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義本 - Wikipedia

ほん

琉球りゅうきゅう国王こくおう

ほん(ぎほん[1]1206ねんひらき2ねん) - 没年ぼつねんしょう)は、舜天王しゅんてんのうみつる最後さいご(3代目だいめ)にして、だい3だい琉球りゅうきゅう国王こくおうとされる人物じんぶつである。在位ざいい11ねん1249ねんあつしゆう9ねん) - 1259ねんひらけけい元年がんねん))。かみごうつて

ほん
琉球りゅうきゅうこくちゅう山王さんのう
在位ざいい 1249ねん-1259ねん

かみごう つて
居城いじろ 浦添うらぞえじょう
出生しゅっしょう 1206ねん
死去しきょ しょう
おう世子せいし つて
配偶はいぐうしゃ つて
王朝おうちょう 舜天王しゅんてんのうみつる
父親ちちおや しゅんうまじゅんひろし
母親ははおや つて
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ちちしゅんうまじゅんひろし死後しご、44さい即位そくいしたが、国内こくない飢饉ききん疫病えきびょう流行りゅうこうした。群臣ぐんしんすすめでえい政治せいじまかせたところ、災厄さいやくおさまったため、えい王位おういゆずったとされる。これにより、えいとするえいおうみつるはじまり、舜天王しゅんてんのうみつる滅亡めつぼうした。

退位たいいほん消息しょうそく不明ふめいであるが、沖縄おきなわ本島ほんとう奄美あまみ群島ぐんとう各地かくちかれほうむったとつたえられるはか存在そんざいしている。

先代せんだい舜天王しゅんてんのうみつるかくおう同様どうように、「琉球りゅうきゅうこくちゅう山王さんのう」は史書ししょによるついふうごうである。

ひがし恩納おんなひろしあつしは、よしほんという名前なまえ意義いぎ不明ふめいとした[2]ほんと、かれふく舜天王しゅんてんのうみつる名前なまえは、『おもろさうし』や『歴代れきだいたからあん』に見受みうけられる琉球りゅうきゅうじん名前なまえにおける漢字かんじかな表記ひょうきとは特殊とくしゅで、後世こうせいになってけられたおくりな(おくりな)ではないかとおもわれる[3]。『中山なかやま』は、よしほんせいを「みなもと(みなもと)」としている[4]かみごうつて[5]

経歴けいれき

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ほんは、かれふく舜天王しゅんてんのうみつる同様どうよう存在そんざいさえ不明ふめいであり[6]実在じつざいしない伝説でんせつじょう人物じんぶつかんがえられる[7]

舜天王しゅんてんのうすべ3代目だいめにして最後さいごおうつたえられ[6]、『中山なかやまかん』によれば、しゅんうまじゅんひろしだいいち王子おうじとして、1206ねんひらき2ねん)に生誕せいたんしたという[8]しゅんうまじゅんひろしちちとしていることから、よしほんしゅんてんまごにあたる[9]しゅんうまじゅんひろし死後しご1249ねんあつしゆう9ねん)に44さい即位そくい[10]ちちより「琉球りゅうきゅうこくちゅう山王さんのう」の3代目だいめいだとされる[11]。しかし、その翌年よくねん国内こくない飢饉ききんが、さらにその翌年よくねんから疫病えきびょう流行りゅうこうし、国民こくみん半数はんすう死亡しぼうしたという[8]ジョージ・H・カーは、自書じしょ琉球りゅうきゅう歴史れきし』において、日本にっぽんでは台風たいふう地震じしんによる被害ひがいけ、さらにヨーロッパでも天候てんこう不順ふじゅん飢饉ききんおちいり、ペスト流行りゅうこうするなど、この時期じき琉球りゅうきゅうはもとより世界せかいてき災難さいなんおとずれていたとべている[12]。この国状こくじょううれいたよしほん群臣ぐんしんあつめ、とく自分じぶんわりにだれくにゆずるべきかをくだしたところ、みなえい推薦すいせんした[8]ためしにえい政治せいじおこなわせると、災厄さいやくみ、くにおおいにおさまったという[13]1259ねん[9]ひらけけい元年がんねん[14])、えい摂政せっしょうつとめて7ねん在位ざいい11ねんにして54さいほんは、えい王位おういゆずったとされる[15]

かれ統治とうちしていたとされる時期じきは、小規模しょうきぼグスク各地かくち点在てんざいし、まだ沖縄おきなわ本島ほんとう全域ぜんいき統治とうちするにいたった人物じんぶつあらわれていないとされる[16]。『中山なかやま』によれば、天孫てんそんおうみつる王城おうじょうくびさときず[17]、それ以降いこうおうみつるくびさとじょう居城きょじょうとしていたというが[18]よしほんらの舜天王しゅんてんのうみつる浦添うらぞえじょうつたえられている[19][20]

中山なかやま』によれば、退位たいいほん消息しょうそく不明ふめいつた[9]かれおも世子せいしつてとある[4]。しかし、よしほんにまつわる伝説でんせつはかが、沖縄おきなわ本島ほんとう奄美あまみ群島ぐんとうにもいいつたえられている[21]こうふしの「各地かくちほんおう伝説でんせつ」と「陵墓りょうぼ」を参照さんしょう

王位おうい禅譲ぜんじょうせつについて

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中山なかやまかん』、『中山なかやま』、『たま』といった琉球りゅうきゅう正史せいしや、中国ちゅうごくがわあらわされたじょ葆光の『中山なかやまつたえしんろく』にも、よしほんえい王権おうけん譲位じょういしたとしるしている[22]糸数いとかず兼治けんじは、『中山なかやまかん』と『中山なかやま』それぞれにおいて、よしほんえいへの禅譲ぜんじょうたいする評価ひょうかことなることを指摘してきした[1]。『中山なかやまかん』は、とくそなえたえい王位おういゆずろうとしたよしほんがいたからこそ、えいおうとして存在そんざいしえたと評価ひょうかしたが、『中山なかやま』は、くに災厄さいやくおちいった状況じょうきょうで、とくをおさめる努力どりょくもせず、自分じぶんとくいとうれいただけのほんは、もとからおうになる資質ししつそなえていなかったと批判ひはんしている[23]評価ひょうかことなる理由りゆうとして、『中山なかやまかん』のしゅ編者へんしゃであるはねあさしゅうと、『中山なかやま』の蔡温まなんだ儒学じゅがくちがいによるものとした[1]

歴史れきし学者がくしゃである伊波いは普猷ふゆうひがし恩納おんなひろしあつし比嘉ひか春潮しゅんちょう高良こうら倉吉くらよしジョージ・H・カーらは、よしほん王位おうい禅譲ぜんじょうせつについて肯定こうていてきか、あるいは一応いちおう否定ひていてきとらえているものの、詳細しょうさい分析ぶんせき考察こうさつおこなっていない[24]。そこで、井上いのうえ秀雄ひでおえいによるクーデターせつ提唱ていしょうしている[25]理由りゆうとして、よしほん禅譲ぜんじょうについていた琉球りゅうきゅう正史せいし信憑しんぴょうせいとぼしく、よしほんがわから調査ちょうさする必要ひつようがあることをげた[25]。カーは、よしほん治世ちせい発生はっせいした飢饉ききん疫病えきびょうが、琉球りゅうきゅうのみならず世界中せかいじゅうきていたとべ、井上いのうえは、ならば平穏へいおんごせていたよしほんに、この災難さいなん克服こくふくするほどの政治せいじ手腕しゅわんはなく、えい情勢じょうせい不安ふあんなかまれたよしほんをうまく利用りようしたのではないかと推測すいそくしている[12]。さらに、退位たいい消息しょうそく不明ふめいとなったにもかかわらず、よしほんつたえられるはか存在そんざいしていることもげ、もし実際じっさい王位おうい平和へいわうらゆずったのならば、えいほうむったとされる「浦添うらぞえようどれ」のような立派りっぱ陵墓りょうぼ造営ぞうえいし、後世こうせいにわたってもはか管理かんりおこたらなかったはずであるとした[26]つぎに、井上いのうえは、琉球りゅうきゅう正史せいし1609ねん薩摩さつま侵入しんにゅう以降いこう編纂へんさんされたことも理由りゆうげている[25]正史せいし作成さくせい段階だんかいで、すくなからず島津しまつから検閲けんえつけ、事実じじつけない状況じょうきょうかれていたとし、島津しまつが、おなじくみなもとながれをむとつたえられる舜天王しゅんてんのうみつるえいという地元じもと人間にんげんほろぼされたとなると、自尊心じそんしんきずつけられ、クーデターをみとめるはずがなく、歴史れきし改竄かいざんおこなわれていたであろうとべた[27]

各地かくちほんおう伝説でんせつ

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玉城たまき城主じょうしゅかく城門じょうもん北緯ほくい2608ふん39.5びょう 東経とうけい12746ふん50.3びょう

沖縄おきなわ本島ほんとう南部なんぶ玉城たまきしろほんにまつわる伝説でんせつのこされている。退位たいいほんは「てんつぎ・あまつぎ」といわれる玉城たまきじょうあらわれ、自分じぶん不徳ふとくてんびようと焼身しょうしん自殺じさつはかった。城内じょうないたきぎげ、そのうえすわり、臣下しんかをつけるよう命令めいれいした。しかし、よしほんうつろうとしたとき突然とつぜんそらくもはじめ、大雨おおあめをもたらした。これにより、焼死しょうしまぬかれ、失意しついのうちに臣下しんかとも帰路きろについたが、大雨おおあめによる増水ぞうすいみちかわとなっていたので、よしほん仕方しかたなくおよいでわたった。このわたった場所ばしょが、「およこう」とばれ、のちに「上江洲うえずこう(イイジグチ)」となった、とわれている[28]

ほん直系ちょっけい子孫しそんといわれる花崎はなざき伝承でんしょうによれば、国頭くにがみむら辺戸へど隠遁いんとんし、時世じせいいてから読谷よみたんむら瀬名波せなはわたり、晩年ばんねん北中城きたなかぐすくむら仲順ちゅんじゅんぼっしたという[29]国頭くにがみむら辺戸へどのがれたよしほんは、しゅくおんなとのあいだ男子だんしもうけ、それがだいしょうなおえんおう祖先そせんであるという[21]。また、辺戸へどかうみちすがら、同村どうそん佐手さてという集落しゅうらくり、「サチのウイ」とよばれる場所ばしょ井戸いどみずみ、ここがとう地区ちく発祥はっしょうといいつたえられている[21]。さらに同村どうそん与那よな集落しゅうらくでも、辺戸へど途中とちゅうに、現地げんち女性じょせいとのあいだ2人ふたり子供こどもさずかったといい、伊地いじ集落しゅうらくには、よしほんうみから上陸じょうりくしたはまと、みずんだかわのぼったとされるやまがあるという[21]

鹿児島かごしまけん奄美あまみ群島ぐんとうにもほんおう伝説でんせつがある。奄美あまみ大島おおしましばによると、退位たいいほんは「おもね麻弥まや(あまみ)とう」にわたり、当地とうち定住ていじゅうした。その子孫しそんしばとなり、よしほんつぎこのみ(つぐよし)が奄美あまみ大守たいしゅしょうしたとされる。また、喜界島きかいじまにも、「ジブンシュー伝説でんせつ」なるものが存在そんざいし、「ジブン」とはほん転訛てんかとされ、「シュー」は高貴こうきひとたいしてけられる尊称そんしょう、すなわち「あるじ」とほぐされる[30]。また、だま家系かけいによるとほんおう嫡子ちゃくしおもねあさ彌島やじま徳之島とくのしま天城あまぎまち平土野へとのひそかにかくれたとしるされている。

陵墓りょうぼ

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沖縄おきなわけん国頭くにがみぐん国頭くにがみむら辺戸へど所在しょざいする「よしほんおうはか」。北緯ほくい2651ふん32.03びょう 東経とうけい12815ふん38.59びょう
ナスの御嶽おんたけおく舜天王しゅんてんのうすべさんだいおうほうむったとされるはかがある。北緯ほくい2618ふん17.96びょう 東経とうけい12747ふん50.66びょう

ほんほうむったとつたえられるはかは、られているなかで、沖縄おきなわ本島ほんとう北部ほくぶ国頭くにがみむらに7かしょ中部ちゅうぶ北中城きたなかぐすくむらに1かしょ、そして鹿児島かごしまけん奄美あまみ群島ぐんとうに2かしょけい10かしょ点在てんざいしている[21][ちゅう 1]退位たいいほん消息しょうそく不明ふめいであるが、それが人々ひとびと関心かんしん同情どうじょうい、そのよしほん由縁ゆえんがあるとしょうするものはか設置せっちしている[31]

沖縄おきなわけん国頭くにがみぐん国頭くにがみむら辺戸へどに、よしほんほうむったとつたえられるはかがある。これは「辺戸へどだまりょう」とばれ、たかやく1メートル石垣いしがきかこい、そのなかたてよこやく1.8メートル、たかやく3メートルの石造いしづくりのはかきずかれている。明治めいじ初期しょきだいしょうによって改修かいしゅうさせられ、はか近代きんだいてき構造こうぞうになっている。ほん辺戸へど佐久さく真家まいえ家宅かたく仮寓かぐうにしたとわれ、なおきよしおう時代じだい以降いこう当家とうけ墓守はかもり任命にんめいされたという[32]

どうけん中頭なかがみぐん北中城きたなかぐすくむら仲順ちゅんじゅん(ちゅんじゅん)に、「ナスの御嶽おんたけ」とよばれる御嶽おんたけがある。そのなか石垣いしがきがあり、そのおくいわとう御嶽おんたけ本体ほんたい(イベ)である。さらにそのいわうえに、しゅんてんしゅんうまじゅんひろし二人ふたりおうほうむったとされる、コンクリートせいはか存在そんざいするが、よしほんほうむられているとされ、「ナスの御嶽おんたけ」は「よしほんおうはか」ともばれている[33]

国頭くにがみむら辺戸へど以外いがいにも、同村どうそん伊地いじには「ひと(ティーチバカ)」とばれるはかがあるが、文化財ぶんかざい保護ほご委員いいんかいによる調査ちょうさで、よしほんのものとおもわれる遺物いぶつ発見はっけんできなかった[31]。また、同村どうそん佐手さて半地はんじ地区ちくなど、さらに、奄美あまみ群島ぐんとうにもほんつたえられるはか所在しょざいしている[21]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 国頭くにがみむら』(1967ねん)によれば、はか所在しょざい沖縄おきなわ本島ほんとう国頭くにがみむら辺戸へど伊地いじ佐手さて北中城きたなかぐすくむら仲順ちゅんじゅんの4かしょとしている[31]

出典しゅってん

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  1. ^ a b c 安里あさとほか(2004ねん)、p.61
  2. ^ 東恩納ひがしおんな(1966ねん)、p.29
  3. ^ 安里あさとほか(2004ねん)、p.63
  4. ^ a b 『蔡鐸ほん 中山ちゅうざん 現代げんだいやく』(1998ねん)、p.57
  5. ^ 糸数いとかず兼治けんじかみごう」、『沖縄大おきなわだい百科ひゃっか事典じてん ちゅうまき』(1983ねん)、p.478
  6. ^ a b 高良こうら倉吉くらよし舜天王しゅんてんのうみつる」、『沖縄大おきなわだい百科ひゃっか事典じてん ちゅうまき』(1983ねん)、pp.407 - 408
  7. ^ 安里あさと(2006ねん)、p.4
  8. ^ a b c 訳注やくちゅう 中山なかやまかん』(2011ねん)、p.57
  9. ^ a b c 高良こうら倉吉くらよしよしほん」、『沖縄大おきなわだい百科ひゃっか事典じてん 上巻じょうかん』(1983ねん)、p.862
  10. ^ 訳注やくちゅう 中山なかやまかん』(2011ねん)、pp.56 - 57
  11. ^ 訳注やくちゅう 中山なかやまかん』(2011ねん)、p.12
  12. ^ a b 井上いのうえ(1985ねん)、pp.24 - 25
  13. ^ 『蔡鐸ほん 中山ちゅうざん 現代げんだいやく』(1998ねん)、p.58
  14. ^ 安里あさとほか(2004ねん)、p.62
  15. ^ 訳注やくちゅう 中山なかやまかん』(2011ねん)、p.58
  16. ^ 池宮いけみや正治しょうじ舜天王しゅんてんのうみつる」、『浦添うらぞえ』(1989ねん)、p.338
  17. ^ 『蔡鐸ほん 中山ちゅうざん 現代げんだいやく』(1998ねん)、p.39
  18. ^ 安里あさと(2006ねん)、p.2
  19. ^ 知念ちねんいさむ浦添うらぞえグスク」、『浦添うらぞえ』(1989ねん)、pp.225 - 227
  20. ^ 嘉手納かでな宗徳むねのり中山なかやまおうみつる」、『沖縄大おきなわだい百科ひゃっか事典じてん ちゅうまき』(1983ねん)、p.780
  21. ^ a b c d e f 井上いのうえ(1985ねん)、p.25
  22. ^ 井上いのうえ(1985ねん)、pp.20 - 21
  23. ^ 安里あさとほか(2004ねん)、pp.61 - 62
  24. ^ 井上いのうえ(1985ねん)、pp.21 - 22
  25. ^ a b c 井上いのうえ(1985ねん)、p.23
  26. ^ 井上いのうえ(1985ねん)、pp.25 - 26
  27. ^ 井上いのうえ(1985ねん)、pp.28 - 29
  28. ^ 玉城たまきむら文化財ぶんかざい概要がいよう』(1986ねん)、pp.14 - 15
  29. ^ 比嘉ひか(1989ねん)、pp.16 - 17
  30. ^ 国頭くにがみ村役場むらやくばへん(1967ねん)、p.54
  31. ^ a b c 国頭くにがみ村役場むらやくばへん(1967ねん)、p.52
  32. ^ 国頭くにがみ村役場むらやくばへん(1967ねん)、pp.52 - 53, 317
  33. ^ 仲順ちゅんじゅん文化財ぶんかざい ナスの御嶽おんたけ」、『北中城きたなかぐすくむら文化財ぶんかざい』(1990ねん)、p.11

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 安里あさとすすむほか 『沖縄おきなわけん歴史れきし山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、2004ねん8がつ5にちISBN 4-634-32470-9
  • 井上いのうえ秀雄ひでお舜天王しゅんてんのうみつる滅亡めつぼう考察こうさつ - えいおうへの禅譲ぜんじょうせつたいする疑問ぎもん -」、沖縄おきなわ女子じょし短期大学たんきだいがく紀要きよう編集へんしゅう委員いいんかいへん沖縄おきなわ女子じょし短期大学たんきだいがく紀要きよう だい4ごう』 pp.21 - 30、沖縄おきなわ女子じょし短期大学たんきだいがく、1985ねん3がつ
  • 浦添うらぞえふみ編集へんしゅう委員いいんかいへん浦添うらぞえ だいいちかん 通史つうしへん 浦添うらぞえのあゆみ浦添うらぞえ教育きょういく委員いいんかい、1989ねん3がつ29にち
  • 沖縄おきなわけん玉城たまきむら教育きょういく委員いいんかいへん玉城たまきむら文化財ぶんかざい概要がいよう玉城たまきむら教育きょういく委員いいんかい、1986ねん10がつ
  • 沖縄大おきなわだい百科ひゃっか事典じてん刊行かんこう事務じむきょくへん沖縄大おきなわだい百科ひゃっか事典じてん沖縄おきなわタイムスしゃ、1983ねん5がつ30にち全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:84009086
  • 北中城きたなかぐすくむら教育きょういく委員いいん会社かいしゃかい教育きょういくへん北中城きたなかぐすくむら文化財ぶんかざい 北中城きたなかぐすくむら文化財ぶんかざい調査ちょうさ報告ほうこくしょだい1しゅう北中城きたなかぐすくむら教育きょういく委員いいんかい、1990ねん3がつ
  • 国頭くにがみ村役場むらやくばへん国頭くにがみむら国頭くにがみ村役場むらやくば、1967ねん3がつ31にち(1983ねん3がつ1にちさつ)。
  • 蔡鐸しる 原田はらだ禹雄訳注やくちゅう 『蔡鐸ほん 中山なかやま 現代げんだいやく榕樹ようじゅ書林しょりん琉球りゅうきゅう叢書そうしょ 4〉、1998ねん7がつ30にちISBN 4-947667-50-8
  • くびさとおうはねあさしゅう 編著へんちょ諸見しょみ友重ともしげ訳注やくちゅう訳注やくちゅう 中山なかやまかん榕樹ようじゅ書林しょりん琉球りゅうきゅう叢書そうしょ 24〉、2011ねん5がつ27にちISBN 978-4-89805-152-8
  • ひがし恩納おんなひろしあつし琉球りゅうきゅう歴史れきし至文しぶんどう日本にっぽん歴史れきし新書しんしょ 増補ぞうほばん〉、1966ねん11がつ10日とおか
  • 比嘉ひかちょうすすむ沖縄おきなわ事件じけん100のナゾ』 風土記ふどきしゃ、1989ねん5がつ29にち

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