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王位請求者 - Wikipedia

王位おうい請求せいきゅうしゃ

君主くんしゅせいにおける王位おういかんする用語ようご対象たいしょうしゃ

王位おうい請求せいきゅうしゃ(おういせいきゅうしゃ)は、王位おうい現実げんじつ行動こうどうとして要求ようきゅうするもの、もしくは理論りろんじょう王位おうい継承けいしょう順位じゅんい筆頭ひっとうにあるもののこと。請求せいきゅう対象たいしょう皇帝こうていである帝位ていい請求せいきゅうしゃなど、「王位おうい以外いがい君主くんしゅ請求せいきゅうするものほん記事きじあつかう。歴史れきしてき正統せいとうせい貴種きしゅせいゆうするもののみならず、高貴こうき血統けっとう詐称さしょうすることで玉座ぎょくざねらものや、ぎゃく歴史れきし血統けっとうなどによらないものふくまれうる。

概要がいよう

編集へんしゅう

共和きょうわこくにおいて過去かこ廃止はいしされた君主くんしゅせい復活ふっかつ王政おうせい復古ふっこ)をもとめる様式ようしきと、一般いっぱんてき正統せいとうとされる在位ざいいちゅう君主くんしゅってわろうとする下剋上げこくじょう志向しこう様式ようしきの2つに大別たいべつできる。

英語えいごではpretender詐欺さぎ僭称せんしょうしゃ)の語句ごくもちいることが一般いっぱんてきである[注釈ちゅうしゃく 1]。これにたいし、イギリスに拠点きょてん国際こくさい君主くんしゅ主義しゅぎしゃ連盟れんめい英語えいごばん代表だいひょうニコライ・トルストイ伯爵はくしゃく英語えいごばんは、中立ちゅうりつてき用語ようごでないとしてclaimant(主張しゅちょうしゃ請求せいきゅうしゃ)やheir(相続そうぞくじん継承けいしょうしゃ)の語句ごくのぞましいとしている[1]

実際じっさい君主くんしゅせい復活ふっかつもとめるものかぎらず、なら玉座ぎょくざそくいていたであろうきゅう君主くんしゅ当主とうしゅは、そのすべてが請求せいきゅうしゃげられる。現在げんざい請求せいきゅうしゃとされる人物じんぶつには、一般人いっぱんじんとして生活せいかつしているものおおいが、なかには君主くんしゅせい復活ふっかつもとめて亡命ぼうめい政府せいふ政治せいじ団体だんたいなどを組織そしきして活動かつどうしているものもいる。(請求せいきゅうしゃとされる人物じんぶつ意思いしにかかわらず)かれらをほうじて君主くんしゅせいさい導入どうにゅうしようとする君主くんしゅ主義しゅぎ組織そしき政治せいじ団体だんたい各国かっこく存在そんざいする[注釈ちゅうしゃく 2]

キリスト教きりすときょう歴史れきしにおいてときとして存在そんざいした対立たいりつ教皇きょうこうについても、おなじように教皇きょうこう請求せいきゅうしゃとみなすことができる。

出現しゅつげん要因よういん

編集へんしゅう
 
イングランドおよびスコットランド正統せいとうおうとしてジャコバイト支持しじされた「ろう僭王」ことジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート
 
スペイン・ブルボンあさ正統せいとうとして「国王こくおうカルロス5せい」をしょうしたモリナはくカルロス
 
ポルトガルおうミゲル1せいとその子孫しそんは、絶対ぜったい王政おうせいミゲリスタ英語えいごばん支持しじされた。
 
サウルわるイスラエルおうとして血統けっとう関係かんけいなくかみえらばれ、サムエルぬりあぶらされるダビデ旧約きゅうやく聖書せいしょ

王位おうい請求せいきゅうしゃあらわれる理由りゆうとしては、しゅとしてつぎのような場合ばあいかんがえられる。

君主くんしゅこくにおいて、それまでのおうみつる皇統こうとう断絶だんぜつさいして、きゅう王朝おうちょう血縁けつえん関係かんけい姻戚いんせき関係かんけいにあるもの請求せいきゅうする事例じれい
れい1:アンジューこうフィリップ
スペイン・ハプスブルク男系だんけい男子だんし断絶だんぜつさいして、フランス・ブルボン王子おうじながらスペイン・ハプスブルク色濃いろこいていたことからスペイン国王こくおう候補こうほとなり、紆余曲折うよきょくせつはあれど最終さいしゅうてきに「スペインおうフェリペ5せい」としてみとめられた(スペイン継承けいしょう戦争せんそう参照さんしょう)。
れい2:バイエルンせんみかどほうカール・アルブレヒト
オーストリア・ハプスブルク男系だんけい男子だんし断絶だんぜつしたさいに、つまがハプスブルク出身しゅっしんであることを理由りゆうとして神聖しんせいローマ皇帝こうていボヘミア王位おうい要求ようきゅうした(オーストリア継承けいしょう戦争せんそう参照さんしょう)。
この場合ばあい落胤らくいんしょうしたり生存せいぞんせつとなえたりする、実際じっさい貴種きしゅせいうたがわしい請求せいきゅうしゃ出現しゅつげんすることもままある。具体ぐたいれいとして、リューリクあさ断絶だんぜつ皇位こうい僭称せんしょうしゃ次々つぎつぎあらわれた動乱どうらん時代じだいのロシアがげられよう。
簒奪さんだつ宮廷きゅうていクーデター、革命かくめいによるきゅう王朝おうちょうもしくは君主くんしゅせい廃絶はいぜつや、他国たこく支配しはいによりくに自体じたいほろぼされるなどして廃位はいいされた君主くんしゅ本人ほんにんやその子孫しそんなどが請求せいきゅうする事例じれい
れい1:イングランドおうジェームズ2せい
議会ぎかいによって廃位はいいされて国外こくがい追放ついほうとなってからも、玉座ぎょくざあきらめずにイングランドおうしょうつづけた(ジャコバイト参照さんしょう)。
れい2:フランス皇帝こうていナポレオン3せい
フランス皇帝こうていとして正式せいしき即位そくいするまでは、ナポレオン1せい一族いちぞくとしてフランス帝位ていい請求せいきゅうしゃであった。だいさん共和きょうわせい樹立じゅりつとともに廃位はいいされて以降いこうは、また帝位ていい請求せいきゅうしゃとなった。
この場合ばあい実際じっさい貴種きしゅせいうたがわしい請求せいきゅうしゃ出現しゅつげんすることもままある。フランス革命かくめいのヨーロッパでは、革命かくめい犠牲ぎせいとなったルイおう太子たいし(ルイ17せいであると自称じしょうするおとこが100にん以上いじょうあらわれた[2]類例るいれいとして、太平洋戦争たいへいようせんそう日本にっぽんにおいて林立りんりつした自称じしょう天皇てんのうたち(そのおおくが、両統りょうとう迭立約束やくそく反故ほごにされたあげく北朝ほくちょう皇位こういを「簒奪さんだつ」されたこう南朝なんちょう後裔こうえいしょうした)がげられる。
伝統でんとうてき継承けいしょうほう変更へんこうにより継嗣けいしうばわれたもと相続そうぞくじんが、これをみとめずにみずからの歴史れきしてき正統せいとうせい主張しゅちょうする事例じれい
れい1:モリナはくカルロス
スペイン国王こくおうフェルナンド7せいおうふとしおとうとだったが、王位おうい継承けいしょうほう変更へんこうにより女王じょおうみとめられたため、相続そうぞくじんめいイサベルうばわれた。これを不服ふふくとして、あにおう崩御ほうぎょ正当せいとう国王こくおう「カルロス5せい」であることを宣言せんげんした(カルリスタ戦争せんそう参照さんしょう)。
継承けいしょうけん放棄ほうきしたはずのものやその子孫しそんが、放棄ほうき宣言せんげんをのちに撤回てっかいしてみずからの正統せいとうせい主張しゅちょうする事例じれい
れい1:ペドロ・デ・アルカンタラ・デ・オルレアンス・エ・ブラガンサ
ブラジル皇族こうぞく名目めいもくじょう女帝にょていイザベル・ド・ブラジル長男ちょうなんだったが、結婚けっこんのために皇位こうい継承けいしょうけん放棄ほうきした。はははペドロにわってそのおとうと継承けいしょうしゃとしたが、のちにペドロは継承けいしょうけん放棄ほうきしていないと主張しゅちょうし、ブラジル帝室ていしつの(ペトロポリスけいとヴァソウラスけいへの)分裂ぶんれつまねいた。
れい2:アルフォンソ・デ・ボルボーン=ドス・シシリアス
ちちであるりょうシチリア王子おうじカルロ・タンクレーディは、1900ねん12月14にち自身じしん子孫しそんりょうシチリア王位おうい継承けいしょうけん放棄ほうきした(⇒カンヌ証書しょうしょイタリアばん)。これはスペイン王女おうじょとの結婚けっこんさいしての放棄ほうきであり、カルロ・タンクレーディはわりにスペイン王子おうじ称号しょうごう獲得かくとくしている。しかし、のちにその子孫しそんりょうシチリア王家おうけ嫡流ちゃくりゅうとなった。アルフォンソは国事こくじ詔書しょうしょきゅう事態じたいであるとして家督かとく主張しゅちょうし、りょうシチリア王家おうけ分裂ぶんれつこした。(⇒カラブリアけいとカストロけい
継承けいしょうけんちながらも順位じゅんいひくもの継承けいしょうけんたない庶子しょし高貴こうき血統けっとうとは無関係むかんけい一般人いっぱんじんなどが請求せいきゅうする事例じれい
れい1:ポルトガルおうミゲル1せい
自由じゆう主義しゅぎしゃ立憲りっけん主義しゅぎしゃ)に支持しじされるめい女王じょおうマリア2せいみとめず、絶対ぜったい王政おうせい復活ふっかつかかげ、ポルトガル内戦ないせんこした(ミゲリスタ英語えいごばん参照さんしょう)。
れい2:ヨーゼフ・アウグスト・フォン・エスターライヒ
ハプスブルク=ロートリンゲンなかでも継承けいしょう順位じゅんいひく皇族こうぞくであったが、ハンガリーにふかろしていたことから、オーストリア=ハンガリー帝国ていこく崩壊ほうかい誕生たんじょうしたハンガリー王国おうこくにおいて、存命ぞんめいだった最後さいごのハンガリー国王こくおうカーロイ4せいなどをいてあらたなハンガリー国王こくおう擁立ようりつされた。
せいキリルは、『旧約きゅうやく聖書せいしょ』のなかサウルとの血縁けつえん関係かんけいたないダビデがイスラエルおうになっていることを根拠こんきょに、かみによる選択せんたく正当せいとうせい根拠こんきょとして血縁けつえん関係かんけいよりも優位ゆういにあるとした[3]

現在げんざい王位おうい請求せいきゅうしゃ一覧いちらん

編集へんしゅう
国名こくめい 名前なまえ 肖像しょうぞう紋章もんしょうとう 説明せつめい
  サラワク王国おうこく ローレンス・ニコラス・ブルック(Laurence Nicholas Brooke)   サラワク王家おうけ(ブルック王朝おうちょう)の子孫しそんだい2だい国王こくおうチャールズ・ブルック玄孫げんそんおとうとジェイソン・デズモンド・アンソニー・ブルック英語えいごばん
  きよし
  まんしゅうこく
きむ毓嶂   清朝せいちょう最後さいご皇帝こうていである溥儀ふぎおとうとあいしんさとし溥任長男ちょうなん一般いっぱんてきあいしんさとし家長かちょうとみなされる。「あいしんさとし」ではなくかんふうせいとして「きむ」をもちいている。
  きよし
  まんしゅうこく
あいしんさとしひさし   きよし皇族こうぞくあいしんさとし毓嵒長男ちょうなんちちの毓嵒は、最後さいご皇帝こうていである溥儀ふぎから皇位こうい継承けいしょうしゃ指名しめいされたと主張しゅちょうしていた。なお溥儀ふぎ自伝じでんなかで、毓嵒を相続そうぞくじんとして検討けんとうしたことについてれてはいるが、それ以上いじょう言及げんきゅうはない。
  スールー王国おうこく en:Muedzul Lail Tan Kiramほか   スールー王国おうこく滅亡めつぼう王家おうけ複数ふくすう家系かけいがスルタン主張しゅちょうしはじめ、現在げんざい、スルタン一族いちぞくあいだ継承けいしょう順位じゅんいめぐ論争ろんそうきている。2013ねんジャマルル・キラム3せいラハダトゥ対立たいりつこした。
  大韓たいかん帝国ていこく はじめ   ぜんしゅう宗家そうけだい30だい当主とうしゅで、正式せいしき皇位こうい請求せいきゅうしゃとされる。こうはじめだい5皇子おうじであるきゅうなん長男ちょうなん。2005ねん直系ちょっけい死後しご、その養子ようしとして王家おうけ後継こうけいしゃ皇嗣こうしまご)となる。
  大韓たいかん帝国ていこく すず   じゅうなんはじめ叔父おじにあたる。「皇室こうしつ文化ぶんか財団ざいだん(황실문화재단)」の総裁そうさいとして、「朝鮮ちょうせん皇室こうしつ復元ふくげん運動うんどう」をおこなう。2018ねん遠縁とおえんにあたるAndrew Leeを後継こうけいしゃ指名しめいした[4]
  チベット ダライ・ラマ14せい   宗教しゅうきょうてき権威けんいしゃ立場たちばと、政治せいじてき権威けんいしゃ立場たちばとをそなえたチベット僧侶そうりょ君主くんしゅだったが、1959ねんにインドへ亡命ぼうめいして政治せいじ難民なんみんとなった。
  チャンパーサック王国おうこく Keo na Champassak   ブン・ウム長男ちょうなんで、最後さいごのチャンパーサックおうブア・ルパアン・ラーチャナダイのまご
  ネパール王国おうこく ギャネンドラ・ビール・ビクラム・シャハ   2008ねん制憲せいけん議会ぎかいによってはいされた最後さいごのネパール国王こくおう
  ビルマ王国おうこく ソー・ウィン   最後さいご国王こくおうティーボー曾孫そうそん
  ベトナム帝国ていこく グエン・フック・バオ・アン(阮福おん英語えいごばん   阮朝最後さいご皇帝こうていであった大帝たいてい皇子おうじで、阮氏のげん当主とうしゅ
  モルディブ・スルターンこく イブラヒム・ファリド・ディディ英語えいごばん   だい94だいにして最後さいごのスルターンであるムハンマド・ファリド・ディディおい
  ラオス王国おうこく スリウォンサワーン   最後さいごのラオス国王こくおうサワーンワッタナー嫡孫ちゃくそんで、ラオスの王位おうい継承けいしょうしゃ現在げんざいはフランスで亡命ぼうめい生活せいかつおくる。ラオスにおける立憲りっけん君主くんしゅせい復活ふっかつさせるために、ラオス王国おうこく亡命ぼうめい政府せいふ協力きょうりょくしながら政治せいじ活動かつどう展開てんかいしている。
  琉球りゅうきゅう王国おうこく なおまもる   だいしょうだい23だい当主とうしゅ最後さいご琉球りゅうきゅう国王こくおうとしてられるなおたいおう玄孫げんそん

インドしょくに

編集へんしゅう
国名こくめい 名前なまえ 肖像しょうぞう紋章もんしょうとう 説明せつめい
  アルワルはん王国おうこく英語えいごばん ジテンドラ・シン英語えいごばん   インド国民こくみん会議かいぎ政治せいじとして活動かつどうしている。
  ヴァドーダラー王国おうこく英語えいごばん Maharaja Samarjitsinhrao Gaekwad   ヴァドーダラー王家おうけ当主とうしゅ
  カッチ王国おうこく英語えいごばん en:Pragmulji III   カッチ王家おうけ当主とうしゅ
  コーター王国おうこく英語えいごばん ブライライ・シン英語えいごばん   最期さいごのマハーラーオであるビム・シン2せい英語えいごばん息子むすこ
  シッキム王国おうこく ワンチュク・ナムゲル   最後さいごのシッキム国王こくおうパルデン・トンドゥプ・ナムゲル王子おうじ祖国そこくシッキムがインドに併合へいごうされたのちだい13だいシッキム国王こくおうしょうして戴冠たいかんしたが、現在げんざい僧侶そうりょとしてしずかにごしているとされる。
  ジャイプルはん王国おうこく パドマナーバ・シン英語えいごばん   最後さいごはんおうバワニ・シン英語えいごばん女系じょけいまご
  ジャンムー・カシュミールはん王国おうこく カラン・シング   最後さいごはんおうハリ・シング息子むすこ
  ドゥーンガルプル王国おうこく英語えいごばん Mahipal Singh II, Maharawal of Dungarpur (born 1931)   ドゥーンガルプル王家おうけ当主とうしゅ
  ドールプルはん王国おうこく英語えいごばん ドゥシャント・シン英語えいごばん   最後さいごはんおうヘマント・シンの息子むすこ
  トラヴァンコール王国おうこく ムラム・ティルナル・ラーマ・ヴェルマ英語えいごばん   トラヴァンコール王家おうけ当主とうしゅ
  ニザーム王国おうこく ムカラム・ジャー英語えいごばん   ニザーム王家おうけ当主とうしゅおう太子たいしアーザム・ジャー息子むすこ
  バラトプル王国おうこく ヴィシュヴェンドラ・シング英語えいごばん   バラトプル王家おうけ当主とうしゅ
  マイソール王国おうこく en:Yaduveer Krishnadatta Chamaraja Wadiyar   マイソール王家おうけ当主とうしゅ
  マールワール王国おうこく ガジ・シング英語えいごばん   マールワール王家おうけ当主とうしゅ
  ムガル帝国ていこく ミールザー・グラーム・モイーヌッディーン・ムハンマド・ジェイブド・ジャー・バハードゥル英語えいごばん   1931ねんにインド政府せいふによってムガルあさ(ティムールあさ)の当主とうしゅとしてみとめられた[よう出典しゅってん]Muhammad Khair ud-din Mirza, Khurshid Jah Bahadur息子むすこ
  メーワール王国おうこく マヘンドラ・シング・メーワール英語えいごばん   メーワール王家おうけ当主とうしゅしょうする。国際こくさいてき報道ほうどうでは、正当せいとう当主とうしゅとして言及げんきゅうされることがおおい。
  メーワール王国おうこく アルヴィンド・シング・メーワール英語えいごばん   メーワール王家おうけ当主とうしゅしょうする。マヘンドラのおとうとウダイプルきゅう貴族きぞくあいだでは正当せいとう当主とうしゅとして認識にんしきされている。
  ラームプルはん王国おうこく英語えいごばん Sayyid Muhammad Kazim Ali Khan, Nawab of Rampur   ラームプルはん王家おうけ当主とうしゅ
  ラジピプラ王国おうこく英語えいごばん Raghubirsinhji, Maharaja of Rajpipla   ラジピプラ王家おうけ当主とうしゅ息子むすこは「インドでもっと有名ゆうめいなゲイ」とされるマンヴェンドラ・シン・ゴーヒル

中東ちゅうとう

編集へんしゅう
国名こくめい 名前なまえ 肖像しょうぞう紋章もんしょうとう 説明せつめい
  アフガニスタン王国おうこく アフマド・シャー・ハーン英語えいごばん   最後さいごのアフガニスタン国王こくおうザーヒル・シャー息子むすこ
  イエメン・ムタワッキリテ王国おうこく アギッル・ビン・モハメッド・アル=バドル英語えいごばん   最後さいごのイエメン国王こくおうムハンマド・アル=バドル息子むすこ。イエメン王国おうこく亡命ぼうめい政府せいふ現存げんそんする。
  イラン帝国ていこく
パフラヴィーあさ
クロシュ・レザー・パフラヴィー   最後さいご皇帝こうていモハンマド・レザー・パフラヴィー長男ちょうなんで、もと皇太子こうたいしイランにおける人権じんけん問題もんだいひとし批判ひはんし、イランの世俗せぞく民主みんしゅ主張しゅちょうして政治せいじ活動かつどうおこなっている。
  崇高すうこうなるくにペルシア
ガージャールあさ
モハンマド・ハサン・ミールザー2せい英語えいごばん   だい6だい君主くんしゅモハンマド・アリー・シャー子孫しそん亡命ぼうめい政府せいふアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく拠点きょてん存在そんざいする。
  イラク ラード・ビン・ザイド英語えいごばん   初代しょだい国王こくおうファイサル1せいおとうとザイド・イブン・フサイン英語えいごばん長男ちょうなんにあたる。息子むすこザイド・ラード・アル・フセイン国際こくさい連合れんごう人権じんけん高等こうとう弁務べんむかんつとめた。
  イラク シャリーフ・アリー・イブン・アル=フセイン英語えいごばん   最後さいご国王こくおうファイサル2せい従弟じゅうていにあたる。フセイン政権せいけん崩壊ほうかい王制おうせい滅亡めつぼう以来いらいはじめてイラクのんだが、アメリカをふくめどこのくにからも充分じゅうぶん支援しえんられず、またイラク国内こくない政治せいじ基盤きばんもなくイラク国民こくみんからの支持しじがほとんどないため、イラクをはなれ、現在げんざいはイギリスで生活せいかつしている。2005ねんにイラクでおこなわれた暫定ざんてい国民こくみん議会ぎかい選挙せんきょでは、みずからが党首とうしゅつとめるイラク立憲りっけん君主くんしゅとう英語えいごばん参加さんかしたが、議席ぎせき獲得かくとくできなかった。
  オスマン帝国ていこく ハルーン・オスマン   だい34だいスルタンアブデュルハミト2せい曾孫そうそんであり、オスマンだい46だい当主とうしゅ
国名こくめい 名前なまえ 肖像しょうぞう紋章もんしょうとう 説明せつめい
  エジプト王国おうこく フアード2せい   ムハンマド・アリーあさ最後さいごのエジプト国王こくおう。1さいにもたないうちに即位そくいし、戴冠たいかんしないうちにその翌年よくねんのクーデターで王政おうせい廃止はいしされたため、実質じっしつてき統治とうちおこなわなかった。
  エチオピア帝国ていこく ゼラ・ヤコブ・アムハ・セラシエ   最後さいごエチオピア皇帝こうていであるハイレ・セラシエ1せいまご。エチオピア皇帝こうていしょうしていたアムハ・セラシエ息子むすこ。1997ねんちち死後しご、エチオピア帝国ていこく亡命ぼうめい政府せいふエチオピアみかどかんむり評議ひょうぎかい」にエチオピア帝室ていしつ家長かちょうであると認識にんしきされている。
  エチオピア帝国ていこく ギルマ・ヨハニス・イヤス英語えいごばん   戴冠たいかんしきおこなわないまま退位たいいさせられたイヤス5せい曾孫そうそんとして、ゼラ・ヤコブと対立たいりつする王位おうい請求せいきゅうしゃとなっている。
  ザンジバル王国おうこく ジャムシッド・ビン・アブドゥッラー   1964ねん発生はっせいしたザンジバル革命かくめいによってはいされたスルターンオマーンブーサイードあさ分家ぶんけにあたる。
  中央ちゅうおうアフリカ帝国ていこく ジャン=ベデル・ボカサ2せい   中央ちゅうおうアフリカ皇帝こうていボカサ1せい息子むすこで、もと皇太子こうたいし
  チュニジア王国おうこく Muhammad Al Husain   Muhammad VI al-Habibのまご
  ブルンジ王国おうこく ローザ・ポーラ・イリバギザ英語えいごばん   最後さいごのブルンジ国王こくおうンタレ5せいいもうと
  リビア王国おうこく ムハンマド・エル=サヌーシー英語えいごばん   サヌーシーあさリビアおうイドリース1せいおい息子むすこ
  ルワンダ王国おうこく ユヒ6せい   最後さいごのルワンダ国王こくおうキゲリ5せいおい
国名こくめい 名前なまえ 肖像しょうぞう紋章もんしょうとう 説明せつめい
  アルバニア王国おうこく レカ・ゾグ   アルバニア国王こくおうゾグ1せいまごで、アルバニア王家おうけ家長かちょう王制おうせい支持しじしゃからは「レカ2せい(Leka II)」とばれている。
  カルトリ・カヘティ王国おうこく ダヴィッド・バグラチオン・ムフラニ   カルトリ・カヘティ王国おうこくがロシア帝国ていこく併合へいごうされたのち王家おうけであるバグラティオニ英語えいごばんはロシア貴族きぞくとしてあつかわれた。ダヴィッドはバグラティオニ分家ぶんけ(=だい2おうみつる)であるムフラニ英語えいごばん当主とうしゅロシア革命かくめいけてムフラニはイタリアに亡命ぼうめいしたが、宗家そうけ(=だい1おうみつる)はソビエト連邦れんぽうまり、やがて消息しょうそく不明ふめいになった。ダヴィッドの祖父そふイラクリ・バグラチオン・ムフラニ英語えいごばんは、ロシア革命かくめいにロシア皇族こうぞく貴族きぞく大量たいりょう処刑しょけいされたことから、宗家そうけ根絶ねだやしにされたと判断はんだんし、ムフラニ当主とうしゅになったと宣言せんげんした。
  カルトリ・カヘティ王国おうこく ヌグザル・バグラチオン・グルジンスキ英語えいごばん   バグラティオニ英語えいごばん宗家そうけ(=だい1おうみつる)にあたるグルジンスキ英語えいごばん当主とうしゅ。グルジンスキ共産きょうさん主義しゅぎ政権せいけんのもとで断絶だんぜつしたとかんがえられていたが、ソビエト連邦れんぽう崩壊ほうかいのちになって存続そんぞくしていたことが判明はんめいし、分家ぶんけ・ムフラニ(=だい2おうみつる)との競合きょうごう状態じょうたいになった。ヌグザルはむすめアンナ・バグラチオン・グルジンスキ英語えいごばんをムフラニ当主とうしゅダヴィッドと結婚けっこんさせた。りょうおうみつる合同ごうどう期待きたいされていたが、ダヴィッドとアンナ夫妻ふさいは2013ねん離婚りこんした。
  ギリシャ王国おうこく パウロス・ティス・エラザス   1974ねん国民こくみん投票とうひょう廃位はいいされた最後さいごのギリシャ国王こくおうコンスタンティノス2せい長男ちょうなんで、もとおう太子たいし
  セルビア王国おうこく
  ユーゴスラビア王国おうこく
アレクサンダル2せいカラジョルジェヴィチ   ユーゴスラビア王国おうこく最後さいご国王こくおうであるペータル2せい息子むすこで、もとおう太子たいし。「セルビアおう太子たいしアレクサンダル2せい」をしょうする。
  ナバラ王国おうこく ペドロ・デ・ボルボン=ドス・シシリアス   カラブリアけいブルボン=シチリア家長かちょうで、カラブリアおおやけおよびカゼルタはく名乗なのる。「ペドロ2せい」。祖母そぼアリシア・デ・ボルボン=パルマ伝統でんとうてき親族しんぞくあいだ男系だんけい優先ゆうせん長子ちょうし相続そうぞくもとづくナバラ王位おうい請求せいきゅうしゃであることが、カラブリアけいブルボン=シチリア公式こうしきホームページ[5]において言及げんきゅうされていた。
  ナバラ王国おうこく ルイス・アルフォンソ・デ・ボルボン   ブラン・デスパーニュ英語えいごばんばれる現在げんざいのフランスおよびナバラ王位おうい請求せいきゅうしゃルイ13せい以降いこうのナバラ王位おういのフランス王位おういへの統合とうごうにともなう、サリカほうによる相続そうぞくもとづく。公称こうしょうルイス9せい」。
  ブルガリア王国おうこく シメオン2せい   ブルガリア最後さいご国王こくおう。1943ねんに6さい即位そくいしたが、1946ねん国民こくみん投票とうひょうにより王制おうせい廃止はいしされ、母后ぼこうとともに亡命ぼうめいした。のちに「シメオン・サクスコブルクゴツキ」としてブルガリアの首相しゅしょう就任しゅうにんした。
  ポルトガル王国おうこく ドゥアルテ・ピオ・デ・ブラガンサ   ブラガンサ家長かちょうポルトガル内戦ないせんはいされたミゲル1せい曾孫そうそんで、最後さいご国王こくおうマヌエル2せいから後継こうけい指名しめいされたドゥアルテ・ヌノ長男ちょうなん。「ブラガンサこう英語えいごばん」を名乗なのる。だい部分ぶぶんおう党派とうはかれ正当せいとう王位おうい請求せいきゅうしゃとしてみとめている。
  ポルトガル王国おうこく D. Pedro Folque de Mendoça Rolim de Moura Barreto, 6º duque de Loulé   ポルトガルの貴族きぞくローレ公爵こうしゃくポルトガルばん当主とうしゅ。 ミゲル1せいいもうとアナ・デ・ジェズス・マリア・デ・ブラガンサ子孫しそん。この系統けいとう支持しじしゃは、ミゲル1せいはポルトガル王位おういかんするすべての権利けんり放棄ほうきしたため、その子孫しそんであるドゥアルテ・ヌノの系統けいとうには王位おうい請求せいきゅうしゃたる資格しかくがないとみなす。最後さいご国王こくおうマヌエル2せいがドゥアルテ・ヌノを後継こうけいさだめているため、この主張しゅちょうはあまり支持しじられていない。
  モンテネグロ王国おうこく ニコラ・ペトロヴィチ=ニェゴシュ   モンテネグロおうニコラ1せいの嫡曾まごで、モンテネグロ王家おうけ家長かちょう。「モンテネグロおう太子たいし」をしょうしており、おう党派とうはからは「ニコラ2せい(Никола II)」とばれている。ペトロヴィチ=ニェゴシュ王朝おうちょう子孫しそん地位ちいかんする法律ほうりつ英語えいごばんにより、大統領だいとうりょう同額どうがく手当てあて支給しきゅうされている。

イタリアしょくに

編集へんしゅう
国名こくめい 名前なまえ 肖像しょうぞう紋章もんしょうとう 説明せつめい
  イタリア王国おうこく
  サルデーニャ王国おうこく
エマヌエーレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア
 
最後さいごのイタリア国王こくおうウンベルト2せいまごサヴォイア(カリニャーノけい)の家長かちょう
  イタリア王国おうこく
  サルデーニャ王国おうこく
アイモーネ・ディ・サヴォイア=アオスタ   サヴォイアぶんえだであるサヴォイア=アオスタ当主とうしゅ本家ほんけぜん当主とうしゅヴィットーリオ・エマヌエーレ結婚けっこん不祥事ふしょうじちちアメデーオ問題もんだいし、正統せいとう王位おうい請求せいきゅうしゃとして名乗なのりをげた。アメデーオの死去しきょにより称号しょうごう継承けいしょう。イタリア最大さいだいおう党派とうは組織そしきであるイタリア君主くんしゅ主義しゅぎしゃ連合れんごうイタリアばん(UMI)の支持しじける。
  トスカーナ大公たいこうこく シギスモンド・ダスブルゴ=ロレーナ・ディ・トスカーナ   アスブルゴ=ロレーナ・ディ・トスカーナ(ハプスブルク=ロートリンゲントスカーナ支流しりゅう)の家長かちょう
  トスカーナ大公たいこうこく ジュリアーノ・デ・メディチ・ディ・オッタイアーノ英語えいごばん   メディチ分家ぶんけであるメディチ・ディ・オッタイアーノイタリアばん(オッタイアーノ公爵こうしゃく)の家長かちょう一族いちぞくがフィレンツェをおさめる以前いぜんかれた家系かけいであり、女系じょけいでも本家ほんけきんえん関係かんけいにあったことから、同家どうけにはトスカーナ大公たいこうもとめて運動うんどうした過去かこがある。
  パルマ公国こうこく
  エトルリア王国おうこく
カルロ・サヴェリオ・ディ・ボルボーネ=パルマ   ボルボーネ=パルマ家長かちょうで、名目めいもくじょうパルマおよびピアチェンツァこうカルロ5せい(Carlo V)」[6][7]
  モデナ=レッジョ公国こうこく ローレンツォ・ダスブルゴ=エステ   アスブルゴ=エステ家長かちょう
  りょうシチリア王国おうこく カルロ・ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエ   カストロけいボルボーネ・デッレ=ドゥエ・シチリエ家長かちょう。「カストロこう」を名乗なのる。カラブリアけい長年ながねんあらそい、2014ねん和解わかい文書ぶんしょ署名しょめいがなされたが、2016ねん5がつセミ・サリカほう改正かいせい宣言せんげんし、あらたな摩擦まさつしょうじた。
  りょうシチリア王国おうこく ピエトロ・ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエ   カラブリアけいボルボーネ・デッレ=ドゥエ・シチリエ家長かちょう。「カラブリアこう」および「カゼルタはく」を名乗なのる。カストロけい長年ながねんあらそい、2014ねん和解わかい文書ぶんしょ署名しょめいがなされたが、あらたな摩擦まさつしょうじている。
  りょうシチリア王国おうこく
  ポンテコルヴォ大公たいこうこくイタリアばん
ジョアッキーノ・ムラト英語えいごばん   ムラトイタリアばん当主とうしゅ。フランス皇帝こうていナポレオン1せいいもうと婿むこで、りょうシチリアおうジョアッキーノ1せい」として即位そくいしたジョアシャン・ミュラ子孫しそん。「ポンテコルヴォ大公たいこう」は、当主とうしゅ継嗣けいしたる長男ちょうなんあたえられる称号しょうごうとして今日きょうもミュラなか活用かつようされている[8]
国名こくめい 名前なまえ 肖像しょうぞう紋章もんしょうとう 説明せつめい
  スペイン王国おうこく カルロス・ハビエル・デ・ボルボン=パルマ   ブルボン=パルマ家長かちょうで、スペインのカルリスタ王位おうい請求せいきゅうしゃとして「カルロス・ハビエル1せい(Carlos Javier I)」とばれる[9][7]
  スペイン王国おうこく シクスト・エンリケ・デ・ボルボン=パルマ   カルロス・ハビエルの叔父おじ。カルロス・ハビエルはカルリスタの王位おうい請求せいきゅうしゃにはなったもののカルリスタ伝統でんとう価値かちかんれておらず、それを憂慮ゆうりょしておい価値かちかんれるまでの暫定ざんていてき地位ちいとして摂政せっしょうしょうする。が、カルロス・ハビエルではなくかれこそがカルリスタのおうだとみなすものもいる。
  スペイン王国おうこく ドミニコ・デ・アウストリア=トスカーナ英語えいごばん   アブスブルゴ=トスカーナ一族いちぞくカルロクタビスタ英語えいごばんカルリスタ王位おうい請求せいきゅうしゃだが、有力ゆうりょく支持しじしゃはいない。
  スペイン王国おうこく ルイス・アルフォンソ・デ・ボルボン   スペイン王族おうぞく聾唖ろうあのために王位おうい継承けいしょうけん放棄ほうきしたセゴビアこうハイメ子孫しそんであり、見方みかたによってはスペイン王家おうけ嫡流ちゃくりゅうといえる。王位おうい継承けいしょうけんはなく、またスペイン王位おうい請求せいきゅうもしていないが、母親ははおやかいしてフランシスコ・フランコ総統そうとういていることから、かれしんのスペイン国王こくおうとして推戴すいたいするフランコ主義しゅぎしゃがいる[10]

ドイツしょくに

編集へんしゅう
ドイツけん君主くんしゅ主義しゅぎドイツばん参照さんしょう
国名こくめい 名前なまえ 肖像しょうぞう紋章もんしょうとう 説明せつめい
  ドイツ帝国ていこく
  プロイセン王国おうこく
ゲオルク・フリードリヒ・フォン・プロイセン   最後さいごのドイツ皇帝こうてい・プロイセン国王こくおうヴィルヘルム2せい玄孫げんそんで、ホーエンツォレルン家長かちょう。ドイツ帝位ていい・プロイセン王位おうい請求せいきゅうしゃであり、プロイセンがわオラニエこうくらい継承けいしょうしゃでもある。
  アンハルト公国こうこく エドゥアルト・フォン・アンハルトドイツばん   最後さいごのアンハルトこうヨアヒム・エルンスト息子むすこ
  ヴァルデック=ピルモントこうこく ヴィッテキント・ツー・ヴァルデック=ピルモント   ヴァルデック=ピルモント侯爵こうしゃく家長かちょう
  ヴュルテンベルク王国おうこく ヴィルヘルム・フォン・ヴュルテンベルク英語えいごばん   ヴュルテンベルク家長かちょう
  オルデンブルク大公たいこうこく クリスティアン・フォン・オルデンブルク英語えいごばん   オルデンブルク大公たいこう家長かちょう
  ザクセン王国おうこく アレクサンダー・フォン・ザクセン=ゲッサフェ英語えいごばん   ザクセン=ゲッサフェ英語えいごばん家長かちょう。1997ねん、ザクセン王家おうけ男系だんけい断絶だんぜつしそうなことを危惧きぐした当時とうじ当主とうしゅマリア・エマヌエル・フォン・ザクセン(アレクサンダーにとってはははあににあたる)によって未来みらい相続そうぞくじん指名しめいされる。
  ザクセン王国おうこく ダニエル・フォン・ザクセン英語えいごばん   ティーモ・フォン・ザクセンフランス語ふらんすごばん平民へいみんとの結婚けっこんもうけたリューディガー英語えいごばん長男ちょうなん。マリア・エマヌエルのおとうと最後さいご男系だんけい家長かちょうとなったアルベルト英語えいごばんは、女系じょけいおいアレクサンダーの継承けいしょう反対はんたいし、結婚けっこんまれたながらも王家おうけ男系だんけい男子だんしであるリューディガーを支持しじした。
  ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公たいこうこく ミヒャエル・ベネディクト・フォン・ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ   ザクセン大公たいこう家長かちょう最後さいごのザクセン大公たいこうヴィルヘルム・エルンストまごにあたる。ヴェッティンちょう嫡系子孫しそんとしてヴェッティンはくドイツ: Graf von Wettin)を名乗なのることがある。
  ザクセン=コーブルクおよびゴータ公国こうこく アンドレアス・フォン・ザクセン=コーブルク・ウント・ゴータ   ザクセン=コーブルク=ゴータ公爵こうしゃくザクセン=コーブルク=ゴータのうち公爵こうしゃく最後さいごについた系統けいとう)の家長かちょう
  ザクセン=マイニンゲン公国こうこく コンラート・フォン・ザクセン=マイニンゲン英語えいごばん   ザクセン=マイニンゲン公爵こうしゃくいえ家長かちょう
  シャウムブルク=リッペこうこく アレクサンダー・シャウムブルク=リッペ英語えいごばん   シャウムブルク=リッペ侯爵こうしゃく家長かちょう
  シュレースヴィヒ公国こうこく
  ホルシュタイン公国こうこく
フリードリヒ・フェルディナント・ツー・シュレースヴィヒ=ホルシュタインフランス語ふらんすごばん   デンマークやノルウェーなどの王家おうけ輩出はいしゅつしたグリュックスブルク本家ほんけ当主とうしゅ。シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公爵こうしゃく当主とうしゅでもある。
  ナッサウ公国こうこく ハインリヒ・フォン・ナッサウ   現在げんざいルクセンブルク大公たいこう最後さいごのナッサウこうアドルフ廃位はいいルクセンブルク大公たいこうヴィルヘルム3せい(けんオランダおうウィレム3せい)から大公たいこう継承けいしょう[注釈ちゅうしゃく 3]し、アドルフの子孫しそんによりいえつづいている。
  バーデン大公たいこうこく ベルンハルト・フォン・バーデン英語えいごばん   バーデン大公たいこう家長かちょう
  バイエルン王国おうこく フランツ・フォン・バイエルン   最後さいごバイエルン国王こくおうルートヴィヒ3せいの嫡系の曾孫そうそんで、ヴィッテルスバッハ家長かちょう。「バイエルンこう」をしょうする。
  ハノーファー王国おうこく
  ブラウンシュヴァイク公国こうこく
エルンスト・アウグスト・フォン・ハノーファー   ハノーファー家長かちょうエルンスト・アウグスト5せい(Ernst August V)」。
  ヘッセン大公たいこうこく ハインリヒ・ドナトゥス・フォン・ヘッセン   ヘッセン家長かちょう
  ホーエンツォレルン=ジグマリンゲンこうこくドイツばん カール・フリードリヒ・フォン・ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン英語えいごばん   ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン侯爵こうしゃく当主とうしゅ
  メクレンブルク=シュヴェリーン大公たいこうこく
  メクレンブルク=シュトレーリッツ大公たいこうこく
ゲオルク・ボルヴィン・ツー・メクレンブルク   メクレンブルク当主とうしゅ。もともとは継承けいしょうけんのない分家ぶんけまれたが、1996ねんにメクレンブルク=シュトレーリッツ大公たいこう家督かとくぎ、いで2001ねん断絶だんぜつしたメクレンブルク=シュヴェリーン大公たいこう家督かとくいだ。
  メクレンブルク=シュヴェリーン大公たいこうこく
  メクレンブルク=シュトレーリッツ大公たいこうこく
ゲオルク・フリードリヒ・フォン・プロイセン   ホーエンツォレルン家長かちょう1442ねんにホーエンツォレルンメクレンブルクあいだむすばれたヴィトシュトック条約じょうやくドイツばんにより、フリードリヒ・フランツ5せい死去しきょ2001ねん)によって男系だんけい断絶だんぜつしたメクレンブルクふたつの大公たいこう継承けいしょうしゃであるとみなすひともいる。ただし本人ほんにんはこの称号しょうごう主張しゅちょうしたり承認しょうにんしたりはしていない。
  リッペこうこく シュテファン・ツア・リッペ英語えいごばん   リッペ侯爵こうしゃく当主とうしゅ
  ロイス=グライツこうこく
  ロイス=ゲーラこうこく
ハインリヒ14せい   ロイス当主とうしゅ

ハプスブルク君主くんしゅこく

編集へんしゅう
国名こくめい 名前なまえ 肖像しょうぞう紋章もんしょうとう 説明せつめい
  オーストリア帝国ていこく
  ハンガリー王国おうこく
  ボヘミア王国おうこく

  クロアチア=スラヴォニア王国おうこくほか

カール・ハプスブルク=ロートリンゲン   ハプスブルク=ロートリンゲン当主とうしゅ最後さいごのオーストリア皇帝こうていカール1せい(=ハンガリー国王こくおうカーロイ4せい、ボヘミア国王こくおうカレル3せい、クロアチア国王こくおうカルロ4せい)のまご
  オーストリア帝国ていこく
  ハンガリー王国おうこく
  ボヘミア王国おうこく

  クロアチア=スラヴォニア王国おうこくほか

ローレンツ・フォン・エスターライヒ=エステ   最後さいご皇帝こうていカール1せい次男じなんローベルト長男ちょうなんげん当主とうしゅカールがした結婚けっこんハプスブルク伝統でんとうらしわせれば結婚けっこんであり、そのおとうとゲオルクちちハプスブルクほう受諾じゅだくしたのちまれたうえ、ルターつまむかえているため、オーストリアの君主くんしゅ主義しゅぎしゃたちのなかにはローレンツこそが正当せいとう継承けいしょうしゃとするものすくなからずいるという[11]

フィンランド

編集へんしゅう
国名こくめい 名前なまえ 肖像しょうぞう紋章もんしょうとう 説明せつめい
  フィンランド王国おうこく フィリップ・フォン・ヘッセンスウェーデンばん   ヘッセン当主とうしゅハインリヒ・ドナトゥス・フォン・ヘッセンおとうと。フィンランド国王こくおうカールレ1せい子孫しそんで、叔父おじハインリヒ英語えいごばんからフィンランド王国おうこく王位おうい請求せいきゅうけん相続そうぞくした。

また、歴代れきだいロシア皇帝こうていアレクサンドル1せいからニコライ2せいいたるまで5だいにわたってフィンランド大公たいこうこく君主くんしゅとして「フィンランド大公たいこう」の称号しょうごうゆうしていたことから、現在げんざいロマノフ当主とうしゅもフィンランド大公たいこう請求せいきゅうしゃかんがえることができる。

国名こくめい 名前なまえ 肖像しょうぞう紋章もんしょうとう 説明せつめい
  フランス王国おうこく ルイ・アルフォンス・ド・ブルボン[注釈ちゅうしゃく 4]   ルイ14せいまご一人ひとりフランス王子おうじフィリップが「フェリペ5せい」として即位そくいしたことにはじまるスペイン・ブルボンあさ一族いちぞく。スペイン・ブルボンもっと正統せいとう王朝おうちょう血統けっとうちか家系かけいであるため、「フランス・ブルボン最後さいご男系だんけい男子だんしシャンボールはくアンリ死後しご、フランス王位おうい継承けいしょうけんはスペイン・ブルボンわたった」と主張しゅちょうするレジティミストによって、国王こくおうルイ20せい」として推戴すいたいされる。ただし、スペイン・ブルボンユトレヒト条約じょうやくしたがえばフランス王位おうい継承けいしょうけん放棄ほうきしていることが明白めいはくであるため、ヨーロッパ王侯おうこうからの支持しじはほとんどられていない。
  フランス王国おうこく
  フランス王国おうこく
ジャン・ドルレアン   ルイ14せいおとうとオルレアンこうフィリップ1せいとするオルレアン家長かちょう連合れんごう伝統でんとうてきオルレアニストくわえて、いまやオルレアン王冠おうかん相続そうぞくじんになったとかんがえるレジティミスト)によって、国王こくおうジャン4せい」として推戴すいたいされる。ドゥアルテ・ピオ・デ・ブラガンサによると「オルレアンがフランス王家おうけであるとすべてのヨーロッパ王侯おうこうみとめている[12]」とのことだが、ルイ16せい処刑しょけい賛成さんせいひょうとうじたオルレアンこうルイ・フィリップ2せい正統せいとう主義しゅぎしゃにとっては王位おうい簒奪さんだつしゃであるルイ=フィリップおう子孫しそんでもあるため、おう党派とうはあいだにはオルレアンへの嫌悪けんおかん根強ねづよ[13]
  フランス帝国ていこく ジャン=クリストフ・ナポレオン   ボナパルト当主とうしゅ皇帝こうていナポレオン1せいおとうとジェローム・ボナパルト子孫しそん。「ナポレオン6せい」としてられた祖父そふルイ・ナポレオン遺言ゆいごんにより、離婚りこんれき政治せいじ活動かつどう問題もんだいされたちちシャルル・ナポレオンばして、ボナパルティスト帝位ていい請求せいきゅうしゃナポレオン7せい」となった[14]
  フランス帝国ていこく シャルル・ボナパルト 「ナポレオン6せい」ことルイ・ナポレオン息子むすこ離婚りこんれき政治せいじ活動かつどう理由りゆうとされて、ボナパルト家督かとく相続そうぞくけん剥奪はくだつされたが、正当せいとうボナパルト当主とうしゅナポレオン7せい」であることを主張しゅちょうする[14]。ただし、2012ねんさかいに「シャルル・ナポレオン」から「シャルル・ボナパルト」にあらためたため、「プリンス・ナポレオン(ナポレオンこう)」の当主とうしゅ役割やくわり息子むすこジャン・クリストフにゆずったともかんがえられる[15]
  フランス王国おうこく バルタザール4せい・ド・ブルボン   ブルボン・ボパール」をしょうする、インドのきゅう貴族きぞく先祖せんぞはインドに土着どちゃくしたブルボン王族おうぞくだとする。スペイン・ブルボンはスペイン王位おうい継承けいしょうするにあたってフランス王位おうい継承けいしょうけん放棄ほうきしたと解釈かいしゃくし、かつオルレアン反発はんぱつする一部いちぶレジティミストから支持しじされるが、ブルボン子孫しそんであると科学かがくてき証明しょうめいされているわけではない。(インドのブルボン参照さんしょう
  フランス王国おうこく シャルル・ルイ・ド・ブルボンフランス語ふらんすごばん   にせルイ17せいことカール・ヴィルヘルム・ナウンドルフ英語えいごばん子孫しそんナウンドルフフランス語ふらんすごばん参照さんしょう)で、「シャルル13せい」をしょうする。ナウンドルフはミトコンドリアDNA調査ちょうさでルイ17せいとは別人べつじんであるとの結果けっかているが、一方いっぽうでナウンドルフの男系だんけい玄孫げんそんであるユーグ・ド・ブルボンフランス語ふらんすごばんとブルボン一族いちぞく男性だんせい3めいのY遺伝子いでんし酷似こくじしているという調査ちょうさ結果けっかている[16]。ただしおおくの科学かがくしゃ信頼しんらいせい疑問ぎもんていしている。
このほかのフランス王位おうい請求せいきゅうしゃとして、イングランド王位おうい請求せいきゅうしゃとされる人々ひとびとげることができる。

ブリテン諸島しょとう

編集へんしゅう
国名こくめい 名前なまえ 肖像しょうぞう紋章もんしょうとう 説明せつめい
  アイルランド王国おうこく
  イングランド王国おうこく
  スコットランド王国おうこく
フランシス・ボナヴェンチャー・オブ・バヴァリア   ヴィッテルスバッハ家長かちょうジャコバイトから正当せいとう国王こくおうフランシス2せい(Francis II)」となされているが、本人ほんにんはジャコバイトの主張しゅちょうくみしていない。フランスおうとしては「フランソワ2せい(François II)[注釈ちゅうしゃく 5]」となるが、イングランド王位おうい請求せいきゅうしていない以上いじょう、それに付随ふずいするフランス王位おうい当然とうぜん請求せいきゅうしていない。
  アイルランド王国おうこく
  イングランド王国おうこく
  スコットランド王国おうこく
ピーター・オブ・バーボン=トゥー・シシリーズ べつ系統けいとうのジャコバイト王位おうい請求せいきゅうしゃ。カラブリアけいブルボン=シチリア家長かちょうで、りょうシチリア王国おうこくとナバラ王国おうこく王位おうい請求せいきゅうしゃでもある。
  アイルランド王国おうこく
  イングランド王国おうこく
キャロライン・チャイルド・ヴィリアーズ(Caroline Child-Villiers)   だい9だいジャージー伯爵はくしゃくジョージ・チャイルド・ヴィリアーズ英語えいごばん長女ちょうじょメアリー・テューダー次女じじょエリナー・ブランドン英語えいごばん末裔まつえいで、テューダーあさながれをむ(en:Alternative successions of the English and British crown参照さんしょう
  アイルランド王国おうこく
  イングランド王国おうこく
テレサ・メアリー・ニュージェント・フリーマン=グレンヴィル英語えいごばん   13だいキンロスおんなきょう。「きゅう日間にちかん女王じょおう」とばれるジェーン・グレイいもうとキャサリン・グレイ英語えいごばん子孫しそんであり、ジェーン・グレイの王冠おうかん相続そうぞくじんなされる。
  イングランド王国おうこく サイモン・アブニー・ヘイスティングズ英語えいごばん   だい15だいラウドン伯爵はくしゃくマーガレット・プランタジネット末裔まつえいプランタジネットあさながれをむが、本人ほんにんがイングランド王位おうい請求せいきゅうしているかどうかは不明ふめい。(en:Alternative successions of the English and British crown参照さんしょう

上記じょうき人物じんぶつは、いずれも理論りろんじょうはフランス王位おうい請求せいきゅうしゃねる。ひゃくねん戦争せんそう時代じだいからなん世紀せいきにもわたって、歴代れきだいイングランド国王こくおうは「フランス国王こくおう」の称号しょうごう主張しゅちょうしてきた。合同ごうどうほうにもとづきグレートブリテンおよびアイルランド連合れんごう王国おうこく成立せいりつした1801ねんいたり、フランスおうごう公式こうしき放棄ほうきされたが、これはあくまで現在げんざいイギリス王室おうしつはなしである。かれらは、いずれもフランス王位おうい放棄ほうきするまえのイングランド玉座ぎょくざ継承けいしょうしゃであるため、依然いぜんとしてフランス王位おうい請求せいきゅうしゃであるとほぐせられる。

ポーランド・バルト地域ちいき

編集へんしゅう
国名こくめい 名前なまえ 肖像しょうぞう紋章もんしょうとう 説明せつめい
  ポーランド・リトアニア共和きょうわこく アレクサンダー・フォン・ザクセン=ゲッサフェ英語えいごばん   ザクセン王家おうけ家長かちょうしょうする一人ひとり。ポーランド・リトアニア最後さいご国王こくおうスタニスワフ2せいアウグスト治世ちせい制定せいていされた5月3にち憲法けんぽうによれば、ポーランドおうおよびリトアニア大公たいこう地位ちいはザクセンせんみかどこうフリードリヒ・アウグスト(のちのザクセンおうフリードリヒ・アウグスト1せい)の子孫しそん世襲せしゅうされることになっていた。
  ポーランド・リトアニア共和きょうわこく ダニエル・フォン・ザクセン英語えいごばん   ザクセン王家おうけ家長かちょうしょうする一人ひとり
  リトアニア王国おうこく ウラッハこうヴィルヘルム・アルベルト   1918ねんリトアニア王国おうこくおう選出せんしゅつされたミンダウガス2せいまごウラッハ当主とうしゅであり、理論りろんじょうはリトアニア王位おうい継承けいしょうけん筆頭ひっとう保持ほじしゃであるとかんがえられる。
  リトアニア王国おうこく イニゴ・フォン・ウラッハ   1918ねんリトアニア王国おうこくおう選出せんしゅつされたミンダウガス2せいまごヴィルヘルム・アルベルトおとうと。リトアニア愛国あいこくしゃであり、君主くんしゅ主義しゅぎしゃたちによってあにいて国王こくおう候補こうほとして推戴すいたいされた[17]

なお、1815ねんポーランド立憲りっけん王国おうこく成立せいりつ以来いらい歴代れきだいロシア皇帝こうてい最後さいごニコライ2せいいたるまでポーランドおう称号しょうごうゆうしていたことから、現在げんざいロマノフ当主とうしゅもポーランド王位おうい請求せいきゅうしゃかんがえることができる。

国名こくめい 名前なまえ 肖像しょうぞう紋章もんしょうとう 説明せつめい
  ルーマニア王国おうこく マルガレータ・ア・ロムニエイ   最後さいごのルーマニア国王こくおうミハイ1せい長女ちょうじょルーマニア王室おうしつルーマニアばん家長かちょうとして「ルーマニア王冠おうかん守護しゅごしゃ」の称号しょうごうと「陛下へいか」の敬称けいしょうもちいる。
  ルーマニア王国おうこく パウル=フィリップ・ホーエンツォレルンルーマニアばん   ルーマニア国王こくおうカロル2せいの庶流のまご叔父おじミハイ1せい系統けいとうをルーマニア王家おうけ正統せいとうとしてみとめず、自身じしんがルーマニア王室おうしつ家長かちょうであると主張しゅちょうする。
  ルーマニア王国おうこく カール・フリードリヒ・フォン・ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン英語えいごばん   ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン侯爵こうしゃく当主とうしゅ。ルーマニア王家おうけ本家ほんけすじにあたり、女子じょしであるマルガレータ・ア・ロムニエイによる継承けいしょうみとめない一部いちぶおう党派とうはから支持しじされる。ただし本人ほんにんはルーマニア王位おういには興味きょうみがないとこたえている。
国名こくめい 名前なまえ 肖像しょうぞう紋章もんしょうとう 説明せつめい
  ロシア帝国ていこく マリヤ・ウラジーミロヴナ・ロマノヴァ   ロマノフホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ)の家長かちょうしょうする。アレクサンドル2せい玄孫げんそん。ロシア帝室ていしつ家憲かけん男系だんけい男子だんし継承けいしょう原則げんそくならびに結婚けっこん解釈かいしゃくちがいから、一族いちぞくなかには異論いろんもある。
  ロシア帝国ていこく アレクセイ・アンドレーエヴィチ・ロマノフフランス語ふらんすごばん   ニコライ1せい子孫しそんロマノフ協会きょうかい英語えいごばんによって当主とうしゅ認定にんていされた。
  ロシア帝国ていこく ニコライ・キリロヴィッチ・ライニンゲン=ロマノフ   ライニンゲン公子こうしカール・エミッヒ。だい7だいライニンゲンこうエミッヒ・カイル長男ちょうなんアレクサンドル2せい外来がいらいまご祖母そぼ皇女おうじょマリヤ・キリロヴナで、マリヤ大公たいこうおんなしたがえおいにあたる。2014ねん4がつよりロシア連邦れんぽう君主くんしゅ主義しゅぎしゃとう英語えいごばん が「ロシア皇帝こうていニコライ3せい」としょうして推戴すいたいしている。ロマノフ男系だんけいではないものの、マリヤ大公たいこうおんなおよびニコライ・ロマノヴィッチ大公たいこうはともに結婚けっこん子孫しそんであるため皇位こうい継承けいしょうけんゆうしていないというのが理由りゆうである。ちち死後しごだい8だいライニンゲンおおやけおとうとアンドレアス英語えいごばんいでいる。

きたアメリカ

編集へんしゅう
国名こくめい 名前なまえ 肖像しょうぞう紋章もんしょうとう 説明せつめい
  メキシコ帝国ていこく マクシミリアン・フォン・ゲッツェン=イトゥルビデフランス語ふらんすごばん   だいいち帝政ていせい帝室ていしつイトゥルビデ英語えいごばん家長かちょう。イトゥルビデメキシコだい帝政ていせい皇帝こうていマクシミリアーノ1せいハプスブルク出身しゅっしん)の養子ようしむかえられていたため、だい帝政ていせいながれもんで「マクシミリアーノ2せい(Maximiliano II)」をしょうする。
  メキシコ帝国ていこく カルロス・フェリペ・デ・アブスブルゴ=ロレナ   最後さいごのオーストリア皇帝こうていカール1せい三男さんなんフェリックス・ハプスブルク=ロートリンゲン長男ちょうなん。すなわちマクシミリアーノ1せいおなじくハプスブルク一族いちぞくで、マクシミリアーノ皇帝こうていはイトゥルビデ後継こうけいしゃとして採用さいようしなかったと主張しゅちょうする一部いちぶ君主くんしゅ主義しゅぎしゃによって支持しじされる[18]

みなみアメリカ

編集へんしゅう
国名こくめい 名前なまえ 肖像しょうぞう紋章もんしょうとう 説明せつめい
  アラウカニア・パタゴニア王国おうこく フレデリック・リュズフランス語ふらんすごばん   「アントワーヌ4せいこうことジャン=ミシェル・パラシリティ・ディ・パラ英語えいごばんが2017ねんぼっしたのち後継こうけいしゃ選出せんしゅつされた。「フレデリック1せい(Frédéric I)
  アラウカニア・パタゴニア王国おうこく スタニスラス・パルビュレスコ(Stanislas Parvulesco)   「フレデリック1せい」と対立たいりつする王位おうい請求せいきゅうしゃとして、「スタニスラス1せい(Stanislas I)」をしょうする。
  ブラジル帝国ていこく ペドロ・カルルシュ・デ・オルレアンス・イ・ブラガンサ   ペトロポリスけいブラジル帝位ていい請求せいきゅうしゃ祖父そふペドロ・デ・アルカンタラ結婚けっこんをしたことによる継承けいしょうけん放棄ほうき無効むこうかんがえる君主くんしゅせい支持しじしゃ一部いちぶから、正統せいとうなブラジル帝位ていい継承けいしょうしゃなされ、「ペドロ5せい(Pedro V)」とされている。
  ブラジル帝国ていこく ベルトランド・デ・オルレアンス・イ・ブラガンサ   ヴァソウラスけいブラジル帝位ていい請求せいきゅうしゃ。2022ねんあにのちいで名目めいもくじょうのブラジル帝位ていい継承けいしょうし、「ベルトランド1せい(Bertrand I)」となった。
国名こくめい 名前なまえ 肖像しょうぞう紋章もんしょうとう 説明せつめい
  タヒチ王国おうこく英語えいごばん レオポルド・ポマレ   19世紀せいきタヒチとう君臨くんりんしていたポマレ王朝おうちょう末裔まつえい。タヒチ王家おうけ嫡流ちゃくりゅうであったが、17さいでフランスにわたり、そのままいちもタヒチにもどっていない。
  タヒチ王国おうこく英語えいごばん ジョアンヴィル・ポマレフランス語ふらんすごばん   19世紀せいきタヒチとう君臨くんりんしていたポマレ王朝おうちょう末裔まつえい女王じょおうポマレ4せい子孫しそんで、2009ねん5がつ28にちに「タヒチと島々しまじまおう(roi de Tahiti et des îles)」を宣言せんげんした。「ポマレ11せい」をしょうする[19]。2009ねん9がつ9にち戴冠たいかんしき計画けいかくしたが、一族いちぞくなかにはレオポルドこそが正統せいとうであるとしてジョアンヴィルの王位おうい請求せいきゅう反対はんたいするものもいる。王冠おうかん継承けいしょうけんかんする論争ろんそうはあるが、おおくのタヒチじんによってジョアンヴィルが正当せいとう相続そうぞくじんであるとかんがえられている[19]
  ハワイ王国おうこく クエンティン・クヒオ・カワナナコア英語えいごばん   カラカウアあさ英語えいごばん断絶だんぜつにより王位おうい継承けいしょうけん承継しょうけいしたカワナナコア英語えいごばん家長かちょう
  ハワイ王国おうこく オワナ・サラザール英語えいごばん   ハワイ王室おうしつ当主とうしゅ一人ひとりとされる。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ このニュアンスで日本語にほんごやくすれば「王位おうい僭称せんしょうもの(おういせんしょうしゃ)」、「王位おうい覬覦しゃ(おういきゆしゃ)」といった表現ひょうげんになる。
  2. ^ オーストリアのシュヴァルツ=ゲルベ・アリアンツ、ポーランドの保守ほしゅおう党派とうはクラブ、チェコのコルナ・チェスカなど。
  3. ^ 一方いっぽうオランダは当時とうじ王位おうい継承けいしょうほうちがい(オランダは女子じょしへの王位おうい継承けいしょうみとめている一方いっぽうルクセンブルクは当時とうじ女子じょしへの大公たいこう継承けいしょうみとめていなかった)によりウィレムのむすめウィルヘルミナ継承けいしょうした。
  4. ^ スペイン王位おうい請求せいきゅうしゃのルイス・アルフォンソ・デ・ボルボンとどう一人物いちじんぶつフランス語ふらんすごめいでの表記ひょうき
  5. ^ ジャコバイトはひゃくねん戦争せんそう(1337ねん - 1453ねん)からずっとイングランドおうがフランス王位おうい継承けいしょうしゃたることを主張しゅちょうしているため、ヴァロワあさフランソワ1せい在位ざいい:1515ねん - 1547ねん)とフランソワ2せい在位ざいい:1559ねん - 1560ねん)を当然とうぜんフランスおうとしてみとめておらず、したがって「フランソワ」というのフランスおうは「フランソワ1せい」ことモデナこうフランチェスコ5せいつづいてかれ2人ふたりということになる。

出典しゅってん

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  1. ^ マイケル・ジョゼフ・グロス英語えいごばん (2018ねん4がつ27にち). ““There’s Nothing Wrong with Falling from Grace”: The Global Network of Monarchists Helping Deposed Kings and Queens”. ヴァニティ・フェア. https://www.vanityfair.com/style/2018/04/global-network-of-monarchists 2019ねん12月9にち閲覧えつらん 
  2. ^ Hadley Meares (2018ねん11月30にち). “Why 100 Imposters Claimed to Be Marie Antoinette’s Dead Son”. ヒストリーチャンネル. https://www.history.com/news/louis-xvii-death-marie-antoinette-french-revolution 2020ねん1がつ10日とおか閲覧えつらん 
  3. ^ ビリアルスキ(2016), p. 161.
  4. ^ “Californian techie becomes Korean crown prince in fairytale twist”. デイリー・テレグラフ. (2018ねん12月29にち). https://www.telegraph.co.uk/news/2018/12/29/californian-techie-becomes-korean-crown-prince-fairytale-twist/ 2019ねん1がつ14にち閲覧えつらん 
  5. ^ http://www.borbone-due-sicilie.org/english/genealogy.html
  6. ^ Mensaje al Pueblo Carlista de S.M.C. Don Carlos Javier I de Borbón, Rey de Las Españasblogspot El Carlismo contra Globalizatión (Spanish)
  7. ^ a b El primogénito de Carlos Hugo de Borbón – Nuevo pretendiente carlista a la corona de España – website news agency Europa Press (Spanish)
  8. ^ “Rencontre avec le prince Pierre Murat”. ウエスト・フランスフランス語ふらんすごばん. (2017ねん7がつ8にち). https://www.ouest-france.fr/pays-de-la-loire/la-baule-44500/rencontre-avec-le-prince-pierre-murat-5121801 2019ねん3がつ9にち閲覧えつらん 
  9. ^ MENSAJE AL PUEBLO CARLISTA DE S.M.C. DON CARLOS JAVIER I DE BORBÓN, REY DE LAS ESPAÑASblogspot El Carlismo contra Globalizatión (Spanish)
  10. ^ “"Eres nuestro rey": por qué los ultras aclaman a Luis Alfonso en plena crisis en Zarzuela”. EL ESPAÑOL. (2018ねん7がつ17にち). https://www.elespanol.com/reportajes/20180717/ultras-aclaman-luis-alfonso-plena-crisis-zarzuela/322968775_0.html 2018ねん10がつ22にち閲覧えつらん 
  11. ^ Marcus Stoimaier (2017ねん1がつ11にち). “Die Kassen klingeln! So lebt Österreichs Adel”. weekend.at. http://www.weekend.at/entertainment/oesterreich-adel/41.702.723 2020ねん1がつ8にち閲覧えつらん 
  12. ^ “Dom Duarte de Bragance : « La République est très démocratique, mais a déjà mis le pays en banqueroute par deux fois ! »”. L'Incorrect. (2019ねん1がつ28にち). https://lincorrect.org/entretien-avec-dom-duarte-de-bragance/ 2019ねん2がつ21にち閲覧えつらん 
  13. ^ ふつきゅう王族おうぞくのオルレアン当主とうしゅ死去しきょ葬儀そうぎ各国かっこく王族おうぞく参列さんれつ. フランス通信つうしんしゃ. (2019ねん2がつ3にち). https://www.afpbb.com/articles/-/3209492 2019ねん2がつ24にち閲覧えつらん 
  14. ^ a b 野村のむら(2019), p. 243.
  15. ^ 野村のむら(2019), p. 245.
  16. ^ http://www.ijsciences.com/pub/pdf/V320140219.pdf.
  17. ^ “Jo šviesybė princas Inigo von Urachas, Uracho kunigaikštis, Württembergo grafas ir paskutinio Lietuvos karaliaus – Mindaugo II – anūkas, yra legitimus pretendentas į Lietuvos sostą.”. Delfiリトアニアばん. (2013ねん5がつ19にち). https://www.delfi.lt/archive/mindaugo-ii-anukas-jei-lietuviai-panores-atgaivinti-monarchija-esu-pasirenges-priimti-sia-garbe.d?id=61409369 2020ねん1がつ10日とおか閲覧えつらん 
  18. ^ “Mitos y presuntos herederos a un inexistente torno de México”. La Crónica de Hoy英語えいごばん. (2015ねん7がつ2にち). http://www.cronicajalisco.com/notas/2015/46486.html 2019ねん11月9にち閲覧えつらん 
  19. ^ a b “Real Tahitian royal is modest man more at home wearing just shorts and T-shirt”. クーリエ・メイル. (2011ねん12月15にち). https://www.couriermail.com.au/news/queensland/real-tahitian-royal-is-modest-man-more-at-home-wearing-just-shorts-and-t-shirt/news-story/4709c589bf73eaee8c115145065e9715?sv=cd725f1afc338a5ce92a3b4aa2d8c56d 2019ねん1がつ14にち閲覧えつらん 

参考さんこう文献ぶんけん

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  • イヴァン・ビリアルスキかみ加護かごのもとで : 選挙せんきょ君主くんしゅせい世襲せしゅうせい中世ちゅうせい神権しんけん政治せいじ現代げんだい合理ごうりせいのはざまで(1)」『仏語ふつごふつ文学ぶんがく研究けんきゅうだい48ごう中央大学ちゅうおうだいがく仏語ふつごふつ文学ぶんがく研究けんきゅうかい、2016ねん2がつ、151-170ぺーじISSN 0286-5920NAID 120006639287 
  • 野村のむら啓介けいすけ『ナポレオンよんだい二人ふたりのフランス皇帝こうてい悲運ひうん後継こうけいしゃたち』中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ中公新書ちゅうこうしんしょ〉、2019ねん2がつ25にちISBN 978-4-12-102529-6 

関連かんれん項目こうもく

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