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マックス・シェーラー - Wikipedia

マックス・シェーラー(Max Scheler、1874ねん8がつ22にち - 1928ねん5月19にち)は、ユダヤけいドイツ哲学てつがくしゃである。ルドルフ・オイケン門下生もんかせい哲学てつがくてき人間にんげんがく知識ちしき社会しゃかい提唱ていしょうしゃ初期しょき現象げんしょうがく一人ひとり[1]である。

マックス・シェーラー

生涯しょうがい

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誕生たんじょうからギムナジウムまで

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マックス・シェーラーは1874ねん8がつ22にちに、ドイツ帝国ていこくバイエルン王国おうこくげんバイエルンしゅう)の首都しゅとミュンヘンまれた。ちちゴットフリート・シェーラーコーブルク侯爵こうしゃく農場のうじょう管理人かんりにんとしてはたらいていた。ははゾフィー・フュルター。ミュンヘンでまれそだったユダヤじん女性じょせいである。少年しょうねん時代じだいのシェーラーは、日曜日にちようびにははは伯父おじヘルマンにれられ、ユダヤじん会堂かいどう礼拝れいはいった。はは敬虔けいけんユダヤきょう信者しんじゃで、こうした儀礼ぎれいをシェーラーにきびしくにつけさせた。

シェーラーがギムナジウム入学にゅうがくするまえちちゴットフリートがくなってしまったため、生活せいかつ伯父おじのヘルマンにたよることとなったが、シェーラーはこの伯父おじ相容あいいれなかった。また、ははいもうとのマルチダを大事だいじにせずしいたげていたこともあり、家庭かてい環境かんきょうからのがれたいという気持きもちがしていくようになった。この影響えいきょうにより、14さいときカトリック洗礼せんれいけた。

この時期じきシェーラーは、もう一人ひとり伯父おじであるエルンストと親交しんこうふかめるようになった。エルンストはドイツのユダヤてき文化ぶんかになじもうとしていた人物じんぶつで、シェーラーのユダヤてき家庭かていから逃避とうひしようとする態度たいど理解りかいし、フリードリヒ・ニーチェ作品さくひん紹介しょうかいした。このことをきっかけに、ニーチェの作品さくひんおおれるようになったシェーラーは後年こうねん「カトリックのニーチェ」とわれるほどになった。

また、シェーラーは語学ごがく数学すうがく苦手にがてであったが、自然しぜん科学かがくなかでも生物せいぶつがくきになり、将来しょうらい大学だいがく医学部いがくぶすすむことをかんがえていたが、進学しんがく後押あとおしし、このめんでもしんささえとなっていたのはエルンストであった。

大学だいがく時代じだい

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シェーラーは、1893ねん ミュンヘン大学だいがく医学部いがくぶせきいたが、翌年よくねんには哲学てつがく社会しゃかいがく勉強べんきょうするためベルリン大学だいがく移籍いせきした。ベルリン大学だいがくには当時とうじディルタイシュトゥンプジンメルなどがおり、かれらの講義こうぎから刺激しげきけた。

1895ねん、シェーラーはイェーナおもむき、本格ほんかくてき哲学てつがく研究けんきゅう邁進まいしんすることになる。そこでは哲学てつがくのみならず、政治せいじがく経済けいざいがく地理ちりがく習得しゅうとくした。このイェーナにおいて、かれ当時とうじイェーナ大学だいがく教授きょうじゅであったルドルフ・オイケン影響えいきょうつよけた。それは、オイケンがしんカント主知しゅち主義しゅぎてき傾向けいこう当時とうじ流行りゅうこう自然しぜん主義しゅぎてき傾向けいこう批判ひはんして、精神せいしん優位ゆういせい主張しゅちょうしていたからである(「精神せいしんろんてき方法ほうほう」という)。

シェーラーはオイケンからアウグスティヌスパスカル偉大いだいさをらされ、かつ精神せいしん哲学てつがくまなった。この精神せいしん優位ゆうい学説がくせつはシェーラーの晩年ばんねん哲学てつがくてき人間にんげんがくいたるまで一貫いっかんしていく思想しそうであった。

1897ねん、オイケンの指導しどうした学位がくい論文ろんぶん論理ろんりてき原理げんり倫理りんりてき原理げんりとの関係かんけい確定かくていへの寄与きよ』を執筆しっぴつし、学位がくい獲得かくとくした。この論文ろんぶんは、道徳どうとくてき領域りょういき感情かんじょう意欲いよく領域りょういきにおける良心りょうしん関係かんけいがあり、合理ごうりてき原理げんり理性りせいすることはできないということを主張しゅちょうした論文ろんぶんである。この、道徳どうとくてき問題もんだい理性りせいてき論理ろんり主義しゅぎによってではなく、感情かんじょうてき情緒じょうちょ主義しゅぎから検討けんとうしていこうとする立場たちばは、そのかれ著作ちょさくにおいても展開てんかいされていく。

さらに、1899ねん教授きょうじゅ資格しかく論文ろんぶん超越ちょうえつろんてき方法ほうほう心理しんりがくてき方法ほうほう』を提出ていしゅつし、イェーナ大学だいがくわたし講師こうしとなった。この論文ろんぶんも、オイケンの「精神せいしんろんてき方法ほうほう」からの影響えいきょうつよく、精神せいしんこそが人間にんげん文化ぶんか活動かつどう様々さまざま連関れんかん可能かのうならしめるものであり、哲学てつがく精神せいしんかんする学説がくせつでなければならないとするシェーラーの思想しそうがよくあらわれている。

結婚けっこん遍歴へんれき大学だいがくしょくへの影響えいきょう

編集へんしゅう

ここからは、シェーラーの結婚けっこん遍歴へんれき中心ちゅうしん人生じんせい概観がいかん記述きじゅつしていく。

シェーラーは生涯しょうがいのうちで3結婚けっこんをしている。1人ひとりつまはアメリー・フォン・デヴィッツ、2人ふたりはメリット・フルトヴェングラー、3にんはマリア・ショイである。このうち2にんのメリットは、指揮しきしゃヴィルヘルム・フルトヴェングラーいもうとである。

1人ひとりつまであるアメリーとの出会であいは、シェーラーが1893ねん大学だいがく入学にゅうがくまえ夏休なつやすみにチロル地方ちほう旅行りょこうしたさいブルーニコ滞在たいざいしていたときであった。アメリーはシェーラーより8さい年上としうえ既婚きこん女性じょせいいちもあったが、おっとはモルヒネ中毒ちゅうどくしゃのため別居べっきょちゅうであった。

彼女かのじょはベルリンに居住きょじゅうしていたが、1894ねんにシェーラーもベルリン大学だいがく移籍いせきしており、彼女かのじょしたしくなった時期じきせきうつした時期じきかさなる。そのとしれに彼女かのじょ別居べっきょちゅうおっと離婚りこんし、シェーラーとらしはじめた。

シェーラーが教授きょうじゅ資格しかく論文ろんぶん提出ていしゅつし、イェーナでわたし講師こうしはじめる1899ねん10月、シェーラーとアメリーは入籍にゅうせきした。1905ねんには息子むすこのヴォルフガングもまれ、フッサール面識めんしきったのもこのころであった。公私こうしともにしあわせな生活せいかつあゆむことになるかにえたが、そう簡単かんたんにはいかなかった。このアメリーは嫉妬しっとふか神経質しんけいしつ女性じょせいで、シェーラーのまわりに醜聞しゅうぶん沙汰ざたこした。

1906ねんつまアメリーが、シェーラーとぼう出版しゅっぱんしゃ夫人ふじんとの関係かんけいうたがい、大学だいがくのパーティーに出席しゅっせきしていた夫人ふじんののしり、平手打ひらてうちする事件じけんこした。このことが醜聞しゅうぶん沙汰ざたとなり、1907ねんあきにはれたイェーナのらざるをなくなった。

そのとしには故郷こきょうであるミュンヘンにうつり、フッサールが、当時とうじミュンヘン大学だいがく講師こうしをしていたテオドール・リップスいであったこともあって推薦すいせんじょうをしたため、シェーラーはミュンヘン大学だいがくわたし講師こうしとなった。ミュンヘンではかれ学説がくせつ継承けいしょうしゃでもあり、生涯しょうがい親友しんゆうとなったヒルデブラントった。この時期じきにヒルデブラントとともミュンヘン学派がくは参加さんかし、現象げんしょうがくてき探求たんきゅうふかめていった。

順調じゅんちょうえたミュンヘンでの生活せいかつであったが、つまアメリーの嫉妬しっとふかく、うたがぶか性格せいかくから、彼女かのじょとの仲違なかたがいはさらにし、とうとう2人ふたり別居べっきょせざるをなくなった。嫌気いやけのさしたシェーラーは1908ねんのある時期じき、アンナという女性じょせいとイタリア旅行りょこうかけ、彼女かのじょつまいつわってホテルに宿泊しゅくはくした。このことをったアメリーが激怒げきどし、その嫉妬しっとふか性格せいかくからミュンヘンのぼう新聞しんぶんしゃ編集へんしゅうしゃぐちし、おっとのシェーラーが自分じぶんたち妻子さいしのことをかえりみず、ある女性じょせいじょうつうじ、その費用ひようのために借金しゃっきんしてばかりいるなどとうったえた。編集へんしゅうしゃはこれを大学だいがく教授きょうじゅデカダンスあばてるこう材料ざいりょうとしてり、公表こうひょうした。

最初さいしょ記事きじではシェーラーの名前なまえせられており、かれはこの記事きじつまのしたことを黙殺もくさつしようとつとめた。しかし、2度目どめはシェーラーの実名じつめいりで記事きじしるされ、ミュンヘン大学だいがくがわをつむっていられない状況じょうきょうおちいった。このため、シェーラーは汚名おめい返上へんじょうするために新聞しんぶんしゃ編集へんしゅうしゃ名誉めいよ棄損きそん告訴こくそした。抗議こうぎ協力きょうりょくしようとした友人ゆうじんたちもいたが、新聞しんぶんしゃがわはシェーラーがイタリア旅行りょこうをしたさいのホテルの宿泊しゅくはくちょう入手にゅうしゅしており、これが証拠しょうこ物件ぶっけんとして提出ていしゅつされ、シェーラーは圧倒的あっとうてき不利ふりとなった。こうしてシェーラーは敗訴はいそし、編集へんしゅうしゃ無罪むざいとなった。

この醜聞しゅうぶん沙汰さたたいし、ミュンヘン大学だいがく審査しんさ委員いいんかい聴聞ちょうもんかいひらき、シェーラーに警告けいこくした。この聴聞ちょうもんかいでのやりりのなかうたがいがれはしたが、ことがあまりにもおおきくなりぎ、結局けっきょく大学だいがくにはいられなくなった。こうして大学だいがく審査しんさ委員いいんかいはついに1910ねん4がつ、シェーラーに免職めんしょくめいじ、ドイツ国内こくない大学だいがくでの教授きょうじゅ資格しかくをも剥奪はくだつした。

一方いっぽうでこの醜聞しゅうぶん沙汰ざたのあったころ、シェーラーはヒルデブラントの紹介しょうかいにより、2人ふたりつまとなるメリットとっていた。2人ふたり1909ねんなつごろにはおたがいに共鳴きょうめいい、結婚けっこんのぞむまでになった。

つまアメリーは離婚りこん手続てつづきの延期えんきはかろうとして、莫大ばくだい慰謝いしゃりょうをシェーラーに要求ようきゅうした。だが結局けっきょく、アメリーはシェーラーをめることはできず、1912ねん2がつ離婚りこん成立せいりつし、12月にメリットと結婚けっこんした。

しょく教授きょうじゅ資格しかくうしなったシェーラーは、1911ねんゲッティンゲン移住いじゅうする。そこには前年ぜんねんうつったヒルデブラントがおり、当時とうじゲッティンゲン大学だいがくはフッサールをはじめとした現象げんしょうがく中心ちゅうしんとなっていた。ヒルデブラントはシェーラーのために講義こうぎようのホールをり、フッサールの学生がくせいたちにもシェーラーの個人こじん講義こうぎ聴講ちょうこうするようにうながした。

1912ねん、シェーラーはフッサールの指導しどうする現象げんしょうがく年報ねんぽうの4にん編集へんしゅうしゃ一人ひとりえらばれるが、このころからフッサールとかんがえがわなくなり、生活せいかつ安定あんていしないためベルリンへと移住いじゅうした。ここから1919ねん大学だいがくしょく復帰ふっきするまで、シェーラーはフリーランスの学者がくしゃ・ジャーナリストとして活動かつどうし、『ルサンチマンと道徳どうとくてき価値かち判断はんだん』(のち加筆かひつして、『道徳どうとく構造こうぞうにおけるルサンチマン』と改題かいだい)をはじめとする社会しゃかい病理びょうりがく関係かんけいしょ論文ろんぶんあらわし、のちにこれらが『価値かち転倒てんとう』におさめられた。そのにも『倫理りんりがくにおける形式けいしき主義しゅぎ実質じっしつてき価値かち倫理りんりがく』、『同情どうじょう本質ほんしつしょ形式けいしき』などの代表だいひょうてき著作ちょさくした。

晩年ばんねん、カイゼルリンクはく英知えいち学校がっこうで、「宇宙うちゅうにおける人間にんげん地位ちい」とだいする講演こうえんをし、そこで哲学てつがくてき人間にんげんがくという哲学てつがくてき研究けんきゅう新分野しんぶんやとして提案ていあんした。かれによれば、現代げんだいはわたしたちが人間にんげんとはなにかということをまったらず、かつ、そのことを熟知じゅくちしている時代じだいであるとされ、哲学てつがくてき人間にんげんがくは、人間にんげん自身じしんいだ自意識じいしき歴史れきしについて、現代げんだいその自意識じいしき突然とつぜん増大ぞうだいつづけている事態じたい解釈かいしゃくするための学問がくもんとされる。この問題もんだいについて、かれはその著書ちょしょ人間にんげん歴史れきし』および『包括ほうかつてき人間にんげんがくからの断章だんしょう』において、人間にんげん自己じこぞう解釈かいしゃくを、「宗教しゅうきょうてき人間にんげんがく」、「ホモ・サピエンス」、「ホモ・ファーベル」、「なま哲学てつがくにおける人間にんげんがく」、「要請ようせいとしてのかみろんにおける人間にんげんがく」のいつつに類型るいけいし、それぞれにたいして同等どうとう現代げんだいてきアクチュアリティを要求ようきゅうすることによってこたえようとした。

ここから、人間にんげんがく研究けんきゅうのブームがドイツけんはじまった。人間にんげんまなべないし哲学てつがくてき人間にんげんがくは、ドイツけい民俗みんぞくまなべないしアングロサクソンけい文化ぶんか人類じんるいがくとはべつ観点かんてんのものである。とくに、これが受容じゅようされたのは教育きょういくがくで、教育きょういく人間にんげんがくという名称めいしょうで、日本にっぽんにおいても浸透しんとうせた[2]

シェーラーは形式けいしき倫理りんりがくではなく、現象げんしょうがくてき実質じっしつてき価値かち倫理りんりがくいた。はん心理しんりがくてき超越ちょうえつろんてきであるてんしんカント価値かち哲学てつがく共通きょうつうするが、価値かちとは本質ほんしつてき倫理りんりがくぞくし、かつ、ただ妥当だとうするものではなく、存在そんざいし、げんるものだとする。これはニコライ・ハルトマン影響えいきょうあたえた。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ フッサール弟子でしハイデガー兄弟子あにでしたる。ハイデガーとおなじくフッサールから離反りはんするが、ハイデガーとのあいだ交流こうりゅうがあったようである(1929ねん5がつ19にちのハイデガーによるシェーラー追悼ついとう講義こうぎなど)。
  2. ^ 『シェーラー著作ちょさくしゅう』(白水しろみずしゃぜん15かん)がある。

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 五十嵐いがらし晴彦はるひこちょ)『あい哲学てつがく マックス・シェーラー研究けんきゅうろん文集ぶんしゅう花伝社かでんしゃ 1999ねん
  • 小倉おぐらこころざしさちちょ)『シェーラー著作ちょさくしゅうだい2かん月報げっぽう2 白水しろみずしゃ 1976ねん
  • 小倉おぐらこころざしさちちょ)『シェーラー著作ちょさくしゅうだい8かん月報げっぽう3 白水しろみずしゃ 1977ねん
  • 小倉おぐら貞秀さだひでちょ)『マックス・シェーラー―ひととその思想しそう―』はなわ新書しんしょ 1969ねん

外部がいぶリンク

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