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九七式軽迫撃砲 - Wikipedia

きゅうななしきけい迫撃はくげきほう

きゅうななしきけい迫撃はくげきほう(97しきけいはくげきほう)は、大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐん迫撃はくげきほうである。とししき皇紀こうき2597ねん昭和しょうわ12ねん西暦せいれき1937ねん)をしめきゅうななしきであるが、これは設計せっけい開始かいしまたは試製しせい完了かんりょう年度ねんどからったものとおもわれる。実際じっさい制式せいしき制定せいてい1943ねん昭和しょうわ18ねん)3がつであった。

きゅうななしきけい迫撃はくげきほう
制式せいしきめい きゅうななしきけい迫撃はくげきほう
ほう口径こうけい 90.5mm
砲身ほうしんちょう 1,300mm
放列ほうれつ砲車ほうしゃ重量じゅうりょう 106.5kg (床板とこいたかぶとおよ照準しょうじゅんふくむ)
173.5kg (床板とこいたおつ重量じゅうりょう67kgをふくむ)
砲弾ほうだん初速しょそく 227m/びょう
射程しゃてい 100~3,800m
発射はっしゃ速度そくど 20はつ/ぶん(普通ふつうだん)
15はつ/ぶん(大型おおがただん)
みず平射へいしゃかい 12.7
俯仰ふぎょうかく +45 - +85
使用しようだんしゅ きゅうよんしき榴弾りゅうだん
きゅうよんしきじゅう榴弾りゅうだん
しき榴弾りゅうだん
しきじゅう榴弾りゅうだん
使用しよう勢力せいりょく 大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐん

概要がいよう

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大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐんどくガスだん発射はっしゃようとしてきゅうよんしきけい迫撃はくげきほう開発かいはつしていたが、どうほうちゅう退すさふく装備そうびしていたので構造こうぞう複雑ふくざつであり、生産せいさん効率こうりつひく使つか勝手がってくなかった。

ほんほうきゅうよんしきけい迫撃はくげきほうからちゅう退すさふく省略しょうりゃくして運動うんどうせい向上こうじょう構造こうぞう簡略かんりゃくはかったものである。

1937ねん昭和しょうわ12ねん)10がつ設計せっけい着手ちゃくしゅ翌年よくねん3がつ試製しせい完了かんりょうした。ほんほう設計せっけい要点ようてんであり難点なんてんきゅうよんしきけい迫撃はくげきほうちゅう退すさふくはいし、大型おおがた床板とこいた発射はっしゃ反動はんどうめるものとされたことであった。おなじくちゅう退すさふくはいしたきゅうななしきちゅう迫撃はくげきほう同時どうじ研究けんきゅうがなされた。床板とこいた研究けんきゅうにはなが時間じかんかかり、1940ねん昭和しょうわ15ねん)6がつようやはがねせいほん床板とこいた床板とこいたかぶと」)のしたかしいたせい大型おおがたふく床板とこいた床板とこいたおつ」)をかたち発射はっしゃ床板とこいた陥没かんぼつふせぐことと決定けっていした。床板とこいたおつ」をふくめた重量じゅうりょうきゅうよんしきけい迫撃はくげきほう上回うわまわっている。かり制式せいしき上申じょうしん同年どうねん9がつだが、制式せいしき制定せいてい1943ねん昭和しょうわ18ねん)3がつとなった。

制式せいしきめいは「きゅうななしき」であるが、後述こうじゅつのように本格ほんかくてき生産せいさんはじまったのは制式せいしき制定せいていであると推測すいそくされる。

大阪おおさか造兵ぞうへいしょうだいいち製造せいぞうしょ調査ちょうさによると1942ねん昭和しょうわ17ねん)10がつ現在げんざいまでの生産せいさんすう火砲かほう製造せいぞう完成かんせいすう)は159もんであった。[1]

太平洋たいへいよう戦線せんせんで、おも南方なんぽう使用しようされた。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 日本にっぽん陸軍りくぐん火砲かほう 迫撃はくげきほう 噴進ほう 」109ぺーじどうぺーじには「制式せいしき制定せいてい生産せいさん本格ほんかくし、やく600もん生産せいさんされたと推定すいていされる。」とある。

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 佐山さやま二郎じろう日本にっぽん陸軍りくぐん火砲かほう 迫撃はくげきほう 噴進ほう 光人みつひとしゃNF文庫ぶんこ ISBN 978-4-7698-2676-7 2011ねん 109-116ぺーじ

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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