルコ共和きょうわこくボアズカレ)のライオンのもん

ヒッタイト文明ぶんめい歴史れきしは、かれらの王国おうこく地域ちいき発見はっけんされた楔形文字くさびがたもじのテキストからおもられており、アッシリアバビロニアエジプト中東ちゅうとう様々さまざま史書ししょ発見はっけんされた外交がいこう商業しょうぎょう文通ぶんつうから、その解読かいどくはまた、インド・ヨーロッパ研究けんきゅう歴史れきしなか重要じゅうようなイベントであった。

てつせい発展はってんは、かつて青銅器せいどうき時代じだい後期こうきのアナトリアのヒッタイトじん起因きいんするとされ、その成功せいこうは、当時とうじてつ加工かこう独占どくせんしていたという利点りてんおおきく依存いぞんしていた。しかし、このような「ヒッタイトの独占どくせん」という見方みかたは、現在げんざいでは学者がくしゃあいだでも批判ひはんされており、もはや学問がくもんてきなコンセンサスとはなっていない[3]後期こうき青銅器せいどうき時代じだい初期しょき鉄器てっき時代じだい一部いちぶとして、青銅器せいどうき時代じだい後期こうき崩壊ほうかいにより、この地域ちいきでは鉄工てっこう技術ぎじゅつ比較的ひかくてき継続けいぞくてきにゆっくりと普及ふきゅうしてきた。青銅器せいどうき時代じだいのアナトリアの鉄器てっきはいくつかあるが、そのかずはエジプトなどで発見はっけんされた鉄器てっき匹敵ひってきするものであり、武器ぶきとなるものはごく少数しょうすうである[4]。ヒッタイトじんかしたてつではなく、隕石いんせき使つかっていた[5]。ヒッタイトぐん戦車せんしゃチャリオット)の使用しよう成功せいこうした[6]

古代こだいには、民族みんぞくてきなヒッタイト王朝おうちょうは、現在げんざいシリアレバノンイスラエルまわりにらばったちいさな王国おうこくのこった。統一とういつされた連続れんぞくせいいていたため、その子孫しそんらばっていき、最終さいしゅうてきにはバント、トルコ、メソポタミア近代きんだいてき民族みんぞく統合とうごうされた[7]

1920年代ねんだい、トルコ建国けんこくともない、ヒッタイトじんへの関心かんしんたかまり、ハレット・チャンベルタフシン・オズギュチなどのトルコじん考古こうこ学者がくしゃ注目ちゅうもくあつめた。このあいだ、ヒッタイトがくというあたらしい分野ぶんやは、国営こくえいのエティバンク(「ヒッタイト銀行ぎんこう」)[8]や、ヒッタイトじん首都しゅとから西にしに200キロはなれたアンカラにあるアナトリア文明ぶんめい博物館はくぶつかん設立せつりつにも影響えいきょうあたえ、世界せかいもっと包括ほうかつてきなヒッタイトじん美術びじゅつひん遺物いぶつ展示てんじおこなっている。

名称めいしょう

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ハッティ (えい: Hatti) の英語えいごめいで、旧約きゅうやく聖書せいしょヘテじん英語えいごばんえい: Hitti、ヘトじんとも)をもとにして、イギリスじんアッシリア学者がくしゃアーチボルド・セイス命名めいめいした。

なお、この聖書せいしょの「ヘトじん」はカナンじん一派いっぱとしてなん名前なまえてくるが、『エズラ』9しょう1せつのユダ王国おうこく指導しどうしゃたちがバビロンしゅうからもどっていたとき氏族しぞくちょうたちの報告ほうこく周辺しゅうへん民族みんぞく名前なまえとしててくるのを最後さいご名前なまえがらなくなり、すくなくとも西暦せいれき1世紀せいき後半こうはんころにはユダヤじんたちから「名前なまえ以外いがい不明ふめいほろんだ民族みんぞく」という認識にんしきをされていた(『ユダヤ古代こだいだいIまきviしょう2せつ[9]など)。

ヒッタイトじん (Hittites) は、クルガン仮説かせつによる黒海こっかいわたって北方ほっぽうけい民族みんぞくせつと、近年きんねん提唱ていしょうされているアナトリア仮説かせつによるこのアナトリア地域ちいき故郷こきょうとしてひろがってったという2つのせつ提唱ていしょうされているが、決着けっちゃくしていない。

近年きんねんカマン・カレホユック英語えいごばん遺跡いせきトルコ共和きょうわこくクルシェヒルけんクルシェヒル)にててつかす発見はっけんされ、ヒッタイト以前いぜん紀元前きげんぜん18世紀せいきごろアッシリア商人しょうにん植民しょくみん都市としがアナトリア半島はんとう一帯いったい展開てんかいした時代じだい)にてつがあったことがあきらかにされた。そのにも、他国たこく青銅せいどう輸出ゆしゅつあるいは輸入ゆにゅうしていたとられる大量たいりょう積荷つみにが、海底かいていから発見はっけんされた。

ヒッタイト王国おうこく

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紀元前きげんぜん1680ねんころクズルウルマック("あかかわ"の周辺しゅうへんヒッタイト王国おうこく建国けんこくし、のちメソポタミアなどを征服せいふくした。なお、ヒッタイトおう称号しょうごうは、ラバルナであるが、これは王国おうこく初代しょだいおうであるラバルナ1せい、また、ラバルナの継承けいしょうしたハットゥシリ1せい個人こじんめい由来ゆらいし、のちにヒッタイトの君主くんしゅごうとして定着ていちゃくしたものである。ヒッタイト王妃おうひ称号しょうごうタワナアンナであるが、これも初代しょだい王妃おうひであるタワナアンナの継承けいしょうしたといわれている。 紀元前きげんぜん1595ねんころムルシリ1せいひきいるヒッタイト王国おうこくが、サムス・ディターナひきいるバビロニアほろぼし、メソポタミアカッシート王朝おうちょう成立せいりつした。

ヒッタイトちゅう王国おうこく

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紀元前きげんぜん1500ねんころヒッタイトちゅう王国おうこく成立せいりつした。タフルワイリアルワムナによる王位おうい簒奪さんだつ相次あいつぎ、70年間ねんかんほど記録きろくすくない時代じだいつづいた。

ヒッタイトしん王国おうこく

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エジプトの壁画へきが表現ひょうげんされたヒッタイトぐん戦車せんしゃ

紀元前きげんぜん1430ねんごろヒッタイトしん王国おうこく成立せいりつした。 紀元前きげんぜん1330ねんごろシュッピルリウマ1せいミタンニ制圧せいあつする。このとき前線ぜんせんたのは、おう息子むすこたち(テレピヌとピヤシリ)であった。 紀元前きげんぜん1285ねんころ古代こだいエジプトシリアカデシュ衝突しょうとつカデシュのたたか)。ラムセス2せいのエジプトを撃退げきたいする。ラムセス2せいは、勝利しょうり記録きろくたたかいの様子ようすともルクソールなどの神殿しんでんきざんでいるが、実際じっさいにはシリアはヒッタイトが支配しはいつづけた。エジプトのラムセスおう寺院じいんかべに、3にんりの戦車せんしゃラムセス2せいたたかうヒッタイトぐんムワタリ2せいぐん)のレリーフがえがかれている。このさいに、世界せかい最古さいこ講和こうわ条約じょうやくむすばれた。ハットゥシリ3せい王妃おうひプドゥヘパえい Puduhepa)さくとされる宗教しゅうきょうは、現在げんざい発見はっけんされている最古さいこ女性じょせい文芸ぶんげいさくである。ヒッタイトの宗教しゅうきょうは、つよフルリじん宗教しゅうきょう影響えいきょうけていることがかっており、その文化ぶんかにもフルリ文化ぶんか色彩しきさいつよまった。

紀元前きげんぜん1190ねんごろ通説つうせつでは、民族みんぞく分類ぶんるい不明ふめい地中海ちちゅうかいしょ地域ちいきしょ種族しゅぞく混成こんせい集団しゅうだんられる「うみみん」によってほろぼされたとされているが、最近さいきん研究けんきゅう王国おうこく末期まっきこった3だいにおよぶ内紛ないふん深刻しんこく食糧難しょくりょうなんなどをまねき、くに維持いじするだけのちから自体じたいすでうしなわれていたことがあきらかになった(ぜん1200ねんのカタストロフ)。

滅亡めつぼう

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ヒッタイトしん王国おうこくほろびたあと、のこみん南東なんとうアナトリアに移動いどうし、紀元前きげんぜん8世紀せいきころまでシロ・ヒッタイト国家こっかぐん英語えいごばん(シリア・ヒッタイト)とばれる都市とし国家こっかぐんとして活動かつどうした(紀元前きげんぜん1180ねん-紀元前きげんぜん700ねんころ)とされる。ただし、この都市とし国家こっかぐん住民じゅうみんはかなりの程度ていどフルリじん同化どうかしていたとかんがえられている。

歴代れきだい君主くんしゅ

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王国おうこく以前いぜん支配しはいしゃ

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王国おうこく

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ちゅう王国おうこく

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しん王国おうこく

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文献ぶんけん[10][11]参考さんこう作成さくせい双方そうほう記述きじゅつことなる場合ばあいは、かくおう記事きじ矛盾むじゅんしないものを採用さいようした。

 
ハットゥシリ1せい
 
 
 
 
 
 
 
 
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ムルシリ1せい
 
ハラプシリ
 
ハンティリ1せい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
むすめ
 
ツィダンタ1せい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アンムナ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
フッツィヤ1せい
 
イシュタパリヤ
 
テリピヌ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ハラプシリ
 
アルワムナ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ハンティリ2せい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ツィダンタ2せい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
トゥドハリヤ1せい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アシュムニカル
 
アルヌワンダ1せい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
トゥドハリヤ2せい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
トゥドハリヤ3せい
 
シュッピルリウマ1せい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アルヌワンダ2せい
 
ムルシリ2せい
 
ザンナンザ
 
テリピヌ
ハルパふくおう
 
ピヤシリ
カルケミシュふくおう
 
シャル・クシュフ
カルケミシュふくおう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ムワタリ2せい
 
 
 
 
 
ハットゥシリ3せい
 
プドゥヘパ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ムルシリ3せい
 
クルンタ
タルフンタッシャふくおう
 
トゥドハリヤ4せい
 
ネプテラ
(マートネフェルラー)
 
ラムセス2せい
エジプトおう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アルヌワンダ3せい
 
シュッピルリウマ2せい
 
 
ハットゥシャ遺跡いせき

関連かんれん作品さくひん

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映像えいぞう作品さくひん

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  • ドキュメンタリー『うしなわれた世界せかいなぞ』シリーズ だい27かい『ヒッタイト帝国ていこくなぞ』(ヒストリーチャンネル

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 2006-05-02 Hittite” (7 July 2004). 3 February 2017てんオリジナルよりアーカイブ。19 December 2016閲覧えつらん
  2. ^ Ardzinba, Vladislav. (1974): Some Notes on the Typological Affinity Between Hattian and Northwest Caucasian (Abkhazo-Adygian) Languages. In: "Internationale Tagung der Keilschriftforscher der sozialistischen Länder", Budapest, 23.-25. April 1974. Zusammenfassung der Vorträge (Assyriologica 1), p. 10-15.
  3. ^ Muhly, James D. 'Metalworking/Mining in the Levant' in Near Eastern Archaeology ed. Suzanne Richard(2003), pp. 174–183
  4. ^ Waldbaum, Jane C. From Bronze to Iron. Göteburg: Paul Astöms Förlag (1978): 56–58.
  5. ^ 'Irons of the Bronze Age'(2017), Albert Jambon.
  6. ^ Hittites”. British Museum. Trustees of the British Museum. 7 November 2014てんオリジナルよりアーカイブ。7 November 2014閲覧えつらん
  7. ^ Ancient History Encyclopedia. "Sea Peoples." September 2009. Sea Peoples Archived 18 June 2018 at the Wayback Machine.
  8. ^ Erimtan, Can. (2008). Hittites, Ottomans and Turks: Ağaoğlu Ahmed Bey and the Kemalist Construction of Turkish Nationhood in Anatolia Archived 22 September 2018 at the Wayback Machine., Anatolian Studies, 58, 141–171
  9. ^ フラウィウス・ヨセフス ちょはたつよしたいら やく『ユダヤ古代こだい1』株式会社かぶしきがいしゃ筑摩書房ちくましょぼう、1999ねんISBN 4-480-08531-9、P64。
  10. ^ 下津しもつ清太郎せいたろう へん世界せかい帝王ていおう系図けいずしゅう 増補ぞうほばん近藤こんどう出版しゅっぱんしゃ、1982ねん、p.145, 146
  11. ^ ジョン・E.・モービー 『オックスフォード 世界せかい歴代れきだい王朝おうちょうおうめい総覧そうらん東洋とうよう書林しょりん、1993ねん、p.60, 61

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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