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女系 - Wikipedia

女系じょけい

血統けっとう根拠こんきょ母方ははかたもとめること

女系じょけい(じょけい)は、血統けっとう根拠こんきょおんなおや母方ははかた)の血統けっとうもとめること、またもとめたものす。対義語たいぎご男系だんけい(だんけい)。生物せいぶつがくてき分野ぶんやにおいては母系ぼけいもちいる。女系じょけい優先ゆうせん社会しゃかい母系ぼけいせいという。君主くんしゅ家系かけい当主とうしゅなどの地位ちい継承けいしょうといった事柄ことがら関連かんれんしてしばしばもちいられるかたりである。

概要がいよう

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日本にっぽん天皇てんのう

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天皇てんのう皇位こうい継承けいしょうにおいては、男系だんけい女子じょしかつ未婚みこんまたは寡婦かふ女性じょせい天皇てんのうはいたが女系じょけい天皇てんのうはおらず、すべ男系だんけいである。また、皇室こうしつ典範てんぱんにおいては男系だんけい男子だんし皇位こうい継承けいしょう限定げんていしている。そのため、現在げんざい皇位こうい継承けいしょう資格しかくしゃ不足ふそくによる皇位こうい継承けいしょう問題もんだいで、王朝おうちょう交代こうたいまね女系じょけい天皇てんのう皇族こうぞく女性じょせい宮家みやけ)をみとめるか、すめらぎせき離脱りだつしている男系だんけい男子だんし(きゅう宮家みやけ)を皇族こうぞく復帰ふっきさせるかで議論ぎろんになっている。

イスラーム世界せかい

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イスラーム世界せかいでは男系だんけい継承けいしょうおもであるが、女系じょけい継承けいしょうれいもある。ムハンマド一族いちぞくハーシムは、ムハンマドの死後しご預言よげんしゃ近親きんしんとしてたか敬意けいいはらわれたが、内部ないぶでは男系だんけい同等どうとうアッバースと、アブー・ターリブなかアリー(さらにはそのなかのアリー=ファーティマ)との正統せいとうせいめぐあらそいがあった。

アッバースあさは、いえアッバースムスリムとしての活躍かつやくやムハンマドの父方ちちかた叔父おじであったことを理由りゆうにムハンマドの後継こうけいしゃであることを主張しゅちょうしたが、アリー支持しじする勢力せいりょくシーアやそれにちか一派いっぱ)は、アリーとムハンマドのしたしさやアリーの正統せいとうカリフとしての事績じせき理由りゆう対抗たいこうした。

そのなかで、アリー=ファーティマ支持しじするシーアは、ムハンマドの血筋ちすじむすめファーティマつうじて女系じょけいハサンフサインがれており、ムハンマドの唯一ゆいいつ子孫しそんであるアリー=ファーティマこそすべてのハーシムおさえて預言よげんしゃ継承けいしょうしゃにふさわしいと、女系じょけい継承けいしょう論理ろんりでムスリムの支持しじあつめた。

後代こうだいになってもこのことを理由りゆうに、サイイド男系だんけい継承けいしょうおもとしながら、女系じょけいのサイイドも時代じだいくだるにつれてみとめられるようになった。たとえば、中央ちゅうおうユーラシア・トルキスタンヒヴァブハラコーカンドの3ハーンこくは、男系だんけいではチンギス・ハーン子孫しそんである(すくなくともそう認知にんちされていた)が、女系じょけいつうじてサイイドでもあり(となっており)、実際じっさいにサイイドとして認知にんちされていた。

中世ちゅうせいヨーロッパの王侯おうこう貴族きぞくあいだでは、女系じょけい継承けいしょう比較的ひかくてきよくおこなわれた。キリスト教きりすときょう一夫一婦いっぷいっぷせい原則げんそくとしていたため、男性だんせい当主とうしゅ正妻せいさい子供こどもである嫡子ちゃくし以外いがい相続そうぞくけんあたえづらかった(完全かんぜん不可能ふかのうではなく、みちはあった)。このため、当主とうしゅ男子だんし跡継あとつぎがいないことがすくなくなく、そのさいには継承けいしょうしゃ傍系ぼうけい男子だんしでなく女系じょけい子孫しそんえらぶこともおおおこなわれた。また、当主とうしゅ息子むすこがなくむすめだけのとき傍系ぼうけい男子だんしへの継承けいしょうならんで、むすめおっとむかえて共同きょうどう相続そうぞくすることが一般いっぱんおこなわれていた。子孫しそん母方ははかた地位ちいぐ(げる)てんで、実質じっしつ女系じょけい継承けいしょうである日本にっぽん婿養子むこようし(や外孫そとまご養子ようし)に非常ひじょうちかいが、この夫婦ふうふ子孫しそん父方ちちかたせい名乗なのてん婿養子むこようしことなる。婿養子むこようしが、婿むこ当該とうがいいえの“息子むすこ”と形式けいしきじょうすることで、子孫しそん擬制ぎせいてきに(実際じっさい母方ははかた先祖せんぞと)男系だんけいでつながっているとして、地位ちいせい出自しゅつじ双方そうほう男系だんけい擬制ぎせいした女系じょけい継承けいしょうさせるのにたいし、ヨーロッパの相続そうぞくほうでは地位ちい擬制ぎせいきで女系じょけい継承けいしょうながら、せいにおいては実際じっさい男系だんけい優先ゆうせんしている(男系だんけいという擬制ぎせいらない)。そのため君主くんしゅがこの夫婦ふうふ相続そうぞくされた場合ばあい王朝おうちょう交代こうたいしたなされる。せい出自しゅつじ)の理念りねんかんしては実際じっさい男系だんけい忠実ちゅうじつであり、このてんについて中華ちゅうか文明ぶんめいけんでは日本にっぽんより朝鮮ちょうせんベトナム中国ちゅうごくちかい。中世ちゅうせいヨーロッパの王朝おうちょう交替こうたいは、おおくが女系じょけい継承けいしょうによるものである。しかしこの場合ばあい傍系ぼうけい男子だんしとの継承けいしょうあらそいがこることもおおく、また女系じょけい考慮こうりょすると相続そうぞく順位じゅんい複雑ふくざつになるため混乱こんらんしょうじることもあった。そのさいは、傍系ぼうけい男子だんしむすめおっととして解決かいけつするなど工夫くふう手段しゅだんがあった。

フランク王国おうこくいにしえほうであるサリカ法典ほうてんは、女子じょし当主とうしゅとなることをみとめていなかったものの、おっとつまほう王位おうい爵位しゃくい継承けいしょうしえたので、実質じっしつてき意味いみをなくしていた。しかし14世紀せいきフランス王国おうこくで、ルイ10せい唯一ゆいいつ男子だんしジャン1せい夭逝ようせいしたのちのこされた唯一ゆいいつ女子じょしジャンヌには、生母せいぼである王妃おうひ不倫ふりんによりルイ10せい実子じっしでないのではという疑惑ぎわくがあったため、サリカほう理由りゆうにルイ10せいおとうとフィリップ5せい王位おうい継承けいしょうした。さらにジャンヌの系統けいとうイングランドプランタジネット王家おうけ王位おういわたることをけるために、サリカほう拡大かくだい解釈かいしゃくして女王じょおうのみならず女系じょけい王位おうい継承けいしょうをも禁止きんしした王位おうい継承けいしょうほう制定せいていした。こうした王位おうい継承けいしょうほう継承けいしょう制度せいど現在げんざいでは一般いっぱんてきにサリカほうび、近世きんせい近代きんだいにはプロイセン王国おうこくドイツ帝国ていこくイタリア王国おうこくが、男系だんけい継承けいしょうのみの王位おうい継承けいしょうほう採用さいようしている。フランス王国おうこくではカペーあさユーグ・カペーはじまり、オルレアンあさルイ・フィリップいたまで途中とちゅうフランス革命かくめいだいいち帝政ていせいひとし中断ちゅうだん期間きかんはさみつつも、じつに800ねん以上いじょうわたって男系だんけい継承けいしょう維持いじした。また、ハプスブルク帝国ていこくやそののドイツけい国々くにぐにではじゅんサリカほうばれる男系だんけい継承けいしょうしゃすべえた場合ばあいのみ女系じょけいまわる」継承けいしょうほう採用さいようする場合ばあいおおかった。ロシア帝国ていこくパーヴェル1せい以降いこうは、女帝にょてい即位そくいすることや女系じょけい継承けいしょうきんじて、男系だんけい男子だんし限定げんていした帝位ていい継承けいしょうほうさだめ、継承けいしょうけん皇族こうぞく対等たいとう結婚けっこん結婚けっこんではない)からまれたもの限定げんていした。

現代げんだい立憲りっけん君主くんしゅせいにおいては、女性じょせい君主くんしゅける必要ひつようすくなくなったため、イギリスオランダデンマークなどに、女系じょけいのみならず女王じょおうおお存在そんざいしている。

中華ちゅうか文明ぶんめいけん

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中華ちゅうか文明ぶんめいけんにおいては宗族そうぞく概念がいねんがあるため、男系だんけい継承けいしょう主流しゅりゅうだった。宗族そうぞくという概念がいねんが(すくなくとも典型てんけいてき意味いみでは)成立せいりつしなかった日本にっぽんでは、実質じっしつてき女系じょけい継承けいしょうとして婿養子むこようし入婿いりむこ制度せいどがあったが、これは論理ろんりてきには養子ようし関係かんけいむすぶことにより息子むすことして地位ちい出自しゅつじせい)を継承けいしょうするという男系だんけい継承けいしょう擬制ぎせいっている。また、遺伝いでんてきつながりのない婿養子むこようしよりも、より直接的ちょくせつてき遺伝子いでんしいだもの継承けいしょうさせるという意味いみで、女系じょけいちか親族しんぞく外孫そとまごおいなど)が養子ようしとなって継承けいしょうすることもおおかった。家系かけい操作そうさすることで、男系だんけいでもつながりがあるとすることもあった。日本にっぽん以外いがい中華ちゅうか文明ぶんめいけんでも、家系かけい操作そうさすることで実質じっしつてき女系じょけい継承けいしょう男系だんけいいつわっておこなうことがあった。さらに、男系だんけいがないとき緊急きんきゅう避難ひなんとして女系じょけい子孫しそん祖先そせん祭祀さいし継承けいしょうすることも、時代じだい地域ちいきによってはられた。

日本にっぽん以外いがい中華ちゅうか文明ぶんめいけんでも、帝王ていおうについて同様どうよう男系だんけい継承けいしょう原則げんそくである。ただし、女系じょけい子孫しそんにどうしても帝王ていおうがせたい場合ばあいは、禅譲ぜんじょうというやや変則へんそくてき手段しゅだん利用りよう可能かのうである。西にしたかしきょうみかどからきたあまねこう閔帝への禅譲ぜんじょうは、これにややちかいケースといえる。こう閔帝の生母せいぼ西にしたかし公主こうしゅである馮翊公主こうしゅであった。ただし、この禅譲ぜんじょうきたしゅう宗室そうしつとなる宇文うぶん主導しゅどうおこなわれたもので、こう閔帝が女系じょけい西にしたかし宗室そうしつげんつらなるてんのぞいては、易姓革命えきせいかくめい場合ばあいわりはなかった。しかも、げんきたしゅう皇帝こうていこう閔帝1だいわった。

脚注きゃくちゅう

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関連かんれん項目こうもく

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