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アンリ4世 (フランス王) - Wikipedia

アンリ4せい (フランスおう)

16-17世紀せいきのブルボンあさ初代しょだい国王こくおう

アンリ4せいフランス語ふらんすご: Henri IV1553ねん12月13にち - 1610ねん5月14にち)は、ブルボンあさ初代しょだいフランス国王こくおう在位ざいい1589ねん8がつ2にち - 1610ねん5月14にち)、およびナバラ国王こくおうエンリケ3せいバスク: Henrike III.a在位ざいい1572ねん6月9にち - 1610ねん5月14にち)。

アンリ4せい
Henri IV
フランス国王こくおう
ナバラ国王こくおう
アンリ4せいフランス・プルビュス
在位ざいい 1572ねん6月9にち1610ねん5月14にち(ナバラ)
1589ねん8がつ2にち1610ねん5月14にち(フランス)
戴冠たいかんしき 1594ねん2がつ27にち(フランス)
シャルトルだい聖堂せいどう
べつごう アンドラ大公たいこう

出生しゅっしょう (1553-12-13) 1553ねん12月13にち
ナバラ王国おうこく
ベアルン地方ちほう
ポー
死去しきょ (1610-05-14) 1610ねん5月14にち(56さいぼつ
フランス王国おうこく
パリ
埋葬まいそう フランス王国おうこく
サン=ドニ
サン=ドニだい聖堂せいどう
配偶はいぐうしゃ マルグリット・ド・ヴァロワ
  マリー・ド・メディシス
子女しじょ
家名かめい ブルボン=ヴァンドーム
王朝おうちょう ブルボンあさ
父親ちちおや アントワーヌ・ド・ブルボン=ヴァンドーム
母親ははおや ジャンヌ・ダルブレ
宗教しゅうきょう キリスト教きりすときょう改革かいかく教会きょうかいカトリック教会きょうかい改革かいかく教会きょうかいカトリック教会きょうかい
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ユグノー戦争せんそう叔父おじコンデおおやけルイ戦死せんししたため、年少ねんしょうにしてユグノー盟主めいしゅとなる。1572ねん自身じしん婚礼こんれいさいしてくわだてられたサン・バルテルミの虐殺ぎゃくさつ遭遇そうぐうしたが、カトリック改宗かいしゅうしてなんけ、1576ねん脱走だっそうしてふたたびプロテスタントに復帰ふっきし、1589ねんアンリ3せい暗殺あんさつにより王位おうい継承けいしょうする。その再度さいどカトリックに改宗かいしゅうして国内こくない平定へいていし、1598ねんナントのみことのりれい発布はっぷしてカトリックとユグノーとの国内こくない融和ゆうわつとめ、40ねんちかくにわたる戦争せんそう終結しゅうけつさせた。戦後せんご戦争せんそうによって疲弊ひへいした国家こっか再建さいけんおこなったが、1610ねん狂信きょうしんてきなカトリック信者しんじゃによって暗殺あんさつフランス語ふらんすごばんされた。在位ざいいちゅうから現代げんだいいたるまでフランス国民こくみんあいだ人気にんきたかおう一人ひとりで、だいアンリ(Henri le Grand)、良王りょうおうアンリ(le bon roi Henri)とばれる。1959ねんから発行はっこうされた50フラン紙幣しへいにおいて肖像しょうぞう採用さいようされていた。ルイ13せい、ルイ14せいまご、グラン・ドーファンは曾孫そうそん、ブルゴーニュこうルイは玄孫げんそん、ルイ15せいらいまご、ルイ・フェルディナンはこんまご、ルイ16せいは仍孫、ルイ17せいくもまごである。

生涯しょうがい

編集へんしゅう

幼少ようしょう

編集へんしゅう

ブルボンのヴァンドームこうアントワーヌちちに、フランスおうフランソワ1せいめいであるナバラ女王じょおうジャンヌ・ダルブレははに、ナバラりょうポーまれた。

ははジャンヌは熱心ねっしんなユグノー(カルヴァン主義しゅぎプロテスタント)であり、その影響えいきょうちちもプロテスタントに帰依きえしていた。当時とうじのフランスではユグノーが勢力せいりょくしてカトリックとの対立たいりつたかまり、有力ゆうりょく王位おうい継承けいしょうけん家柄いえがらであるブルボン当主とうしゅちちがこのユグノーの盟主めいしゅとなっていた。

1559ねんアンリ2せい事故死じこしし、フランソワ2せい即位そくいする。フランソワ2せい治世ちせいでは王妃おうひマリー・デコス(スコットランド女王じょおうメアリー・ステュアート)の親族しんぞくであるギーズ権勢けんせいっており、ギーズこうフランソワ熱狂ねっきょうてきなカトリックだった。宗派しゅうはあいだ対立たいりつたかまり、ギーズこう1560ねんアンボワーズの陰謀いんぼう事件じけん多数たすうのプロテスタント貴族きぞく粛清しゅくせいしている。

フランソワ2せい1560ねん早世そうせいし、おとうとシャルル9せい即位そくいする。本来ほんらいならブルボン当主とうしゅのアントワーヌが摂政せっしょうつとめることになるが、このとき母后ぼこうカトリーヌ・ド・メディシス摂政せっしょう就任しゅうにんし、アントワーヌは王国おうこく総代そうだいかんぐん最高さいこう司令しれい官職かんしょく)となった[1]よく1561ねんに7さいのアンリはちちせられて宮廷きゅうていはいった[2]摂政せっしょうカトリーヌはカトリックとプロテスタントの融和ゆうわはかるものの、対立たいりつさら激化げきかしてしまい、その最中さいちゅうちちがカトリックに寝返ねがえ改宗かいしゅうしてしまう。熱心ねっしんなプロテスタントのははジャンヌは宮廷きゅうていり、おさないアンリはカトリックに強制きょうせいてき改宗かいしゅうさせられた[3]

ユグノー戦争せんそう

編集へんしゅう

1562ねん、ギーズこうユグノー虐殺ぎゃくさつ事件じけん契機けいきユグノー戦争せんそう勃発ぼっぱつする。プロテスタント信仰しんこう忠実ちゅうじつ叔父おじコンデおおやけルイ1せいがユグノー陣営じんえい盟主めいしゅとなり、ははもこれにくわわった。一方いっぽう改宗かいしゅうしたちちはカトリック陣営じんえい司令しれいかんとしてたたかうが、ルーアン包囲ほういせん戦死せんししてしまい、おさないアンリがブルボン当主とうしゅとなった。

1563ねん2がつにギーズこうがプロテスタントの刺客しかく暗殺あんさつ、3月にアンボワーズの和議わぎ成立せいりつして戦争せんそう一旦いったんわる。1564ねん、シャルル9せいおうふとしきさきカトリーヌが全国ぜんこく巡幸じゅんこう出発しゅっぱつし、アンリもこれに随行ずいこうした。この巡行じゅんこうちゅうサロン=ド=プロヴァンスったさい著名ちょめい占星術せんせいじゅつノストラダムスからアンリが将来しょうらい国王こくおうになると予言よげんされた逸話いつわつたわる[4]

1567ねん和平わへい破綻はたんし、ふたた戦争せんそうはじまる。アンリはははベアルンされ、ユグノー陣営じんえいくわわった[5]。ベアルンでカトリックの反乱はんらんこると、アンリははじめて軍隊ぐんたい指揮しきり、見事みごと撃退げきたいしている[5]。アンリはははともにユグノーの本拠地ほんきょちラ・ロシェルはいった。1568ねんジャルナックのたたかでユグノー盟主めいしゅ叔父おじコンデこう戦死せんししてしまう。このためわかいアンリが盟主めいしゅとなり、軍隊ぐんたい指揮しきガスパール・ド・コリニー提督ていとくることになった。戦争せんそうではユグノーは苦戦くせんするものの、やがて有能ゆうのうなコリニー提督ていとく指揮しきしたいきおいをかえし、1570ねん和議わぎ成立せいりつしてわった。

おうふとしきさきカトリーヌはカトリックとプロテスタントとの融和ゆうわのため、アンリとおういもうとマルグリットとの婚姻こんいん提案ていあんする。はは両人りょうにん宗派しゅうはちがいからなやむが、最終さいしゅうてきにはこの婚姻こんいん同意どういした[5]。この結婚けっこん同意どういからほどない1572ねん6がつはは急死きゅうし、アンリはナバラ王位おうい継承けいしょうした(アンリ・ド・ナヴァール、スペインめいでエンリケ3せい)。

 
サン・バルテルミの虐殺ぎゃくさつ

同年どうねん8がつ18にち、アンリはおういもうとマルグリットとの結婚式けっこんしきげる。ところが8がつ24にち結婚式けっこんしき参列さんれつのためパリあつまっていたコリニー提督ていとくをはじめおおくのユグノー貴族きぞくがカトリックのギーズこうアンリ1せいへいによって虐殺ぎゃくさつされた。カトリックは貴族きぞくだけでなくプロテスタントの民衆みんしゅうまで差別さべつ虐殺ぎゃくさつはじめ、すうせんにんころされた。虐殺ぎゃくさつはフランス各地かくちにもひろがり、死体したいがパリ市内しないいたところ放置ほうちされるなかで、アンリは従弟じゅうていのコンデおおやけアンリ1せいとともに強制きょうせいてきにカトリックに改宗かいしゅうさせられ、宮廷きゅうてい幽閉ゆうへいされた。

虐殺ぎゃくさつ契機けいき戦争せんそう再開さいかいすると、アンリはカトリックがわ参戦さんせんしている[6]途中とちゅう休戦きゅうせんはさみつつ戦争せんそうつづなか1574ねんにシャルル9せい死去しきょする。おとうとアンリ3せい前年ぜんねんの1573ねんポーランド国王こくおうむかえられていたが、あに訃報ふほうけるとただちにポーランドを出奔しゅっぽんして帰国きこくし、フランスおう即位そくいした。

アンリはいくかの宮廷きゅうてい脱出だっしゅつこころみの失敗しっぱい[7]のち1576ねん2がつ3にち狩猟しゅりょう大会たいかいちゅう逃走とうそう成功せいこうする[8]。そのしばらく戦争せんそう情勢じょうせい観望かんぼうしたアンリは、同年どうねん5がつにユグノー有利ゆうり和議わぎ成立せいりつすると6月13にちにプロテスタントにさい改宗かいしゅうし、ユグノー陣営じんえい盟主めいしゅとなった[8]

即位そくい王国おうこく平定へいてい

編集へんしゅう
 
アンリ3せいとナバラ王らおうアンリの和解わかい

カトリック陣営じんえいはギーズこうアンリを首領しゅりょうとするカトリック同盟どうめい結成けっせいしてかえし、またも戦争せんそう再開さいかいする。1584ねんおうおとうとアランソンこうフランソワともない、ナバラ王らおうアンリは筆頭ひっとう王位おうい継承けいしょうけんしゃとなった。宗教しゅうきょう戦争せんそうにフランス王位おうい継承けいしょう問題もんだいもからみ、アンリ3せいとカトリック同盟どうめいのギーズこうアンリ、そしてユグノー盟主めいしゅのナバラ王らおうアンリによる、さんアンリのたたかいとばれる様相ようそうていするようになった。

危機ききかんおぼえたギーズこうは、アンリ3せい圧力あつりょくをかけて1585ねんヌムールみことのりれいさせ、ナバラ王らおうアンリの王位おうい継承けいしょうけん無効むこうとさせる。ローマ教皇きょうこうシクストゥス5せいもこれに同調どうちょうする教書きょうしょす。不利ふりになったナバラ王らおうアンリだったが、穏健おんけんカトリック貴族きぞく協力きょうりょくて、1587ねんクートラのたたかではカトリックぐん大勝たいしょうすることに成功せいこうしている[9]

アンリ3せい交渉こうしょうによる和平わへい模索もさくするが、1588ねん5月にパリでこったバリケードの事件じけん契機けいきとしてギーズこうはアンリ3せいに、みずからのブルボン枢機卿すうききょうシャルル(ナバラ王らおうアンリの叔父おじ)を王位おうい継承けいしょうしゃみとめさせることに成功せいこうし、カトリックがわ優位ゆういった。だが、かえしをはかるアンリ3せい同年どうねん12がつ、ギーズこうとそのおとうとギーズ枢機卿すうききょうルイ暗殺あんさつ英語えいごばんした。カトリック同盟どうめい敵対てきたいしたアンリ3せいはナバラ王らおうアンリのユグノーぐん合流ごうりゅうして、カトリック同盟どうめい本拠地ほんきょちパリの奪回だっかいはかるが、1589ねん8がつにアンリ3せいもまた熱狂ねっきょうてきドミニコかい凶刃きょうじんたおれた。

アンリ3せいゆかにナバラ王らおうアンリをんで王位おういたくし、同時どうじにカトリックへの改宗かいしゅうすすめた[10] 。8月2にち、アンリ3せい死去しきょしてヴァロワあさ断絶だんぜつした。35さいのナバラ王らおうアンリがフランス王位おうい継承けいしょうしてアンリ4せいとなり、あらたにブルボンあさひらかれることになる。

 
イヴリーのたたか

しかし、スペインうしたてつカトリック同盟どうめいはローマ教皇きょうこうから破門はもんされていたアンリ4せいみとめず、ギーズこうおとうとのマイエンヌこうシャルル盟主めいしゅ擁立ようりつ、ブルボン枢機卿すうききょうに「シャルル10せい」をしょうさせてしん国王こくおう擁立ようりつし、アンリ4せいたたかいをいどんだ[11]。アンリ4せい各地かくち転戦てんせんしてカトリック同盟どうめいそよいつつパリ攻略こうりゃく目指めざすが、頑強がんきょう抵抗ていこう容易ようい陥落かんらくできなかった。一方いっぽう1590ねんにブルボン枢機卿すうききょう死去しきょしたためカトリック同盟どうめいいていた。

アンリ4せいは、カトリック信者しんじゃ圧倒的あっとうてきなパリがプロテスタントのおうれることがないとさとった。1593ねん7がつにアンリ4せいちょうガブリエル・デストレへ「とんぼがえりをつことにする」と手紙てがみおくっている[12][13]同年どうねん7がつ25にち、アンリ4せいサン=ドニだい聖堂せいどう司祭しさい祝福しゅくふくけてカトリックに改宗かいしゅうした[14]巷間こうかんられるところによれば「Paris vaut bien une messe」(パリはミサをささげるにあたいする都市としである)とかたったとされる[15]

これによって、なおカトリックが優勢ゆうせいであったフランス国民こくみん広汎こうはん支持しじけることに成功せいこうし、1594ねん2がつ27にちシャルトルだい聖堂せいどう正式せいしきなりひじりしき戴冠たいかんしき)をおこなうことができた(本来ほんらいランスだい聖堂せいどうおこなわねばならないが、この時点じてんではいまだカトリック同盟どうめい勢力せいりょくにあった)。同年どうねん3月22にちついにパリ入城にゅうじょうたす。その地方ちほうかく都市とし続々ぞくぞくとアンリ4せい帰順きじゅんし、マイエンヌこうおいでギーズこう遺児いじシャルル1せい帰順きじゅんしカトリック同盟どうめい瓦解がかいした。

ブルターニュではスペインの支援しえんけたメルクールこう抵抗ていこうつづけており、1595ねんにアンリ4せいはスペインに宣戦せんせん布告ふこくをしてブルターニュ平定へいていおこなった。メルクールこう降伏ごうぶくし、スペインとの和平わへい交渉こうしょうはじまった1598ねん4がつ30にちにアンリ4せいナントのみことのりれいはっした。どうみことのりれいはカトリックをフランスの国家こっかてき宗教しゅうきょうであると宣言せんげんしつつ、プロテスタントにおおくの制約せいやくはあるものの信仰しんこう自由じゆうみとめ、フランスにおける宗教しゅうきょう戦争せんそう終息しゅうそくはかったものであった。

再婚さいこん

編集へんしゅう
 
ガブリエル・デストレ

サン・バルテルミの虐殺ぎゃくさつのため、不幸ふこう結婚けっこんとなったアンリ4せいつまマルグリットとの関係かんけいったものであり、子供こどももいなかった。とも好色こうしょく夫婦ふうふながきにわたって別居べっきょ状態じょうたいで、それぞれがおおっぴらに幾多いくた愛人あいじんかかえていた。のちにマルグリットは一人ひとりオーヴェルニュユソンしろうつんでいる。

アンリ4せいがフランス王位おういくと、側近そっきんたちは後継こうけいしゃ問題もんだいふたた内戦ないせん状態じょうたいにならないためにもきちんとした後継こうけいしゃのこすよう提言ていげんした。アンリ4せいはローマ教皇きょうこうにマルグリットとの結婚けっこん無効むこうみとめてもらうことで、すでに3にん子供こどもんでいるガブリエル・デストレ正式せいしきつまむかえたいとのぞんでいた[16]身分みぶん問題もんだいから側近そっきん反対はんたいしたが、ガブリエルが1599ねん4がつ急死きゅうししたことで問題もんだいえとなった。同年どうねん教皇きょうこうからマルグリットとの結婚けっこん無効むこうであったとの宣言せんげんくだされ、1600ねんにアンリ4せいメディチマリー・ド・メディシス結婚けっこんした。2人ふたりあいだには6にんまれている。だが、政略せいりゃく結婚けっこんである2人ふたりなかけっして円満えんまんではなく、多情たじょうなアンリ4せいおおくの愛人あいじんち、そのかずは56にん以上いじょうおよんだとするせつもある[17]。アンリ4せい愛人あいじんなかでもとりわけアンリエット・ダントレーグふかあいした[18]

 
ヘーラクレースふんするアンリ4せい

アンリ4せい賢明けんめい有能ゆうのう君主くんしゅであった。反対はんたい貴族きぞく武力ぶりょく弾圧だんあつするのではなく、懐柔かいじゅうすることにつとめ、そのためには賠償金ばいしょうきん支払しはらいさえさなかった。さらに国民こくみん生活せいかつ状態じょうたい配慮はいりょする姿勢しせい評価ひょうかされて絶大ぜつだい人気にんきほこり、「良王りょうおうアンリ」とばれるようになる[19]

まず、内戦ないせん疲弊ひへいしたフランスをなおすために、側近そっきんであったシュリーこうマクシミリアン国家こっか経済けいざい再建さいけん農業のうぎょう促進そくしん開墾かいこん拡大かくだい公共こうきょう事業じぎょう活発かっぱつなどの政策せいさくおこなわせた。さらに教育きょういく機関きかん拡充かくじゅう街道かいどう整備せいび森林しんりん保護ほごはし運河うんが整備せいびすすめた。また、セーヌがわにまたがるポンヌフはし建造けんぞう中心ちゅうしんとした首都しゅとパリのだい規模きぼさい開発かいはつ計画けいかく実行じっこうし、パレ・ロワイヤルルーブル宮殿きゅうでんだいギャラリーを建造けんぞうした。このギャラリーながさ400m、はば30mにもおよぶ、当時とうじ世界せかいでは最大さいだいきゅう建築けんちくぶつであった。さらにアンリ4せいはあらゆる芸術げいじゅつ工芸こうげいまねいてルーブル宮殿きゅうでんまわせ、創作そうさく活動かつどうおこなわせた。これはナポレオン・ボナパルト禁止きんしするまで、歴代れきだいおうによって継承けいしょうされる政策せいさくとなった。

行政ぎょうせいめんでは、ぜい支払しはらいの見返みかえりに官職かんしょく世襲せしゅう保証ほしょうするポーレットほうさだめ、また金融きんゆうから地域ちいき税金ぜいきん前借まえがりしてわりに徴税ちょうぜいわせる徴税ちょうぜい請負人うけおいにん制度せいど英語えいごばんつくり、財政ざいせい再建さいけんつとめている[20]

 
アンリ4せい暗殺あんさつ
 
フランソワ・ラヴァイヤックの公開こうかい死刑しけい

アンリ4せいのヴィジョンは国内こくないえており、きたアメリカ探検たんけんサミュエル・ド・シャンプラン派遣はけんしている。これはのちカナダにフランスの植民しょくみんきずかれる基礎きそとなった。また、悲惨ひさん戦争せんそう惨禍さんかふせぐため、ヨーロッパ各国かっこく共同きょうどうして国際こくさい裁判所さいばんしょ国際こくさいぐんち、侵略しんりゃく行為こうい対抗たいこうするという「だい計画けいかく」を構想こうそうしていた[21]

有能ゆうのう君主くんしゅとして国民こくみんひろあいされたアンリ4せいだったが、たびたび暗殺あんさつ危機ききにさらされていた。1594ねんにはジャン・シャテルJean Châtel)による暗殺あんさつ未遂みすい重傷じゅうしょうった。 そして1610ねん5月14にち、アンリ4せい馬車ばしゃろうとしたさい狂信きょうしんてきなカトリック教徒きょうとフランソワ・ラヴァイヤック刺殺さしころされた[22]事件じけん単独たんどくはんとして決着けっちゃくしたが、おおくの歴史れきしたちは権力けんりょく上層じょうそうによる陰謀いんぼうであったとかんがえている[23]5月27にちにラヴァイヤックは、16ねんまえのシャテル同様どうよう、パリでむごたらしい方法ほうほうによる公開こうかい死刑しけいしょされている[24]

アンリ4せいサン=ドニだい聖堂せいどう埋葬まいそうされ、8さいおう太子たいしルイがルイ13せいとして即位そくいし、成人せいじんする1617ねんまで母后ぼこうマリーが摂政せっしょうとして政務せいむることになった。

崩御ほうぎょ

編集へんしゅう

アンリ4せい遺体いたいフランス革命かくめい1793ねんはかからあばかれ、頭部とうぶ切断せつだんされて行方ゆくえ不明ふめいとなった。その頭部とうぶ各地かくち転々てんてんとしたが、崩御ほうぎょ400ねんった2010ねんになって、法医学ほういがくしゃ鑑定かんていによって正式せいしきにアンリ4せいのものと確認かくにんされた[25]。ミイラした頭部とうぶ保存ほぞん状態じょうたい良好りょうこうで、1594ねん暗殺あんさつ未遂みすい傷跡きずあとなどがのこっていたという。また、2012ねんには、ルイ16せい処刑しょけい使つかわれたとされるハンカチと比較ひかくするDNA鑑定かんていおこなわれ、決定的けっていてきほうじられた。

しかし、当時とうじフランス王位おうい請求せいきゅうしゃだったパリはくけんフランスこうアンリ・ドルレアンは、復元ふくげんされた頭部とうぶ外観がいかんがブルボン特徴とくちょう合致がっちしないとし、検査けんさ結果けっか納得なっとくしなかった[26]。また、ブルボン末裔まつえい3めいのDNAと、前回ぜんかい検査けんさ使つかわれた物証ぶっしょうからのDNAを比較ひかくするDNA鑑定かんていおこなわれ、初回しょかいのテスト結果けっか否定ひていされた[27]

 
ちちアントワーヌ・ド・ブルボン
 
ははジャンヌ・ダルブレ
アンリ4せい先祖せんぞ3世代せだい
フランスおうおよびナバラ王らおう
アンリ4せい

ちち:
ナバラ王らおうおよびヴァンドームこう
アントワーヌ・ド・ブルボン
父方ちちかた祖父そふ:
ヴァンドームこう
シャルル・ド・ブルボン
父方ちちかた祖父そふ:
ヴァンドームはく
フランソワ・ド・ブルボン
父方ちちかた祖母そぼ:
マリー・ド・リュクサンブール
父方ちちかた祖母そぼ:
フランソワーズ・ダランソン
父方ちちかた祖父そふ:
アランソンこう
ルネ・ダランソン
父方ちちかた祖母そぼ:
マルグリット・ド・ロレーヌ
はは:
ナバラ女王じょおう
フアナ3せい
(ジャンヌ・ダルブレ)
母方ははかた祖父そふ:
ナバラ王らおう
エンリケ2せい
(アンリ・ダルブレ)
母方ははかた祖父そふ:
ナバラ王らおう
フアン3せい
(ジャン・ダルブレ)
母方ははかた祖母そぼ:
ナバラ女王じょおう
カタリナ
(カトリーヌ・ド・フォワ)
母方ははかた祖母そぼ:
マルグリット・ド・ナヴァール
母方ははかた祖父そふ:
アングレームはく
シャルル・ドルレアン
母方ははかた祖母そぼ:
ルイーズ・ド・サヴォワ

母方ははかた祖母そぼマルグリット・ド・ナヴァールフランソワ1せいあねであり、アンリ4せいヴァロワあさ末期まっきの3にんおうフランソワ2せいシャルル9せいアンリ3せい)および最初さいしょマルグリット・ド・ヴァロワ又従兄弟またいとこたる(そのためマルグリットとは婚姻こんいん無効むこう成立せいりつしえた)。ただし、王位おうい継承けいしょうけん自体じたい直接ちょくせつにはこの血縁けつえんおよび婚姻こんいん関係かんけいでなくサリカほうもとづき、カペー男系だんけい支流しりゅうであるブルボン家長かちょうであったことによるものである。ブルボンであるクレルモンはくロベールは、ルイ9せいろくなんフィリップ3せい末弟ばっていで、アンリ4せいから9世代せだいさかのぼる、やく300ねんまえ人物じんぶつである。

一方いっぽうナバラ王位おうい女系じょけい継承けいしょうみとめられており、ははジャンヌ・ダルブレによりアンリ4せい継承けいしょうすることになった。以後いご、ブルボンあさ歴代れきだいフランスおうはナバラ王らおうかねし、「フランスとナバラのおう」をしょうした。ナバラ王らおう血筋ちすじさかのぼると、同様どうようにフランスとナバラのおうねたカペーあさ末期まっきルイ10せいいたる。ただし、祖母そぼカタリナ時代じだいにナバラ王国おうこくだい部分ぶぶんがスペインに併合へいごうされており(スペインがわでも歴代れきだいスペインおうがナバラ王らおう称号しょうごうもちいている)、ルイ10せい時代じだいより領土りょうど大幅おおはば縮小しゅくしょうしている。

なお、祖母そぼマルグリットはナバラ王らおうアンリ・ダルブレとは再婚さいこんであり、最初さいしょおっとアランソンこうシャルル4せいはアンリ4せい父方ちちかた祖母そぼフランソワーズ・ダランソンあにであった。シャルル4せいとフランソワーズの家系かけいアランソン王位おうい継承けいしょうけんヴァロワ有力ゆうりょく支流しりゅうであったが、シャルル4せいにより断絶だんぜつしていた。

ちちヴァンドームこうアントワーヌ家系かけいはブルボン=ヴァンドームといい、元来がんらいブルボンでも傍系ぼうけいであったが、祖父そふシャルル時代じだい本流ほんりゅう断絶だんぜつしたためブルボン家長かちょうとなり、ヴァロワ断絶だんぜつのフランス王位おうい継承けいしょうけんることになった。また、カトリーヌ・ド・メディシス母方ははかた祖母そぼジャンヌ・ド・ブルボン=ヴァンドームはシャルルのちちヴァンドームはくフランソワあねであった。さらに、シャルルのいもうとアントワネットギーズこうクロードとついでギーズこうフランソワスコットランド王妃おうひメアリー・オブ・ギーズをもうけており、アンリ4せいはフランソワ2せい王妃おうひでもあったスコットランド女王じょおうメアリーや、敵対てきたい関係かんけいにあったギーズこうアンリまた従弟じゅうていでもあった。くわえて、アントワーヌの母方ははかた祖母そぼマルグリット・ド・ロレーヌロレーヌこうルネ2せいいもうとでギーズこうクロードの叔母おばたり、アンリ4せいとギーズとはロレーヌつうじてもつながりがあった。なお、マルグリット・ド・ナヴァールのちちシャルル・ドルレアンははルイーズ・ド・サヴォワともにブルボン本流ほんりゅういている。また、ロレーヌとの関係かんけいではさらに、アンリ4せいいもうとカトリーヌがロレーヌこうアンリ2せい(マルグリット・ド・ヴァロワらのおいにあたる)と結婚けっこんしている。

シャルルのははマリー・ド・リュクサンブールルクセンブルク最後さいご末裔まつえいであるが、神聖しんせいローマ皇帝こうていボヘミアおう家系かけいとなった本流ほんりゅうでなく、分家ぶんけリニー子孫しそんである。ジャンヌ・ダルブレの父方ちちかた祖母そぼカトリーヌ・ド・フォワ母方ははかた祖父そふシャルル・ドルレアンともボヘミアおうヨハンむすめボンヌいているので、アンリ4せいはルクセンブルク本流ほんりゅうとものつながりはあることになる。

 
アンリ4せい家族かぞく

マリー・ド・メディシスとのあいだに6もうけている。

ガブリエル・デストレとのあいだ死産しざんのぞ庶子しょし3にんもうけている。

りゃく系図けいず

編集へんしゅう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
カペーあさ
ルイ9せい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
フィリップ3せい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ロベール
(クレルモンはく)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
フィリップ4せい
 
ジャンヌ1せい
(ナバラ女王じょおう)
 
 
 
 
 
ヴァロワ
シャルル
(ヴァロワはく)
 
 
 
 
 
ブルボン
ルイ1せい
(ブルボンおおやけ)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ルイ10せい
 
フィリップ5せい
 
シャルル4せい
 
ヴァロワあさ
フィリップ6せい
 
 
 
 
 
ピエール1せい
(ブルボンおおやけ)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ジャック1せい
(ラ・マルシュはく)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ジャンヌ2せい
(ナバラ女王じょおう)
 
ジャン1せい
 
 
 
 
 
ジャン2せい
 
 
 
 
 
ルイ2せい
(ブルボンおおやけ)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ジャン7せい
(ヴァンドームはく)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
シャルル5せい
 
 
 
 
 
ジャン1せい
(ブルボンおおやけ)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ルイ1せい
(ヴァンドームはく)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
シャルル6せい
 
ルイ
(オルレアンこう)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
シャルル1せい
(ブルボンおおやけ)
 
ルイ1せい
(モンパンシエはく)
 
 
 
 
 
ジャン8せい
(ヴァンドームはく)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
シャルル7せい
 
シャルル
(オルレアンこう)
 
ジャン
(アングレームはく)
 
 
ジャン2せい
(ブルボンおおやけ)
 
シャルル2せい
(ブルボンおおやけ)
 
ピエール2せい
(ブルボンおおやけ)
 
ジルベール
(モンパンシエはく)
 
 
 
 
 
フランソワ
(ヴァンドームはく)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ルイ11せい
 
ルイ12せい
 
シャルル
(アングレームはく)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
シュザンヌ
(ブルボンおんなこう)
 
シャルル3せい
(ブルボンおおやけ)
 
ルイ2せい
(モンパンシエはく)
 
シャルル
(ヴァンドームこう)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
シャルル8せい
 
クロード
 
フランソワ1せい
 
マルグリット
 
アンリ2せい
(ナバラ王らおう)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アンリ2せい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ジャンヌ3せい
(ナバラ女王じょおう)
 
 
 
 
 
アントワーヌ
(ヴァンドームこう)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
フランソワ2せい
 
シャルル9せい
 
アンリ3せい
 
マルグリット
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ブルボンあさ
アンリ4せい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

脚注きゃくちゅう

編集へんしゅう
  1. ^ せいなる王権おうけんブルボン」P15
  2. ^ せいなる王権おうけんブルボン」p15
  3. ^ せいなる王権おうけんブルボン」p17
  4. ^ せいなる王権おうけんブルボン」p20
  5. ^ a b c せいなる王権おうけんブルボン」p23
  6. ^ せいなる王権おうけんブルボン」p31
  7. ^ せいなる王権おうけんブルボン」p31-32
  8. ^ a b せいなる王権おうけんブルボン」p33
  9. ^ せいなる王権おうけんブルボン」p40
  10. ^ 世界せかい歴史れきし8 絶対ぜったい君主くんしゅ人民じんみん」p36
  11. ^ せいなる王権おうけんブルボン」p44-46
  12. ^ 世界せかい歴史れきし7 文芸ぶんげい復興ふっこう時代じだい」p271
  13. ^ 世界せかい歴史れきし8 絶対ぜったい君主くんしゅ人民じんみん」p38
  14. ^ せいなる王権おうけんブルボン」p47
  15. ^ 世界せかい歴史れきし15 近代きんだいヨーロッパへのみち」p167
  16. ^ せいなる王権おうけんブルボン」p53-54
  17. ^ 世界せかい歴史れきし8 絶対ぜったい君主くんしゅ人民じんみん」p42
  18. ^ せいなる王権おうけんブルボン」p55-56
  19. ^ 世界せかい歴史れきし17 ヨーロッパ近世きんせい開花かいか」p256
  20. ^ 世界せかい歴史れきし22 近代きんだいヨーロッパの情熱じょうねつ苦悩くのう」p256
  21. ^ 世界せかい歴史れきし8 絶対ぜったい君主くんしゅ人民じんみん」p40-41
  22. ^ 世界せかい歴史れきし17 ヨーロッパ近世きんせい開花かいか」p257
  23. ^ せいなる王権おうけんブルボン」p59
  24. ^ せいなる王権おうけんブルボン」p60
  25. ^ 流転るてん200ねん・・・ふつ国王こくおうアンリ4せい頭部とうぶ本物ほんもの断定だんていAFPBB News2010ねん12月31にち閲覧えつらん
  26. ^ ジャンニ・デイヴィス 『えた屍体したい消失しょうしつ発見はっけん物語ものがたり堀口ほりぐち容子ようこちょわけ グラフィックしゃ 2019ねん ISBN 978-4-7661-3202-1 pp.86-91.
  27. ^ ふつ国王こくおう頭部とうぶは「偽物にせもの」、先行せんこう研究けんきゅうくつがえすDNA分析ぶんせき結果けっか - AFPBB News、2013ねん10がつ11にち、2019ねん3がつ29にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

編集へんしゅう
  • 長谷川はせがわ輝夫てるおせいなる王権おうけんブルボン』(講談社こうだんしゃ選書せんしょメチエ、2002ねん) ISBN 978-4-06-258234-6
  • ジョルジュ・リヴェ『宗教しゅうきょう戦争せんそう』(二宮にのみや宏之ひろゆき関根せきね素子もとこどもやく白水しろみずしゃ、1968ねん) ISBN 978-4560054284
  • 赤井あかいあきら山上やまかみ正太郎しょうたろう世界せかい歴史れきし7 文芸ぶんげい復興ふっこう時代じだい』(教養きょうよう文庫ぶんこ、1974ねん
  • 大野おおの真弓まゆみ山上やまかみ正太郎しょうたろう世界せかい歴史れきし8 絶対ぜったい主義しゅぎ盛衰せいすい』(教養きょうよう文庫ぶんこ、1974ねん) ISBN 978-4-390-10829-4
  • 大野おおの真弓まゆみ世界せかい歴史れきし8 絶対ぜったい君主くんしゅ人民じんみん』(中公ちゅうこう文庫ぶんこ、1975ねん) ISBN 978-4-12-200188-6
  • 成瀬なるせおさむ世界せかい歴史れきし15 近代きんだいヨーロッパへのみち』(講談社こうだんしゃ、1978ねん
  • 長谷川はせがわ輝夫てるお大久保おおくぼ桂子けいこ土肥どいひさし共著きょうちょ世界せかい歴史れきし17 ヨーロッパ近世きんせい開花かいか』(中公ちゅうこう文庫ぶんこ、2009ねん) ISBN 978-4-12-205115-7
  • 谷川たにがわみのる鈴木すずき健夫たけお村岡むらおか健次けんじ北原きたはらあつし世界せかい歴史れきし22 近代きんだいヨーロッパの情熱じょうねつ苦悩くのう』(中公ちゅうこう文庫ぶんこ、2009ねん) ISBN 978-4122051294

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1572ねん - 1610ねん
先代せんだい
アンリ3せい
フランス国王こくおう
1589ねん - 1610ねん
先代せんだい
アントワーヌ
ヴァンドームこう
1562ねん - 1589ねん
おうりょう併合へいごう