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攀安知 - Wikipedia

よじあんとも(はんあんち/はねじ、生年せいねんしょう - 1416ねん永楽えいらく14ねん))は、15世紀せいき琉球りゅうきゅうのち北山きたやま王国おうこく後山あとやまきた王国おうこく)の最後さいご国王こくおう在位ざいい1396ねんひろしたけ29ねん)あるいは1401ねんたてあや3ねん) - 1416ねん永楽えいらく14ねん))。

よじあんとも
琉球りゅうきゅう国北くにほく山王さんのう
千代ちよ金丸かねまる複製ふくせいひん今帰仁なきじんむら歴史れきし文化ぶんかセンターぞう[1]
在位ざいい 1401ねん-1416ねん

ぜん よじあんとも
居城いじろ 今帰仁なきじんしろ
出生しゅっしょう 生年せいねんしょう
死去しきょ 1416ねん
王朝おうちょう 怕尼しばおうみつるはねおうみつる
父親ちちおや
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よじやす怕尼しばは、個人こじんめいではなくいずれもおうみつるめいはね」の漢字かんじ音訳おんやくかんがえられている。

来歴らいれき

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怕尼しばおうみつるきた山王さんのう長男ちょうなん。『中山なかやまかん』や『中山なかやま』には「武芸ぶげい絶倫ぜつりん」で「いんしいたげ無道むどう」としるされている。

あかり』にけい14かい朝貢ちょうこう記録きろくえるが、ちゅう山王さんのうくらべて頻度ひんどひくく、北山きたやま劣勢れっせいがうかがえる。

臣下しんか本部ほんぶ平原へいげん(もとぶていはら)がよじやす中山なかやま攻撃こうげき進言しんげんすると、本部ほんぶ平原へいげん反目はんもくしていた周辺しゅうへん北山きたやましょ按司(国頭くにがみ按司・はね按司・名護なご按司など)が中山なかやま内通ないつうしこれをつたえる。

たまではよじやすは、臣下しんかかるんじる無能むのうおうとしてえがかれている。しかし、たまはあくまでも北山きたやま討伐とうばつした琉球りゅうきゅう王国おうこく視点してんかれているので真実しんじつではないとおもわれる。その証拠しょうことして中山なかやまかんには武勇ぶゆうすぐれた悲劇ひげき英雄えいゆうとしてえがかれている。[よう出典しゅってん]

1416ねん永楽えいらく14ねん)、台頭たいとうする佐敷さしき按司のおもえともえこころざし親子おやこひきいる中山なかやまぐん北山きたやま末裔まつえいまもるまる従軍じゅうぐん)、北山きたやましょ按司の連合れんごうぐん今帰仁なきじんしろめる(北山きたやま侵攻しんこう)。優勢ゆうせいながらも堅固けんごしろめあぐねるが、まもるまる計略けいりゃくにより本部ほんぶ平原へいげん裏切うらぎじょう落城らくじょうよじやす本部ほんぶ平原へいげんつと、居城きょじょう今帰仁なきじんしろにて自刃じじんした。伝承でんしょうではよじあん知一ともかずぞくことごとたれたとも、まもるまるらのにより南山みなみやまかくまわれたともう。

よじやすは「千代ちよ金丸かなまる」とよばれる譜代ふだい相伝そうでん宝刀ほうとうっていたが、没後ぼつごちゅう山王さんのうわたった[2]

系譜けいふ伝記でんきによる[3]

  • ちちおうきた山王さんのう
  • ははしょう
  • しょう
  • 長男ちょうなんなかむかし北山きたやま太子たいし
  • 次男じなんこころざしけいあいだ
  • 三男さんなん外間ほかま
  • 四男よつお喜屋武きやん久子ひさこ
  • 五男いつおとら寿ことぶききん

登場とうじょうする作品さくひん

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 外装がいそうよじやす時代じだいではなく、後世こうせいちゅう山王さんのうこしらえさせたものである。
  2. ^ 博学はくがくこだわり倶楽部くらぶへん日本刀にっぽんとう あやしい魅力みりょくにハマるほん河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ 2014ねん ISBN 978-4-309-49902-4 p.64.その逸話いつわによれば、自害じがいした妻子さいしつづいてよじやす切腹せっぷくしようとしたところ、かたなあるじまもろうとしたのか、にぶってれず、千代ちよ金丸かなまるかわてたのちべつ小刀こがたな自害じがいし、ひろわれた千代ちよ金丸かなまるちゅう山王さんのう献上けんじょうされた。
  3. ^ ひがしこう長太郎ちょうたろう琉球りゅうきゅうさんやま由来ゆらいしゅう」(1989ねん那覇なは出版しゅっぱんしゃ通俗つうぞく琉球りゅうきゅう北山きたやま由来ゆらい系譜けいふ

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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