(Translated by https://www.hiragana.jp/)
第二尚氏 - Wikipedia

だいしょう

琉球りゅうきゅう王族おうぞく

だいしょう(だいにしょうし)は、なおえんおう始祖しそとし、なおえんおう即位そくい1469ねんなり6ねん)から1879ねんひかりいとぐち5ねん)までの410年間ねんかん沖縄おきなわ琉球りゅうきゅう王国おうこく統治とうちした王家おうけおよびそのせい通称つうしょう琉球りゅうきゅう最後さいご王朝おうちょう正式せいしきにはなおだが、だいいちしょう区別くべつするため、一般いっぱんにはだいしょうばれる。初代しょだいなおえんおうから最後さいごなおたいおうまで19だいにわたって琉球りゅうきゅう国王こくおうとしてつづき、なおたいだい琉球りゅうきゅうはんおうとなったのをはいはん日本にっぽん華族かぞく侯爵こうしゃくいえれつした[2]

なおだいしょう
家紋
ひだり三巴みつどもえ
本姓ほんせい なお
伝承でんしょう天孫てんそん
伝承でんしょう清和せいわはじめしゅんてんおうみつるほん末裔まつえい[1]
いえ なおえんおう
種別しゅべつ 琉球りゅうきゅう王室おうしつ
日本にっぽん華族かぞく侯爵こうしゃく
出身しゅっしん 琉球りゅうきゅう王国おうこく伊是名島いぜなじま
おも根拠地こんきょち 琉球りゅうきゅう王国おうこく
東京とうきょう
沖縄おきなわけん
著名ちょめい人物じんぶつ なおえんおう
なおおう
なおたいおう
支流しりゅう分家ぶんけ 御殿ごてん (沖縄おきなわ)
殿内とのうち
廃藩置県はいはんちけん華族かぞく男爵だんしゃく
凡例はんれい / Category:日本にっぽん氏族しぞく

琉球りゅうきゅう国王こくおうになるまでの動向どうこう

編集へんしゅう
 
だい二尚氏王統始祖・なおえんおう

だいしょう始祖しそであるなおえんは、もと金丸かねまるといい、伊是名島いぜなじま百姓ひゃくしょう出身しゅっしんつたわるが出自しゅつじ詳細しょうさい不明ふめいである[3]

金丸かねまる各地かくち転々てんてんとしたが、やがてだいいちしょう2だい国王こくおうなおともえこころざしなななんだった越来ごえく王子おうじだいいちしょう6だい国王こくおうなお泰久やすひさ)につかえるようになった[3]1454ねんこころざし魯・布里ふりらんのち越来ごえく王子おうじなお泰久やすひさおうとして即位そくいしたことで側近そっきんだった金丸かねまる対外たいがい交易こうえき長官ちょうかんである御物ぎょもつじょうくさりこれがわ(おものぐすくおさすのそば)に出世しゅっせした[3]

1460ねんなお泰久やすひさ崩御ほうぎょ尚徳なおのり即位そくいしたことで一時いちじ失脚しっきゃくしたが、1469ねん尚徳しょうとく崩御ほうぎょにクーデタをこしてだいいちしょうって王位おういにつき、なおえんごうしてしん王朝おうちょうだいしょう)をおこした[3][4]

琉球りゅうきゅう国王こくおうとして

編集へんしゅう

だいしょう初代しょだい国王こくおうとなったなおえん在位ざいい1470ねん-1476ねん)は、1472ねんあきら皇帝こうていけんむね派遣はけんした使者ししゃかんさかえよりさつふうけた[4]

だい3だい国王こくおうなおしん在位ざいい1477ねん‐1526ねん)は、ろくしょくの帕冠制度せいど[5]大名だいみょう百姓ひゃくしょうさんかいきゅう身分みぶん制度せいどととのえるとともに[6]16世紀せいき前期ぜんきころ地方ちほう按司らをくびさとしゅうせしめることで中央ちゅうおう集権しゅうけん体制たいせい確立かくりつして琉球りゅうきゅう列島れっとう統一とういつした[4][7]。また中国ちゅうごく日本にっぽん東南とうなんアジアひろ交易こうえきして王朝おうちょう全盛期ぜんせいききずいた[7]

だい7だいなおやすし在位ざいい1564ねん-1620ねん)のだい1609ねんには薩摩さつまはんあるじ島津しまつ徳川とくがわ家康いえやす承諾しょうだくのもとやく3000のへいおくって琉球りゅうきゅう侵攻しんこう開始かいし[8]敗戦はいせんした琉球りゅうきゅう薩摩さつまはん支配しはいかれた[9]薩摩さつまぐん捕虜ほりょにされたなおやすし江戸えど連行れんこうされて駿府すんぷ徳川とくがわ家康いえやす江戸えど徳川とくがわ秀忠ひでただ謁見えっけんさせられてから帰国きこく。この一連いちれん参府さんぷ琉球りゅうきゅう王国おうこく事実じじつじょうまくはん体制たいせいまれたことを意味いみし、幕府ばくふによるキリスト教きりすときょう禁教きんきょう鎖国さこく命令めいれい効果こうか琉球りゅうきゅうにもおよんでいた[10]

島津しまつ家康いえやす琉球りゅうきゅう侵略しんりゃくねらいは琉球りゅうきゅうあかりへの貿易ぼうえき直接ちょくせつ支配しはいすることにあったが、たいあかり貿易ぼうえき宗主そうしゅ国明くにあき属国ぞっこく琉球りゅうきゅう進貢しんこうするという形式けいしきをとっており、あきらはそれ以外いがい形式けいしき貿易ぼうえきみとめていなかったので、薩摩さつまはん琉球りゅうきゅう実質じっしつてき支配しはいしつつもその実態じったい中国ちゅうごくかくして琉球りゅうきゅう王国おうこく形式けいしきてき存続そんぞくさせるとともに進貢しんこう貿易ぼうえき維持いじ拡大かくだいはかった[11]。そのため中国ちゅうごくからさつふう使琉球りゅうきゅうさいには琉球りゅうきゅう駐留ちゅうりゅうする薩摩さつま藩士はんしたちは姿すがたかくした[12]

1644ねんあかり滅亡めつぼうしたが、1663ねんきよしからはじめてのさつふう使ちょうまなぶれいおくられてきてさつふうけた[13]

最後さいご国王こくおうなおやすし在位ざいい1848ねん-1872ねん)のだい19世紀せいきなか以降いこうになると欧米おうべい列強れっきょう諸国しょこく世界せかい進出しんしゅつなみひがしアジアにもせた[14]。1854ねんにはアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくペリー艦隊かんたい江戸えどわん入港にゅうこうして徳川とくがわ幕府ばくふ武威ぶい屈服くっぷくせしめて不平等ふびょうどう条約じょうやく日米にちべい和親わしん条約じょうやくむすばせ、つづいて琉球りゅうきゅう入港にゅうこうして琉球りゅうきゅう王国おうこくにも不平等ふびょうどう条約じょうやく琉米修好しゅうこう条約じょうやく締結ていけつさせた[15]。その西洋せいよう列強れっきょう諸国しょこくからも不平等ふびょうどう条約じょうやくせまられてむすばされた[16]

日本にっぽんでは慶応けいおう3ねん(1867ねん)から明治めいじ元年がんねん(1868ねん)にかけての明治維新めいじいしんにより徳川とくがわ幕府ばくふ滅亡めつぼう王政おうせい復古ふっことともに成立せいりつした日本にっぽんしん政府せいふは、明治めいじ2ねん(1869ねん)6がつ版籍はんせき奉還ほうかん実施じっししたが、琉球りゅうきゅうでは駐在ちゅうざい薩摩さつま藩士はんしたちの役職やくしょくめいわったぐらいで相変あいかわらず薩摩さつまはん支配しはいかれていた。しかし明治めいじ4ねん(1871ねん)7がつ廃藩置県はいはんちけん薩摩さつまはん解体かいたいされて鹿児島かごしまけんとなり、その統治とうちしゃ島津しまつではなく中央ちゅうおうから派遣はけんされてきた県人けんじん役人やくにんとなった。日本にっぽん併合へいごうされることをおそれていた琉球りゅうきゅう政府せいふは、これまでの薩摩さつまはんとの関係かんけい鹿児島かごしまけんとのあいだでも維持いじしたいこと、またきよしとのさつふう関係かんけい維持いじしたいねがいをしたが、いずれも日本にっぽん政府せいふ近代きんだい政策せいさくうえゆるされないことであった[17]

琉球りゅうきゅうはんおうとして

編集へんしゅう
 
最後さいご琉球りゅうきゅう国王こくおうはんおうなおやすし

明治めいじ5ねん(1872ねん)7がつ琉球りゅうきゅう政府せいふ維新いしん成就じょうじゅのおいを日本にっぽん政府せいふべるため伊江いえ王子おうじ正使せいしとする維新いしん慶賀けいが使日本にっぽんおくった。使節しせつだんは9月14にち東京とうきょう明治天皇めいじてんのう謁見えっけんたまわり、なおやすし琉球りゅうきゅうはんおうじょ華族かぞくれっするとのみことのりさづけられた[18]。さらに20日はつかにははんない融通ゆうずうのためのしん貨幣かへい紙幣しへい3まんえん、29にちには東京とうきょう下飯田しもいいだまち[よう曖昧あいまい回避かいひ]餅木もちのきざか邸宅ていたくなおたい下賜かしされた[18]

これまでは一応いちおう外国がいこくというあつかいだった琉球りゅうきゅうはこのとき正式せいしき日本にっぽん領土りょうどとして編入へんにゅうされた[19]前年ぜんねん廃藩置県はいはんちけん日本にっぽん全国ぜんこくはん解体かいたいされたなか琉球りゅうきゅうはんというあたらしいはんつくられてひとつだけのこされるかたちとなったが[18]、そのトップの称号しょうごうはこれまでの「藩主はんしゅ」や「はん知事ちじ」ではなく「はんおう」というしん称号しょうごうであり、華族かぞくたちとは別格べっかくあつかいされていた[19]

明治めいじ4ねんには台湾たいわん南東なんとうがん漂流ひょうりゅうした琉球りゅうきゅう八重山やえやまとうみん54にん台湾たいわん原住民げんじゅうみんによって虐殺ぎゃくさつされる事件じけんき、生存せいぞんしゃ12にん明治めいじ5ねん6がつ琉球りゅうきゅう帰国きこくし、かれらから虐殺ぎゃくさつ事件じけん報告ほうこくけた鹿児島かごしまけんはただちに使者ししゃ上京じょうきょうさせて政府せいふ報告ほうこく[18]政府せいふでは鹿児島かごしまけん士族しぞく軍人ぐんじんらを中心ちゅうしんせいだいろんつよまった[18]

琉球りゅうきゅうはん清国きよくにとの関係かんけい断絶だんぜつ懸念けねんし、鹿児島かごしまけんざい番所ばんしょ台湾たいわん出兵しゅっぺいりやめをねがたが、清国きよくに派遣はけんされた副島そえじま種臣たねおみ大使たいし北京ぺきん政府せいふから「台湾たいわん生蕃せいばん清朝せいちょう教化きょうかふくさない蛮族ばんぞく)はがい領土りょうどがい)」という言質げんちると、明治めいじ7ねん(1874ねん)5がつ台湾たいわん出兵しゅっぺい決行けっこうされた[20]きよし政府せいふ日本にっぽん政府せいふ抗議こうぎおこなったが、日本にっぽん政府せいふ実質じっしつてき指導しどうしゃである内務ないむきょう大久保おおくぼ利通としみちきよしにわたって直談判じかだんぱんし、英国えいこく仲介ちゅうかいもあって妥結だけつし、きよし台湾たいわん出兵しゅっぺいを「みん義挙ぎきょ」としてみとめることになった[21]きよし虐殺ぎゃくさつ被害ひがいしゃ見舞みまいきん支払しはらうことになり、さらに八重山やえやま島民とうみん日本人にっぽんじんみとめたことで琉球りゅうきゅう日本にっぽん帰属きぞく国際こくさいてき確認かくにんされたかたちとなった[22]

明治めいじ8ねん(1875ねん)7がつ14にちには松田まつだ道之みちゆき内務ないむだいすすむ琉球りゅうきゅう派遣はけんされ、清国きよくにとのしんれい関係かんけい朝貢ちょうこう慶賀けいがさつふう)をやめること、清国きよくに年号ねんごうではなく明治めいじ年号ねんごう使用しようすること、琉球りゅうきゅうはん職制しょくせい日本にっぽん府県ふけんわせることなどをめいじた日本にっぽん政府せいふ太政大臣だじょうだいじん三条さんじょう実美みみ命令めいれいしょなおたいわたされた[23]。しかし琉球りゅうきゅうがわ清国きよくにとの朝貢ちょうこうさつふう関係かんけいをやめることにつよ難色なんしょくしめし、琉球りゅうきゅうはん松田まつだ交渉こうしょう頓挫とんざ。のみならず琉球りゅうきゅうはんは12月に清国きよくにうったるというきょ[24]

琉球りゅうきゅうはんおうなおやすし密書みっしょたずさえた幸地こうち親方おやかたむかいいさおひろし)は、明治めいじ10ねん(1877ねん)4がつふくしゅう到着とうちゃくし、清国きよくに当局とうきょく日本にっぽん政府せいふ朝貢ちょうこう禁止きんししようとしていることをうったえた。このうったえをけてきよし政府せいふ日本にっぽん抗議こうぎおこなうことをめ、同年どうねん10がつ7にちちゅう清国きよくに公使こうしなに如璋外務がいむきょう寺島てらしまはじめのり正式せいしき抗議こうぎしょ提出ていしゅつ寺島てらしまはこの抗議こうぎしょ文辞ぶんじとなり交にそむく暴言ぼうげん非難ひなんして陳謝ちんしゃもとめたが、なにはそれを拒否きょひした[24]

事態じたいここにいたって伊藤いとう博文ひろぶみ内務ないむきょう琉球りゅうきゅうはん解体かいたい決意けついし、松田まつだ琉球りゅうきゅう処分しょぶんあん作成さくせい指示しじし、明治めいじ12ねん(1879ねん)3がつ8にち松田まつだはその命令めいれいしょたずさえて警察官けいさつかん60めい熊本くまもと鎮台ちんだい分遣ぶんけんたい400にんれておとずれ、3月27にちなおやすしたいして琉球りゅうきゅうはん廃止はいしして沖縄おきなわけん設置せっちするむね三条さんじょう実美みみ太政大臣だじょうだいじんたちしょわたした。伊江いえ王子おうじらが連署れんしょはん存続そんぞく嘆願たんがんしょ提出ていしゅつしたが、松田まつだはただちにこれを退しりぞけ、31にちにはくびさとじょう接収せっしゅうし、4がつ4にち沖縄おきなわけん設置せっち布告ふこく鍋島なべしまただしあきらきゅう鹿島かしまはん知事ちじ)が初代しょだい沖縄おきなわけんれいにんじられてしょうわるあたらしい統治とうちしゃとなった[25]

琉球りゅうきゅうはんはいはん

編集へんしゅう

琉球りゅうきゅうはんおう解任かいにんされたなおやすし明治めいじ12ねん(1879ねん)5がつ27にちから航路こうろ東京とうきょうかった。ふねちゅうでは東京とうきょう見物けんぶつができることをうれしがっている様子ようすだったという[25]。6月8にち横浜よこはま到着とうちゃく、9にちには上京じょうきょうし、17にち長男ちょうなんなおてん次男じなんなおとら旧藩きゅうはんしんじゅうめいともなって参内さんだいして明治天皇めいじてんのう拝謁はいえつし、したがえさんのちしたがえいちまでのぼ[26])にじょされるとともに麝香じゃこうあいだ祗候しこうれつした[27]東京とうきょう居住きょじゅうのため麹町こうじまち富士見ふじみまち土地とち屋敷やしきあたえられ、10月にはきむろく公債こうさい20まんえん下賜かしされた[27]

12月6にちにはぜんアメリカ大統領だいとうりょうユリシーズ・グラント仲介ちゅうかい琉球りゅうきゅうをめぐるにちしんあいだ会談かいだんがもたれたが不調ふちょうわった。しかしその清国きよくにとく鴻章こうしうしょう復位ふくいさいさつふうにこだわり、明治めいじ16ねん(1883ねん)には清国きよくにちゅうにち公使こうしはじむ庶昌なおいえはんおう復位ふくい日本にっぽん政府せいふ打診だしん井上いのうえかおる外務がいむきょうなおやすし沖縄おきなわけんれいにんじることならば出来できないともかぎらないとつたえているが、しんがわ王位おういさつふうにこだわったので沙汰さたやみとなった[28]沖縄おきなわ県内けんないには清国きよくにたよって清国きよくに属国ぞっこく王国おうこく再建さいけんしようという運動うんどうもしばらくは存在そんざいしたものの、にちしん戦争せんそうのちには消滅しょうめつしていった[28]

華族かぞくれい施行しこう華族かぞく爵制になったのち明治めいじ18ねん(1885ねん)5がつ2にちなおやすし侯爵こうしゃくじょせられた[27][2]侯爵こうしゃくであるため、選挙せんきょ貴族きぞくいん議員ぎいんとなった[29]。2だい侯爵こうしゃくとなったなおてん式部しきぶかんつとめている[29]。3だい侯爵こうしゃくなおひろしだい昭和しょうわ前期ぜんきなお侯爵こうしゃく邸宅ていたく東京とうきょう渋谷しぶや南平台なんぺいだいまちにあった[26]

王族おうぞくだった伊江いえ今帰仁なきじん両家りょうけ男爵だんしゃくとなった[19]なおたい次男じなんなおとらよんなん尚順ひさのぶなお侯爵こうしゃく分家ぶんけとして男爵だんしゃくじょせられた[30]

なおむかい

編集へんしゅう
称号しょうごう 品位ひんい せい
国王こくおう 無品むほん なお
王子おうじ 無品むほん なお
按司 無品むほん むかい
親方おやかた せい一品いっぴんしたがえひん むかい
しん雲上うんじょう せいさんひん以下いか むかい

だいしょうおうみつるでは、しょうは、王族おうぞくのうち、国王こくおうおよび王子おうじまでのせいである。按司以下いかおう親族しんぞくは、なおかけであるむかい(しょうし)をたまわった。たとえば、なおきよしおう三男さんなんは、なおあまねよしむら王子おうじあさよろしよしむら御殿ごてん元祖がんそ)としょうだが、その息子むすこむかいしげるあらわよしむら按司あさむつみというように、せいからはむかい名乗なのることになる。

また、功績こうせきのある按司は、王子おうじごうとともにしょうたまわることがあった。たとえば、ちょうむつみのちいだおとうとひさし天保てんぽうよしむら王子おうじちょうあらわは、外交がいこうじょう功績こうせきがあったので、しょう王子おうじごうたまわっている。琉球りゅうきゅうでは王子おうじごう位階いかいひとつであり、おうのみにあたえられる称号しょうごうではなかった。くわしくは、琉球りゅうきゅう位階いかい参照さんしょうのこと。

1689ねん系図けいずもうけられると、1690ねん王族おうぞくむかいしょうし、名乗なのりあたまは「あさ」に統一とういつされた。それ以前いぜんは、かく御殿ごてんごとにせいことなっていた。たとえばこうぞうけんはね按司あさしゅう生前せいぜん呼称こしょうは、ぞうけんはね按司じゅうであったように、むかい統一とういつ以前いぜんはね御殿ごてんはもと名乗なのっていた。

このように、むかい王家おうけ血統けっとうあかしであり、琉球りゅうきゅうではおううまもう池城いけのじょうもう豊見城とみぐすく名城めいじょう島尻しまじり大里おおさとじょう名城めいじょうとう添大さとじょうりゅう、とともに、五大ごだいせい五大ごだい名門めいもん)の筆頭ひっとうとして、一族いちぞくおう要職ようしょくくことがおおかった。

 
 
沖縄おきなわけん歴史れきし年表ねんぴょう
さき
ふみ
とき
だい
沖縄諸島おきなわしょとう さきとう諸島しょとう
旧石器時代きゅうせっきじだい さきとう先史せんし時代じだい
下田原しもたはら土器どき
貝塚かいづか時代ときよ
ながれもとむ?)
ふる

たま
グスク時代じだい
はらグスク時代じだい
さんやま時代じだい
北山きたやま中山なかやま南山みなみやま
新里あらざとむら
中森なかもり

たま
おう
くに
だいいちしょうおうみつる
だいしょうおうみつる
ちか
薩摩さつまはん支配しはい
ちか
だい
琉球りゅうきゅうはん
沖縄おきなわけん
せん
のち
アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくによる沖縄おきなわ統治とうち
沖縄おきなわけん
おも出来事できごと
関連かんれん項目こうもく
  カテゴリ -   コモンズ
このテンプレートを表示ひょうじ
なおきび
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1.なおえんおう
 
2.なおせんおう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3.なおおう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
なお維衡
 
4.なお清王せいおう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
なおひろぎょう
 
5.なおもとおう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
なお
 
6.なおながおう
 
尚久なおひさ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
7.なおやすしおう
 
 
 
 
 
8.なおゆたかおう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
9.なおけんおう
 
10.なおしつおう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
11.なおさだおう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
なおじゅん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
12.なおえきおう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
13.なおけいおう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
14.なおきよしおう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
なおあきら
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
15.なおゆたかおう
 
17.なお灝王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
16.なおなりおう
 
18.なおそだておう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
19.なおたいおう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
なおてん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
なおあきら
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
なおひろし
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
なおまもる

だいしょう祖先そせん

編集へんしゅう

中山なかやま』などおう史書ししょでは、なおえんおうちちなおきびは、もとらん流罪るざいとなった源為朝みなもとのためともがその開祖かいそとされる「舜天王しゅんてんのうみつる」のだいさんだいおうほん末裔まつえいであるとのせつしるされている。また、天孫てんそん末裔まつえいとのせつ紹介しょうかいしている。1996ねんから2003ねんまでにおこなわれた浦添うらぞえようどれ発掘はっくつ調査ちょうささいに、なおやすしおうりょうにある4つの石棺せっかん遺骨いこつについて母系ぼけい遺伝子いでんしのミトコンドリアDNAを分析ぶんせきした結果けっか1個いっこからだから中国ちゅうごく南部なんぶから東南とうなんアジアにおおられるハプログループFに分類ぶんるいされる遺伝子いでんしられた。その一方いっぽうで、えいおうりょうの2ごう石棺せっかんから検出けんしゅつされた頭蓋骨ずがいこつのひとつからは、中世ちゅうせい日本人にっぽんじん形質けいしつみとめられた[31]

脚注きゃくちゅう

編集へんしゅう

出典しゅってん

編集へんしゅう
  1. ^ 正史せいし中山なかやま記述きじゅつより。
  2. ^ a b 小田部おたべ 2006, p. 342.
  3. ^ a b c d 日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)・ちょうにち日本にっぽん歴史れきし人物じんぶつ事典じてん百科ひゃっか事典じてんマイペディア・ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてん旺文社おうぶんしゃ日本にっぽん事典じてん さんていばん世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん だいはんなおえん』 - コトバンク
  4. ^ a b c 日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)・ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてん百科ひゃっか事典じてんマイペディア・旺文社おうぶんしゃ日本にっぽん事典じてん さんていばんなお』 - コトバンク
  5. ^ 喜舎場ちしゃば 2000, p. 210.
  6. ^ 喜舎場ちしゃば 2000, p. 78.
  7. ^ a b 池上いけがみ裕子ゆうこへん小和田こわだ哲男てつおへん小林こばやし清治きよじへんいけとおるへん黒川くろかわ直則なおのりへん『クロニック 戦国せんごくぜん』(講談社こうだんしゃ1995ねん) 80ぺーじ参照さんしょう
  8. ^ 喜舎場ちしゃば 2000, p. 98-107.
  9. ^ 喜舎場ちしゃば 2000, p. 107-109.
  10. ^ 喜舎場ちしゃば 2000, p. 108/126.
  11. ^ 喜舎場ちしゃば 2000, p. 108.
  12. ^ 喜舎場ちしゃば 2000, p. 109.
  13. ^ 喜舎場ちしゃば 2000, p. 115/213.
  14. ^ 喜舎場ちしゃば 2000, p. 154.
  15. ^ 喜舎場ちしゃば 2000, p. 155.
  16. ^ 喜舎場ちしゃば 2000, p. 156.
  17. ^ 喜舎場ちしゃば 2000, p. 159-160.
  18. ^ a b c d e 喜舎場ちしゃば 2000, p. 161.
  19. ^ a b c 浅見あさみ雅男まさお 1994, p. 42.
  20. ^ 喜舎場ちしゃば 2000, p. 161-162.
  21. ^ 喜舎場ちしゃば 2000, p. 162.
  22. ^ 日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)『台湾たいわん出兵しゅっぺい』 - コトバンク
  23. ^ 喜舎場ちしゃば 2000, p. 163.
  24. ^ a b 喜舎場ちしゃば 2000, p. 166.
  25. ^ a b 喜舎場ちしゃば 2000, p. 168.
  26. ^ a b 華族かぞく大鑑たいかん刊行かんこうかい 1990, p. 61.
  27. ^ a b c 喜舎場ちしゃば 2000, p. 169.
  28. ^ a b 喜舎場ちしゃば 2000, p. 170.
  29. ^ a b 華族かぞく大鑑たいかん刊行かんこうかい 1990, p. 62.
  30. ^ 小田部おたべ 2006, p. 38.
  31. ^ 浦添うらぞえグスクと浦添うらぞえようどれの発掘はっくつ調査ちょうさからほどけること”. 浦添うらぞえ教育きょういく委員いいんかい文化ぶんか. 2015ねん7がつ13にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

編集へんしゅう
  • 小田部おたべ, 雄次ゆうじ華族かぞく 近代きんだい日本にっぽん貴族きぞく虚像きょぞう実像じつぞう中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ中公新書ちゅうこうしんしょ1836〉、2006ねん平成へいせい18ねん)。ISBN 978-4121018366 
  • 浅見あさみ雅男まさお華族かぞく誕生たんじょう 名誉めいよ体面たいめん明治めいじリブロポート、1994ねん平成へいせい6ねん)。 
  • 喜舎場ちしゃば, 一隆かずたか琉球りゅうきゅうしょうのすべて』新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、2000ねんISBN 4-404-02868-7 
  • 沖縄おきなわけん氏姓しせい家系かけいだい辞典じてん 編纂へんさん委員いいんかい沖縄おきなわけん氏姓しせい家系かけいだい辞典じてん角川書店かどかわしょてん、1992ねん(平成へいせい4ねん)。ISBN 978-4040024707 
  • 宮里みやさと朝光ともみつ監修かんしゅう)、那覇なは出版しゅっぱんしゃ編集へんしゅう)『沖縄おきなわもん中大ちゅうだい事典じてん那覇なは出版しゅっぱんしゃ、1998ねん(平成へいせい10ねん)。ISBN 978-4890951017 
  • 華族かぞく大鑑たいかん刊行かんこうかい華族かぞく大鑑たいかん日本にっぽん図書としょセンター日本人にっぽんじんぶつ叢書そうしょ7〉、1990ねん平成へいせい2ねん)。ISBN 978-4820540342 

関連かんれん項目こうもく

編集へんしゅう

外部がいぶリンク

編集へんしゅう