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現象学 - Wikipedia

現象げんしょうがく(げんしょうがく、どく: Phänomenologie〈フェノメノロギー〉)は、哲学てつがくてき学問がくもんおよびそれに付随ふずいする方法ほうほうろん意味いみする。

概要がいよう

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現象げんしょうがく」という用語ようごは、哲学てつがくうえ、18世紀せいきドイツ哲学てつがくしゃヨハン・ハインリッヒ・ランベルト著書ちょしょしんオルガノン』にさかのぼることができるとされる。「現象げんしょうがく」がしめ概念がいねんは、哲学てつがくしゃによっておおきくことなる。また、エトムント・フッサールのように、1人ひとり哲学てつがくしゃにおいても、その活動かつどう時期じきによって、概念がいねん変遷へんせんしているれいもある。下記かき代表だいひょうてきな3つの「現象げんしょうがく」の概要がいようしるす。

  1. ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル (1770 - 1831) が1807ねん出版しゅっぱんした著作ちょさく精神せいしん現象げんしょうがく』(Phänomenologie des Geistes) のなかで、「現象げんしょうがく」は主観しゅかんてき意識いしきから現象げんしょう背後はいごにある絶対ぜったい精神せいしん把握はあくする哲学てつがく手引てびきとしてしめされる。弁証法べんしょうほうてき現象げんしょうがくばれることがある。
  2. 19世紀せいきすえ心理しんりがく主義しゅぎ生物せいぶつがく主義しゅぎ興隆こうりゅうするヨーロッパ思想しそうかい背景はいけいに、もろ科学かがく数学すうがく物理ぶつりがく)の基礎きそづけをおこなうことを目標もくひょうにして、フッサール (1859 - 1938) が提唱ていしょうした、学問がくもんおよびそれに付随ふずいする方法ほうほうろん超越ちょうえつろんてき現象げんしょうがく (どく: transzendentale Phänomenologie) とぶ。超越ちょうえつろんてき現象げんしょうがくでは、認識にんしきろんてき批判ひはん無関心むかんしんな、存在そんざい(=「超越ちょうえつ」)を自明じめいなものとしてとらえる「自然しぜんてき態度たいど」を保留ほりゅうにした状態じょうたいで、存在そんざいと「意識いしき」との関係かんけいおよび、それぞれの意味いみ志向しこうせいから反省はんせいてきわれる。なお、後期こうきフッサール(1920年代ねんだい以後いご)においてはさらなる深化しんかげ、まえ-意識いしきてき領域りょういき現象げんしょう現象げんしょうとして成立せいりつする地平ちへい)を発生はっせいてき現象げんしょうがくどく: genetische Phänomenologie) がとなえられる。
  3. マルティン・ハイデガー (1889 - 1976) において、超越ちょうえつろんてき現象げんしょうがく批判ひはんてき摂取せっしゅされ、「存在そんざいしゃ」の「存在そんざい」を存在そんざいあかるみにす、解釈かいしゃくがくてき方法ほうほうとしてもちいられる。ハイデガーの現象げんしょうがくは、解釈かいしゃくがくてき現象げんしょうがくばれることがある。

ほんこうでは、「解釈かいしゃくがく」ととも現代げんだいドイツ・フランス哲学てつがくだい潮流ちょうりゅう形成けいせいし、ハイデガー、ジャン=ポール・サルトルモーリス・メルロ=ポンティエマニュエル・レヴィナスミシェル・アンリジャック・デリダらに批判ひはんてき継承けいしょうされた「現象げんしょうがく」(上記じょうき2・3こう)についてべる。ヘーゲルの精神せいしん現象げんしょうがくについては精神せいしん現象げんしょうがく参照さんしょう

フッサールの現象げんしょうがく

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フッサールの目標もくひょうは、「事象じしょうそのものへ」(Zu den Sachen selbst!) という研究けんきゅう格率かくりつはしてき表明ひょうめいされている。つまり、いかなる先入観せんにゅうかん形而上学けいじじょうがくてき独断どくだんにもとらわれずに存在そんざいしゃ接近せっきんし、しょがく基礎きそづける根源こんげんてき厳密げんみつがくとしての哲学てつがく樹立じゅりつする方法ほうほうをフッサールはもとめた。その過程かていで、フッサールの「現象げんしょうがく」の概念がいねん修正しゅうせいされていった。下記かきにおいては、フッサールの現象げんしょうがくにおける主要しゅよう概念がいねんを、そのつうてき深化しんかとともに叙述じょじゅつする。

時代じだい背景はいけいとその成立せいりつ

編集へんしゅう

19世紀せいきまつヨーロッパにおいては、実証じっしょう科学かがく興隆こうりゅうのもと、数学すうがく論理ろんりがく領域りょういきで、心理しんりがく主義しゅぎ生物せいぶつがく主義しゅぎてきな、心理しんりてき現象げんしょうから論理ろんり基礎きそづけようとする思想しそう席巻せっけんしていた。心理しんりがく主義しゅぎとは、あらゆる学問がくもん基礎きそ心理しんりてき過程かていもとづけようとするこころみである。数学すうがく研究けんきゅうから出発しゅっぱつしたフッサールの関心かんしんも、はじめは心理しんりがくから、当時とうじ数学すうがくかいにおいて論争ろんそうとなっていた数学すうがく基礎きそろん心理しんりがくてき基礎きそづけようとするものであった[1]。このかんがえのもと、フッサールはブレンターノの記述きじゅつ心理しんりがく立場たちばから数学すうがくとく算術さんじゅつ解明かいめい目指めざした『算術さんじゅつ哲学てつがく――心理しんりがくてき論理ろんりがくてきしょ研究けんきゅう』を1891ねん出版しゅっぱんした。

しかし、この著作ちょさく数理すうり哲学てつがくしゃG.フレーゲなどのきびしい批判ひはんけることとなった。その批判ひはんとは、もし数学すうがく論理ろんりがくなどの客観きゃっかんてきなものが主観しゅかんてき心的しんてき表象ひょうしょう還元かんげんされてしまうならば、いかにして学問がくもん客観きゃっかんせいたもつことができるのか、というものであった。この批判ひはんけて、またフッサール自身じしんこのような心理しんりがく主義しゅぎ原理げんりてき困難こんなん逢着ほうちゃくし、「論理ろんりがく本質ほんしつについての、とく認識にんしき作用さよう主観性しゅかんせい認識にんしき内容ないよう客観きゃっかんせいとの相互そうご関係かんけいについての一般いっぱんてき批判ひはんてき反省はんせい[2]へと、すなわち現象げんしょうがくへとすすんでゆくことになった。

フッサールは、大学だいがくやく2年間ねんかん師事しじしたフランツ・ブレンターノの「志向しこうせい」(どく: Intentionalität) の概念がいねん継承けいしょうした。ブレンターノにおいて、「志向しこうせい」とは意識いしきかなら相関そうかんしゃ対象たいしょう)をしめすこと、いいかえると意識いしきとは例外れいがいなく「なにかについての」意識いしきであることを意味いみする。ブレンターノ自身じしんは、志向しこうせい概念がいねん心理しんり作用さよう分類ぶんるいもちいただけであったが、フッサールは、「意識いしきはつねになにものかについての意識いしきである」[3]という命題めいだいはしてきにあらわされている、意識いしき相関そうかんしゃ対象たいしょう)がつね相関そうかん関係かんけいにあるという志向しこうせい特徴とくちょう着目ちゃくもくし、この相関そうかん関係かんけいにおける対象たいしょう実在じつざい留保りゅうほすることで、志向しこうせい概念がいねん認識にんしきろんてき発展はってんさせていった。また、現象げんしょうがくてき還元かんげんとの関係かんけいにおいて、意識いしき体験たいけんのうちにふくまれるものを内在ないざいどく:Immanenz)、ふくまれないものを超越ちょうえつどく:Transzendenz)とび、このたい概念がいねんによって純粋じゅんすい意識いしきとしての志向しこうせい構造こうぞうをあきらかにしようとした。さらに、後述こうじゅつするように、フッサールの志向しこうせい意識いしき理性りせいへの超越ちょうえつろんてき考察こうさつのもとに、よりゆたかで動態どうたいてき志向しこうてきのうさく概念がいねんとしてとらえなおされてゆくことになる[4]

本質ほんしつ主義しゅぎ直観ちょっかん主義しゅぎ

編集へんしゅう

フッサールの現象げんしょうがく原理げんりてき特徴とくちょうとして、本質ほんしつ主義しゅぎ直観ちょっかん主義しゅぎ指摘してきされる[5]

フッサールにおける本質ほんしつ主義しゅぎは、事実じじつてき経験けいけん体験たいけんたいして、本質ほんしつ理念りねんイデア)、また形相ぎょうそうエイドス)などに優位ゆういかんがえのことであるが、これはしょがく基礎きそづけという現象げんしょうがく厳密げんみつがくとしての目的もくてき起因きいんしている。数学すうがく論理ろんりがくなどを、主観しゅかんてきかつ経験けいけんてきなものへと還元かんげんしようとする心理しんりがく主義しゅぎ生物せいぶつがく主義しゅぎたいして、フッサールはむしろそのようながくが、そしてまたあらゆるがくが、その厳密げんみつせい条件じょうけんとしてイデアてき論理ろんり法則ほうそく存在そんざい必要ひつようとしていることを指摘してきし、これらの究極きゅうきょくてき規則きそくがもし存在そんざいしないのであれば、厳密げんみつがくはおろかわれわれの認識にんしき妥当だとうせいをたもつものはなにもなくなってしまい、相対そうたい主義しゅぎ懐疑かいぎ主義しゅぎおちいってしまうことへ注意ちゅういをうながした[6]。さらには、そのような相対そうたい主義しゅぎてきかんがえが妥当だとうせいをたもつためには、みずからが主張しゅちょうしている相対そうたい主義しゅぎてきかんが自体じたい否定ひていしなければならない逆説ぎゃくせつをフッサールは指摘してきした[7][8]。そして、意識いしきをその具体ぐたいてき相関そうかんしゃとの関係かんけいではなく、意識いしきとその相関そうかんしゃとの相関そうかん関係かんけい自体じたい、すなわち志向しこうせいという本質ほんしつてきなありかたにおいてとらえようとするところにもまた、現象げんしょうがく本質ほんしつ主義しゅぎてき性質せいしつがあらわれている。しかし、フッサールは論理ろんり法則ほうそく思考しこう規則きそくのイデアてき本質ほんしつ存在そんざいみとめるというてんではたしかにボルツァーノフレーゲおなじく論理ろんりがくてきイデア主義しゅぎ立場たちばにあるが、それらのイデアの素朴そぼく実体じったいけるというてんでは、プラトンてきじつねんろんではない[9]。さらに発生はっせいてき現象げんしょうがくにいたって、本質ほんしつ地平ちへいせいとその受動じゅどうてき構成こうせいわれることとなり、ここにフッサール以降いこう現象げんしょうがく展開てんかいしていった事実じじつせい現象げんしょうがく萌芽ほうががみられる。

もうひとつの特徴とくちょうである直観ちょっかん主義しゅぎは、直観ちょっかんどく:Anschauung)によって現象げんしょうをあるがままにとらえ、その本質ほんしつ認識にんしきしようとする現象げんしょうがく方法ほうほうてき態度たいどのことである。この態度たいどは、フッサールの研究けんきゅう格率かくりつである「事象じしょうそのものへ」に表明ひょうめいされている、一切いっさい理論りろんてき先入せんにゅう事象じしょうそのものへのかえ目指めざすという現象げんしょうがく本質ほんしつてき特徴とくちょうをあらわすものでもある[5]。それゆえ現象げんしょうがくは、およそあらゆる理論りろんからの演繹えんえきてき展開てんかいこばみ、記述きじゅつ分析ぶんせきという帰納きのうてき態度たいどをとることになる。フッサールの現象げんしょうがくがいくたびかの深刻しんこく転回てんかいるのも、この帰納的きのうてきかつ根源こんげんてき態度たいどによって、みずからの仕事しごとへの現象げんしょうがくてき反省はんせいいられたからである。そのてんで、直観ちょっかんはフッサールにおける現象げんしょうがくのもっとも枢要すうよう概念がいねんということができる。上記じょうきのように本質ほんしつがく成立せいりつのためには必要ひつよう不可欠ふかけつ存在そんざいであるが、その本質ほんしつはいかにして認識にんしきしうるか、という認識にんしき作用さよう主観性しゅかんせい認識にんしき内容ないよう客観きゃっかんせいへのいが、この現象げんしょうがくてき直観ちょっかんというもっとも根源こんげんてき認識にんしき方法ほうほうへのかえ必要ひつようとしたといえる。フッサールもいうように「すべてのはらてきあたえるはたらきをする直観ちょっかんこそは、認識にんしき正当せいとうせい源泉げんせんである」[10]ので、直観ちょっかんとは、ただの感覚かんかく感性かんせいてき直観ちょっかんのことではなく、対象たいしょうそれ自体じたいげん意識いしきあたえられ、充実じゅうじつされた志向しこうのことである[11]。フッサールにおいては意味いみとは形相ぎょうそうてきあるいは理念りねんてきなものであるが、この意味いみにのみかかわり、対象たいしょうへの関係かんけい実現じつげんされていない意識いしきはたらきのことを空虚くうきょ意味いみ志向しこう空虚くうきょ意味いみ作用さようなどとぶ。この空虚くうきょ志向しこう充実じゅうじつしてくれるのが対象たいしょう直観ちょっかんであり、たんなる思念しねんとしての対象たいしょうへの関係かんけい対象たいしょう直観ちょっかん同一どういつされることによって顕示けんじされることであるが、そのことがまた、意味いみ志向しこうもとづけられるという表現ひょうげんによってあらわされることもある[12]。この対象たいしょう自体じたいがみずからを意識いしきへとあたえるありかたのことを自体じたいのうあずか(あるいは自体じたい所与しょよ)といい、自体じたいのうあずか志向しこうせいにおいてとらえて明証めいしょうどく:Evidenz)ともいわれる[13]明証めいしょうにはさまざまな程度ていどがあり、それにおうじて必当然とうぜんてきじゅう全的ぜんてきなどの分類ぶんるいがなされるが、本質ほんしつてきには「存在そんざいするものとその様態ようたいとについての経験けいけん」であり、程度ていどはさまざまであれすべての経験けいけん明証めいしょうせいっているということができる[14]

たとえば眼前がんぜん林檎りんごをありありと想像そうぞうするような志向しこうと、げんにいま眼前がんぜん林檎りんご知覚ちかくしている充実じゅうじつされた志向しこうでは、その林檎りんごという対象たいしょうへとかう志向しこう充実じゅうじつ度合どあいにおいて、後者こうしゃのほうが明証めいしょうてきである。しかしもちろんこれは林檎りんごという対象たいしょうへの志向しこうが、知覚ちかくという直観ちょっかんによって充実じゅうじつされたということであり、眼前がんぜんにある林檎りんごという超越ちょうえつてきなものの現実げんじつてき存在そんざいをそのまま証明しょうめいするものではない。つまりこのげんにいまあたえられた感覚かんかく与件よけんが、志向しこうせいにおいて意味いみ把握はあくてきすべにぎされ活性かっせいされ、そのかぎりでこの林檎りんごという対象たいしょうあたえられた。そして、この志向しこうされた対象たいしょう対象たいしょうそのものとして現在げんざいてきかつ直接ちょくせつ意識いしきへあらわれることこそが、対象たいしょう明証めいしょうてき自体じたいのうあずかである。だがこのような明証めいしょうてき知覚ちかくも、その対象たいしょうすべてがありありとじゅう全的ぜんてきにあらわれているわけではなく、いまだ知覚ちかくされていない部分ぶぶんっているてんや、想起そうき想像そうぞうなどのじゅん現在げんざいてき直観ちょっかん関係かんけいしているてんにおいて、完全かんぜん明証めいしょうてきといえるわけではない[15]。もし対象たいしょう現実げんじつてき存在そんざい証拠しょうこであるじゅう全的ぜんてきかつ完全かんぜん明証めいしょうあたえられるとすれば、それは内在ないざいてき直観ちょっかんによるものであり、外的がいてき知覚ちかくつまり超越ちょうえつてき直観ちょっかんによってそれがあたえられることはなく、超越ちょうえつてき対象たいしょう現実げんじつてき存在そんざい定立ていりつはその可能かのうせい可能かのうせいしてたか場合ばあいになされるという蓋然的がいぜんてきなものにとどまる[16]

しかしまた、われわれの認識にんしき妥当だとうせい根源こんげんてきには明証めいしょうあたえる直観ちょっかんによってしかたしかめることができず、それゆえに明証めいしょうてき直観ちょっかんこそが「一切いっさいしょ原理げんり原理げんり」といわれ、その明証めいしょうせい妥当だとうせいすらも、反省はんせいてき明証めいしょうてき直観ちょっかんによってあやまりをただしていくことでしか証明しょうめいすることができない[17]。そして、現象げんしょうがく深化しんかとともに、この明証めいしょう直観ちょっかんという概念がいねん、つまり理性りせい作用さようそのものが、フッサールにとって主題しゅだいてき解明かいめいされるべきものとなっていく。この理性りせい究明きゅうめいこそが発生はっせいてき現象げんしょうがくであり、そこでは直観ちょっかん直接ちょくせつせいよりも地平ちへい媒介ばいかいせい優位ゆういめるようになっていく[18]。このようにフッサールはたんなる直観ちょっかん主義しゅぎから脱却だっきゃくしていくが、それでもなおフッサールは直観ちょっかん反省はんせいという現象げんしょうがく立場たちば堅持けんじし、そこには事象じしょうそのものをありのままにとらえようとする現象げんしょうがく本質ほんしつてき志向しこうがみられる[18]。また、明証めいしょう真理しんり相関そうかんてき概念がいねんであるが、イデアの素朴そぼく実体じったいける現象げんしょうがく真理しんりそれ自体じたい一挙いっきょれることはできず、ただ直観ちょっかんによってちかづいていくことしかできないとされる。しかし、十分じゅうぶん明証めいしょうてき直観ちょっかんはどれほど反復はんぷくされても不変ふへんであるからこそ、フッサールによって「真理しんり体験たいけん」ともばれる[19][20]

また、フッサールとその現象げんしょうがく本質ほんしつ主義しゅぎ本質ほんしつ事実じじつ関係かんけい)については、フッサール以降いこう現象げんしょうがく展開てんかいにおいて、さまざまな議論ぎろん立場たちばまれている。ハイデガー存在そんざい本質ほんしつ存在そんざい事実じじつ存在そんざいのふたつにかつことから西洋せいよう存在そんざいろん、そして形而上学けいじじょうがくはじまったとしており、このふたつがかたれる以前いぜん始原しげん存在そんざいへとちかづくことが必要ひつようである、といている[21]メルロ=ポンティは、われわれの事実じじつせい認識にんしきしまた克服こくふくするための相対そうたい本質ほんしつせい領野りょうや必要ひつようとされ、本質ほんしつ目的もくてきではなく手段しゅだんである、とべている。

現象げんしょうがくてき還元かんげん

編集へんしゅう

上述じょうじゅつのように、がく基礎きそづけるためには真理しんり本質ほんしつ認識にんしき必要ひつようであり、その認識にんしき明証めいしょうてき直観ちょっかんによってしかなされえないが、ではがく基礎きそづけることが可能かのう絶対ぜったいてき明証めいしょうとはどんなものか、といういがまれる。このいがいかなるものかをるためには、まず明証めいしょうを、そしてさらにその明証めいしょうみだす志向しこうせいとしての意識いしきのありかたをめなければならない。つまり、対象たいしょう対象たいしょうとして構成こうせいする志向しこうてき意識いしき体系たいけいてき解明かいめいという超越ちょうえつろんてき課題かだいがあらわれてくる。さらに『論理ろんりがく研究けんきゅう』ののち、時間じかん意識いしき研究けんきゅうとともにふかまった志向しこうてき意識いしき自己じこ構成こうせいについての絶対ぜったいてき主観性しゅかんせい究明きゅうめいという動機どうきもあり[22]現象げんしょうがくてき還元かんげんどく:phänomenologische Reduktion)によって自然しぜんてき態度たいどはなれ、意識いしき志向しこうせいそのもへと視線しせんけることがもとめられてくる。ここにおいて現象げんしょうがくは、『論理ろんりがく研究けんきゅう』の時代じだいにはまだ払拭ふっしょくされきっていなかった記述きじゅつ心理しんりがくてき要素ようそ捨象しゃしょうし、理性りせいそのものの批判ひはんてき考察こうさつへと、すなわち超越ちょうえつろんてき現象げんしょうがくへと深化しんかされていく[23]

日常にちじょうてきに、自然しぜんてき態度たいどにおいてわたしたちは、自分じぶん存在そんざい世界せかい存在そんざいうたがったりはしない。わたしたちは、自分じぶんが「存在そんざいする」ことをっているし、わたしまわりの世界せかいもそこに存在そんざいしていることをうたがわない。フッサールはこの自然しぜんてき態度たいど根本こんぽんてき特徴とくちょうを、自明じめいてき世界せかい一般いっぱん定立ていりつとして批判ひはんする。そして、意識いしき志向しこうせいとらえるためにはあえてこの現象げんしょうがくてき還元かんげんというはん自然しぜんてき反省はんせいおこない、すでに定立ていりつされ実在じつざいしているとかんがえられている世界せかい意味いみ構成こうせいてき起源きげんである超越ちょうえつろんてき主観性しゅかんせい発見はっけんしなければならない。以下いかげたものは、意識いしき対象たいしょうへと素朴そぼくかっている遂行すいこうたいとしての自然しぜんてき態度たいど特徴とくちょうとして、フッサールがしめしたものである[24]

  1. 認識にんしき対象たいしょう意味いみ存在そんざい習慣しゅうかんてき自明じめいとみなしていること
  2. 世界せかい存在そんざい不断ふだん確信かくしん世界せかい関心かんしん枠組わくぐみを、暗黙あんもく前提ぜんていとしていること
  3. 世界せかい関心かんしんへの没入ぼつにゅうによる、意識いしき本来ほんらいてき機能きのうである理性りせい自己じこ忘却ぼうきゃく

このような態度たいどしたでは、人間にんげんみずからを「世界せかいなかのひとつの存在そんざいしゃ」として認識にんしきするにとどまり、世界せかい存在そんざいしゃ自体じたい意味いみ起源きげん問題もんだいとすることができない。科学かがくてき方法ほうほう依拠いきょする自然しぜん主義しゅぎてき態度たいどなどもまた、すでに前提ぜんていされた対象たいしょう一定いってい方法ほうほうてき視点してんから規定きていしようとするものであり、あらためて対象たいしょうとその構成こうせいうものではないというてんにおいて、自然しぜんてき態度たいどけんいきにとどまる[24]。このような問題もんだいあつかうために、フッサールは世界せかい関心かんしん抑制よくせいし、対象たいしょうかんするすべての自然しぜんてき態度たいど依拠いきょした判断はんだん理論りろん中止ちゅうしする(このような現象げんしょうがくてき態度たいどエポケー判断はんだん停止ていしといい、また譬喩ひゆてきに「括弧かっこれる」などともいわれる)ことで意識いしき機能きのうしているがままのそうにおいて方法ほうほう提唱ていしょうした[25]

しかし、このような態度たいど変更へんこう原理げんりてき可能かのうであるのか、といういがここでしょうじてくる。あるひとつの対象たいしょう定立ていりつ遮断しゃだんしたり、あるいは中止ちゅうししたりすることは可能かのうであろうが、自然しぜんてき態度たいどにおける一般いっぱん定立ていりつとは世界せかいそのものの定立ていりつであり、われわれが日常にちじょうにおいてうたがうことのないものであるから、そのようなものがはたしてうたがいえるのかといういが提出ていしゅつされる[26]。このようないにこたえるため、フッサールはここでデカルト普遍ふへんてき懐疑かいぎという方法ほうほう部分ぶぶんてき採用さいようする。すなわち、不可ふかうたぐてきなものを発見はっけんするためにデカルトがおこなった普遍ふへんてき懐疑かいぎから、うたぐてき定立ていりつ否定ひていという要素ようそ捨象しゃしょうし、不可ふかうたぐてき明証めいしょう発見はっけんという目的もくてきのためにこの方法ほうほうてき懐疑かいぎ使用しようするである。それゆえフッサールのエポケーはうたぐてきなものの定立ていりつ中止ちゅうしし、その定立ていりつ括弧かっこれるが、しかしその定立ていりつ否定ひていしたりはん定立ていりつ転化てんかすることはない[26]。このように現象げんしょうがくてき還元かんげんこそが、それ自体じたいとして絶対ぜったいてき不可ふかうたぐてきなものである超越ちょうえつろんてき主観性しゅかんせい発見はっけん方法ほうほうである。この超越ちょうえつろんてき現象げんしょうがくてき還元かんげんによってとりだされた超越ちょうえつろんてき主観性しゅかんせいとは、素朴そぼく対象たいしょう実在じつざい措定そていするという作用さよう遮断しゃだんされており、それゆえ対象たいしょう意識いしきによって構成こうせいされていることが自覚じかくされている。であるからこそ、意識いしき本質ほんしつてきなありかたである志向しこうせいという意識いしき対象たいしょう相関そうかん関係かんけい解明かいめいしていくことができる。

しかし、『イデーン』だいいちかんにおいてしめされているこの現象げんしょうがくてき還元かんげん方法ほうほう、いわゆる現象げんしょうがくてき還元かんげんのデカルトてき方途ほうとは、世界せかい存在そんざいうたぐせいたいして意識いしき存在そんざい不可ふかうたぐせい対置たいちし、その絶対ぜったいてき明証めいしょうせいによって純粋じゅんすい意識いしき領分りょうぶんへと一挙いっきょ飛躍ひやくしてしまうものであった[27]。それゆえ、意識いしきやその志向しこうせいへの考察こうさつ深化しんかしていくうちに、フッサールはこのデカルトてき方途ほうとからはなれていき、より現象げんしょうそのものをとらえている現象げんしょうがくてき還元かんげんデカルトてき方途ほうとさぐっていくこととなる。デカルトてき方途ほうとでは、世界せかい存在そんざいうたぐてきなものとしてしりぞけられていたが、現象げんしょうがくてき世界せかい考察こうさつ進展しんてんとともに、その世界せかい存在そんざいあるいは存在そんざいこそが現象げんしょうがくてき反省はんせいによって決定けっていされるべきもので、超越ちょうえつろんてき主観性しゅかんせいとしての意識いしき世界せかい相関そうかん関係かんけい解明かいめいをまたずして、世界せかい意識いしき明証めいしょうろんずるべきではないとされていった[28]。このように、現象げんしょうがくてき還元かんげんデカルトてき方途ほうとにおいて、世界せかい志向しこうてき意識いしき相関そうかんしゃとして現出げんしゅつしつつある世界せかいであり、こういった動態どうたいてき志向しこうせい把握はあくが、発生はっせいてき現象げんしょうがくへと発展はってんしていく。

超越ちょうえつろんてき主観性しゅかんせい

編集へんしゅう

現象げんしょうがくてき還元かんげんによって超越ちょうえつろんてき主観性しゅかんせいがとりだされたわけであるが、ここではまずデカルトてき方途ほうとによる還元かんげんとそれによってとりだされた超越ちょうえつろんてき主観性しゅかんせいについて概観がいかんあたえ、この還元かんげんによってこされると指摘してきされる問題もんだい叙述じょじゅつする。超越ちょうえつろんてき観念論かんねんろんについて指摘してきされた問題もんだい克服こくふくについては次項じこう志向しこうせい項目こうもくにおいてべる。

フッサールの超越ちょうえつろんてき現象げんしょうがくたいする自己じこ了解りょうかいは、しん存在そんざい認識にんしきはたらきとのあいだしょ連関れんかんあきらかにし、そして一般いっぱん作用さよう意識いしき対象たいしょうとのあいだ相関そうかん関係かんけい究明きゅうめいするというものだが、これは超越ちょうえつ意識いしきたいして超越ちょうえつしていること)と内在ないざい意識いしきたいして内在ないざいしていること)の関係かんけいをあきらかにすることによって認識にんしき一般いっぱん究極きゅうきょくてき基礎きそづけをたすという構想こうそうであった[29]。ここでいう超越ちょうえつ内在ないざい関係かんけいは、「あたえられていること」と「存在そんざいしていること」との関係かんけいへの考察こうさつによって樹立じゅりつされる。客観きゃっかんてき世界せかい認識にんしき主観しゅかんてき体験たいけん作用さようによって成立せいりつしているが、体験たいけん作用さようそのものにおいては所与しょよされたものと存在そんざいするものがかちがたくむすびついており、体験たいけん作用さようこそ認識にんしき確実かくじつせい明晰めいせきせいてん不可ふかうたぐてき明証めいしょうてきなものとしてあたえられている。

先述せんじゅつのように、フッサールはデカルトにならって現象げんしょうがくてき還元かんげんによりとりだされたこの絶対ぜったいてきコギト認識にんしき究極きゅうきょくてき源泉げんせんみとめた。『イデーン』だいいちかんではこの現象げんしょうがくてき還元かんげんへの解釈かいしゃくとして、現象げんしょうがく超越ちょうえつてきもの内在ないざいてき体験たいけんとをそのありかたにおいて究明きゅうめいし、もの体験たいけん存在そんざいについて決定けっていくだ超越ちょうえつろんてき観念論かんねんろん立場たちばをとるものとした。このかんがえでは超越ちょうえつてきものあたえられかたと内在ないざいてき体験たいけんあたえられかたとの区別くべつから、それぞれの存在そんざい領分りょうぶん区別くべつがみちびかれ、ものあたえられかたはつねにうつによって媒介ばいかいされているとされる。それゆえにもの所与しょよ存在そんざいもの存在そんざいそのものとは原理げんりてき一致いっちせず、それにたいして体験たいけん所与しょよ存在そんざい体験たいけん存在そんざいそのものとつねに合致がっちしているとかれ、この区別くべつから意識いしきたいする超越ちょうえつ内在ないざい区別くべつもみちびかれるわけである。しかしこのような認識にんしきのもとでは超越ちょうえつてきなものの存在そんざいけっして体験たいけんできず、もの領分りょうぶんしん領分りょうぶんまじわらずたがいに閉鎖へいさてきなものとなってしまい、それゆえにこういった超越ちょうえつてきなものを存在そんざいしゃとして認識にんしき対象たいしょうとみなすことそのものが無意味むいみになってしまう。そこで意識いしきというものは存在そんざい領域りょういき併存へいそんするたんなる存在そんざい領域りょういきのひとつではなく、むしろうつてきあたえられる超越ちょうえつてきなものがいかに存在そんざいするのかを決定けっていする絶対ぜったいてき場所ばしょとみなさなければならない[30]

こういった経緯けいいから、フッサールは意識いしき超越ちょうえつてきなものの所与しょよにつねに先立さきだつそれ自体じたいとして完結かんけつした絶対ぜったいてき存在そんざいであり、またそれにたいして超越ちょうえつてきなものの存在そんざい意識いしき依存いぞんする相対そうたいてき存在そんざいである、という結論けつろんをみちびきだした。このようにして、所与しょよ存在そんざい区別くべつ存在そんざいそのものの区別くべつ結合けつごうされ、志向しこうてき相関そうかん関係かんけい存在そんざい領分りょうぶん区別くべつとかさなり、存在そんざいとしての超越ちょうえつてきなものが志向しこうせい相関そうかんしゃとして把握はあくされる対象たいしょう存在そんざいへと転化てんかされ、これを構成こうせいする純粋じゅんすい意識いしきこそが絶対ぜったいてき存在そんざいであるとみなす超越ちょうえつろんてき観念論かんねんろん立場たちば樹立じゅりつされることとなった。しかしこの超越ちょうえつろんてき観念論かんねんろんによる認識にんしきろんてき意味いみにおける超越ちょうえつ形而上学けいじじょうがくてき意味いみにおける超越ちょうえつとの結合けつごうは、さまざまな問題もんだいこすこととなり、シェーラーなどによって形而上学けいじじょうがくてき独断どくだん批判ひはんされることとなった。たしかにこのようなかんがえは、あきらかにフッサールが超越ちょうえつてきなものの存在そんざい領分りょうぶんをはじめから相対そうたいてき自立じりつてきなものとしてあつかおうとしていたことをしめしており、そしてまたそれにたいして意識いしき超越ちょうえつてきなものの実在じつざい措定そていあるいははん措定そていという絶対ぜったいてき権能けんのうあたえられている。そこでは、対象たいしょう対象たいしょうであることと対象たいしょう現実げんじつ実在じつざいしていることのちがいを明確めいかく規定きていしないで、対象たいしょう存在そんざいという概念がいねん曖昧あいまい意味いみのまま使用しようしていたことがみとれる。このような両義りょうぎせいはフッサールのもちいる構成こうせい概念がいねんなどにも見受みうけられ、「フッサールの現象げんしょうがくうちふくまれる整合せいごうせい」として指摘してきされる[31]

しかし、このような形而上学けいじじょうがくてき独断どくだんかならずしもフッサールの現象げんしょうがくとその還元かんげん必然ひつぜんてき原理げんりてき誤謬ごびゅうであったわけではなく、むしろ超越ちょうえつろんてき現象げんしょうがくとは、内部ないぶ外部がいぶ内在ないざい超越ちょうえつをどちらか一方いっぽう依存いぞんする関係かんけいとしてとらえることによって成立せいりつするというよりも、内部ないぶ外部がいぶとの相関そうかん関係かんけいとしての志向しこうせい概念がいねん定位ていいし、この志向しこうせい本質ほんしつである世界せかい構成こうせいてきのうさくとしてのはたらきを解明かいめいしようとするというてんにおいて、超越ちょうえつろんてきである。それゆえ、たしかに意識いしき超越ちょうえつてきなものの存在そんざい存在そんざいを、志向しこうてき体験たいけんをとおして決定けっていする場所ばしょであるとはいえるが、それがそのまま意識いしき超越ちょうえつてきなものの存在そんざい領分りょうぶん相対そうたいまねくほどに絶対ぜったいてき存在そんざいであるということにはつながらない。現象げんしょうがくてき還元かんげんによる対象たいしょう定立ていりつ中止ちゅうし、また括弧かっこれとは、一度いちど対象たいしょう存在そんざいについての判断はんだん留保りゅうほすることであり、そういった超越ちょうえつてきなものの存在そんざい可否かひ先行せんこうてき決定けっていするものではない[11]

志向しこうせい

編集へんしゅう

超越ちょうえつろんてき現象げんしょうがくにおける対象たいしょう存在そんざい問題もんだいは、理性りせいそのものの批判ひはんてき考察こうさつつうじて、志向しこうせい解明かいめいとして展開てんかいされることとなる。この志向しこうせいとしての理性りせい解明かいめいこそ、フッサールの現象げんしょうがく中心ちゅうしんてき課題かだいであり、存在そんざい問題もんだい先行せんこう決定けっていによってではなく、存在そんざい問題もんだい留保りゅうほによってこそ理性りせい存在そんざいがその深層しんそうにおいてむすびついていることがあきらかとなる。

理性りせいとは、フッサールにおいては明証めいしょうてき直観ちょっかん、つまり存在そんざいするものを自体じたいのうあずかそうにおいてありのままにるということをあらわし、先述せんじゅつのように「すべてのはらてきあたえるはたらきをする直観ちょっかんこそは、認識にんしき正当せいとうせい源泉げんせんである」といわれるが、しかしその作用さようだけが理性りせいはたらきであるとされているわけではない。このようなはたらきのほかに、この作用さようによってとらえられた対象たいしょう現実げんじつにそこに存在そんざいすると措定そていするはたらきもまた、理性りせい機能きのうであるとされる[11]。フッサールにおける理性りせい概念がいねんは、対象たいしょう直接的ちょくせつてきるという契機けいき現実げんじつ存在そんざいすることを措定そていするという契機けいきとがかちがたくむすびついており、存在そんざいするものがるということは、その対象たいしょう現実げんじつに、またはしんるということを意味いみし、たん思念しねんされたものとしての対象たいしょうけっして同義どうぎではない。それは対象たいしょう意味いみ存在そんざい存在そんざいという述語じゅつごつことであり、相関そうかんてきには作用さよう真理しんり虚偽きょぎという述語じゅつごをともなうことである[32]

フッサールは『イデーン』だいいちかんのなかで「現実げんじつせいおよび現実げんじつせいをそれみずか明示めいじする理性りせい意識いしき」をあつかい、しんである存在そんざい対応たいおうする理性りせい意識いしきにあらためて「明証めいしょう」のあたえているが、これは、明証めいしょうにおいて対象たいしょう存在そんざいするものとして構成こうせいされることをあらわし、存在そんざいするものそれ自体じたいしめすところのものとしてけいれるということは、あたえられたものをその存在そんざいにおいて規定きていするということにほかならない。それゆえフッサールは『形式けいしき論理ろんりがく超越ちょうえつろんてき論理ろんりがく』のなかで「明証めいしょうとは、われわれにとって妥当だとうするあらゆる意味いみ真理しんりしん存在そんざい構成こうせいするものである」[33]といい、また志向しこうせいとの関係かんけいにおいて「明証めいしょうとは、(対象たいしょう)それ自身じしんあたえる志向しこうてきのうさくのことである。もっと精確せいかくえば、明証めいしょうとは《志向しこうせい》の、すなわち《なにかについての意識いしき》の普遍ふへんてき卓越たくえつした形態けいたいのことであり、この形態けいたいにおいては、志向しこうせいによって明証めいしょうてき意識いしきされた対象たいしょうは、それ自身じしん把握はあくされたもの、それ自身じしんられたもの、意識いしきそくして意識いしきそれ自身じしんがわにあるものという仕方しかた意識いしきされているのである」[34]べる。このように明証めいしょう自体じたいのうあずか認識にんしきとして、経験けいけんされる対象たいしょう存在そんざいかかわる意識いしきであり、したがって対象たいしょう真理しんりかう一切いっさい理性りせい問題もんだいたいする決定けっていけんっている。また、自体じたいのうあずかてきでない認識にんしきも、それ自体じたい真理しんりへの志向しこうち、すべての志向しこうせい明証めいしょうてき対象たいしょうへの充実じゅうじつ目指めざすという目的もくてきろんてき構造こうぞうゆうしている。志向しこうせい明証めいしょうせいのこの目的もくてきろんてき動態どうたいせいへの思惟しい深化しんかしていくとともに、フッサールの観念論かんねんろんてき自己じこ解釈かいしゃくはあまり目立めだたなくなる[35]

このように志向しこうせい本来ほんらいてき対象たいしょうをそれ自体じたいにおいてとらえようとし、明証めいしょう志向しこうせい一般いっぱんてき特徴とくちょうをあらわすものであるが、しかしすべての意識いしき完全かんぜん明証めいしょうつわけではない。先述せんじゅつのように対象たいしょう自体じたいのうあずかとしてのはたらきを直観ちょっかんぶが、この直観ちょっかんはさまざまな段階だんかいち、自体じたいのうあずかのなかでももっとも本源ほんげんてき直観ちょっかん根源こんげんてき明証めいしょうとみなし、のそれにして明証めいしょうせいひくいものをこの本源ほんげんてき直観ちょっかんから転化てんかした派生はせい様態ようたいであるとされる[36]。この自体じたいのうあずか本源ほんげんてき直観ちょっかんのひとつとして、知覚ちかくげられる。明証めいしょうてき本源ほんげんてき所与しょよせいつものとしては、知覚ちかく対象たいしょうだけではなく、判断はんだん事態じたい論理ろんり形式けいしき、またかずなどもげられるが、とく知覚ちかく本源ほんげんてき直観ちょっかん典型てんけいとしてつねに明証めいしょう原型げんけいてきなありかたとしてきあいにだされている。志向しこうせい充実じゅうじつとは、たんなる思念しねんとしての対象たいしょうへの関係かんけいが、対象たいしょう直観ちょっかん同一どういつされ、確証かくしょうされ、また顕示けんじされることであるが、知覚ちかく対象たいしょうをその自体じたいせいにおいて、つまり顕在けんざいてき現在げんざいせいにおいてとらえ、この意味いみでの志向しこうせい充実じゅうじつ典型てんけいである[12]。そこで知覚ちかく原型げんけいとする本源ほんげんてき意識いしき転化てんか様態ようたいさぐっていくと、この転化てんかされた本源ほんげんてき意識いしき様態ようたいとしては想起そうき想像そうぞうといった意識いしき該当がいとうすることが判明はんめいする。たとえば、昨日きのうながめたいえ想起そうきする場合ばあい、そこで意識いしきされているのは昨日きのう知覚ちかくしたいえであり、対象たいしょうとしてはおなという同一どういつせいたもったまま認識にんしきされているが、もはや眼前がんぜんにありありとした姿すがた自体じたいのうあずかとしてはあたえられていない。しかし、過去かこにおいて知覚ちかくという本源ほんげんてき意識いしき様態ようたいにおいて認識にんしきされたからこそ、それを想起そうきすることができ、想起そうき本源ほんげんてき意識いしきである知覚ちかく転化てんか様態ようたいとして知覚ちかく根源こんげんてき明証めいしょうからみずからの明証めいしょうみとっている[37]。このように想起そうき想像そうぞう知覚ちかくしてその明証めいしょうせい本源ほんげんせいてんおとるが、しかしそれらの志向しこうてき意識いしきもやはり直観ちょっかんてき表象ひょうしょうであり、たんなる空虚くうきょ思念しねんとしての意味いみ志向しこうくらべればそれなりの充実じゅうじつあたえる。それはたとえば、三角形さんかっけいという言葉ことば意味いみへのたんなる志向しこうが、ある具体ぐたいてき三角形さんかっけい想像そうぞうによって充実じゅうじつされるようなものである[38]

知覚ちかく代表だいひょうされる根源こんげんてき明証めいしょうは、もはやそれ以上いじょうさかのぼることのできない「究極きゅうきょくてきげん様態ようたいてきな臨在」であり、そこからすべての派生はせいてき様態ようたいにある意識いしきへんさま発生はっせいする。そして本源ほんげんてき意識いしきとはぎゃくに、本源ほんげんてき転化てんか様態ようたいにある意識いしきもまた、おのれのうちに本源ほんげんてき意識いしきさかのぼしめしている。この本源ほんげんてき意識いしきさかのぼしめせ志向しこうてき対象たいしょう意味いみのうちにふくまれている。そこで、志向しこうてき対象たいしょう意味いみを「手引てびき」とすることによって、本源ほんげんてき意識いしきへの反省はんせいてき遡源さくげん可能かのうとなってくる。この根源こんげんてき明証めいしょうへの段階だんかいてき転化てんか思想しそうは、まずだいいちに、同一どういつ対象たいしょうについて成立せいりつするさまざまな意識いしき統一とういつする紐帯ちゅうたい根源こんげんてき明証めいしょうであること、また根源こんげんてき明証めいしょう本源ほんげんてき意識いしき根源こんげんてき明証めいしょうをしかたない本源ほんげんてき意識いしきとは対立たいりつまたは分離ぶんりするものではなく、ひとつの統一とういつてき関係かんけい形成けいせいしょうぞくてき体系たいけいをつくるものである、というてんっている。まただいに、志向しこうせいたん対象たいしょうかんする意識いしきであるばかりではなく、意味いみてき含蓄がんちくされた意識いしき仕方しかたについての意識いしきであるということ、換言かんげんすれば意識いしきはあるものについての意識いしきであるばかりではなく、潜在せんざいてき意識いしきはたら自体じたいへの意識いしきでもあるをも示唆しさしている。つまり志向しこうせいは、意識いしき対象たいしょうとのたんそうてき関係かんけいをあらわす概念がいねんにとどまらず、志向しこうてき重層じゅうそうせい構造こうぞうつものとしての意識いしきをもあらわしている。だいさんに、いかなる意識いしき様態ようたいといえども根源こんげんてき明証めいしょうへの志向しこうてきかえ可能かのうせいつことがしめされている。これらのことにしめされているように、現象げんしょうがくてき反省はんせいはどれほど錯綜さくそうした意識いしきのもつれをもきほぐしていくことができるという可能かのうせいをあきらかにしている[39]志向しこうせいつこれらの特徴とくちょうは、やがて意味いみ潜在せんざいてき地平ちへいてき志向しこうせい反省はんせいと、それによる顕在けんざいてき体験たいけんへの遡源さくげんとして発生はっせいてき現象げんしょうがくにおいて方法ほうほうろんされていくこととなる[40]

また、このようにフッサールの志向しこうせい明証めいしょうへの考察こうさつをたどることで、現象げんしょうがくてき方法ほうほうとしての志向しこうてき分析ぶんせきがつぎのような示唆しさつことがあきらかとなる。それは、存在そんざいするものの明証めいしょうてき自体じたいのうあずか手引てびきとして、存在そんざいするものにかんする根源こんげんてきかつ厳密げんみつ知識ちしき探求たんきゅうがはじまるとき、それは必然ひつぜんてき意識いしき全体ぜんたい解明かいめいとして展開てんかいされなくてはならなかった、ということである。

ノエマ/ノエシス

編集へんしゅう

志向しこうせい現象げんしょうがくにおいてどのような役割やくわり概念がいねんであるのかをみたことによって、意識いしき対象たいしょう相関そうかん関係かんけいとしての志向しこうせい具体ぐたいてき分析ぶんせきへとることが可能かのうとなったわけであるが、この志向しこうせい分析ぶんせきにもちいられるのが、ノエシスまたはノエマ概念がいねんである。

志向しこうてき分析ぶんせき意識いしき本質ほんしつ構造こうぞうである志向しこうせい分析ぶんせきとして展開てんかいしていくが、この志向しこうせい作用さようてき側面そくめんをノエシス、対象たいしょうてき側面そくめんをノエマという。志向しこうせい具体ぐたいてき形態けいたい志向しこうてき体験たいけんであり、志向しこうてき体験たいけん内在ないざいてき作用さようてき側面そくめんがノエシスであり、超越ちょうえつてき対象たいしょうてき側面そくめんがノエマであるということもできる[41]。どのような志向しこうてき体験たいけんもおのれのうちにノエマをち、そのノエマもまた意味いみち、この意味いみによって対象たいしょう関係かんけいしている[42]。ノエシスは、まず意識いしき感覚かんかく与件よけんなどのヒュレー(素材そざいてき契機けいきあたえられ、それがノエシスてき契機けいきによって意味いみ付与ふよまたすべにぎされることによって活性かっせいされることであり、これらの過程かていはすべて志向しこうてき体験たいけん内在ないざいしておりそのてきなりもと構成こうせいしている。これにたいしてノエマは志向しこうてき体験たいけんてきではない構成こうせい要素ようそということができ、ノエマてき意味いみという意味いみされた対象たいしょう規定きてい契機けいきち、このノエマてき意味いみという内実ないじつに、対象たいしょうがいかにあるかという作用さようてき存在そんざい性格せいかく様相ようそうすなわちノエマにおけるノエシスてき契機けいきをふくむことによって、充実じゅうじつしたノエマあるいはまったきノエマとなる[43]。つまり、たとえば林檎りんごという対象たいしょう知覚ちかく志向しこうてき体験たいけんをこのノエシスとノエマの分類ぶんるいしたがって分析ぶんせきしていくと、まずわれわれの感官かんかんにある感覚かんかく与件よけんあたえられ、それを意味いみ付与ふよてきなノエシスてき作用さようすべにぎすることによって林檎りんごという対象たいしょう認識にんしきされ、またそのさいにすべにぎされた林檎りんごのノエマてき意味いみが、現実げんじつせいやあるいは架空かくうせいといった様相ようそうにおいてとらえることによって眼前がんぜんにある林檎りんごという対象たいしょうへと構成こうせいされる。

さらに、ノエマの存在そんざい性格せいかく様相ようそうには原型げんけいてき性格せいかく派生はせいてき性格せいかくがあり、これらの性格せいかく意識いしきへんさまのさまざまな可能かのうせいをあらわしている。このへんさまはノエマにおいて、ノエマ自体じたい段階だんかいてき性格せいかくしめすものとしてきざみこまれており、派生はせいてき段階だんかいにあるノエマは原型げんけいてきなノエマへの内的ないてき関係かんけいっている。そして、この内的ないてき関係かんけいによってノエマてき反省はんせいかくノエマの段階だんかい遡及そきゅうして原型げんけいへと到達とうたつすることができる[44][45]。このノエマてき反省はんせい方法ほうほう確立かくりつされたことによって、意識いしきのあらゆる潜在せんざいてき志向しこうせい顕在けんざいてき所与しょよへともたらすことが可能かのうとなった。これは現象げんしょうがくにおけるひとつのであり、のちの発生はっせいてき現象げんしょうがく発展はってん約束やくそくするものとなった。しかし、『イデーン』だいいちかんのなかであきらかにされたこの志向しこうてき分析ぶんせき方法ほうほうは、いまだ形式けいしきてきかつ静態せいたいてきなものにとどまっており、意識いしきしょへんさま本来ほんらい動態どうたいてきなものでその意識いしきへの遡及そきゅうてき分析ぶんせきもまた動態どうたいてきなものとならざるをえないことを十分じゅうぶんうったえてはいない[40]。この「意識いしき歴史れきしせい」の展開てんかいこそが、発生はっせいてき現象げんしょうがくへとつながる。

発生はっせいてき現象げんしょうがく

編集へんしゅう

生活せいかつ世界せかい

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運動うんどう感覚かんかく(キネステーゼ)

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ハイデッガーの解釈かいしゃくがくてき現象げんしょうがく

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現象げんしょうがく運動うんどう

編集へんしゅう

1900ねんにフッサールの『論理ろんりがく研究けんきゅう』がされると、ミュンヘン大学だいがく心理しんり学者がくしゃテオドール・リップス門下もんかアレクサンダー・プフェンダーらの共感きょうかんんだ。1905ねんにはフッサールのゲッティンゲン大学だいがくとミュンヘン大学だいがくあいだ学的がくてき交流こうりゅう開始かいしされ、いわゆる「現象げんしょうがく運動うんどう」が開始かいしされた。1906ねんにはマックス・シェーラーイェーナ大学だいがくからミュンヘン大学だいがく移籍いせきし、この運動うんどう合流ごうりゅうした。1913ねんからの『現象げんしょうがく年報ねんぽう刊行かんこうはそのひとつの結実けつじつであった。この初期しょきの、ミュンヘン大学だいがく中心ちゅうしん展開てんかいした現象げんしょうがく運動うんどうを「ミュンヘン学派がくは」あるいは「ミュンヘン現象げんしょうがく」とぶ。次第しだいにフッサールとミュンヘン学派がくは思想しそうてき相違そういから懸隔けんかくしょうじさせ、1916ねんにフッサールがフライブルク大学だいがくうつころには、その対立たいりつ決定的けっていてきになっていた。

フライブルク時代じだいのフッサールはあまり表面ひょうめんることはなかったが、この時期じき重要じゅうよう作業さぎょう研究けんきゅうみ、またおおくの後継こうけいしゃ育成いくせいした。とくにこの「フライブルク現象げんしょうがく時代じだいかれ後継こうけいしゃとしてあらわれ、現象げんしょうがく存在そんざいろんてき発展はってんひらいたのがハイデガーである。1927ねん現象げんしょうがく年報ねんぽう誌上しじょう発表はっぴょうされたハイデガーの『存在そんざい時間じかん』は、現象げんしょうおよび現象げんしょうがく明確めいかく規定きていさだめ、さらにフッサールの、意識いしき純粋じゅんすい存在そんざいとみなすかんがえを批判ひはんし、実存じつぞんてき人間にんげん存在そんざいであるげん存在そんざい存在そんざい体制たいせいとしての「世界せかいない存在そんざい構造こうぞう分析ぶんせきすすめられた。ハイデガーはさらに『根拠こんきょ本質ほんしつについて』、『形而上学けいじじょうがくとはなにか』で現象げんしょうがくてき存在そんざいろんふかめたが、1930年代ねんだいには方法ほうほうてき限界げんかい示唆しさするようになった。

だい世界せかい大戦たいせん現象げんしょうがくフランスうつして発展はってんした。 フランスでの現象げんしょうがく哲学てつがくしゃとしては、サルトル、レヴィナス、メルロ=ポンティ、ミシェル・アンリ、チャン・デュク・タオポール・リクールアロン・ギュルヴィッチジャン・フランソワ・リオタール、ジャック・デリダなどがいる。

学問がくもんにおける現象げんしょうがく

編集へんしゅう

現在げんざい科学かがく様々さまざま分野ぶんやにおいて現象げんしょうがくてき態度たいどりざたされている。けれども、ここでいう現象げんしょうがくてき態度たいどはフッサールの現象げんしょうがくやフッサールにつづ哲学てつがくしゃたちによるこのかたり使用しようとはことなっていることがあり、それは思想しそうとしての現象げんしょうがくたんなる事実じじつ記述きじゅつにとどまらないことによる。現象げんしょうがくてき記述きじゅつそなわったもっと科学かがくてきみは、意味いみ内容ないよう現象げんしょうがくのより根源こんげんてき意味いみによる。そのため科学かがくてきみはたとえば形相ぎょうそうてき還元かんげんのようなものをおこなわない。けれども、古典こてんてきほう現象げんしょうがくのような現象げんしょうがくぶんえだにおいても本来ほんらい現象げんしょうがくてき方法ほうほうがまだたもたれているということを直視ちょくししなければならない。

現象げんしょう学的がくてき」なる造語ぞうご一般いっぱん科学かがくでしばしば使つかわれ、そのうえ事柄ことがらたんに「現象げんしょうてき」という意味いみであることがある。しかし現象げんしょうてきなものはさしあたって仮象かしょうであり、うらかくされた真実しんじつなどではなく、あるいはたんなる現象げんしょうであって、認識にんしきたいして物理ぶつりてき、あるいは精神せいしんてき存在そんざい注意ちゅういはらわせているのではない。こうした「現象げんしょう主義しゅぎ実在じつざいろん反対はんたいである主観しゅかんてき観念論かんねんろんいち変種へんしゅ初期しょき実証じっしょう主義しゅぎによって現象げんしょうがく混乱こんらんさせられる。志向しこうせいエポケーたいする精確せいかく考察こうさつおよびその結果けっかによって実証じっしょう主義しゅぎとのちがいがあきらかになる。

ほう現象げんしょうがく

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ほう現象げんしょうがくはエドムント・フッサールにまでさかのぼり、まずだいいちほう哲学てつがくしゃアドルフ・ライナッハによって分化ぶんかさせられた。ヴィルヘルム・シャップはフッサールの弟子でしでもあるが、はじめのうちはライナッハによる批判ひはん作業さぎょういでいたが、のちにライナッハから離反りはんして独自どくじ歴史れきし現象げんしょうがく発展はってんさせた。その歴史れきし現象げんしょう学者がくしゃのようにかれらは現象げんしょうがく基盤きばんとしてそのうえこたえをつけようとしたが、それはただしかった。あるいは現象げんしょうがくてきないいまわしをすれば、ほう本性ほんしょうはなんであるか。ほう現象げんしょうがくドイツオランダでもまばらに信奉しんぽうしゃたが、イタリアスペインもっと有力ゆうりょくである。

自然しぜん科学かがくにおける現象げんしょうがくてき

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研究けんきゅう計画けいかくうえ実験じっけんデータを「はじめに概観がいかん」すること、系統けいとうだった科学かがくてき活動かつどう最初さいしょ局面きょくめん(資料しりょう収集しゅうしゅう)はしばしば現象げんしょうがくばれる。ここで「現象げんしょう学的がくてき」というのは事象じしょうそのものを記述きじゅつするための事実じじつとく意味いみしている。だから実験じっけん過程かてい可能かのうかぎ理論りろんたすけをりずに記述きじゅつされ(理論りろんそれ自体じたいはただ実験じっけん上部じょうぶ構造こうぞうおよ過程かていさだめるだけだから、それは条件じょうけんきで自然しぜんでありうるにすぎない)、概念がいねんにおけるひと思考しこう解釈かいしゃくせず、たんこったことが観察かんさつされる。現象げんしょうという概念がいねんは、ここでは基礎きそたいしてあるが、自然しぜん主義しゅぎてき現象げんしょうはなるほどふかものではあるが、論理ろんりてき理性りせいてき把握はあくできるような真理しんり奥底おくそこよこたわっているということは絶対ぜったいにありえない。

治療ちりょう理論りろんにおける現象げんしょうがくてき態度たいど

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ゲシュタルト療法りょうほう会話かいわ療法りょうほう、あるいはロゴセラピーといったひと治療ちりょう理論りろんにおいて、現象げんしょうがくはしばしば認識にんしきろん道具どうぐとして表面ひょうめんしている。フッサールにくわえて、マルティン・ブーバーのような哲学てつがくしゃもエマニュエル・レヴィナスのような現象げんしょう学者がくしゃ言及げんきゅうされた。カール・ヤスパース精神病せいしんびょう理学りがくてき現象げんしょうがく創立そうりつしゃである。拙速せっそく解釈かいしゃくたいして慎重しんちょうになることがすべての理論りろん共通きょうつうで、理論りろん完全かんぜんになることをのぞまず、むしろ経験けいけん自立じりつせい配慮はいりょされるとともに徐々じょじょ具体ぐたいてきになっていく日常にちじょう経験けいけんてき領域りょういき結合けつごうしていくようである。 それにともなってかれらはたしかにたん方法ほうほうろんてき接近せっきん方式ほうしきとしての現象げんしょうがく考察こうさつする。フッサールが理論りろんをとてもうまく運用うんようして反射はんしゃてき記述きじゅつ実行じっこうすることはこういった療法りょうほう実行じっこうにおいては表面ひょうめんしない。反射はんしゃてき精密せいみつさと超越ちょうえつろんてき問題もんだいせいはこういって実行じっこうにおいては議題ぎだいとはならない。こういうてん現象げんしょうがく語法ごほうはフッサールの思想しそうにおいてはたん限定げんていされた意味いみ現象げんしょうがくてきであって、現象げんしょうがくたいして理論りろんてき基盤きばんがある、たんに観念かんねん連合れんごうてきなのである。

現象げんしょう学者がくしゃおよ現象げんしょうがく影響えいきょうあたえた理論りろん

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 木田きだ 1970:20
  2. ^ フッサール、立松たてまつ 1968:7
  3. ^ フッサール、はまうず 2001:68
  4. ^ 立松たてまつ 2009:234
  5. ^ a b 立松たてまつ 2009:153
  6. ^ 新田にった 2013:40
  7. ^ 新田にった 2013:41
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参考さんこう文献ぶんけん

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