ブルボン家 か のヴァンドーム公 こう アントワーヌ を父 ちち に、フランス王 おう フランソワ1世 せい の姪 めい であるナバラ女王 じょおう ジャンヌ・ダルブレ を母 はは に、ナバラ領 りょう のポー で生 う まれた。
母 はは ジャンヌは熱心 ねっしん なユグノー(カルヴァン主義 しゅぎ プロテスタント)であり、その影響 えいきょう で父 ちち もプロテスタントに帰依 きえ していた。当時 とうじ のフランスではユグノーが勢力 せいりょく を増 ま してカトリックとの対立 たいりつ が高 たか まり、有力 ゆうりょく な王位 おうい 継承 けいしょう 権 けん を持 も つ家柄 いえがら であるブルボン家 か 当主 とうしゅ の父 ちち がこのユグノーの盟主 めいしゅ となっていた。
1559年 ねん にアンリ2世 せい が事故死 じこし し、フランソワ2世 せい が即位 そくい する。フランソワ2世 せい の治世 ちせい 下 か では王妃 おうひ マリー・デコス(スコットランド女王 じょおう メアリー・ステュアート )の親族 しんぞく であるギーズ家 か が権勢 けんせい を振 ふ っており、ギーズ公 こう フランソワ は熱狂 ねっきょう 的 てき なカトリックだった。宗派 しゅうは 間 あいだ の対立 たいりつ が高 たか まり、ギーズ公 こう は1560年 ねん のアンボワーズの陰謀 いんぼう 事件 じけん で多数 たすう のプロテスタント貴族 きぞく を粛清 しゅくせい している。
フランソワ2世 せい は1560年 ねん に早世 そうせい し、弟 おとうと シャルル9世 せい が即位 そくい する。本来 ほんらい ならブルボン家 か 当主 とうしゅ のアントワーヌが摂政 せっしょう を務 つと めることになるが、この時 とき は母后 ぼこう カトリーヌ・ド・メディシス が摂政 せっしょう に就任 しゅうにん し、アントワーヌは王国 おうこく 総代 そうだい 官 かん (軍 ぐん 最高 さいこう 司令 しれい 官職 かんしょく )となった[1] 。翌 よく 1561年 ねん に7歳 さい のアンリは父 ちち に呼 よ び寄 よ せられて宮廷 きゅうてい に入 はい った[2] 。摂政 せっしょう カトリーヌはカトリックとプロテスタントの融和 ゆうわ を図 はか るものの、対立 たいりつ は更 さら に激化 げきか してしまい、その最中 さいちゅう に父 ちち がカトリックに寝返 ねがえ り改宗 かいしゅう してしまう。熱心 ねっしん なプロテスタントの母 はは ジャンヌは宮廷 きゅうてい を去 さ り、幼 おさな いアンリはカトリックに強制 きょうせい 的 てき に改宗 かいしゅう させられた[3] 。
1562年 ねん 、ギーズ公 こう のユグノー虐殺 ぎゃくさつ 事件 じけん を契機 けいき にユグノー戦争 せんそう が勃発 ぼっぱつ する。プロテスタント信仰 しんこう に忠実 ちゅうじつ な叔父 おじ のコンデ公 おおやけ ルイ1世 せい がユグノー陣営 じんえい の盟主 めいしゅ となり、母 はは もこれに加 くわ わった。一方 いっぽう 、改宗 かいしゅう した父 ちち はカトリック陣営 じんえい の司令 しれい 官 かん として戦 たたか うが、ルーアン 包囲 ほうい 戦 せん で戦死 せんし してしまい、幼 おさな いアンリがブルボン家 か の当主 とうしゅ となった。
1563年 ねん 2月 がつ にギーズ公 こう がプロテスタントの刺客 しかく に暗殺 あんさつ 、3月にアンボワーズの和議 わぎ が成立 せいりつ して戦争 せんそう は一旦 いったん 終 お わる。1564年 ねん 、シャルル9世 せい と王 おう 太 ふとし 后 きさき カトリーヌが全国 ぜんこく 巡幸 じゅんこう に出発 しゅっぱつ し、アンリもこれに随行 ずいこう した。この巡行 じゅんこう 中 ちゅう にサロン=ド=プロヴァンス に立 た ち寄 よ った際 さい 、著名 ちょめい な占星術 せんせいじゅつ 師 し ノストラダムス からアンリが将来 しょうらい 国王 こくおう になると予言 よげん された逸話 いつわ が伝 つた わる[4] 。
1567年 ねん に和平 わへい は破綻 はたん し、再 ふたた び戦争 せんそう が始 はじ まる。アンリは母 はは にベアルン へ連 つ れ帰 き され、ユグノー陣営 じんえい に加 くわ わった[5] 。ベアルンでカトリックの反乱 はんらん が起 お こると、アンリは初 はじ めて軍隊 ぐんたい の指揮 しき を執 と り、見事 みごと に撃退 げきたい している[5] 。アンリは母 はは と共 とも にユグノーの本拠地 ほんきょち ラ・ロシェル に入 はい った。1568年 ねん 、ジャルナックの戦 たたか い でユグノー盟主 めいしゅ の叔父 おじ コンデ公 こう が戦死 せんし してしまう。このため若 わか いアンリが盟主 めいしゅ となり、軍隊 ぐんたい の指揮 しき はガスパール・ド・コリニー 提督 ていとく が執 と ることになった。戦争 せんそう ではユグノーは苦戦 くせん するものの、やがて有能 ゆうのう なコリニー提督 ていとく の指揮 しき の下 した で勢 いきお いを盛 も り返 かえ し、1570年 ねん に和議 わぎ が成立 せいりつ して終 お わった。
王 おう 太 ふとし 后 きさき カトリーヌはカトリックとプロテスタントとの融和 ゆうわ のため、アンリと王 おう 妹 いもうと マルグリット との婚姻 こんいん を提案 ていあん する。母 はは は両人 りょうにん の宗派 しゅうは の違 ちが いから悩 なや むが、最終 さいしゅう 的 てき にはこの婚姻 こんいん に同意 どうい した[5] 。この結婚 けっこん 同意 どうい から程 ほど ない1572年 ねん 6月 がつ に母 はは が急死 きゅうし 、アンリはナバラ王位 おうい を継承 けいしょう した(アンリ・ド・ナヴァール、スペイン名 めい でエンリケ3世 せい )。
サン・バルテルミの虐殺 ぎゃくさつ
同年 どうねん 8月 がつ 18日 にち 、アンリは王 おう 妹 いもうと マルグリットとの結婚式 けっこんしき を挙 あ げる。ところが8月 がつ 24日 にち 、結婚式 けっこんしき 参列 さんれつ のためパリ に集 あつ まっていたコリニー提督 ていとく をはじめ多 おお くのユグノー貴族 きぞく がカトリック派 は のギーズ公 こう アンリ1世 せい の兵 へい によって虐殺 ぎゃくさつ された。カトリックは貴族 きぞく だけでなくプロテスタントの民衆 みんしゅう まで無 む 差別 さべつ に虐殺 ぎゃくさつ を始 はじ め、数 すう 千 せん 人 にん が殺 ころ された。虐殺 ぎゃくさつ はフランス各地 かくち にも広 ひろ がり、死体 したい がパリ市内 しない の至 いた る所 ところ に放置 ほうち される中 なか で、アンリは従弟 じゅうてい のコンデ公 おおやけ アンリ1世 せい とともに強制 きょうせい 的 てき にカトリックに改宗 かいしゅう させられ、宮廷 きゅうてい に幽閉 ゆうへい された。
虐殺 ぎゃくさつ を契機 けいき に戦争 せんそう が再開 さいかい すると、アンリはカトリック側 がわ で参戦 さんせん している[6] 。途中 とちゅう 休戦 きゅうせん を挟 はさ みつつ戦争 せんそう が続 つづ く中 なか 、1574年 ねん にシャルル9世 せい が死去 しきょ する。弟 おとうと アンリ3世 せい は前年 ぜんねん の1573年 ねん にポーランド の国王 こくおう に迎 むか えられていたが、兄 あに の訃報 ふほう を受 う けるとただちにポーランドを出奔 しゅっぽん して帰国 きこく し、フランス王 おう に即位 そくい した。
アンリは幾 いく 度 ど かの宮廷 きゅうてい 脱出 だっしゅつ の試 こころ みの失敗 しっぱい [7] の後 のち 、1576年 ねん 2月 がつ 3日 にち の狩猟 しゅりょう 大会 たいかい 中 ちゅう に逃走 とうそう に成功 せいこう する[8] 。その後 ご しばらく戦争 せんそう の情勢 じょうせい を観望 かんぼう したアンリは、同年 どうねん 5月 がつ にユグノー有利 ゆうり の和議 わぎ が成立 せいりつ すると6月13日 にち にプロテスタントに再 さい 改宗 かいしゅう し、ユグノー陣営 じんえい の盟主 めいしゅ となった[8] 。
アンリ3世 せい とナバラ王 らおう アンリの和解 わかい
カトリック陣営 じんえい はギーズ公 こう アンリを首領 しゅりょう とするカトリック同盟 どうめい を結成 けっせい して巻 ま き返 かえ し、またも戦争 せんそう が再開 さいかい する。1584年 ねん 、王 おう 弟 おとうと アランソン公 こう フランソワ の死 し に伴 ともな い、ナバラ王 らおう アンリは筆頭 ひっとう 王位 おうい 継承 けいしょう 権 けん 者 しゃ となった。宗教 しゅうきょう 戦争 せんそう にフランス王位 おうい 継承 けいしょう 問題 もんだい もからみ、アンリ3世 せい とカトリック同盟 どうめい のギーズ公 こう アンリ、そしてユグノー盟主 めいしゅ のナバラ王 らおう アンリによる、三 さん アンリの戦 たたか いと呼 よ ばれる様相 ようそう を呈 てい するようになった。
危機 きき 感 かん を覚 おぼ えたギーズ公 こう は、アンリ3世 せい に圧力 あつりょく をかけて1585年 ねん にヌムール勅 みことのり 令 れい を出 だ させ、ナバラ王 らおう アンリの王位 おうい 継承 けいしょう 権 けん を無効 むこう とさせる。ローマ教皇 きょうこう シクストゥス5世 せい もこれに同調 どうちょう する教書 きょうしょ を出 だ す。不利 ふり になったナバラ王 らおう アンリだったが、穏健 おんけん 派 は カトリック貴族 きぞく の協力 きょうりょく を得 え て、1587年 ねん のクートラの戦 たたか い ではカトリック軍 ぐん に大勝 たいしょう することに成功 せいこう している[9] 。
アンリ3世 せい は交渉 こうしょう による和平 わへい を模索 もさく するが、1588年 ねん 5月にパリで起 お こったバリケードの日 ひ 事件 じけん を契機 けいき としてギーズ公 こう はアンリ3世 せい に、自 みずか らの推 お すブルボン枢機卿 すうききょう シャルル (ナバラ王 らおう アンリの叔父 おじ )を王位 おうい 継承 けいしょう 者 しゃ と認 みと めさせることに成功 せいこう し、カトリック側 がわ が優位 ゆうい に立 た った。だが、巻 ま き返 かえ しを図 はか るアンリ3世 せい は同年 どうねん 12月 がつ 、ギーズ公 こう とその弟 おとうと ギーズ枢機卿 すうききょう ルイ を暗殺 あんさつ (英語 えいご 版 ばん ) した。カトリック同盟 どうめい と敵対 てきたい したアンリ3世 せい はナバラ王 らおう アンリのユグノー軍 ぐん と合流 ごうりゅう して、カトリック同盟 どうめい の本拠地 ほんきょち パリの奪回 だっかい を図 はか るが、1589年 ねん 8月 がつ にアンリ3世 せい もまた熱狂 ねっきょう 的 てき なドミニコ会 かい 士 し の凶刃 きょうじん に倒 たお れた。
アンリ3世 せい は死 し の床 ゆか にナバラ王 らおう アンリを呼 よ んで王位 おうい を託 たく し、同時 どうじ にカトリックへの改宗 かいしゅう を勧 すす めた[10]
。8月2日 にち 、アンリ3世 せい が死去 しきょ してヴァロワ朝 あさ は断絶 だんぜつ した。35歳 さい のナバラ王 らおう アンリがフランス王位 おうい を継承 けいしょう してアンリ4世 せい となり、新 あら たにブルボン朝 あさ が開 ひら かれることになる。
イヴリーの戦 たたか い
しかし、スペイン の後 うし ろ盾 たて を持 も つカトリック同盟 どうめい はローマ教皇 きょうこう から破門 はもん されていたアンリ4世 せい を認 みと めず、ギーズ公 こう の弟 おとうと のマイエンヌ公 こう シャルル を盟主 めいしゅ に擁立 ようりつ 、ブルボン枢機卿 すうききょう に「シャルル10世 せい 」を称 しょう させて新 しん 国王 こくおう に擁立 ようりつ し、アンリ4世 せい に戦 たたか いを挑 いど んだ[11] 。アンリ4世 せい は各地 かくち を転戦 てんせん してカトリック同盟 どうめい と戦 そよ いつつパリ攻略 こうりゃく を目指 めざ すが、頑強 がんきょう な抵抗 ていこう を受 う け容易 ようい に陥落 かんらく できなかった。一方 いっぽう 、1590年 ねん にブルボン枢機卿 すうききょう が死去 しきょ したためカトリック同盟 どうめい も決 き め手 て を欠 か いていた。
アンリ4世 せい は、カトリック信者 しんじゃ が圧倒的 あっとうてき なパリがプロテスタントの王 おう を受 う け入 い れることがないと悟 さと った。1593年 ねん 7月 がつ にアンリ4世 せい は寵 ちょう 妃 ひ ガブリエル・デストレ へ「とんぼ返 がえ りを打 う つことにする」と手紙 てがみ を書 か き送 おく っている[12] [13] 。同年 どうねん 7月 がつ 25日 にち 、アンリ4世 せい はサン=ドニ大 だい 聖堂 せいどう で司祭 しさい の祝福 しゅくふく を受 う けてカトリックに改宗 かいしゅう した[14] 。巷間 こうかん 知 し られるところによれば「Paris vaut bien une messe 」(パリはミサを捧 ささ げるに値 あたい する都市 とし である)と語 かた ったとされる[15] 。
これによって、なおカトリックが優勢 ゆうせい であったフランス国民 こくみん の広汎 こうはん な支持 しじ を受 う けることに成功 せいこう し、1594年 ねん 2月 がつ 27日 にち にシャルトル大 だい 聖堂 せいどう で正式 せいしき に成 なり 聖 ひじり 式 しき (戴冠 たいかん 式 しき )を執 と り行 おこな うことができた(本来 ほんらい はランス大 だい 聖堂 せいどう で行 おこな わねばならないが、この時点 じてん では未 いま だカトリック同盟 どうめい の勢力 せいりょく 下 か にあった)。同年 どうねん 3月22日 にち に遂 つい にパリ入城 にゅうじょう を果 は たす。その後 ご 、地方 ちほう の各 かく 都市 とし も続々 ぞくぞく とアンリ4世 せい に帰順 きじゅん し、マイエンヌ公 こう と甥 おい でギーズ公 こう の遺児 いじ シャルル1世 せい も帰順 きじゅん しカトリック同盟 どうめい は瓦解 がかい した。
ブルターニュ ではスペインの支援 しえん を受 う けたメルクール公 こう が抵抗 ていこう を続 つづ けており、1595年 ねん にアンリ4世 せい はスペインに宣戦 せんせん 布告 ふこく をしてブルターニュ平定 へいてい を行 おこな った。メルクール公 こう が降伏 ごうぶく し、スペインとの和平 わへい 交渉 こうしょう も始 はじ まった1598年 ねん 4月 がつ 30日 にち にアンリ4世 せい はナントの勅 みことのり 令 れい を発 はっ した。同 どう 勅 みことのり 令 れい はカトリックをフランスの国家 こっか 的 てき 宗教 しゅうきょう であると宣言 せんげん しつつ、プロテスタントに多 おお くの制約 せいやく はあるものの信仰 しんこう の自由 じゆう を認 みと め、フランスにおける宗教 しゅうきょう 戦争 せんそう の終息 しゅうそく を図 はか ったものであった。
ガブリエル・デストレ
サン・バルテルミの虐殺 ぎゃくさつ のため、不幸 ふこう な結婚 けっこん となったアンリ4世 せい と妻 つま マルグリットとの関係 かんけい は冷 ひ え切 き ったものであり、子供 こども もいなかった。共 とも に好色 こうしょく な夫婦 ふうふ は長 なが きにわたって別居 べっきょ 状態 じょうたい で、それぞれが大 おお っぴらに幾多 いくた の愛人 あいじん を抱 かか えていた。後 のち にマルグリットは一人 ひとり でオーヴェルニュ のユソン 城 しろ に移 うつ り住 す んでいる。
アンリ4世 せい がフランス王位 おうい に就 つ くと、側近 そっきん たちは後継 こうけい 者 しゃ 問題 もんだい で再 ふたた び内戦 ないせん 状態 じょうたい にならないためにもきちんとした後継 こうけい 者 しゃ を残 のこ すよう提言 ていげん した。アンリ4世 せい はローマ教皇 きょうこう にマルグリットとの結婚 けっこん の無効 むこう を認 みと めてもらうことで、すでに3人 にん の子供 こども を生 う んでいるガブリエル・デストレ を正式 せいしき な妻 つま に迎 むか えたいと望 のぞ んでいた[16] 。身分 みぶん の問題 もんだい から側近 そっきん は反対 はんたい したが、ガブリエルが1599年 ねん 4月 がつ に急死 きゅうし したことで問題 もんだい は立 た ち消 ぎ えとなった。同年 どうねん 、教皇 きょうこう からマルグリットとの結婚 けっこん が無効 むこう であったとの宣言 せんげん が下 くだ され、1600年 ねん にアンリ4世 せい はメディチ家 か のマリー・ド・メディシス と結婚 けっこん した。2人 ふたり の間 あいだ には6人 にん の子 こ が生 う まれている。だが、政略 せいりゃく 結婚 けっこん である2人 ふたり の仲 なか は決 けっ して円満 えんまん ではなく、多情 たじょう なアンリ4世 せい は多 おお くの愛人 あいじん を持 も ち、その数 かず は56人 にん 以上 いじょう に及 およ んだとする説 せつ もある[17] 。アンリ4世 せい は愛人 あいじん の中 なか でもとりわけアンリエット・ダントレーグ を深 ふか く愛 あい した[18] 。
ヘーラクレース に扮 ふん するアンリ4世 せい
アンリ4世 せい は賢明 けんめい で有能 ゆうのう な君主 くんしゅ であった。反対 はんたい 派 は 貴族 きぞく を武力 ぶりょく で弾圧 だんあつ するのではなく、懐柔 かいじゅう することに努 つと め、そのためには賠償金 ばいしょうきん の支払 しはら いさえ辞 じ さなかった。さらに国民 こくみん の生活 せいかつ 状態 じょうたい を配慮 はいりょ する姿勢 しせい が評価 ひょうか されて絶大 ぜつだい な人気 にんき を誇 ほこ り、「良王 りょうおう アンリ」と呼 よ ばれるようになる[19] 。
まず、内戦 ないせん で疲弊 ひへい したフランスを立 た て直 なお すために、側近 そっきん であったシュリー公 こう マクシミリアン に国家 こっか 経済 けいざい の再建 さいけん 、農業 のうぎょう の促進 そくしん 、開墾 かいこん 地 ち の拡大 かくだい 、公共 こうきょう 事業 じぎょう の活発 かっぱつ 化 か などの政策 せいさく を行 おこな わせた。さらに教育 きょういく 機関 きかん の拡充 かくじゅう 、街道 かいどう の整備 せいび 、森林 しんりん の保護 ほご 、橋 はし や運河 うんが の整備 せいび を推 お し進 すす めた。また、セーヌ川 がわ にまたがるポンヌフ 橋 はし の建造 けんぞう を中心 ちゅうしん とした首都 しゅと パリの大 だい 規模 きぼ な再 さい 開発 かいはつ 計画 けいかく を実行 じっこう し、パレ・ロワイヤル やルーブル宮殿 きゅうでん の大 だい ギャラリーを建造 けんぞう した。このギャラリー は長 なが さ400m、幅 はば 30mにも及 およ ぶ、当時 とうじ の世界 せかい では最大 さいだい 級 きゅう の建築 けんちく 物 ぶつ であった。さらにアンリ4世 せい はあらゆる芸術 げいじゅつ 家 か ・工芸 こうげい 家 か を招 まね いてルーブル宮殿 きゅうでん に住 す まわせ、創作 そうさく 活動 かつどう を行 おこな わせた。これはナポレオン・ボナパルト が禁止 きんし するまで、歴代 れきだい の王 おう によって継承 けいしょう される政策 せいさく となった。
行政 ぎょうせい 面 めん では、税 ぜい の支払 しはら いの見返 みかえ りに官職 かんしょく の世襲 せしゅう を保証 ほしょう するポーレット法 ほう を定 さだ め、また金融 きんゆう 家 か から地域 ちいき の税金 ぜいきん を前借 まえが りして代 か わりに徴税 ちょうぜい を請 う け負 お わせる徴税 ちょうぜい 請負人 うけおいにん 制度 せいど (英語 えいご 版 ばん ) を作 つく り、財政 ざいせい の再建 さいけん に努 つと めている[20] 。
アンリ4世 せい の暗殺 あんさつ
フランソワ・ラヴァイヤックの公開 こうかい 死刑 しけい
アンリ4世 せい のヴィジョンは国内 こくない を越 こ えており、北 きた アメリカ の探検 たんけん にサミュエル・ド・シャンプラン を派遣 はけん している。これは後 のち にカナダ にフランスの植民 しょくみん 地 ち が築 きず かれる基礎 きそ となった。また、悲惨 ひさん な戦争 せんそう の惨禍 さんか を防 ふせ ぐため、ヨーロッパ各国 かっこく が共同 きょうどう して国際 こくさい 裁判所 さいばんしょ と国際 こくさい 軍 ぐん を持 も ち、侵略 しんりゃく 行為 こうい に対抗 たいこう するという「大 だい 計画 けいかく 」を構想 こうそう していた[21] 。
有能 ゆうのう な君主 くんしゅ として国民 こくみん に広 ひろ く愛 あい されたアンリ4世 せい だったが、たびたび暗殺 あんさつ の危機 きき にさらされていた。1594年 ねん にはジャン・シャテル (Jean Châtel )による暗殺 あんさつ 未遂 みすい で重傷 じゅうしょう を負 お った。
そして1610年 ねん 5月14日 にち 、アンリ4世 せい は馬車 ばしゃ に乗 の ろうとした際 さい に狂信 きょうしん 的 てき なカトリック教徒 きょうと のフランソワ・ラヴァイヤック に刺殺 さしころ された[22] 。事件 じけん は単独 たんどく 犯 はん として決着 けっちゃく したが、多 おお くの歴史 れきし 家 か たちは権力 けんりょく 上層 じょうそう 部 ぶ による陰謀 いんぼう であったと考 かんが えている[23] 。5月27日 にち にラヴァイヤックは、16年 ねん 前 まえ のシャテル同様 どうよう 、パリで惨 むご たらしい方法 ほうほう による公開 こうかい 死刑 しけい に処 しょ されている[24] 。
アンリ4世 せい はサン=ドニ大 だい 聖堂 せいどう に埋葬 まいそう され、8歳 さい の王 おう 太子 たいし ルイがルイ13世 せい として即位 そくい し、成人 せいじん する1617年 ねん まで母后 ぼこう マリーが摂政 せっしょう として政務 せいむ を執 と ることになった。
アンリ4世 せい の遺体 いたい はフランス革命 かくめい 後 ご の1793年 ねん に墓 はか から暴 あば かれ、頭部 とうぶ は切断 せつだん されて行方 ゆくえ 不明 ふめい となった。その後 ご 頭部 とうぶ は各地 かくち を転々 てんてん としたが、崩御 ほうぎょ 後 ご 400年 ねん 経 た った2010年 ねん になって、法医学 ほういがく 者 しゃ の鑑定 かんてい によって正式 せいしき にアンリ4世 せい のものと確認 かくにん された[25] 。ミイラ化 か した頭部 とうぶ の保存 ほぞん 状態 じょうたい は良好 りょうこう で、1594年 ねん の暗殺 あんさつ 未遂 みすい の傷跡 きずあと などが残 のこ っていたという。また、2012年 ねん には、ルイ16世 せい の処刑 しょけい 時 じ に使 つか われたとされるハンカチと比較 ひかく するDNA鑑定 かんてい が行 おこな われ、決定的 けっていてき と報 ほう じられた。
しかし、当時 とうじ フランス王位 おうい 請求 せいきゅう 者 しゃ だったパリ伯 はく 兼 けん フランス公 こう アンリ・ドルレアン は、復元 ふくげん された頭部 とうぶ の外観 がいかん がブルボン家 か の特徴 とくちょう と合致 がっち しないとし、検査 けんさ 結果 けっか に納得 なっとく しなかった[26] 。また、ブルボン家 か の末裔 まつえい 3名 めい のDNAと、前回 ぜんかい の検査 けんさ に使 つか われた物証 ぶっしょう からのDNAを比較 ひかく するDNA鑑定 かんてい が行 おこな われ、初回 しょかい のテスト結果 けっか は否定 ひてい された[27] 。