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侯爵 - Wikipedia

侯爵こうしゃく

爵位しゃくいひと

侯爵こうしゃく(こうしゃく)は、近代きんだい日本にっぽん中国ちゅうごくもちいられた爵位しゃくい爵)のだい2公爵こうしゃく下位かい伯爵はくしゃく上位じょうい相当そうとうする[1]ヨーロッパ諸国しょこく貴族きぞく称号しょうごう日本語にほんごわけ使つかわれる。英語えいごmarquessまたはmarquisばれるヨーロッパ各国かっこく爵位しゃくいや、ドイツの爵位しゃくいFürst訳語やくごてられる。公爵こうしゃく発音はつおんおなじことから、ぞく字体じたいている「こう」から「そうろう-こうしゃく」とばれ、区別くべつされる。

日本にっぽん侯爵こうしゃく

編集へんしゅう

華族かぞく侯爵こうしゃく

編集へんしゅう

1869ねん明治めいじ2ねん6月17にち行政ぎょうせいかんたち543ごうにおいて公家くげ武家ぶけさい上層じょうそうだい名家めいかを「皇室こうしつ藩屏はんぺい」として統合とうごうした華族かぞく身分みぶん誕生たんじょうした[2]当初とうしょ華族かぞくないにおいて序列じょれつけるような制度せいど存在そんざいしなかったが、当初とうしょより等級とうきゅうけをもとめる意見いけんがあった。様々さまざま華族かぞく等級とうきゅうあん提起ていきされたが、最終さいしゅうてきには法制ほうせいきょくだい書記官しょきかん尾崎おざき三良さぶろうどうしょう書記官しょきかん桜井さくらいのうかん1878ねん明治めいじ11ねん)に提案ていあんした上記じょうき古代こだい中国ちゅうごく官制かんせい由来ゆらいするおおやけこうはくおとこからなる爵制が採用さいようされた[3]

1884ねん明治めいじ17ねん)5がつごろしょうくんきょく総裁そうさい柳原やなぎはら前光さきみつらによってかくいえ叙爵じょしゃく基準きじゅんとなる叙爵じょしゃく内規ないきさだめられ[4]従来じゅうらい華族かぞくきゅう華族かぞく)にくわえて勲功くんこうしゃ臣籍しんせき降下こうかした皇族こうぞく叙爵じょしゃく対象たいしょうくわわり[5]同年どうねん7がつ7にちはっせられた華族かぞくれいにより、爵制にもとづく華族かぞく制度せいど運用うんよう開始かいしされた[6]

侯爵こうしゃく公爵こうしゃくだいであり、叙爵じょしゃく内規ないきでは侯爵こうしゃく叙爵じょしゃく基準きじゅんについて「きゅう清華せいか 徳川とくがわきゅうさんいえ きゅう大藩たいはん知事ちじそくげんべいじつまんせき以上いじょう きゅう琉球りゅうきゅうはんおう 国家こっか勲功くんこうアルしゃ」とさだめていた[7]侯爵こうしゃくかずは1884ねん時点じてんでは24いえ華族かぞく総数そうすう509いえ)、1895ねんには34いえどう643いえ)、1916ねんに38いえどう933いえ)、1928ねんには40いえ(954いえ)、1947ねんには38いえ(889いえ)だった[8]

1889ねん明治めいじ22ねん)の貴族きぞくいんれいみことのりれいだい11ごう)により貴族きぞくいん議員ぎいん種別しゅべつとして華族かぞく議員ぎいんもうけられ(ほかに皇族こうぞく議員ぎいんみことのりにん議員ぎいんがある)[9]おおやけ侯爵こうしゃくまん25さい大正たいしょう14ねん以降いこうまん30さい)にたっすれば自動的じどうてき終身しゅうしん貴族きぞくいん議員ぎいんれっすることとなった[10]。これにたいして伯爵はくしゃく以下いかどう爵者のあいだ連記れんき記名きめい投票とうひょう選挙せんきょによって当選とうせんしたもののみが任期にんき7ねん貴族きぞくいん議員ぎいんとなった[11]。またおおやけ侯爵こうしゃく議員ぎいん無給むきゅうだったのにたいし、伯爵はくしゃく以下いか議員ぎいん有給ゆうきゅうであるというちがいがあった[12]。そうしたちがいからおおやけ侯爵こうしゃく議員ぎいん伯爵はくしゃく以下いか議員ぎいんたちほど貴族きぞくいん活動かつどう熱心ねっしんではない傾向けいこうがあり、ほん会議かいぎ出席しゅっせきりつさえ十分じゅうぶんではなかった[12][11]とく現役げんえき軍人ぐんじんであるおおやけ侯爵こうしゃく議員ぎいん皇族こうぞく議員ぎいん同様どうよう軍人ぐんじん政治せいじ関与かんよ原則げんそくから貴族きぞくいん出席しゅっせきしないのが慣例かんれいになっていた[13][10]。しかしおおやけ侯爵こうしゃく全員ぜんいん不熱心ふねっしんだったわけではなく、黒田くろだ長成ちょうせい侯爵こうしゃく佐佐木ささき行忠ゆきただ侯爵こうしゃく細川ほそかわ護立もりたつ侯爵こうしゃくなど代表だいひょうてき貴族きぞくいん政治せいじとして活躍かつやくした侯爵こうしゃくもいる[14]。また歴代れきだい貴族きぞくいん議長ぎちょう伊藤いとう博文ひろぶみ伯爵はくしゃく松平まつだいらよりゆき寿ことぶき伯爵はくしゃくのぞ全員ぜんいんおおやけ侯爵こうしゃくであり、貴族きぞくいんふく議長ぎちょうおおやけ侯爵こうしゃくおおかった。議院ぎいんない役職やくしょく家格かかく意識いしき反映はんえいされるのは近世きんせい以前いぜん序列じょれつ意識いしきもとづく「すわりのさ」のあらわれであり、これが議事ぎじ運営うんえい影響えいきょうあたえるというのが貴族きぞくいん特徴とくちょうひとつであった[15]貴族きぞく院内いんないには爵位しゃくいごとに会派かいは形成けいせいされていたが[12]おおやけ侯爵こうしゃく長年ながねん各派かくは分散ぶんさんしていた[16]。しかし1927ねん昭和しょうわ2ねん)には近衛このえ文麿ふみまろ公爵こうしゃく主導しゅどうで「火曜かようかい」というおおやけ侯爵こうしゃく議員ぎいんによる院内いんない会派かいは形成けいせいされた[12]。これは互選ごせんがないゆえに「一番いちばん自由じゆう立場たちば」である世襲せしゅう議員ぎいんおおやけ侯爵こうしゃく議員ぎいんは「貴族きぞくいん自制じせい」が必要ひつようだとかんがえるものおおく、そのためおおやけ侯爵こうしゃく結束けっそくしてその影響えいきょうりょくおおきくすることで子爵ししゃく中心ちゅうしんとする院内いんない最大さいだい会派かいは研究けんきゅうかいおさみ、貴族きぞくいんを「事実じじつじょう権限けんげん縮小しゅくしょう」「貴族きぞくいん衆議院しゅうぎいん多数たすう支持しじする政府せいふを援けて円満えんまんにその政策せいさく遂行すいこうさせてゆく」存在そんざいにすることができるというかんがえに立脚りっきゃくしたものだった。近衛このえ文麿ふみまろ公爵こうしゃくのほか、徳川とくがわ家達いえさと公爵こうしゃく木戸きど幸一こういち侯爵こうしゃく細川ほそかわ護立もりたつ侯爵こうしゃくこうはたただしたかし侯爵こうしゃくなどが賛同さんどうして協力きょうりょくしていた[17]

1947ねん昭和しょうわ22ねん5月3にち施行しこうされた日本国にっぽんこく憲法けんぽうだい14じょうほうした平等びょうどう)において「華族かぞくその貴族きぞく制度せいどは、これをみとめない。」とさだめられたことにより侯爵こうしゃくふくめた華族かぞく制度せいど廃止はいしされた。

叙爵じょしゃく内規ないき

編集へんしゅう

叙爵じょしゃく内規ないきにより侯爵こうしゃく叙爵じょしゃく基準きじゅんは「きゅう清華せいか 徳川とくがわきゅうさんいえ きゅう大藩たいはん知事ちじそくげんべいじつまんせき以上いじょう きゅう琉球りゅうきゅうはんおう 国家こっか勲功くんこうアルしゃ」とさだめられていた[7]具体ぐたいてきには以下いかいえじょされた。

  1. 皇族こうぞく - 当初とうしょ臣籍しんせき降下こうかした皇族こうぞくには伯爵はくしゃくあたえられ、のち降下こうか制度せいどそのものが一時いちじ消失しょうしつした。皇室こうしつ典範てんぱん増補ぞうほ以降いこう臣籍しんせき降下こうかさい原則げんそくとして侯爵こうしゃく授爵じゅしゃくされた。しかしこの事例じれいわずか3いえとどまった。のちに「皇族こうぞく降下こうかせきスル施行しこう準則じゅんそく」を制定せいていすることによって臣籍しんせき降下こうかうながすようになってからは、降下こうかまえぞくしていた宮家みやけからまだ侯爵こうしゃく設立せつりつされていない場合ばあい原則げんそくとして最初さいしょ降下こうか)であれば侯爵こうしゃく、それ以外いがい伯爵はくしゃく授爵じゅしゃくされた。終戦しゅうせんまでに華族かぞくとなったきゅう皇族こうぞく16いえのうち7いえ侯爵こうしゃくさづけられている。
  2. きゅう公家くげ - きゅう清華せいかきゅう清華せいがは9いえ存在そんざいしたが、そのうち三条さんじょう公爵こうしゃくとなり、西園寺さいおんじ徳大寺とくだいじのちに陞爵した。なのでのこりの大炊おおい御門みかど花山院かさんのいん菊亭きくてい久我くが醍醐だいご広幡ひろはたの6いえ侯爵こうしゃくだった。また中山なかやま明治天皇めいじてんのう外戚がいせき)は清華せいかにはふくまれないが、その功績こうせき加味かみされて侯爵こうしゃくあたえられた。のち維新いしん功績こうせきみとめられた嵯峨さが正親おうぎまち三条さんじょう)、中御門なかみかどおよび多年たねん軍功ぐんこうみとめられた四条しじょう伯爵はくしゃくから陞爵し、最終さいしゅうてきにはきゅう公家くげからの侯爵こうしゃく合計ごうけい10いえだった。なお叙爵じょしゃく内規ないきまえあん(「叙爵じょしゃく基準きじゅん」)では大臣だいじん侯爵こうしゃくふくめていたが、大臣だいじん官職かんしょく昇進しょうしんじょうきょうあきらかに清華せいかのそれよりひら堂上どうじょうのそれにちかいため(ひら堂上どうじょう大臣だいじんせないわけではなかった)、最終さいしゅうあんからは大臣だいじんのぞかれたものとかんがえられる[18]。しかし大臣だいじん嵯峨さがみのるあい大臣だいじんたいら堂上どうじょうおな伯爵はくしゃくにするとは何事なにごとつよ反発はんぱつし、侯爵こうしゃく要求ようきゅうした[19]。これによって大臣だいじんあつかいが変更へんこうされることはなかったのだが、嵯峨さがについては伯爵はくしゃくになってから3ねんはんという比較的ひかくてき短期間たんきかんじつあい功績こうせきによって侯爵こうしゃく陞爵となった[20]
  3. きゅうだい名家めいか - きゅう御三家ごさんけおよきゅう大藩たいはん知事ちじげんこめ15まんせき以上いじょう)。15まんせき以上いじょう基準きじゅん表高おもてだか内高うちだかといった米穀べいこく生産せいさんりょうではなく、税収ぜいしゅうげんまい現高げんだか)であるてん注意ちゅういようする[21]明治めいじ2ねん(1869ねん)2がつ15にち行政ぎょうせいかんが「今般こんぱん領地りょうち歳入さいにゅうぶん取調とりしらべづけ元治もとはるもと甲子きのえねより明治めいじもとつちのえたつまでヶ年かねん平均へいきんいたし(りゃくよんがつかぎべんごとすべきむねおおせせいだされこうごと」という沙汰さたしており、これによりかくはんもと元年がんねん(1864ねん)から明治めいじ元年がんねん(1868ねん)の5年間ねんかん平均へいきん租税そぜい収入しゅうにゅう政府せいふ申告しんこくした。その申告しんこくもとづき明治めいじ3ねん(1870ねん)に太政官だじょうかんげんこめ15まんせき以上いじょう大藩たいはん・5まんせき以上いじょうちゅうはん・それ未満みまんしょうはん分類ぶんるいした。それのことをしている。もちろんこの時点じてんでこの分類ぶんるいかく大名だいみょう爵位しゃくい基準きじゅん使つかわれることが想定そうていされていたわけではなく、政府せいふ費用ひようかくはん負担ふたん分担ぶんたん基準きじゅんとしてかくはん申告しんこくさせたものであり、それが1884ねん明治めいじ17ねん)の叙爵じょしゃく内規ないき爵位しゃくい基準きじゅんにも流用りゅうようされたものである[22]。この基準きじゅんたしているきゅう大名だいみょうは15いえあったが、そのうちふる薩摩さつまはん島津しまつげんこめ31まん4002せき)、きゅう長州ちょうしゅうはんもう利家としいえげんこめ23まん2760せき)、きゅう静岡しずおかはん徳川とくがわ宗家そうけげんこめ21まん210せき)の3いえ当初とうしょより公爵こうしゃくれつしたので、それ以外いがいきゅう尾張おわりはん徳川とくがわげんこめ26まん9070せき)、きゅう紀州きしゅうはん徳川とくがわげんこめ27まん4590せき)、きゅう広島ひろしまはん浅野あさのげんこめ25まん8370せき)、きゅう岡山おかやまはん池田いけだげんこめ17まん9585せき)、きゅう鳥取とっとりはん池田いけだげんこめ18まん6437せき)、きゅう福岡ふくおかはん黒田くろだげんこめ23まん4250せき)、きゅう秋田あきたはん佐竹さたけげんこめ17まん9400せき)、きゅう佐賀さがはん鍋島なべしまげんこめ21まん3727せき)、きゅう徳島とくしまはん蜂須賀はちすかげんこめ19まん3173せき)、きゅう熊本くまもとはん細川ほそかわげんこめ32まん9680せき)、きゅう加賀かがはん前田まえだげんこめ63まん6880せき)、きゅう土佐とさはん山内やまうちげんこめ19まん3010せき)の12いえ該当がいとうする。きゅう水戸みとはん徳川とくがわげんこめ5まん7730せき)はこの基準きじゅんたしていないが、「徳川とくがわきゅう御三家ごさんけ」という内規ないきさだめがあるため該当がいとうする(この内規ないきさだめは事実じじつ上水戸かみみと徳川とくがわ侯爵こうしゃくにするためだけに存在そんざいしたといえる)[23]のち水戸みと徳川とくがわ公爵こうしゃくに陞爵し、きゅう越前えちぜん福井ふくいはん松平まつだいらげんこめ11まん1010せき)ときゅう伊予いよ宇和島うわじまはん伊達だてげんこめ5まん2420せき)が維新いしん功績こうせきみとめられて伯爵はくしゃくから陞爵したため、最終さいしゅうてきにはきゅう大名だいみょう侯爵こうしゃく合計ごうけい14いえだった。
  4. きゅう琉球りゅうきゅうはん王家おうけ - なおいえ叙爵じょしゃく内規ないきまえあん(「叙爵じょしゃく基準きじゅん」)では公爵こうしゃくだったが、叙爵じょしゃく内規ないきでは侯爵こうしゃくとなった[24]
  5. 国家こっか勲功くんこうあるもの - 1884ねん明治めいじ17ねん)の華族かぞく制度せいど発足ほっそく時点じてんでは、しん華族かぞく大久保おおくぼ利通としみち木戸きど孝允たかよし子孫しそんじょせられたのみであったが(西郷さいごう隆盛たかもり子孫しそん西南せいなん戦争せんそうのために発足ほっそくには除外じょがいされたが、西郷さいごう赦免しゃめんの1902ねん明治めいじ35ねん)に隆盛りゅうせい子孫しそん爵位しゃくいあたえられたさいには大久保おおくぼ木戸きど子孫しそんおなじくただちに侯爵こうしゃくじょせられる待遇たいぐうけている)、のちに13いえ侯爵こうしゃくとなり、そのうち5いえはさらに公爵こうしゃくにのぼった。最終さいしゅうてきにはけい10いえ侯爵こうしゃくとされた。
侯爵こうしゃくのちおおやけに陞爵したいえのぞく)
家名かめい 受爵しゃ
襲爵しゅうしゃくしゃ
きゅう家格かかく
出自しゅつじ
叙爵じょしゃくねん
所在しょざいなど
大炊おおい御門みかど 大炊おおい御門みかどいく麿まろ
大炊おおい御門みかどけいてる
清華せいか
藤原ふじわらきたりゅう
1884ねん7がつ7にち叙爵じょしゃく
東京とうきょう赤坂あかさか氷川ひかわまちげん東京とうきょうみなと赤坂あかさか
花山院かさんのいん 花山院かさんのいんただしとお
花山院かさんのいんちかし
花山院かさんのいん親忠ちかただ
清華せいか
藤原ふじわらきたりゅう
1884ねん7がつ7にち叙爵じょしゃく
東京とうきょう渋谷しぶや千駄ヶ谷せんだがや
菊亭きくてい 菊亭きくていおさむ
菊亭きくていこうちょう
菊亭きくていみのるけん
清華せいか
藤原ふじわらきた閑院りゅう西園寺さいおんじ支流しりゅう
1884ねん7がつ7にち叙爵じょしゃく
1945ねん9月15にち 爵位しゃくい返上へんじょう
久我くが 久我くがとおるひさ
久我くがつねどおり
久我くがどおりあらわ
清華せいか
村上むらかみはじめ
1884ねん7がつ7にち叙爵じょしゃく
東京とうきょう牛込うしごめ新小川しんおがわまち
醍醐だいご 醍醐だいご忠順ただまさ
醍醐だいご忠重ただしげ
清華せいか
藤原ふじわらきた一条いちじょう支流しりゅう
1884ねん7がつ7にち叙爵じょしゃく
東京とうきょう赤坂あかさか福吉ふくよしまちげん東京とうきょうみなと赤坂あかさか
中山なかやま 中山なかやま忠能ただやす
中山なかやまたかし麿まろ
中山なかやま輔親
羽林はばやし
藤原ふじわらきた花山院かさんのいん支流しりゅう
1884ねん7がつ7にち叙爵じょしゃく
東京とうきょうこうじまち有楽町ゆうらくちょうげん東京とうきょう千代田ちよだ有楽町ゆうらくちょう
広幡ひろはた 広幡ひろはたちゅうれい
広幡ひろはたちゅうあさ
こうはたただしたかし
清華せいか
正親町おおぎまちはじめ
1884ねん7がつ7にち叙爵じょしゃく
東京とうきょう四谷よつや四谷よつや仲町なかまちげん東京とうきょう新宿しんじゅく四谷よつや
浅野あさの 浅野あさのちょういさお
浅野あさのちょう
浅野あさの長武ながたけ
広島ひろしまはんあるじ
清和せいわはじめしょうするが明確めいかくでない。
1884ねん7がつ7にち叙爵じょしゃく
東京とうきょう本郷ほんごうむこうおか弥生やよいまち東京とうきょう文京ぶんきょう弥生やよい
池田いけだ
きゅう岡山おかやま藩主はんしゅ
池田いけだあきらせい
池田いけだかいせい
池田いけだただしせい
池田いけだ宣政のぶまさ
岡山おかやまはんあるじ
清和せいわはじめしょうするが明確めいかくでない。
1884ねん7がつ7にち叙爵じょしゃく
東京とうきょう麻布あざぶ麻布あざぶ兵衛ひょうえまちげん東京とうきょうみなと六本木ろっぽんぎ
池田いけだ
きゅう鳥取とっとり藩主はんしゅ
池田いけだあきら
いけ田仲たなかひろし
鳥取とっとりはんあるじ
清和せいわはじめしょうするが明確めいかくでない。
1884ねん7がつ7にち叙爵じょしゃく
東京とうきょう品川しながわ大崎おおさきまちげん東京とうきょう品川しながわ大崎おおさき
黒田くろだ 黒田くろだ長成ちょうせい
黒田くろだちょうれい
福岡ふくおかはんあるじ
宇多うたはじめしょうするが明確めいかくでない。
1884ねん7がつ7にち叙爵じょしゃく
東京とうきょう赤坂あかさか赤坂あかさか福吉ふくよしまちげん東京とうきょうみなと赤坂あかさか
佐竹さたけ 佐竹さたけよし
佐竹さたけ義生よしお
佐竹さたけ義春よしはる
佐竹さたけ義栄よしひで
久保田くぼたはんあるじ
清和せいわはじめ
1884ねん7がつ7にち叙爵じょしゃく
東京とうきょうこうじまち富士見ふじみまちげん東京とうきょう千代田ちよだ富士見ふじみ
尾張おわり徳川とくがわ
徳川とくがわよしれい
徳川とくがわ義親よしちか
名古屋なごやはんあるじ
清和せいわはじめしょうするが明確めいかくでない。
1884ねん7がつ7にち叙爵じょしゃく
紀州きしゅう徳川とくがわ
徳川とくがわ茂承もちつぐ
徳川とくがわよりゆきりん
徳川とくがわよりゆきさだ
紀州きしゅうはんあるじ
清和せいわはじめしょうするが明確めいかくでない。
1884ねん7がつ7にち叙爵じょしゃく
東京とうきょう麻布あざぶ飯倉いいくらげん東京とうきょうみなと東麻布ひがしあざぶ
鍋島なべしま 鍋島なべしまただしだい
鍋島なべしまただしうつ
鍋島なべしまただしやすし
佐賀さがはんあるじ
宇多うたはじめしょうするが明確めいかくでない。
1884ねん7がつ7にち叙爵じょしゃく
東京とうきょうこうじまち永田町ながたちょうげん東京とうきょう千代田ちよだ永田町ながたちょう
蜂須賀はちすか 蜂須賀はちすかしげる
蜂須賀はちすかただし
蜂須賀はちすかただし
徳島とくしまはんあるじ
清和せいわはじめしょうするが明確めいかくでない。
1884ねん7がつ7にち叙爵じょしゃく
1945ねん7がつ28にち爵位しゃくい返上へんじょう
東京とうきょうしば三田みたまちげん東京とうきょうみなと三田みた
細川ほそかわ 細川ほそかわまもるひさ
細川ほそかわまもるなり
細川ほそかわ護立もりたつ
熊本くまもとはんあるじ
清和せいわはじめ
1884ねん7がつ7にち叙爵じょしゃく
東京とうきょう小石川こいしかわ高田たかだ老松おいまつまちげん東京とうきょう文京ぶんきょう目白台めじろだい
前田まえだ 前田まえだとし
前田まえだ利為としなり
前田まえだとしけん
金沢かなざわはんあるじ
菅原すがわらしょうするが明確めいかくでない。
東京とうきょう本郷ほんごう本郷ほんごうもと富士ふじまち東京とうきょう文京ぶんきょう本郷ほんごう
山内やまうち 山内やまうちゆたかはん
山内やまうちゆたかけい
高知こうちはんあるじ
藤原ふじわらきたしゅうきょうりゅうしょうするが明確めいかくでない。
1884ねん7がつ7にち叙爵じょしゃく
東京とうきょうこうじまちこうじまちげん東京とうきょう千代田ちよだこうじまち
大久保おおくぼ 大久保おおくぼ利和としかず
大久おおひさ保利ほりたけし
大久おおひさ保利ほりけん
鹿児島かごしまはん出身しゅっしん
藤原ふじわらしょうするが明確めいかくでない。
1884ねん7がつ7にち叙爵じょしゃく
東京とうきょうしばしば二本榎にほんえのき西町にしまちげん東京とうきょうみなと高輪たかなわ
木戸きど 木戸きど正二郎しょうじろう
木戸きど孝正たかまさ
木戸きど幸一こういち
はぎはん出身しゅっしん
大江おおえ
1884ねん7がつ7にち叙爵じょしゃく
東京とうきょう赤坂あかさか赤坂新あかさかしんまちげん東京とうきょうみなと赤坂あかさか
なおいえ なおやすし
なおてん
なおあきら
なおひろし
琉球りゅうきゅうはんおう

清和せいわはじめしょうするが明確めいかくでない。

1885ねん5月2にち叙爵じょしゃく
東京とうきょうこうじまち富士見ふじみまちげん東京とうきょう千代田ちよだ富士見ふじみ
嵯峨さが
正親おうぎまち三条さんじょう
嵯峨さがこうかち
嵯峨さがみのるかち
大臣だいじん
藤原ふじわらきた閑院りゅう三条さんじょう支流しりゅう
1888ねん1がつ17にちはくから陞爵(じつあい維新いしん功績こうせきによる)
東京とうきょう下谷しもたに下谷しもたに長町ながまちげん東京とうきょう台東たいとう台東たいとう
中御門なかみかど 中御門なかみかどけいあきら
中御門なかみかどけいきょう
名家めいか
藤原ふじわらきた勧修寺かんしゅうじりゅう
1888ねん1がつ17にちはくから陞爵(けい維新いしん功績こうせきによる)
1898ねん12月14にち 家督かとく相続そうぞくじん不在ふざいにより断絶だんぜつ
1899ねん10がつ20日はつか けいきょうさい授。
東京とうきょう赤坂あかさか赤坂あかさか裏町うらまち東京とうきょうみなと元赤坂もとあかさか
松平まつだいら
きゅう福井ふくい藩主はんしゅ
松平まつだいら茂昭しげあき
松平まつだいらやすしそう
松平まつだいら康昌やすまさ
福井ふくいはんあるじ
清和せいわはじめしょうするが明確めいかくでない。
1888ねん1がつ17にちはくから陞爵(慶永よしなが維新いしん功績こうせきによる)
四条しじょう 四条しじょうたかし
よんじょうりゅうあい
四条しじょう隆徳たかのり
羽林はばやし
藤原ふじわらきたさかなめいながれ
1891ねん4がつ23にちはくから陞爵
東京とうきょうこうじまち富士見ふじみまちげん東京とうきょう千代田ちよだ富士見ふじみ
伊達だて
きゅう宇和島うわじま藩主はんしゅ
伊達だて宗徳むねのり
伊達だてはじめひね
伊達だてそうあきら
宇和島うわじまはんあるじ
藤原ふじわらきた山蔭やまかげりゅうしょうするが明確めいかくでない。
1891ねん4がつ23にちはくから陞爵(宗城むねなり維新いしん功績こうせきによる)
東京とうきょう本所ほんじょ小泉こいずみまちげん東京とうきょう墨田すみだ両国りょうこく
西郷さいごう
西郷さいごう従道つぐみちけい
西郷さいごう従道つぐみち
西郷さいごうしたがえとく
鹿児島かごしまはん出身しゅっしん
たいらしょうするが明確めいかくでない。
1895ねん8がつ5にちはくから陞爵
1946ねん2がつ6にち 爵位しゃくい返上へんじょう
東京とうきょう目黒めぐろ上目黒かみめぐろげん東京とうきょう目黒めぐろ上目黒かみめぐろ
西郷さいごう
西郷さいごう隆盛たかもりけい
西郷さいごう寅太郎とらたろう
西郷さいごう隆輝たかてる
西郷さいごう吉之助よしのすけ
鹿児島かごしまはん出身しゅっしん
たいらしょうするが明確めいかくでない。
1902ねん6月3にち叙爵じょしゃく
東京とうきょう牛込うしごめ市ヶ谷いちがや加賀かがまちげん東京とうきょう新宿しんじゅく市ヶ谷いちがや加賀かがまち
井上いのうえ 井上いのうえかおる
井上いのうえ勝之助かつのすけ
井上いのうえ三郎さぶろう
はぎはん出身しゅっしん
清和せいわはじめ信濃しなのはじめ
1907ねん9月21にちはくから陞爵
野津のつ 野津のつ道貫みちつら
野津のつ鎮之すけ
野津のつ高光たかみつ
鹿児島かごしまはん出身しゅっしん
藤原ふじわらしょうするが明確めいかくでない。
1907ねん9月21にちはくから陞爵
佐佐木ささき 佐佐木ささき高行たかゆき
佐佐木ささき行忠ゆきただ
高知こうちはん出身しゅっしん
宇多うたはじめ佐々木ささき六角ろっかく
1909ねん4がつ29にち叙爵じょしゃく
小松こまつ 小松こまつ輝久てるひさ たまものせい皇族こうぞく
北白川宮能久親王きたしらかわのみやよしひさしんのう子孫しそん
1910ねん7がつ10日とおか叙爵じょしゃく
小松こまつ宮家みやけ祭祀さいし承継しょうけい
小村こむら 小村こむら寿太郎じゅたろう
小村こむら欣一きんいち
小村こむら捷治しょうじ
飫肥おびはん出身しゅっしん
たいらしょうするが明確めいかくではない。
1911ねん4がつ21にちはくから陞爵。
大隈おおくま 大隈おおくま重信しげのぶ
大隈おおくましんつね
大隈おおくま信幸のぶゆき
佐賀さがはん出身しゅっしん
菅原すがわらしょうするが明確めいかくでない。
1916ねん7がつ14にちはくから陞爵。
山階やましな侯爵こうしゃく 山階やましなよし麿まろ たまものせい皇族こうぞく
山階やましなみやきく麿まろおう子孫しそん
1920ねん7がつ24にち叙爵じょしゃく
久邇くに侯爵こうしゃく 久邇くに邦久くにひさ
久邇くにみのるさかえ
たまものせい皇族こうぞく
久邇くにみや邦彦くにひこおう子孫しそん
1923ねん10月25にち叙爵じょしゃく
はないただき はないただき博信ひろのぶ たまものせい皇族こうぞく
伏見ふしみみやひろしきょうおう子孫しそん
1926ねん12月7にち叙爵じょしゃく
はないただき宮家みやけ祭祀さいし継承けいしょう
筑波つくば 筑波つくばふじ麿まろ たまものせい皇族こうぞく
山階やましなみやきく麿まろおう子孫しそん
1928ねん7がつ20日はつか叙爵じょしゃく
東郷とうごう 東郷とうごう平八郎へいはちろう
東郷とうごうぴょう
鹿児島かごしまはん出身しゅっしん
桓武かんむたいら
1934ねん5月29にちはくから陞爵。
音羽おとわ 音羽おとわ正彦まさひこ たまものせい皇族こうぞく
朝香あさかみやばと彦王子孫しそん
1936ねん4がつ1にち叙爵じょしゃく
1944ねん2がつ6にち 家督かとく相続そうぞくじん不在ふざいにより断絶だんぜつ
粟田あわた 粟田あわたあきらつね たまものせい皇族こうぞく
ひがし久邇くにみや稔彦としひこおう子孫しそん
1940ねん10月25にち叙爵じょしゃく

家名かめいについては後年こうねん1947ねん昭和しょうわ22ねん)のすめらぎせき離脱りだつによって本家ほんけすじいえ家名かめい同名どうめいとなってしまったいえについてのみ、混同こんどうけるため「○○侯爵こうしゃく」と表記ひょうきした。

朝鮮ちょうせん貴族きぞく侯爵こうしゃく

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にちかん併合へいごう1910ねん明治めいじ43ねん)の朝鮮ちょうせん貴族きぞくれい皇室こうしつれいだい14ごう)により華族かぞくじゅんじた朝鮮ちょうせん貴族きぞく制度せいどもうけられた。朝鮮ちょうせん貴族きぞくにもおおやけこうはくおとこ爵が存在そんざいした。ただし朝鮮ちょうせん貴族きぞく公爵こうしゃくじょされたものあらわれなかったので、朝鮮ちょうせん貴族きぞく実質じっしつてきさい上位じょうい爵位しゃくい侯爵こうしゃくだった。朝鮮ちょうせん貴族きぞく爵位しゃくい華族かぞくにおけるどう爵位しゃくい対等たいとう立場たちばにあるが、貴族きぞくいん議員ぎいんになる特権とっけんがないてん華族かぞくことなった[25][26]

朝鮮ちょうせん貴族きぞく爵位しゃくい家柄いえがらたいしてではなくにちかん併合へいごうにおける勲功くんこうなどにたいしてあたえられたものだったが[25]、そうした勲功くんこうげることができるのは大臣だいじんきゅう政治せいじ軍人ぐんじんだったものだけであるため、朝鮮ちょうせん王朝おうちょうさい上位じょうい貴族きぞく階級かいきゅうだったりょうはん出身しゅっしんしゃめられた[27]

朝鮮ちょうせん貴族きぞく爵位しゃくいじょされたもの全部ぜんぶで76めいであり、うち侯爵こうしゃくじょされたのはつぎの6めいである。きょうせん大院君たいいんくんおい宮内くない府内ふない大臣だいじん陸軍りくぐん副将ふくしょうかんじょう銀行ぎんこうちょうなどを歴任れきにんしたかんちゅうにち大使たいし韓国かんこく赤十字せきじゅうじしゃ総裁そうさいなどを歴任れきにんしたさとし中枢ちゅうすう院議いんぎかんだったうみあきら王家おうけ連枝れんし侍講じこういん侍従じじゅうかんつとめた最年少さいねんしょううみのぼるじゅんむねちち侍講じこういん侍従じじゅうかんえい親王しんのうそうわきまえ陸軍りくぐん副将ふくしょう歴任れきにんしたいんさわさかえ、そしてほおおよげこうである[28]日本にっぽんでもっとも著名ちょめいなのはほおおよげこうである。かれ血筋ちすじがよくつまが25だい国王こくおうあきらむねむすめであることで政治せいじ中枢ちゅうすうはいり、金玉きんぎょくひとしとともに「開化かいか」として日本にっぽんならった朝鮮ちょうせん近代きんだい推進すいしんし、きむひろししゅう内閣ないかくかんよう内閣ないかくなど親日しんにち政権せいけん内部ないぶ大臣だいじん宮内くない大臣だいじんつとめた。併合へいごう朝鮮ちょうせん貴族きぞくかい会長かいちょう朝鮮ちょうせん総督そうとく府中ふちゅうくるるいんふく議長ぎちょう貴族きぞくいんみことのりせん議員ぎいんなどを歴任れきにんしたため日本にっぽん著名ちょめいになった[29]。またにちかん併合へいごう韓国かんこく首相しゅしょうであるかんよう伯爵はくしゃくから侯爵こうしゃくに陞爵した[30]

欧州おうしゅう爵位しゃくいとの対応たいおう

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イギリスの侯爵こうしゃく

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イギリスの侯爵こうしゃく紋章もんしょうじょうかんむり

イングランド確固かっこたる貴族きぞく制度せいど最初さいしょきずいたおう征服せいふくおうウィリアム1せい在位ざいい1066ねん - 1087ねん)である。かれはもともとフランスのノルマンディーこうであったが、エドワード懺悔ざんげおう在位ざいい1042ねん - 1066ねん)の崩御ほうぎょ、イングランド王位おうい継承けいしょうけん主張しゅちょうして1066ねんにイングランドを征服せいふくし、イングランド王位おういいた(ノルマン・コンクエスト)。重用じゅうようした臣下しんかもフランスかられてノルマンじんだったため、大陸たいりくにあった貴族きぞく爵位しゃくい制度せいどがイングランドにもまれることになった[31]

侯爵こうしゃく(marquess)は、男爵だんしゃく(baron)、伯爵はくしゃく(earl)、公爵こうしゃく(duke)についで創設そうせつされた爵位しゃくいである。1385ねんだい9だいオックスフォード伯爵はくしゃくロバート・ド・ヴィアーがダブリン侯爵こうしゃく(Marquess of Dublin)にじょされたのがその最初さいしょ事例じれいである[32]

侯爵こうしゃくから男爵だんしゃくまでの貴族きぞくへの敬称けいしょう家名かめい(せい)ではなく爵位しゃくいめいにLordをつけて「○○きょう(Lord ○○)」とする(公爵こうしゃくは「Duke of ○○」)。たとえばウィンチェスターこうの「ウィンチェスター」はせいではなく爵位しゃくいめいで、家名かめいは「ポーレット」である。したがって「ウィンチェスターきょう」とはぶが、「ポーレットきょう」とはならない。また日本にっぽん華族かぞくひとつしか爵位しゃくいたないが、欧州おうしゅう貴族きぞく複数ふくすう爵位しゃくい所持しょじすることがおおく、なかでも公爵こうしゃく侯爵こうしゃく伯爵はくしゃく嫡男ちゃくなんちち従属じゅうぞく爵位しゃくいのうち番目ばんめ爵位しゃくい儀礼ぎれい称号しょうごうとしてしょうする[33]侯爵こうしゃく息子むすこ全員ぜんいんがLord(きょう、ロード)を、むすめはLady(レディ)が敬称けいしょうとしてけられる。

英国えいこく貴族きぞく爵位しゃくい終身しゅうしんであり、原則げんそくとして生前せいぜん爵位しゃくいゆずることはできない。爵位しゃくい保有ほゆうしゃ死亡しぼうしたときにその爵位しゃくいさだめられた継承けいしょう方法ほうほうしたがって爵位しゃくい継承けいしょうおこなわれ、爵位しゃくい保有ほゆうしゃ自分じぶん継承けいしょうしゃめることはできない。かつては爵位しゃくい継承けいしょう拒否きょひすることもできなかったが、1963ねん貴族きぞくほう制定せいてい以降いこう爵位しゃくい継承けいしょうから1ねん以内いない未成年みせいねん貴族きぞく成人せいじん1ねん以内いない)であれば自分じぶんいちだいかぎ爵位しゃくい放棄ほうきして平民へいみんになることが可能かのうとなった[34]

ゆう爵者は貴族きぞくいん議員ぎいんになりえる。かつては原則げんそくとしてちょん世襲せしゅう貴族きぞく貴族きぞくいん議員ぎいんになったが(ただし女性じょせい世襲せしゅう貴族きぞくは1963ねん貴族きぞくほう制定せいていまで貴族きぞくいん議員ぎいんにならなかった。また1963ねんまでスコットランド貴族きぞくアイルランド貴族きぞく貴族きぞく代表だいひょう議員ぎいんえらばれたもの以外いがい議席ぎせきゆうさなかった。アイルランド貴族きぞく貴族きぞく代表だいひょう議員ぎいん制度せいど1922ねんのアイルランド独立どくりつさいわり、スコットランド貴族きぞくは1963ねん貴族きぞくほうによって全員ぜんいん貴族きぞくいん議員ぎいんれつした)、1999ねん以降いこう世襲せしゅう貴族きぞくわく貴族きぞくいん議員ぎいんすうは92議席ぎせき限定げんていされている。貴族きぞくいん活動かつどうにおいて爵位しゃくい等級とうきゅう重要じゅうようせいはない[35]

現存げんそん侯爵こうしゃく一覧いちらん

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侯爵こうしゃく

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紋章もんしょう 爵位しゃくいめい
爵位しゃくい創設そうせつねん分類ぶんるい
家名かめい
げん侯爵こうしゃく名前なまえ
  ウィンチェスター侯爵こうしゃく
1551ねん創設そうせつイングランド貴族きぞく
ポーレット
だい18だいウィンチェスター侯爵こうしゃく
ナイジェル・ポーレット
(1941 - )
  ハントリー侯爵こうしゃく
1599ねん創設そうせつスコットランド貴族きぞく
ゴードン英語えいごばん
だい13だいハントリー侯爵こうしゃく
グランヴィル・ゴードン英語えいごばん
(1944 - )
  クイーンズベリー侯爵こうしゃく
1682ねん創設そうせつスコットランド貴族きぞく
ダグラス
だい12だいクイーンズベリー侯爵こうしゃく
デイヴィッド・ダグラス英語えいごばん
(1929 - )
  ツィードデール侯爵こうしゃく
1694ねん創設そうせつスコットランド貴族きぞく
ヘイ
だい14だいツィードデール侯爵こうしゃく
デイヴィッド・ヘイ
(1947 - )
  ロジアン侯爵こうしゃく
1701ねん創設そうせつスコットランド貴族きぞく
カー
だい13だいロジアン侯爵こうしゃく
マイケル・カー英語えいごばん
(1945 - )
  ランズダウン侯爵こうしゃく
1784ねん創設そうせつグレートブリテン貴族きぞく
ペティ=フィッツモーリス
だい9だいランズダウン侯爵こうしゃく
チャールズ・ペティ=フィッツモーリス英語えいごばん
(1941 - )
  タウンゼンド侯爵こうしゃく
1787ねん創設そうせつグレートブリテン貴族きぞく
タウンゼンド
だい8だいタウンゼンド侯爵こうしゃく
チャールズ・タウンゼンド
(1945 - )
  ソールズベリー侯爵こうしゃく
1789ねん創設そうせつグレートブリテン貴族きぞく
ガスコイン=セシル
だい7だいソールズベリー侯爵こうしゃく
ロバート・ガスコイン=セシル
(1946 - )
  バース侯爵こうしゃく
1789ねん創設そうせつグレートブリテン貴族きぞく
シン
だい8だいバース侯爵こうしゃく
スーアリン・シン英語えいごばん
(1974 - )
  ハートフォード侯爵こうしゃく
1793ねん創設そうせつグレートブリテン貴族きぞく
シーモア
だい9だいハートフォード侯爵こうしゃく
ヘンリー・シーモア英語えいごばん
(1958 - )
  ビュート侯爵こうしゃく
1796ねん創設そうせつグレートブリテン貴族きぞく
クライトン=ステュアート
だい8だいビュート侯爵こうしゃく
ジョン・クライトン=ステュアート
(1989 - )
  ウォーターフォード侯爵こうしゃく英語えいごばん
1789ねん創設そうせつアイルランド貴族きぞく
ベレスフォード
だい9だいウォーターフォード侯爵こうしゃく
ヘンリー・ベレスフォード
(1958 - )
  ダウンシャー侯爵こうしゃく
1789ねん創設そうせつアイルランド貴族きぞく
ヒル
だい9だいダウンシャー侯爵こうしゃく
ニコラス・ヒル
(1959 - )
  ドニゴール侯爵こうしゃく
1791ねん創設そうせつアイルランド貴族きぞく
チチェスター
だい8だいドニゴール侯爵こうしゃく
パトリック・チチェスター英語えいごばん
(1952 - )
  ヘッドフォート侯爵こうしゃく英語えいごばん
1800ねん創設そうせつアイルランド貴族きぞく
タイラー
だい7だいヘッドフォート侯爵こうしゃく
トマス・タイラー英語えいごばん
(1959 - )
  スライゴ侯爵こうしゃく英語えいごばん
1800ねん創設そうせつアイルランド貴族きぞく
ブラウン
だい12だいスライゴ侯爵こうしゃく
セバスチャン・ブラウン英語えいごばん
(1964 - )
  イーリー侯爵こうしゃく
1800ねん創設そうせつアイルランド貴族きぞく
トッテナム
だい9だいイーリー侯爵こうしゃく
チャールズ・トッテナム
(1943 - )
  ロンドンデリー侯爵こうしゃく
1816ねん創設そうせつアイルランド貴族きぞく
ヴェイン=テンペスト=ステュワート
だい10代ロンドンデリー侯爵こうしゃく
フレデリック・ヴェイン=テンペスト=スチュワート
(1972 - )
  カニンガム侯爵こうしゃく
1816ねん創設そうせつアイルランド貴族きぞく
カニンガム
だい8だいカニンガム侯爵こうしゃく
ヘンリー・カニンガム英語えいごばん
(1951 - )
  エクセター侯爵こうしゃく
1801ねん創設そうせつ連合れんごう王国おうこく貴族きぞく
セシル
だい8だいエクセター侯爵こうしゃく
マイケル・セシル英語えいごばん
(1935 - )
  ノーサンプトン侯爵こうしゃく
1812ねん創設そうせつ連合れんごう王国おうこく貴族きぞく
コンプトン
だい7だいノーサンプトン侯爵こうしゃく
スペンサー・コンプトン
(1946 - )
  カムデン侯爵こうしゃく英語えいごばん
1812ねん創設そうせつ連合れんごう王国おうこく貴族きぞく
プラット
だい6だいカムデン侯爵こうしゃく
デイヴィッド・プラット
(1930 - )
  アングルシー侯爵こうしゃく英語えいごばん
1815ねん創設そうせつ連合れんごう王国おうこく貴族きぞく
パジェット
だい8だいアングルシー侯爵こうしゃく
チャールズ・パジェット英語えいごばん
(1950 - )
  チャムリー侯爵こうしゃく
1815ねん創設そうせつ連合れんごう王国おうこく貴族きぞく
チャムリー
だい7だいチャムリー侯爵こうしゃく
デイヴィッド・チャムリー
(1960 - )
  アイルズベリー侯爵こうしゃく
1821ねん創設そうせつ連合れんごう王国おうこく貴族きぞく
ブルーデネル=ブルース
だい8だいアイルズベリー侯爵こうしゃく
マイケル・ブルーデネル=ブルース英語えいごばん
(1926 - )
  ブリストル侯爵こうしゃく英語えいごばん
1826ねん創設そうせつ連合れんごう王国おうこく貴族きぞく
ハーヴェイ
だい8だいブリストル侯爵こうしゃく
フレデリック・ハーヴェイ英語えいごばん
(1979 - )
  エイルザ侯爵こうしゃく
1831ねん創設そうせつ連合れんごう王国おうこく貴族きぞく
ケネディ
だい9だいエイルザ侯爵こうしゃく
デイヴィッド・ケネディ
(1958 - )
  ノーマンビー侯爵こうしゃく
1838ねん創設そうせつ連合れんごう王国おうこく貴族きぞく
フィップス
だい5だいノーマンビー侯爵こうしゃく
コンスタンティン・フィップス英語えいごばん
(1954 - )
  アバーガヴェニー侯爵こうしゃく
1876ねん創設そうせつ連合れんごう王国おうこく貴族きぞく
ネヴィル
だい6だいアバーガヴェニー侯爵こうしゃく
クリストファー・ネヴィル英語えいごばん
(1955 - )
  ゼットランド侯爵こうしゃく
1892ねん創設そうせつ連合れんごう王国おうこく貴族きぞく
ダンダス
だい4だいゼットランド侯爵こうしゃく
マーク・ダンダス英語えいごばん
(1937 - )
  リンリスゴー侯爵こうしゃく
1902ねん創設そうせつ連合れんごう王国おうこく貴族きぞく
ホープ
だい4だいリンリスゴー侯爵こうしゃく
エイドリアン・ホープ英語えいごばん
(1946 - )
  アバディーン=テメイア侯爵こうしゃく
1916ねん創設そうせつ連合れんごう王国おうこく貴族きぞく
ゴードン英語えいごばん
だい8だいアバディーン=テメイア侯爵こうしゃく
ジョージ・ゴードン
(1983 - )
  ミルフォード・ヘイヴン侯爵こうしゃく
1917ねん創設そうせつ連合れんごう王国おうこく貴族きぞく
マウントバッテン
だい4だいミルフォード・ヘイヴン侯爵こうしゃく
ジョージ・マウントバッテン
(1961 - )
  レディング侯爵こうしゃく
1926ねん創設そうせつ連合れんごう王国おうこく貴族きぞく
アイザックス
だい4だいレディング侯爵こうしゃく
サイモン・アイザックス英語えいごばん
(1942 - )

公爵こうしゃく従属じゅうぞく爵位しゃくいとして侯爵こうしゃく

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かつて存在そんざいした侯爵こうしゃく

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この一覧いちらん完成かんせいです。加筆かひつ訂正ていせいしてくださる協力きょうりょくしゃもとめています

アナンデール侯爵こうしゃくアントリム侯爵こうしゃくイーリーとう侯爵こうしゃくウィリングドン侯爵こうしゃくウェストミース侯爵こうしゃく英語えいごばんウェルズリー侯爵こうしゃくウォートン侯爵こうしゃくオーモンド侯爵こうしゃくオールトン侯爵こうしゃくカーゾン侯爵こうしゃくカーナーヴォン侯爵こうしゃくカーマーゼン侯爵こうしゃくカリスブルック侯爵こうしゃく英語えいごばんキャザーロー侯爵こうしゃくクランリカード侯爵こうしゃくクリーヴランド公爵こうしゃくクルー侯爵こうしゃくクレア侯爵こうしゃくケンブリッジ侯爵こうしゃくグレイ侯爵こうしゃくコーンウォリス侯爵こうしゃくシャンドス侯爵こうしゃくトモンド侯爵こうしゃくダファリン=エヴァ侯爵こうしゃくダブリン侯爵こうしゃくダルハウジー侯爵こうしゃくダンガノン侯爵こうしゃくティッチフィールド侯爵こうしゃくドーセット侯爵こうしゃく英語えいごばんドーチェスター侯爵こうしゃく英語えいごばんドロヘダ侯爵こうしゃくニューカッスル=アポン=タイン侯爵こうしゃくバークハムステッド侯爵こうしゃくバークレー侯爵こうしゃく英語えいごばんバッキンガム侯爵こうしゃくハミルトン侯爵こうしゃく英語えいごばんハリファックス侯爵こうしゃく英語えいごばんビバリー侯爵こうしゃくブラックリー侯爵こうしゃくブリーダルベイン侯爵こうしゃく英語えいごばんヘイスティングズ侯爵こうしゃくペンブルック侯爵こうしゃく英語えいごばんポーイス侯爵こうしゃくマームズベリー侯爵こうしゃくモンザーマー侯爵こうしゃくモンタギュー侯爵こうしゃく英語えいごばんリポン侯爵こうしゃくリンカンシャー侯爵こうしゃくロッキンガム侯爵こうしゃく

スペインの侯爵こうしゃく

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スペインの侯爵こうしゃく紋章もんしょうじょうかんむり

王室おうしつ称号しょうごうプリンシペ(Príncipe)をのぞけば、スペイン貴族きぞく階級かいきゅうにはうえからDuque(公爵こうしゃく)、Marqués(侯爵こうしゃく)、Conde(伯爵はくしゃく)、Vizconde(子爵ししゃく)、 Barón(男爵だんしゃく)、Señor(きょう)の6かいきゅうがあり、侯爵こうしゃく公爵こうしゃく爵位しゃくいである[36]侯爵こうしゃくにはグランデ格式かくしきともなものともなわないものがある。グランデの格式かくしきともな爵位しゃくい保有ほゆうしゃはExcelentísimo Señor (男性だんせい) Excelentísima Señora (女性じょせい)の敬称けいしょうばれ、グランデの格式かくしきがない爵位しゃくい保有ほゆうしゃはIlustrísimo Señor (男性だんせい) Ilustrísima Señora(女性じょせい)の敬称けいしょうばれる[36]

侯爵こうしゃくふく伯爵はくしゃく以上いじょう貴族きぞく長男ちょうなん称号しょうごうたない場合ばあいにはおや称号しょうごう由来ゆらいする地名ちめい子爵ししゃく爵位しゃくい継承けいしょうまで名乗なのることができる[36]貴族きぞく称号しょうごう放棄ほうき可能かのうだが、継承けいしょう資格しかくしゃ権利けんりがいすることはできず、また直接ちょくせつ相続そうぞくじん以外いがいから継承けいしょうしゃ指名しめいすることはできない[36]貴族きぞく称号しょうごう保持ほじしゃ死去しきょした場合ばあい、その相続そうぞくじんは1ねん以内いない法務省ほうむしょう継承けいしょう請願せいがんする必要ひつようがあり、もし2ねん以内いない請願せいがんおこなわれなかった場合ばあいは受爵しゃ死亡しぼうした場所ばしょしゅう政府せいふ政府せいふ広報こうほう発表はっぴょうしたのち承継しょうけいじん継承けいしょうみちひらかれる[36]爵位しゃくい継承けいしょうには所定しょてい料金りょうきんがかかる[36]

歴史れきしてきにはスペインの前身ぜんしんであるカスティーリャ王国おうこくアラゴン連合れんごう王国おうこくナバーラ王国おうこくにそれぞれ爵位しゃくい貴族きぞく制度せいどがあり[37]、17世紀せいきのカスティーリャの貴族きぞく爵位しゃくい公爵こうしゃく侯爵こうしゃく伯爵はくしゃくかぎられ、このさん爵位しゃくい次期じき候補者こうほしゃがまれに子爵ししゃく使つかっていた[38]。1520ねんまでカスティーリャの爵位しゃくい貴族きぞくは35めいしかいなかったが、フェリペ3せい時代じだい以降いこう爵位しゃくい貴族きぞく急増きゅうぞうした[38]

1931ねん革命かくめい王位おういはいされてだい共和きょうわせいになったさい貴族きぞく制度せいど廃止はいしされたことがあるが[39]1948ねん総統そうとうフランシスコ・フランコ貴族きぞく制度せいど復活ふっかつさせ[36][40]国王こくおうによる授爵じゅしゃくおな規則きそくのもとにフランコが授爵じゅしゃくおこなうようになった[36]王政おうせい復古ふっこふたた国王こくおう授爵じゅしゃくおこなっている。

おもなスペインの侯爵こうしゃく

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2018ねん時点じてんにおいてスペインの侯爵こうしゃくは1397存在そんざいしており、うち153がグランデの格式かくしきともな侯爵こうしゃくである[41]有名ゆうめいものには南米なんべいアステカ征服せいふくしたエルナン・コルテス子孫しそん保有ほゆうするバジェ・デ・オアハカ侯爵こうしゃく総統そうとうフランシスコ・フランコ子孫しそん保有ほゆうするビリャベルデ侯爵こうしゃくげん当主とうしゅがファッションデザイナーのアガタ・ルイス・デ・ラ・プラダスペインばんであるカステルドスリウス侯爵こうしゃくスペインばんげん当主とうしゅ国民党こくみんとう所属しょぞくスペイン下院かいん議員ぎいんカイエターナ・アルバレス・デ・トレドスペインばんであるカサ・フエルテ侯爵こうしゃくスペインばんなどがある。すでに廃絶はいぜつした侯爵こうしゃくだが画家がかサルバドール・ダリダリ・デ・プブル侯爵こうしゃくスペインばん叙位じょいされていた。

カルリスタの王位おうい請求せいきゅうしゃによって創設そうせつされた171の称号しょうごうなかにも41個いっこ侯爵こうしゃく存在そんざいした[36]

中国ちゅうごく侯爵こうしゃく

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西にしあまね時代じだい設置せっちされた爵について、『れい』には「王者おうじゃこれせいろく爵、おおやけこうはくおとことう」とあり、「ほう」はいつつある爵のうえから番目ばんめ位置いちづけている[42]一方いっぽうで『孟子もうしまんしょうには「天子てんしきょう、受地こう大夫たいふ受地はくもと受地おとこ。」とあり、天子てんしを爵のだいいちとし、ほう領地りょうちたまわるものとしている[43]。『れい』・『孟子もうし』とともにほうおおやけとともにひゃくさと四方しほう領地りょうちをもつものと定義ていぎしている[43]。また『春秋しゅんじゅうこうひつじでん』には「天子てんしさんおおやけおおやけしょうし、王者おうじゃこれおおやけしょうし、大国たいこくほうしょうし、小国しょうこくはくおとこしょうす」というさんとう爵制が記述きじゅつされている[44]金文きんぶん史料しりょう検討けんとうされるようになってでんねん郭沫若かくまつじゃく楊樹たちといった研究けんきゅうしゃ五等爵ごとうしゃく制度せいど当時とうじ存在そんざいせず、後世こうせいによって創出そうしゅつされたものとるようになった[45]おうみん金文きんぶん史料しりょう検討けんとうしたさいにはおおやけこうはくには一定いってい規則きそく存在そんざいしたが、おとこについては実態じったいははっきりしないとべている[46]

かんだいにおいてはじゅうとうせいかれ、「ほう」の爵位しゃくい存在そんざいしなかったが、列侯れっこう関内かんないこうかれた。たかし咸熙元年がんねん(264ねん)、爵制が改革かいかくされ、ほう爵位しゃくい復活ふっかつした。「おおやけこうはくおとこ」の爵位しゃくい列侯れっこうちんこう上位じょういかれ、諸侯しょこうおうした地位ちいとなる[47]しょく大国たいこくならせんろくひゃくななじゅうさと四方しほう土地とちつぎこくならせんよんひゃくろくじゅうさと四方しほう土地とちあたえられることとなっている[47]。その西にしすすむでも爵位しゃくい制度せいど存続そんぞく[48]めぐみみかど以降いこうにはおおやけほうの濫授がおこなわれた[48]。このためあずますすむではめぐみみかど爵位しゃくい格下かくさげすることもおこなわれている[49]

南北なんぼくあさ時代じだいにおいてもすすむ制度せいどちか叙爵じょしゃくおこなわれている。ずいにおいては国王こくおうぐんおうくにこうけんこうほうはくおとこの爵がかれ、とうにおいてはおう開国かいこくこくおおやけ開国かいこくぐんおおやけ開国かいこくけんこう開国かいこくこう開国かいこくはく開国かいこく開国かいこくおとこ爵位しゃくいかれた[50]

主要しゅよう中国ちゅうごく侯爵こうしゃく

編集へんしゅう

咸熙元年がんねん五等爵ごとうしゃくせい発足ほっそくには、三公みつきみであったおうさちていおき、そのほかの重臣じゅうしん賈充いしつとまもる裴秀なにたちがほうとなったが、すすむ王朝おうちょう成立せいりつはいずれもおおやけとなっている[51]。また当時とうじすすむおう司馬しばあきらおとうとであった司馬しば駿しゅんも「ほう」の爵位しゃくいけているが、すすむ王朝おうちょう成立せいりつ諸侯しょこうおうとなった[52]

ふとやすしやく論功行賞ろんこうこうしょうとして、もりあずかおうからあきらおうえびすといった軍事ぐんじ司令しれいかん[53]討伐とうばつすすめたちょうはなほうの爵をけている[54][55]。これらの戦役せんえき功労こうろうしゃには、規定きていえたしょく邑もあたえられた。ちょうはなにはいちまんもりあずかにはきゅうせんろくひゃくしょく邑がくだされている[56]。またひつじたけみかど受禅じゅぜんさいからほうすすめられている[57]には西にしすすむ滅亡めつぼうふとしじょうおうほうたけりょうこう)であった[52]

脚注きゃくちゅう

編集へんしゅう
  1. ^ 新村しんむらいずるへん広辞苑こうじえん だいろくはん』(岩波書店いわなみしょてん2011ねん)942ぺーじおよび松村まつむらあきらへん大辞林だいじりん だいさんはん』(三省堂さんせいどう2006ねん)849ぺーじ参照さんしょう
  2. ^ 小田部おたべ雄次ゆうじ 2006, p. 13.
  3. ^ 小田部おたべ雄次ゆうじ 2006, p. 21.
  4. ^ 浅見あさみ雅男まさお 1994, p. 71-76.
  5. ^ 小田部おたべ雄次ゆうじ 2006, p. 26.
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参考さんこう文献ぶんけん

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文献ぶんけん資料しりょう

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関連かんれん項目こうもく

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