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琉球国王 - Wikipedia

琉球りゅうきゅう国王こくおう

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琉球りゅうきゅう国王こくおう(りゅうきゅうこくおう)は、1872ねんきよし: どう11ねん日本にっぽん: 明治めいじ5ねん)まで琉球りゅうきゅう諸島しょとう中心ちゅうしん存在そんざいした琉球りゅうきゅう王国おうこく君主くんしゅおよびその外交がいこう称号しょうごうであり、あきらおよきよし貿易ぼうえきじょう理由りゆうから朝貢ちょうこうしたさいさづけられたふうごうもそれにふくまれる。琉球りゅうきゅう国内こくないではあるじばれた。外交がいこうじょう、ならびに正式せいしき名称めいしょう琉球りゅうきゅうこくちゅう山王さんのう(りゅうきゅうこくちゅうざんおう)。

琉球りゅうきゅう国王こくおう
過去かこ君主くんしゅ
くにあきらひだりどもえ
だい二尚氏初代琉球王
なおえんおう
在位ざいい : 1469ねん - 1476ねん
初代しょだい しゅんてん
最終さいしゅうだい なおたいおう
称号しょうごう 国王こくおう
ちゅう山王さんのう
あるじ
しゅこころざし
くび里加りかこころざし
沖縄おきなわこころざし
御前おんざきこころざし
主上しゅじょう
おうのぼる
聖上せいじょう
天子てんし
宮殿きゅうでん 浦添うらぞえじょう
くびさとじょう
はじまり 文治ぶんじ3ねん1187ねん
わり 明治めいじ12ねん1879ねん4がつ4にち
げん王位おうい請求せいきゅうしゃ なおまもる
かわべんかんむり琉球りゅうきゅう国王こくおう王冠おうかん

ほん項目こうもくでは、琉球りゅうきゅう王国おうこく成立せいりつ(1429ねん)より以前いぜん琉球りゅうきゅう君臨くんりんし、または君臨くんりんしたとされるおうみつるについても併記へいきする(#琉球りゅうきゅう国王こくおう一覧いちらん

概要がいよう

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おうまたはおうごう起源きげん

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琉球りゅうきゅう王家おうけ紋章もんしょうひだりどもえ

一般いっぱんおうまたはおうごうは、由来ゆらい諸説しょせつあるため、明確めいかく起源きげんあきらかではない。琉球りゅうきゅう国王こくおう場合ばあいにも、そのおうまたはおうごう起源きげんひとつが、あかり貿易ぼうえきじょう理由りゆうから朝貢ちょうこうしてさつふうけてからとわれているが、文献ぶんけんではそれ以前いぜん時代じだいおうについての記載きさいもある。あかり時代じだいには、1404ねんあきら: 永楽えいらく2ねん)2がつ察度おうみつるだいたけやすし1356ねん - 1406ねん)のときあかり永楽えいらくみかどさつふう使派遣はけんし、たけやすしちゅう山王さんのう(ちゅうざん おう)にさつふうした。これが琉球りゅうきゅう最初さいしょさつふうである。たけやすしちち察度1372ねんあきら: ひろしたけ5ねん)にはじめて朝貢ちょうこうしたさいさつふうけたとのせつもあるが、琉球りゅうきゅうがわ史書ししょたま』および中国ちゅうごくがわ史書ししょあきら実録じつろく』をかぎり、皇帝こうていから様々さまざま品物しなもの下賜かしされたとの記述きじゅつはあるが、さつふうけた、もしくはおう爵を授与じゅよしたとの記述きじゅつあたらない。たけやすしおうさつふうけた2ヶ月かげつ同年どうねん4がつには、山南さんなん南山なんざん王国おうこくひろしおうさつふうけて、山南さんなんおうふうじられた。

後世こうせい史書ししょでは、察度おうみつる以前いぜんにあったといわれる舜天王しゅんてんのうみつるえいおうみつる歴代れきだい君主くんしゅにもおうごうもちいられている。これは史書ししょ編纂へんさんおりなどにおう相当そうとうする人物じんぶつという意味いみであり、実際じっさいには、ぼう按司おうとみなしたとの記載きさいであるという意見いけんもある。

おう尊称そんしょう異称いしょう

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だいいちしょうおうみつる

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国王こくおう居城きょじょうくびさとじょう

おう爵をけたたけやすしおうは、2ねんの1406ねん佐敷さしき按司・ともえこころざし(1372ねん - 1439ねんなおともえこころざしおう)にほろぼされる。ともえこころざしたけやすしおうわってちちおもえ紹(1354ねん - 1421ねんなおおもえ紹王)をちゅう山王さんのうくらいかせた。翌年よくねんおもえ紹はたけやすしおう世子せいしいつわってあかり使者ししゃ派遣はけんしてたけやすしおう死去しきょげると、あかりから使者ししゃ派遣はけんされ、おもえ紹は正式せいしきおう爵をいだ。だいいちしょうおうみつるはじまりである。一方いっぽう山南さんなん王国おうこくでは、1415ねんあきら: 永楽えいらく13ねん)、世子せいし魯毎にもさつふう使派遣はけんされ、山南さんなんおうふうじられている。山北やまきた北山きたやま王国おうこくはたびたびあかり朝貢ちょうこうしたが、さつふうけたとの記録きろくはない。

1422ねんおもえ紹がくなると、ともえこころざしちゅう山王さんのう即位そくいした。1425ねんあきら: ひろし元年がんねん)2がつ1にちあきらさつふう使柴山しばやま派遣はけんし、ともえこころざしちゅう山王さんのうさつふうした。そのともえこころざしは1429ねん山南さんなんおう魯毎ほろぼし、琉球りゅうきゅう統一とういつした。よく1430ねんともえこころざしあかりからなおせいたまわったといわれ、「なおともえこころざし」を名乗なのった。統一とういつなおともえこころざしおうちゅう山王さんのう名乗なのつづけたので、これ以降いこう琉球りゅうきゅう国王こくおう名称めいしょうちゅう山王さんのうとなった。

なおともえこころざしおう死後しごだいいちしょうおうみつるは、王家おうけないあらそいや地方ちほうしょ按司の反乱はんらんなどになやまされ、7だい63ねん瓦解がかいすることになる。これはだい一尚氏王統下では、有効ゆうこう中央ちゅうおう集権しゅうけん政策せいさく実施じっししなかったため、地方ちほうしょ按司の勢力せいりょくつよく、王権おうけん強化きょうか失敗しっぱいしたためである。

だいしょうおうみつる

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琉球りゅうきゅう國王こくおうしるし(18世紀せいきまんしゅうで「ᠯᡳᠣ
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, lio kio gurun i wang ni doron」

1462ねんだい6だいなお泰久やすひさおう重臣じゅうしんだった金丸かねまるなおえんおう)がだい7だいなお徳王とくおうのち王位おうい継承けいしょうしてだいしょうおうみつるはじまった。正史せいしでは重臣じゅうしんたちがおう推挙すいきょしたとあるが、金丸かねまるクーデターだったともわれている。1471ねんあきら: なり7ねん)、なおえんだいいちしょうとき同様どうよう先王せんおう尚徳しょうとく世子せいしいつわって使者ししゃ派遣はけんし、尚徳しょうとくおう死去しきょげてふう爵をうた。あかりはこれにおうじてさつふう使派遣はけんし、なおえんちゅう山王さんのうさつふうした。そのだいしょうおうみつるは、だい3だいなおおう治世ちせい地方ちほうしょ按司を地方ちほうからくびさとうつしてまわせ、中央ちゅうおう集権しゅうけん成功せいこうした。このためだいしょうおうみつるは1879ねん琉球りゅうきゅう処分しょぶんまで、19だい410ねんわたってつづいた。

1636ねんなおゆたかおう治世ちせいに、薩摩さつまいのちによっておうではなく国司こくし称号しょうごうもちいるよういられた。以後いごなおけんおうなおしつおうなおさだおう3だいの76年間ねんかんは、薩摩さつまたいしては「琉球りゅうきゅう国司こくし」と署名しょめいしたが、きよしたいしては「ちゅう山王さんのう」のままだった。1712ねんには島津しまつよしたか意向いこうにより、ふたたおうごうふくすることになったが、その背景はいけいにはよしたか官位かんい昇進しょうしん問題もんだいがあったといわれている。

1872ねん明治めいじ5ねん)9がつ14にち上京じょうきょうしていた明治維新めいじいしん慶賀けいが使節しせつたいして、明治天皇めいじてんのうからさつふう詔勅しょうちょくくだされ、なおたいおう琉球りゅうきゅうはんおうさつふうされた。はんおう称号しょうごうは1879ねん明治めいじ12ねん)の廃藩置県はいはんちけんまで使つかわれた。廃藩置県はいはんちけんなおやすし侯爵こうしゃくじょせられ、東京とうきょうへの定住ていじゅうめいじられた。

琉球りゅうきゅう国王こくおう一覧いちらん

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天孫てんそんおうみつる

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中山なかやまかん』によれば、琉球りゅうきゅう最初さいしょおうみつる天孫てんそんおうみつる天孫てんそんおうみつる)であったとつたえられる。天帝てんてい使つかいとして下界げかいった女神めがみアマミキヨは三男さんなん二女じじょをなし、長子ちょうしおよびその子孫しそん歴代れきだい国王こくおうになったという。てんみかどまごにあたることから天孫てんそんばれる。

天孫てんそんは25だい17802ねんにわたってつづいたが、最後さいごおうおもえ良金よしかねあるいはおもえ金松かねまつけんおうという。『椿つばきせつ弓張月ゆみはりづき』にはなおやすしおう)が重臣じゅうしんいさみころされて断絶だんぜつし、そのいさみもやがてしゅんてん誅殺ちゅうさつされた。実在じつざいしたかどうかについては神話しんわ伝説でんせついきない。

舜天王しゅんてんのうみつる

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源為朝みなもとのためとも落胤らくいんともつたえられるしゅんてんてたおうみつる舜天王しゅんてんのうみつるである。琉球りゅうきゅう王国おうこく正史せいし中山なかやまかん』や、『おもろさうし』『鎮西ちんぜい琉球りゅうきゅう』『椿つばきせつ弓張月ゆみはりづき』などでは、12世紀せいき源為朝みなもとのためとも鎮西ちんぜい八郎はちろう)が現在げんざい沖縄おきなわけんのがれ、そのしゅんてんになったとされる[注釈ちゅうしゃく 1]このおうみつる伝説でんせつてき意味合いみあいのつよおうみつるだとかんがえられる[だれ?]

  1. しゅんてん
  2. しゅんうまじゅんひろし
  3. ほん

よしほんおう摂政せっしょうえい王位おうい禅譲ぜんじょうし、舜天王しゅんてんのうみつるさんだい72ねん歴史れきしえた。

えいおうみつる

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先述せんじゅつほんおう摂政せっしょうであったえい王位おうい禅譲ぜんじょうされて誕生たんじょうしたのがえいおうみつるである。5だい89ねんつづいた。

  • めぐみ 伊祖いそ城主じょうしゅえいちち
  1. えい 伊祖いそ
  2. 大成たいせい 浦添うらぞえ
  3. えい 伊祖いそ
  4. 玉城たまき 玉城たまき領主りょうしゅだったため、それより由来ゆらい
  5. 西にしたけし 浦添うらぞえくびさと

このおうみつるの5にんおうはそれぞれ、名前なまえ由来ゆらい出身しゅっしん王子おうじときしろわれている。

さんやま時代じだい

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えいおうみつるだい4だい玉城たまきおうころより王権おうけんおとろえ、琉球りゅうきゅう各地かくちとなえる按司が出現しゅつげんし、やがて今帰仁なきじんむら中心ちゅうしんとする北山きたやま浦添うらぞえくびさと中心ちゅうしんとする中山なかやまきゅう高嶺たかねあいだきり現在げんざい糸満いとまん一部いちぶ)のだいさと中心ちゅうしんとする南山なんざんみっつの地域ちいきにそれぞれおうあらわれた。三国志さんごくしさながらのこの時代じだいさんやま時代じだいしょうする。

なお、これらさんやまはそれぞれ独立どくりつしてあかり朝貢ちょうこう貿易ぼうえきおこなっていたことがあかり歴史れきししょのこっている。

中山なかやま・察度おうみつる

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察度おうみつるは、西にしたけしおう没後ぼつご群臣ぐんしん推挙すいきょによっておうとなった察度てたおうみつる。2だい55ねんつづいた。

  1. 察度
  2. たけやすし

北山きたやま・怕尼しばおうみつる

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怕尼しばおうみつる北山きたやまをまとめたはね按司の怕尼しばてたおうみつる

  1. 怕尼しば
  2. よじあんとも

南山みなみやま大里おおさとおうみつる

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大里おおさとおうみつる南山なんざんをまとめた大里おおさと按司のうけたまわ察度てたおうみつる

  1. うけたまわ察度
  2. ひろしえいむらさき
  3. ひろしおう
  4. いたる勃期
  5. 魯毎

だいいちしょうおうみつる

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ちゅう山王さんのうたけやすしたおしたなおともえこころざしが、ちちおもえ紹を王位おういけ、てたおうみつるともえこころざしはそのさんやま統一とういつげた。

なおえん金丸かねまる)のてたおうみつる区別くべつするためにだいいちしょうおうみつるばれ、またなおともえこころざしおうみつるともばれる。ななだい63ねんつづいた。

 
だいいちしょうおう系図けいず
氏名しめい 在位ざいい期間きかん 享年きょうねん 備考びこう
1 なおおもえ紹王
しょう ししょうおう
永楽えいらく4ねん - 永楽えいらく19ねん
1406ねん - 1421ねん
67 追号ついごう
2 なおともえこころざしおう
しょう はしおう
永楽えいらく20ねん - 正統せいとう4ねん
1422ねん - 1439ねん
67 初代しょだい琉球りゅうきゅう国王こくおう
3 なおちゅうおう
しょう ちゅうおう
正統せいとう5ねん - 正統せいとう9ねん
1440ねん - 1444ねん
53
4 なおおもえたちおう
しょう したつおう
正統せいとう10ねん - 正統せいとう14ねん
1445ねん - 1449ねん
41
5 なおかねぶくおう
しょう きんぷくおう
けいやすし元年がんねん - けいたい4ねん 55
6 なお泰久やすひさおう
しょう たいきゅうおう
けいたい5ねん - てんじゅん4ねん 45
7 なお徳王とくおう
しょう とくおう
てんじゅん5ねん - なり13ねん
1461ねん - 1469ねん
28

だいしょうおうみつる

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だいいちしょう6だいおうなお泰久やすひさおうつかえていた金丸かねまる(のちのなお えん)が、尚徳しょうとくおう没後ぼつごてたおうみつる

さきおうみつる同名どうめいのためこちらをだいしょうおうみつるしょうする。また、なおえんおうみつるともばれる。琉球りゅうきゅう処分しょぶんまで19だい409ねんつづいた。

 
だいしょうおう系図けいずなおたいなおてんのみ記載きさい
だい 氏名しめい 肖像しょうぞう 在位ざいい期間きかん 享年きょうねん 備考びこう
しょう しょく
なお きび
不明ふめい なお えんおうちちえんおうからおうごう追贈ついぞうされた。
1 しょう えんおう
なお えんおう
  なり5ねん - なり12ねん
1469ねん - 1476ねん
61
2 しょう せんいおう
なお せんおう
なり13ねん
1477ねん
47
3 なおおう
しょう しんおう
  なり13ねん - よしみやすし6ねん
1477ねん - 1527ねん
62
4 なお清王せいおう
しょう せいおう
よしみやすし6ねん - よしみやすし34ねん
1527ねん - 1555ねん
58
5 なおもとおう
しょう げんおう
  よしみやすし35ねん - りゅうけい6ねん
1556ねん - 1572ねん
44
6 なおながおう
しょう えいおう
まんれき元年がんねん - まんれき16ねん
1573ねん - 1588ねん
29
なお
しょう い
与那城よなぐすく王子おうじあさけん
なおおう曾孫そうそんなおやすしおうちちおうちちたるをもっておうごう追贈ついぞうされた。
7 なおやすしおう
しょう ねいおう
  まんれき17ねん - やすしあきら元年がんねん
1589ねん - 1620ねん
56
尚久なおひさ
しょう きゅう
大金おおかねたけし王子おうじちょうこう
60 なおもとおう三男さんなんなおゆたかおうちちおうちちたるをもっておうごう追贈ついぞうされた。
8 なおゆたかおう
しょう ほうおう
  天啓てんけい元年がんねん - たかしただし13ねん
1621ねん - 1640ねん
49
9 なおけんおう
しょう けんおう
たかしただし14ねん - 順治じゅんじ4ねん
1641ねん - 1647ねん
22
10 なおしつおう
しょう しつおう
順治じゅんじ5ねん - かん7ねん
1648ねん - 1668ねん
39
11 なおさだおう
しょう ていおう
  かん熙8ねん - かん熙48ねん
1669ねん - 1709ねん
63
なおじゅん
しょう じゅん
中城なかしろ王子おうじ
  46 なおさだおう世子せいしなおえきおうちち即位そくいまえに薨じるも、おうごう追贈ついぞうされた。
12 なおえきおう
しょう えきおう
かん熙49ねん - かん熙51ねん
1710ねん - 1712ねん
33
13 なおけいおう
しょう けいおう
  かん熙52ねん - いぬいたかし16ねん
1713ねん - 1751ねん
50
14 なおきよしおう
しょう ぼくおう
  いぬいたかし17ねん - いぬいたかし59ねん
1752ねん - 1794ねん
55
なおあきら
しょう てつ
中城なかしろ王子おうじ
29 なおきよしおう世子せいしなおゆたかおうちち即位そくいまえに薨じるも、おうごう追贈ついぞうされた。
15 なおゆたかおう
しょう おんおう
いぬいたかし60ねん - よしみけい7ねん
1795ねん - 1802ねん
18
16 なおなりおう
しょう せいおう
よしみけい8ねん - よしみけい9ねん
1803ねん - 1804ねん
3
17 なお灝王
しょう こうおう
  よしみけい9ねん - みちこう14ねん
1804ねん - 1834ねん
46
18 なおそだておう
しょう いくおう
  みちこう15ねん - みちこう27ねん
1835ねん - 1847ねん
34
19 なおたいおう
しょう たいおう
  みちこう28ねん - ひかりいとぐち4ねん
1848ねん - 1879ねん
58 在位ざいいちゅう琉球りゅうきゅう処分しょぶんおこなわれ、なおやすし日本にっぽん華族かぞくれっせられ、のち日本にっぽん侯爵こうしゃくとなった。

王位おうい請求せいきゅうしゃ

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画像がぞう 備考びこう
なおてん
中城なかしろ王子おうじあさひろし
  なおたいおう世子せいしなおいえ20だい当主とうしゅ

日本にっぽん侯爵こうしゃく襲爵しゅうしゃく

なおあきら   なおてん長子ちょうしなおいえ21だい当主とうしゅ

日本にっぽん侯爵こうしゃく襲爵しゅうしゃく

なおひろし   なおあきら長子ちょうしなおいえ22だい当主とうしゅ

日本にっぽん侯爵こうしゃく襲爵しゅうしゃく

なおまもる   なおひろし長子ちょうしなおいえ23だい当主とうしゅ

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ このはなしがのちに曲亭馬琴きょくていばきんの『椿つばきせつ弓張月ゆみはりづき』をんだ。にち琉同ろん関連かんれんづけてかたられることおおく、このはなしもとづき、大正たいしょう11ねん(1922)には為朝ためとも上陸じょうりくいしぶみてられた。表側おもてがわに「上陸じょうりくいしぶみ」ときざまれて、そのひだりななにはこのいしぶみてることに尽力じんりょくした東郷とうごう平八郎へいはちろうきざまれている。なお、『中山なかやまかん』を編纂へんさんしたはねあさしゅうは、摂政せっしょう就任しゅうにんかん12ねん寛文ひろふみ13ねん(1673))3がつの『仕置しおき(しおき)』(令達れいたつおよ意見いけんしるきしたしょ)で、琉球りゅうきゅう人々ひとびと祖先そせんは、かつて日本にっぽんから渡来とらいしてきたのであり、また有形ゆうけい無形むけい名詞めいしはよくつうじるが、はな言葉ことば日本にっぽん相違そういしているのは、遠国おんごくのため交通こうつうながあいだ途絶とだえていたからであるとかたり、源為朝みなもとのためとも王家おうけ祖先そせんだというだけでなく琉球りゅうきゅう人々ひとびと祖先そせん日本にっぽんからの渡来とらいじんであるとべている(さかいめいやすきょうさかいめいやすきょう全集ぜんしゅうだいいちかん19ぺーじ参照さんしょうもとぶんは「此国人生じんせいはつは、日本にっぽんよりためわたりただしうたぐ御座ぎょざいちこうしかれば末世まっせいまに、天地てんち山川やまかわかたち五倫ごりん鳥獣ちょうじゅう草木くさきいたまでみな通達つうたつせり。雖しか言葉ことば相違そうい遠国おんごくうえひさじき融通ゆうずうためぜっ也」)。なお、最近さいきん遺伝子いでんし研究けんきゅう沖縄おきなわ県民けんみん九州きゅうしゅう以北いほく本土ほんど住民じゅうみんとは、おな祖先そせんつことがあきらかになっている。高宮たかみやひろ鹿児島大学かごしまだいがく)が、沖縄おきなわ島々しまじま人間にんげん適応てきおうできたのは縄文じょうもん中期ちゅうき後半こうはんから後期こうき以降いこうであるため、10世紀せいきから12世紀せいきごろ農耕のうこうをする人々ひとびと九州きゅうしゅうから沖縄おきなわ移住いじゅうしたと指摘してきするように、近年きんねん考古学こうこがくなどの研究けんきゅうふくめて南西諸島なんせいしょとう住民じゅうみん先祖せんぞは、九州きゅうしゅう南部なんぶから比較的ひかくてきあたらしい時期じき(10世紀せいき前後ぜんこう)に南下なんかして定住ていじゅうしたものが主体しゅたいであると推測すいそくされている[1][2]2021ねん11月10にちマックス・プランク人類じんるい科学かがく研究所けんきゅうじょ中心ちゅうしんとした、中国ちゅうごく日本にっぽん韓国かんこくヨーロッパニュージーランドロシアアメリカ研究けんきゅうしゃふく国際こくさいチームが『ネイチャー』に発表はっぴょうした論文ろんぶんによると、宮古島みやこじまちょうはか遺跡いせき先史せんし時代じだい人骨じんこつDNA分析ぶんせきしたところ「100%縄文じょうもんじん」だったことがかり、先史せんし時代じだいさきとう諸島しょとう人々ひとびと沖縄諸島おきなわしょとうからたことをしめ研究けんきゅう成果せいかとなった[3]。また、言語げんごがくおよび考古学こうこがくからは、中世ちゅうせいグスク時代じだい11世紀せいき~15世紀せいき)に九州きゅうしゅうから「本土ほんど日本人にっぽんじん」が琉球りゅうきゅう列島れっとう移住いじゅうしたことが推定すいていでき、高宮たかみやひろ鹿児島大学かごしまだいがく)は、「結果けっかとして、琉球りゅうきゅう方言ほうげんもととなる言語げんごゆうした農耕のうこうみん本土ほんどから植民しょくみんした。著名ちょめいな『日本人にっぽんじんじゅう構造こうぞうろん』を否定ひていするというてん大変たいへん貴重きちょうだ」と指摘してきしている[3][4]

出典しゅってん

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  1. ^ “ルーツ解明かいめい 沖縄おきなわ注目ちゅうもく. 朝日新聞あさひしんぶん. (2010ねん4がつ16にち). オリジナルの2010ねん4がつ20日はつか時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20100420201708/http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201004160274.html 
  2. ^ “ルーツ解明かいめい 沖縄おきなわ注目ちゅうもく. 朝日新聞あさひしんぶん. (2010ねん4がつ16にち). オリジナルの2011ねん6がつ29にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20110629171640/http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201004160274_01.html 
  3. ^ a b 宮古島みやこじま先史せんし人々ひとびと北側きたがわ沖縄おきなわ諸島しょとうから」「みなみから」せつくつがえ人骨じんこつDNA分析ぶんせきで100%縄文じょうもんじん. 沖縄おきなわタイムス. (2021ねん11月12にち). オリジナルの2021ねん11月13にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20211113042120/https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/862140 
  4. ^ “トランスユーラシア言語げんご農耕のうこうともしん石器せっき時代じだい拡散かくさんした”. 九州大学きゅうしゅうだいがく. (2021ねん11月26にち). オリジナルの2021ねん11月27にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20211127021902/https://www.kyushu-u.ac.jp/ja/researches/view/696/ 

参考さんこう文献ぶんけん

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  • てい 秉哲とうへん桑江くわえかつえい訳註やくちゅうたまさんいち書房しょぼう 1971ねん
  • 和田わだ 久徳ひさのりとうへん『「あきら実録じつろく」の琉球りゅうきゅう史料しりょういち)』沖縄おきなわけん文化ぶんか振興しんこうかい公文書こうぶんしょ管理かんり史料しりょう編集へんしゅうしつ 2001ねん
  • 和田わだ 久徳ひさのりとうへん『「あきら実録じつろく」の琉球りゅうきゅう史料しりょう)』沖縄おきなわけん文化ぶんか振興しんこうかい公文書こうぶんしょ管理かんり史料しりょう編集へんしゅうしつ 2003ねん
  • ひがし恩納おんな ひろしあつし琉球りゅうきゅう歴史れきし至文しぶんどう 1957ねん
  • 那覇なは出版しゅっぱんしゃへん宮里みやさと朝光ともみつ監修かんしゅう沖縄おきなわもん中大ちゅうだい事典じてん那覇なは出版しゅっぱんしゃ 1998ねん ISBN 4890951016

関連かんれん項目こうもく

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