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中野清 (政治家) - Wikipedia

中野なかのきよし (政治せいじ)

日本にっぽん政治せいじ

中野なかの きよし(なかの きよし、1936ねん1がつ1にち[2][3] - )は、日本にっぽん政治せいじ自由民主党じゆうみんしゅとう所属しょぞくもと衆議院しゅうぎいん議員ぎいん(4)。

中野なかの きよし
なかの きよし
生年月日せいねんがっぴ (1936-01-01) 1936ねん1がつ1にち(88さい
出生しゅっしょう 日本の旗 日本にっぽん 埼玉さいたまけん川越かわごえ[1]
出身しゅっしんこう 明治大学めいじだいがく政治せいじ経済学部けいざいがくぶ
ぜんしょく 会社かいしゃ役員やくいん
埼玉さいたま県議会けんぎかい議員ぎいん
川越かわごえ議会ぎかい議員ぎいん
所属しょぞく政党せいとう自由民主党じゆうみんしゅとう→)
新進党しんしんとう→)
改革かいかくクラブ→)
自由民主党じゆうみんしゅとう伊吹いぶき
称号しょうごう 経済けいざい学士がくし
親族しんぞく 長男ちょうなん中野なかの英幸ひでゆき衆議院しゅうぎいん議員ぎいん

選挙せんきょ埼玉さいたま7→)
比例ひれい北関東きたかんとうブロック→)
埼玉さいたま7
当選とうせん回数かいすう 4かい
在任ざいにん期間きかん 1996ねん - 2009ねん7がつ21にち

選挙せんきょ 西にしだい7
当選とうせん回数かいすう 4かい
在任ざいにん期間きかん 1981ねん - 1993ねん

当選とうせん回数かいすう 3かい
在任ざいにん期間きかん 1971ねん - 1979ねん
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経歴けいれき

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1971ねん保守ほしゅけい無所属むしょぞく川越かわごえ市議会しぎかい議員ぎいんとして立候補りっこうほし、市議会しぎかい議員ぎいん連続れんぞく2つとめる。当時とうじ埼玉さいたま県議会けんぎかい議員ぎいん川越かわごえ選出せんしゅつ)であった舟橋ふなばし功一こういち衆議院しゅうぎいん選挙せんきょ出馬しゅつば川越かわごえ選挙せんきょ対策たいさく責任せきにんしゃ担当たんとうした。舟橋ふなばし衆議院しゅうぎいん選挙せんきょ落選らくせん支持しじしゃへの相談そうだん一切いっさいないまま自由民主党じゆうみんしゅとう離党りとう新自由しんじゆうクラブ入党にゅうとうしたため、中野なかの舟橋ふなばしたもとかち、自身じしん保守ほしゅけい無所属むしょぞく市議会しぎかい議員ぎいんとして川越かわごえ市議会しぎかいふく議長ぎちょうなどをつとめた。

1983ねん埼玉さいたま県議会けんぎかい議員ぎいんはつ当選とうせん連続れんぞく3トップ当選とうせんたした。中野なかの本人ほんにん県議会けんぎかい議員ぎいんであった当時とうじ川越かわごえふくきゅう埼玉さいたま2では、保守ほしゅけい候補こうほとしては自由民主党じゆうみんしゅとう小宮山こみやましげる四郎しろう新自由しんじゆうクラブの山口やまぐち敏夫としおがいた。当時とうじなか選挙せんきょでは、自民党じみんとう県議けんぎだん一員いちいんとして活動かつどうした。当時とうじ自民党じみんとう埼玉さいたま県議けんぎだんは、山口やまぐち敏男としおけい土屋つちや義彦よしひこけいの2自民党じみんとう県議けんぎだん構成こうせいしていたが、中野なかの土屋つちや義彦よしひこけい県議けんぎとして活動かつどうした。県議けんぎ辞任じにんする当時とうじ中野なかの自由民主党じゆうみんしゅとう埼玉さいたまけん支部しぶ連合れんごうかい広報こうほうふく部長ぶちょう担当たんとうしていた。

1993ねん川越かわごえ市長しちょう選挙せんきょに、当時とうじ市長しちょう川合かわい喜一きいち後継こうけい指名しめいけ、保守ほしゅけい無所属むしょぞく立候補りっこうほした。前年ぜんねん1992ねん埼玉さいたま県知事けんちじ選挙せんきょ候補者こうほしゃ選定せんていさいに、「不退転ふたいてん決意けつい」で出馬しゅつば表明ひょうめいした当時とうじ参議院さんぎいん議長ぎちょう土屋つちや義彦よしひこ出馬しゅつば辞退じたい画策かくさくした金丸かねまるしんなどの一派いっぱであった山口やまぐち敏夫としお当時とうじ自民党じみんとうふくとう)が川越かわごえ地盤じばん回復かいふく企図きとし、早々そうそう支援しえん表明ひょうめいした。これにたいして、小宮山こみやまは「中野なかの山口やまぐちけい市長しちょう候補こうほ」と判断はんだん対立たいりつ候補こうほさがしをおこない、過去かこ小宮山こみやま衆議院しゅうぎいん選挙せんきょたたかやぶれた舟橋ふなばし功一こういち白羽しらはてたため保守ほしゅ勢力せいりょく支持しじそうがねじれ状態じょうたいとなり、川越かわごえ市長しちょうせん小宮山こみやま山口やまぐち代理だいり戦争せんそう様相ようそうせたものとなった。 その結果けっか自民党じみんとう保守ほしゅ勢力せいりょく一部いちぶ民社党みんしゃとう支持しじする中野なかの自民党じみんとう保守ほしゅ勢力せいりょく一部いちぶ社会党しゃかいとう共産党きょうさんとう表面ひょうめんじょう支持しじ表明ひょうめいはせず)が支持しじする舟橋ふなばしという構図こうずとなった(公明党こうめいとう自主じしゅ投票とうひょう)。結果けっかは、わずか389ひょう中野なかの川越かわごえ市長しちょう選挙せんきょやぶれた。

1996ねんそう選挙せんきょ埼玉さいたま7での衆議院しゅうぎいん選挙せんきょ出馬しゅつば決意けつい当時とうじ自民党じみんとう現職げんしょく小宮山こみやましげる四郎しろうがいたこともあり、自由民主党じゆうみんしゅとう離党りとうし、新進党しんしんとう入党にゅうとうして公認こうにんけての出馬しゅつばとなった。選挙せんきょ直前ちょくぜん小宮山こみやましげるよんろう急逝きゅうせいしたのちいだ自民党じみんとう公認こうにん小宮山こみやまとおるやぶり、衆議院しゅうぎいん議員ぎいんはつ当選とうせんたした。以後いご4連続れんぞく当選とうせんたしている。川越かわごえ市政しせいにおいては対立たいりつ候補こうほであった舟橋ふなばし川越かわごえ市長しちょう支援しえんしている。

1997ねん新進党しんしんとう埼玉さいたま県連けんれん会長かいちょう就任しゅうにん、そのおこなわれた新進党しんしんとう党首とうしゅせんでは当時とうじ党首とうしゅ候補こうほだった小沢おざわ一郎いちろう党内とうない融和ゆうわ促進そくしんなど5つの要請ようせいおこな埼玉さいたま県連けんれんあげて支持しじしたが、党首とうしゅせんからわずか4にち小沢おざわ一郎いちろう党首とうしゅにより新進党しんしんとう解党かいとうへのみち辿たどった。

1998ねん新進党しんしんとう解党かいとう翌年よくねん埼玉さいたま県内けんないから選出せんしゅつされた議員ぎいん中心ちゅうしんとなり発足ほっそくした改革かいかくクラブ所属しょぞくし、保守ほしゅけい議員ぎいんとして活動かつどうした。

1998ねん発生はっせいした台風たいふう4ごうによる水害すいがいたいして、激甚げきじん災害さいがい指定していけること成功せいこう河川かせん激甚げきじん災害さいがい対策たいさく特別とくべつ緊急きんきゅう事業じぎょうにより、新河岸川しんがしがわ不老おいずがわへの水害すいがい対策たいさくおこなわれた。

2000ねん県議会けんぎかい議員ぎいん時代じだいぞくしていた自由民主党じゆうみんしゅとうふくとうし、同年どうねんそう選挙せんきょでは自民党じみんとうから出馬しゅつばし、再選さいせん自民党じみんとうふく幹事かんじちょう歴任れきにん

2003ねんそう選挙せんきょでは、 小宮山こみやましげる四郎しろうむすめ小宮山こみやま泰子やすこ民主党みんしゅとう)に惜敗せきはいするも比例ひれい北関東きたかんとうブロック復活ふっかつ当選とうせんした。

2005ねんそう選挙せんきょで4せん財務ざいむ大臣だいじん政務せいむかん法務大臣ほうむだいじん政務せいむかん厚生こうせい労働ろうどうふく大臣だいじん労働ろうどう担当たんとう)、自民党じみんとうふく幹事かんじちょう(2かい)、衆議院しゅうぎいん内閣ないかく委員いいんちょう歴任れきにん商店しょうてんがいよみがえらせる行動こうどう政策せいさく研究けんきゅうかい通称つうしょうあきんど議連ぎれん会長かいちょうつとめた。

2009ねんだい45かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょには公明党こうめいとう推薦すいせんけて出馬しゅつば[4]するも、しょう選挙せんきょ民主党みんしゅとう小宮山こみやま泰子やすこふたた惨敗ざんぱい比例ひれい代表だいひょう出馬しゅつばについては、73さい未満みまんさだめた自民党じみんとう党規とうきしたが比例ひれい代表だいひょうとしての出馬しゅつばはしておらず、しょう選挙せんきょのみの出馬しゅつばであった。

だい45かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ結果けっかに、中央ちゅうおう政界せいかいから引退いんたい表明ひょうめいした。

人物じんぶつ

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埼玉さいたまけん川越かわごえまれ[1]。7さいとき太平洋戦争たいへいようせんそうだい東亜とうあ戦争せんそう)でちちくし、4にん兄弟きょうだい長男ちょうなんとして祖父そふははそだてられる。川越かわごえ市立しりつ川越かわごしだいいち小学校しょうがっこう川越かわごえ市立しりつ川越かわごしだいいち中学校ちゅうがっこう埼玉さいたま県立けんりつ川越かわごえ高等こうとう学校がっこうて、明治大学めいじだいがく政治せいじ経済学部けいざいがくぶ卒業そつぎょう

大学だいがく卒業そつぎょう実家じっか家業かぎょうである地元じもと和菓子わがし製造せいぞう販売はんばい会社かいしゃ「なかじまや」(のち有限ゆうげん会社かいしゃくらづくり本舗ほんぽ改組かいそ改称かいしょう卒業そつぎょう当時とうじ店舗てんぽすうは1店舗てんぽ)を経営けいえいする。

父母ちちははがクリスチャン(プロテスタント)で川越かわごえはつかり教会きょうかい関係かんけいがあるが、本人ほんにんをはじめ一族いちぞくとしては天台宗てんだいしゅう喜多きたいん檀徒だんとである。

自民党じみんとうもと埼玉さいたま県議会けんぎかい議員ぎいん衆議院しゅうぎいん議員ぎいん中野なかの英幸ひでゆき[3]長男ちょうなん

所属しょぞくしていた団体だんたい議員ぎいん連盟れんめい

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脚注きゃくちゅう

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関連かんれん項目こうもく

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議会ぎかい
先代せんだい
河本かわもと三郎さぶろう
  衆議院しゅうぎいん内閣ないかく委員いいんちょう
2007ねん - 2008ねん
次代じだい
渡辺わたなべのう
公職こうしょく
先代せんだい
衛藤えとう晟一せいいち
西にし博義ひろよし
  厚生こうせい労働ろうどうふく大臣だいじん
西にし博義ひろよし赤松あかまつ正雄まさお共同きょうどう

2005ねん - 2006ねん
次代じだい
石田いしだほうりみのる
武見たけみ敬三けいぞう
先代せんだい
下村しもむら博文ひろぶみ
  法務大臣ほうむだいじん政務せいむかん
2002ねん -2004ねん
次代じだい
富田とみた茂之しげゆき
先代せんだい
大野おおの松茂まつしげ
砂田すなだけいたすく
  財務ざいむ大臣だいじん政務せいむかん
林田はやしだぴょう共同きょうどう

2001ねん - 2002ねん
次代じだい
砂田すなだけいたすく
吉田よしだ幸弘ゆきひろ