ヒホン(Gijón、アストゥリアス語:Xixón)は、スペイン・アストゥリアス州のムニシピオ(基礎自治体)。2012年の人口は277,733人で、アストゥリアス州でもっとも人口が多い自治体である。アストゥリアス州都のオビエドなどとともに、人口85万人の都市圏を形成している。
ヒホンでは先史時代の墳丘やドルメンの遺跡が見つかっている。近年相次いで発見されたドルメンは紀元前5千年紀にさかのぼる。紀元前6世紀からアストゥル人(en)が定住した。紀元前1世紀にはローマの支配下に入り、半島部(シマデビラ)に街が作られた。ローマ時代から西ゴート時代には「ジジャ」(Gigia)という名前で呼ばれた。
713年ごろにイスラム勢力に征服されたのち、アストゥリアスはヒホン駐在のヌムーザ(en)によって支配された。718年ごろ、伝説的な王ペラヨ(en)はコバトンガの戦い(en)でヌムーザをやぶった。これ以降、ヒホンはアストゥリアス王国、レオン王国、カスティーリャ王国の領土となった。
近世以降、大西洋を舞台とした貿易が活性化し、街の発展につながった。19世紀に鉄道が開通すると、アストゥリアス内陸からの石炭の積出港となり、食品工業も発展した。19世紀末に港が拡張され、造船所が設立された。20世紀始めにアストゥリアスは労働運動の牙城となり、1934年10月に炭鉱労働者を中心とする革命が起こったが、のちに独裁者となるフランコ指揮の政府軍に鎮圧された。スペイン内戦では反乱軍(英語版)に対抗する自治政府がヒホンに作られたが、1937年10月21日に陥落した。
19世紀から20世紀にかけての主力産業は製鉄・鉄鋼であった。ヒホンの製鉄会社は合併を繰り返し、20世紀末にアルセロールに統合された。
水平線礼賛
海に突き出たサンタ・カタリーナ丘のふもとには、ローマ時代からの街シマデビージャ(es)があり、ローマ浴場の跡が見つかっている。丘の上には彫刻家エドゥアルド・チリーダの作品「水平線礼賛」が立っている。
サンタ・カタリーナ丘をはさんで、サン・ロレンソ海岸、ポニエンテ海岸、アルベヤル海岸などのビーチがある。
サン・ロレンソ海岸、対岸はサンタ・カタリーナの丘、その奥はエル・ムセル港
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