琉球 国王
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![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/ba/%E7%8E%89%E5%BE%A1%E5%86%A01.jpg/220px-%E7%8E%89%E5%BE%A1%E5%86%A01.jpg)
概要
王 または王 号 の起源
王 の尊称 ・異称
第 一 尚 氏 王 統
1422
第 二 尚 氏 王 統
ᡴᡳᠣ
ᡤᡠᡵᡠᠨ ᠊ᡳ
ᠸᠠᠩ ᠨᡳ
ᡩᠣᡵᠣᠨ, lio kio gurun i wang ni doron」
1462
1636
1872
琉球 国王 の一覧
天孫 氏 王 統
『
舜天王 統
英 祖 王 統
恵 祖 伊祖 城主 ・英 祖 の父
この
三 山 時代
なお、これら
中山 ・察度王 統
察度
北山 ・怕尼芝 王 統
怕尼
南山 ・大里 王 統
第 一 尚 氏 王 統
1 | しょう ししょうおう |
1406 |
67 | |
---|---|---|---|---|
2 | しょう はしおう |
1422 |
67 | |
3 | しょう ちゅうおう |
1440 |
53 | |
4 | しょう したつおう |
1445 |
41 | |
5 | しょう きんぷくおう |
55 | ||
6 | しょう たいきゅうおう |
45 | ||
7 | しょう とくおう |
1461 |
28 |
第 二 尚 氏 王 統
しょう しょく |
|||||
1 | しょう えんおう |
1469 |
61 | ||
2 | しょう せんいおう |
1477 |
47 | ||
3 | しょう しんおう |
1477 |
62 | ||
4 | しょう せいおう |
1527 |
58 | ||
5 | しょう げんおう |
1556 |
44 | ||
6 | しょう えいおう |
1573 |
29 | ||
しょう い |
? | ||||
7 | しょう ねいおう |
1589 |
56 | ||
しょう きゅう |
60 | ||||
8 | しょう ほうおう |
1621 |
49 | ||
9 | しょう けんおう |
1641 |
22 | ||
10 | しょう しつおう |
1648 |
39 | ||
11 | しょう ていおう |
1669 |
63 | ||
しょう じゅん |
46 | ||||
12 | しょう えきおう |
1710 |
33 | ||
13 | しょう けいおう |
1713 |
50 | ||
14 | しょう ぼくおう |
1752 |
55 | ||
しょう てつ |
29 | ||||
15 | しょう おんおう |
1795 |
18 | ||
16 | しょう せいおう |
1803 |
3 | ||
17 | しょう こうおう |
1804 |
46 | ||
18 | しょう いくおう |
1835 |
34 | ||
19 | しょう たいおう |
1848 |
58 |
王位 請求 者
脚注
注釈
- ^ この
話 がのちに曲亭馬琴 の『椿 説 弓張月 』を産 んだ。日 琉同祖 論 と関連 づけて語 られる事 が多 く、この話 に基 づき、大正 11年 (1922)には為朝 上陸 の碑 が建 てられた。表側 に「上陸 の碑 」と刻 まれて、その左 斜 め下 にはこの碑 を建 てることに尽力 した東郷 平八郎 の名 が刻 まれている。なお、『中山 世 鑑 』を編纂 した羽 地 朝 秀 は、摂政 就任 後 の康 熙12年 (寛文 13年 (1673))3月 の『仕置 (しおき)』(令達 及 び意見 を記 し置 きした書 )で、琉球 の人々 の祖先 は、かつて日本 から渡来 してきたのであり、また有形 無形 の名詞 はよく通 じるが、話 し言葉 が日本 と相違 しているのは、遠国 のため交通 が長 い間 途絶 えていたからであると語 り、源為朝 が王家 の祖先 だというだけでなく琉球 の人々 の祖先 が日本 からの渡来 人 であると述 べている(真 境 名 安 興 『真 境 名 安 興 全集 』第 一 巻 19頁 参照 。元 の文 は「此国人生 初 は、日本 より為 レ渡 儀 疑 無 二 御座 一 候 。然 れば末世 の今 に、天地 山川 五 形 五倫 鳥獣 草木 の名 に至 る迄 皆 通達 せり。雖レ然 言葉 の余 相違 は遠国 の上 久 敷 融通 為 レ絶 故 也」)。なお、最近 の遺伝子 の研究 で沖縄 県民 と九州 以北 の本土 住民 とは、同 じ祖先 を持 つことが明 らかになっている。高宮 広 土 (鹿児島大学 )が、沖縄 の島々 に人間 が適応 できたのは縄文 中期 後半 から後期 以降 である為 、10世紀 から12世紀 頃 に農耕 をする人々 が九州 から沖縄 に移住 したと指摘 するように、近年 の考古学 などの研究 も含 めて南西諸島 の住民 の先祖 は、九州 南部 から比較的 新 しい時期 (10世紀 前後 )に南下 して定住 したものが主体 であると推測 されている[1][2]。2021年 11月10日 、マックス・プランク人類 史 科学 研究所 を中心 とした、中国 、日本 、韓国 、ヨーロッパ、ニュージーランド、ロシア、アメリカの研究 者 を含 む国際 チームが『ネイチャー』に発表 した論文 によると、宮古島 市 の長 墓 遺跡 の先史 時代 の人骨 をDNA分析 したところ「100%縄文 人 」だったことが分 かり、先史 時代 の先 島 諸島 の人々 は沖縄諸島 から来 たことを示 す研究 成果 となった[3]。また、言語 学 および考古学 からは、中世 (グスク時代 、11世紀 ~15世紀 )に九州 から「本土 日本人 」が琉球 列島 に移住 したことが推定 でき、高宮 広 土 (鹿児島大学 )は、「結果 として、琉球 方言 の元 となる言語 を有 した農耕 民 が本土 から植民 した。著名 な『日本人 二 重 構造 論 』を否定 するという点 で大変 貴重 だ」と指摘 している[3][4]。
出典
- ^ “ルーツ
解明 沖縄 に注目 ”.朝日新聞 . (2010年 4月 16日 ). オリジナルの2010年 4月 20日 時点 におけるアーカイブ。 - ^ “ルーツ
解明 沖縄 に注目 ”.朝日新聞 . (2010年 4月 16日 ). オリジナルの2011年 6月 29日 時点 におけるアーカイブ。 - ^ a b “
宮古島 先史 の人々 「北側 の沖縄 諸島 から」「南 から」説 を覆 す人骨 DNA分析 で100%縄文 人 ”.沖縄 タイムス. (2021年 11月12日 ). オリジナルの2021年 11月13日 時点 におけるアーカイブ。 - ^ “トランスユーラシア
言語 は農耕 と共 に新 石器 時代 に拡散 した”.九州大学 . (2021年 11月26日 ). オリジナルの2021年 11月27日 時点 におけるアーカイブ。
参考 文献
鄭 秉哲等 編 ・桑江 克 英 訳註 『球 陽 』三 一 書房 1971年 和田 久徳 等 編 『「明 実録 」の琉球 史料 (一 )』沖縄 県 文化 振興 会 公文書 管理 部 史料 編集 室 2001年 和田 久徳 等 編 『「明 実録 」の琉球 史料 (二 )』沖縄 県 文化 振興 会 公文書 管理 部 史料 編集 室 2003年 東 恩納 寛 惇 『琉球 の歴史 』至文 堂 1957年 那覇 出版 社 編 ・宮里 朝光 監修 『沖縄 門 中大 事典 』那覇 出版 社 1998年 ISBN 4890951016