第二尚氏の始祖である尚円は、元の名を金丸といい、伊是名島の百姓の出身と伝わるが出自の詳細は不明である[3]。
金丸は各地を転々としたが、やがて第一尚氏2代国王尚巴志の七男だった越来王子(後の第一尚氏6代国王尚泰久)に仕えるようになった[3]。1454年の志魯・布里の乱後に越来王子が尚泰久王として即位したことで側近だった金丸も対外交易の長官である御物城御鎖之側(おものぐすくおさすのそば)に出世した[3]。
1460年に尚泰久が崩御し尚徳が即位したことで一時失脚したが、1469年の尚徳崩御時にクーデタを起こして第一尚氏を追って王位につき、尚円と号して新王朝(第二尚氏)を興した[3][4]。
第二尚氏の初代国王となった尚円(在位1470年-1476年)は、1472年に明の皇帝憲宗が派遣した使者官栄より冊封を受けた[4]。
第3代国王尚真(在位1477年‐1526年)は、六色の帕冠制度や、大名・士・百姓の三階級の身分制度を整えるとともに、16世紀前期の頃に地方の按司らを首里に集居せしめることで中央集権体制を確立して琉球列島を統一した[4][7]。また中国、日本、東南アジアと広く交易して王朝の全盛期を築いた[7]。
第7代尚寧(在位1564年-1620年)の代の1609年には薩摩藩主島津氏が徳川家康の承諾のもと約3000の兵を送って琉球侵攻を開始。敗戦した琉球は薩摩藩の支配下に置かれた。薩摩軍の捕虜にされた尚寧は江戸に連行されて駿府の徳川家康や江戸の徳川秀忠に謁見させられてから帰国。この一連の参府は琉球王国が事実上幕藩体制に組み込まれたことを意味し、幕府によるキリスト教禁教や鎖国の命令の効果は琉球にも及んでいた。
島津と家康の琉球侵略の狙いは琉球の明への貿易を直接支配することにあったが、対明貿易は宗主国明に属国琉球が進貢するという形式をとっており、明はそれ以外の形式の貿易は認めていなかったので、薩摩藩は琉球を実質的に支配しつつもその実態を中国に隠して琉球王国を形式的に存続させるとともに進貢貿易の維持・拡大を図った。そのため中国から冊封使が琉球に来る際には琉球に駐留する薩摩藩士たちは姿を隠した。
1644年に明は滅亡したが、1663年に清から初めての冊封使張学礼が送られてきて冊封を受けた。
最後の国王尚泰(在位1848年-1872年)の代の19世紀半ば以降になると欧米列強諸国の世界進出の波が東アジアにも押し寄せた。1854年にはアメリカ合衆国のペリー艦隊が江戸湾に入港して徳川幕府を武威で屈服せしめて不平等条約日米和親条約を結ばせ、続いて琉球の那覇に入港して琉球王国にも不平等条約琉米修好条約を締結させた。その後他の西洋列強諸国からも不平等条約を迫られて結ばされた。
日本では慶応3年(1867年)から明治元年(1868年)にかけての明治維新により徳川幕府は滅亡。王政復古とともに成立した日本の新政府は、明治2年(1869年)6月に版籍奉還を実施したが、琉球では駐在薩摩藩士たちの役職名が変わったぐらいで相変わらず薩摩藩の支配下に置かれていた。しかし明治4年(1871年)7月の廃藩置県で薩摩藩は解体されて鹿児島県となり、その統治者も島津氏ではなく中央から派遣されてきた他県人の役人となった。日本に併合されることを恐れていた琉球政府は、これまでの薩摩藩との関係を鹿児島県との間でも維持したいこと、また清との冊封関係も維持したい願いを出したが、いずれも日本政府の近代化政策の上で許されないことであった。
明治5年(1872年)7月に琉球政府は維新成就のおいを日本政府に述べるため伊江王子を正使とする維新慶賀使を日本に送った。使節団は9月14日に東京で明治天皇の謁見を賜り、尚泰を琉球藩王に叙し華族に列するとの詔を授けられた。さらに20日には藩内融通のための新貨幣・紙幣3万円、29日には東京府下飯田町[要曖昧さ回避]餅木坂の邸宅が尚泰に下賜された。
これまでは一応外国という扱いだった琉球はこの時に正式に日本の領土として編入された。前年の廃藩置県で日本全国の藩が解体された中で琉球藩という新しい藩が作られて一つだけ残される形となったが、そのトップの称号はこれまでの「藩主」や「藩知事」ではなく「藩王」という新称号であり、他の華族たちとは別格扱いされていた。
明治4年には台湾南東岸に漂流した琉球八重山島民54人が台湾原住民によって虐殺される事件が起き、生存者12人が明治5年6月に琉球に帰国し、彼らから虐殺事件の報告を受けた鹿児島県はただちに使者を上京させて政府に報告。政府では鹿児島県士族・軍人らを中心に征台論が強まった。
琉球藩は清国との関係断絶を懸念し、鹿児島県在番所に台湾出兵取りやめを願い出たが、清国に派遣された副島種臣大使が北京政府から「台湾の生蕃(清朝の教化に服さない蛮族)は化外の地(領土外)」という言質を取ると、明治7年(1874年)5月に台湾出兵が決行された。清政府は日本政府に抗議を行ったが、日本政府の実質的指導者である内務卿大久保利通が清にわたって直談判し、英国の仲介もあって妥結し、清は台湾出兵を「保民の義挙」として認めることになった。清は虐殺被害者に見舞金を支払うことになり、さらに八重山島民を日本人と認めたことで琉球の日本帰属が国際的に確認された形となった[22]。
明治8年(1875年)7月14日には松田道之内務大丞が琉球に派遣され、清国との臣礼関係(朝貢・慶賀・冊封)をやめること、清国の年号ではなく明治の年号を使用すること、琉球藩職制を日本の府県に合わせることなどを命じた日本政府太政大臣三条実美の命令書が尚泰に渡された。しかし琉球側は清国との朝貢・冊封関係をやめることに強い難色を示し、琉球藩と松田の交渉は頓挫。のみならず琉球藩は12月に清国に訴え出るという挙に出た。
琉球藩王尚泰の密書を携えた幸地親方(向徳宏)は、明治10年(1877年)4月に福州に到着し、清国当局に日本政府が朝貢を禁止しようとしていることを訴えた。この訴えを受けて清政府は日本に抗議を行うことを決め、同年10月7日駐日清国公使何如璋が外務卿寺島宗則に正式に抗議書を提出。寺島はこの抗議書の文辞を隣交にそむく暴言と非難して陳謝を求めたが、何はそれを拒否した。
事態ここに至って伊藤博文内務卿は琉球藩解体を決意し、松田に琉球処分案の作成を指示し、明治12年(1879年)3月8日に松田はその命令書を携えて警察官60名と熊本鎮台分遣隊400人を引き連れて那覇を訪れ、3月27日に尚泰に対して琉球藩を廃止して沖縄県を設置する旨の三条実美太政大臣の御達書を渡した。伊江王子らが連署で藩存続の嘆願書を提出したが、松田はただちにこれを退け、31日には首里城を接収し、4月4日に沖縄県設置を布告。鍋島直彬(旧鹿島藩知事)が初代沖縄県令に任じられて尚氏に代わる新しい統治者となった。
琉球藩王を解任された尚泰は明治12年(1879年)5月27日に那覇から航路で東京へ向かった。船中では東京見物ができることを嬉しがっている様子だったという。6月8日に横浜に到着、9日には上京し、17日に長男尚典と次男尚寅、旧藩臣十余名を伴って参内して明治天皇に拝謁し、従三位(後に従一位まで上る)に叙されるとともに麝香間祗候に列した。東京居住のため麹町区富士見町に土地と屋敷が与えられ、10月には金禄公債20万円が下賜された。
12月6日には前アメリカ大統領ユリシーズ・グラントの仲介で琉球をめぐる日清間の会談がもたれたが不調に終わった。しかしその後も清国、特に李鴻章は尚氏の復位と再冊封にこだわり、明治16年(1883年)には清国駐日公使黎庶昌が尚家の藩王復位を日本政府に打診、井上馨外務卿は尚泰を沖縄県令に任じることならば出来ないとも限らないと伝えているが、清側は王位と冊封にこだわったので沙汰やみとなった。沖縄県内には清国を頼って清国属国の王国を再建しようという運動もしばらくは存在したものの、日清戦争後には消滅していった。
華族令施行で華族が五爵制になった後の明治18年(1885年)5月2日に尚泰は侯爵に叙せられた。侯爵であるため、無選挙で貴族院議員となった。2代侯爵となった尚典は式部官を務めている。3代侯爵尚裕の代の昭和前期に尚侯爵家の邸宅は東京市渋谷区南平台町にあった。
王族だった伊江、今帰仁両家も男爵となった。尚泰の次男尚寅と四男尚順も尚侯爵家の分家として男爵に叙せられた。