1951年5月25日にフランス南西部に位置するピレネー=アトランティック県ポーに誕生する。1993年から1997年までエドゥアール・バラデュール、アラン・ジュペの両内閣で教育相を務め、1998年から中道右派のUDF議長に就任。欧州議会議員でもあった。
2002年フランス大統領選挙に初めて立候補し194万9436票(6.84パーセント)を獲得し4位につけた。しかし、自身が率いるUDFの一部議員が現職のジャック・シラク大統領の支持に回るなど、中道右派票の取りまとめに失敗した。
続く2007年フランス大統領選挙では、保守のニコラ・サルコジ国民運動連合総裁とフランス社会党のセゴレーヌ・ロワイヤルの2人が有力であったが、バイルは穏健で安定した語り口が有権者に安心感を与え、この2人に肉迫するようになった。同年3月8日付『パリジャン』紙ではバイルを含む3人が三つ巴の様相を呈していると報道、サルコジとロワイヤルに飽き足りない中間層から支持され、前回から大幅に得票を伸ばし682万119票(18.57パーセント)を獲得し、3位につけた。中道志向を強めたバイルは、4月25日の決選投票ではサルコジ、ロワイヤルの両候補のいずれも支持をしないことを表明したが、国民運動連合との選挙協力によって当選したUDFの議員から反発され、多くの議員が国民運動連合に流れることとなった。バイルは、自身を支持する5名の議員とともに新党「民主運動」結成を発表し、党首に就任した。
2012年フランス大統領選挙にも3回連続で立候補するが、第1回投票で327万5349票(9.13パーセント)の得票で5位に沈んだ。バイルの中道票をにらんで、国民運動連合のアラン・ジュペ外務大臣は「バイルが次期首相に相応しい」と秋波を送った(後にサルコジが否定した)。しかし決選投票では左派・社会党のフランソワ・オランド支持を表明した。
2014年のポー市長選挙で当選してポー市長となる。任期は6年。2020年にも再選された。
2017年5月に大統領になったエマニュエル・マクロンの最初の内閣で司法大臣・国璽尚書となった。しかし自らが党首を務める民主運動に欧州議会の公金を不正流用した疑惑が持ち上がったことで、わずか1ヶ月後の6月21日に辞任を発表した[1]。