(Translated by https://www.hiragana.jp/)
判断力批判 - Wikipedia

判断はんだんりょく批判ひはん

イマヌエル・カントの主著しゅちょ

判断はんだんりょく批判ひはん』(はんだんりょくひはん、どく: Kritik der Urteilskraft)はイマヌエル・カント1790ねん刊行かんこうした哲学てつがくしょである。上級じょうきゅう理性りせい能力のうりょくのひとつである判断はんだんりょく統制とうせいてき使用しよう批判ひはん主題しゅだいとする。しばしばだいさん批判ひはんともばれる。だい一部いちぶ美的びてき判断はんだんりょく批判ひはんだい目的もくてきろんてき判断はんだんりょく批判ひはんからなり、判断はんだんりょく理性りせい感性かんせい調和ちょうわてき媒介ばいかいする能力のうりょくみとめ、これが実践じっせん理性りせい象徴しょうちょうとしての道徳どうとくてき理想りそうかみ人間にんげんかわせる機縁きえんとなることをく。

どう時代じだい哲学てつがく芸術げいじゅつ理論りろん影響えいきょうあたえただけでなく、美学びがく目的もくてきろん自然しぜん哲学てつがくにおいては現代げんだいまれる古典こてんてき大著たいちょである。まただい1はん序論じょろん通称つうしょうだい1序論じょろん判断はんだんりょく批判ひはんだけでなく、カントの批判ひはん哲学てつがく展開てんかい全体ぜんたいかんがえるうえ重要じゅうようしょであり、カッシーラー哲学てつがくしゃからも注目ちゅうもくされる。

成立せいりつ事情じじょう

編集へんしゅう

当初とうしょは「趣味しゅみ判断はんだん批判ひはん」として構想こうそうされたが、のちにカントは、美的びてき判断はんだんである趣味しゅみ判断はんだん目的もくてきろんてき判断はんだんが、根底こんていにおいて同一どういつ原理げんりち、統制とうせいてき判断はんだんりょくというひとつの能力のうりょく展開てんかいとして説明せつめいされうるという構想こうそうをうるにいたった。これはだいいち批判ひはん純粋じゅんすい理性りせい批判ひはん』から『プロレゴーメナ』をだい批判ひはん実践じっせん理性りせい批判ひはん』へといたるカントの思索しさく展開てんかい、とりわけ理性りせいについての把握はあく構想こうそうりょく概念がいねん展開てんかい反映はんえいしている。このため最初さいしょ構想こうそうになかった目的もくてきろんてき判断はんだんりょく批判ひはんかれ、だい1はんは1790ねん出版しゅっぱんしゃド・ラ・ガルドによってベルリンで刊行かんこうされた。のちにカントは、みずからの批判ひはん哲学てつがく体系たいけい解説かいせつでもあるだい1はん序論じょろん全面ぜんめんてきなおした。以後いごはんにはだい2はん以降いこう序論じょろんがつねにつけられ、だい1はん序文じょぶんとくに『判断はんだんりょく批判ひはんだい1序論じょろん』(たんに『だい1序論じょろん』とも)とぶ。

概論がいろん

編集へんしゅう

本書ほんしょ主要しゅよう概念がいねんである「趣味しゅみ判断はんだん」(または「美的びてき判断はんだん」)とは、人間にんげん物事ものごとよしみにく判断はんだんするさい、その判断はんだん基準きじゅん個人こじん趣味しゅみドイツ: Geschmack ; 英語えいご: taste)であるということを意味いみする。たとえば「このバラはうつくしい」と判断はんだんする場合ばあいには、個人こじん感性かんせい表象ひょうしょうからおこなわれたと解釈かいしゃくされる。ここでおこなわれる判断はんだんとは、対象たいしょう性質せいしつ認識にんしきすることによっておこなわれる判断はんだんではないというかんがかたである。そしてこの趣味しゅみ判断はんだん美醜びしゅう判断はんだんするさいには、かい基準きじゅんとして判断はんだんされるということであり、あるものうつくしいものと知覚ちかくしたならばそれは自身じしんにとって快楽かいらくをもたらすこととなるものであり趣味しゅみであるという立場たちばとなる。ぎゃくみにくいと知覚ちかくしたものならば、それは自身じしん苦痛くつうをもたらすこととなるものになるというわけである。ここでの知覚ちかく人間にんげんにとってもっと単純たんじゅん事柄ことがらでもあるというわけであり、趣味しゅみ判断はんだんというのはこのような単純たんじゅんかたちおこなわれていると位置付いちづけられる。

純粋じゅんすい趣味しゅみ判断はんだんは、感覚かんかく様式ようしきにおける純粋じゅんすい形式けいしき把握はあくする。ぜんとはことなり、概念がいねんおよび関心かんしんをもたない愉悦ゆえつ対象たいしょうである。判断はんだんにおいては想像そうぞうりょく悟性ごせいとは一致いっちする。これにたい崇高すうこうにおいては想像そうぞうりょく理性りせいとのあいだには矛盾むじゅんがある。崇高すうこうは、それとの比較ひかくにおいて一切いっさいちいさいところのものであり、感性かんせい一切いっさい基準きじゅんえる純粋じゅんすい理性りせいそのものにおける愉悦ゆえつである。

天賦てんぷ才能さいのうである天才てんさいは、芸術げいじゅつたいして規則きそくあたえる。天才てんさい作品さくひんはんがたてきであり流派りゅうはをもつ。美的びてき芸術げいじゅつは、言語げんごてき造形ぞうけいてき感覚かんかく遊戯ゆうぎてき区分くぶんされる。最高さいこうのものは芸術げいじゅつであり、悟性ごせい実現じつげんするものとしての想像そうぞうりょく自由じゆう遊戯ゆうぎである。

美的びてき技術ぎじゅつである趣味しゅみ判断はんだんは、芸術げいじゅつにとってくことができない条件じょうけんとしてもっと重要じゅうようであり、ゆえに、いかなる天才てんさいといえども趣味しゅみ判断はんだん服属ふくぞくさせることはできない。もしも趣味しゅみ判断はんだん天才てんさいふたつの特性とくせい対立たいりつする場合ばあいに、どちらかが犠牲ぎせいにならざるをないのならば、その犠牲ぎせいはむしろ天才てんさいがわにおいてしょうじざるをない。恣意しいてき概念がいねん作用さようよりも、芸術げいじゅつ内実ないじつてき美的びてき技術ぎじゅつすなわち趣味しゅみ決定的けっていてき優先ゆうせんされるのである。

自然しぜん目的もくてき概念がいねんは、構成こうせいてきした物質ぶっしつ適所てきしょれる。有機物ゆうきぶつにおいてはなにものも無駄むだでない。またたとえば一本いっぽん種族しゅぞくあるいは個体こたいとして自己じこ生産せいさんする。自然しぜん所産しょさんにおいての目的もくてき原理げんりは、自然しぜん特殊とくしゅ法則ほうそく探究たんきゅうするための発見はっけんてき原理げんりである。ぜん自然しぜん理念りねんは、原因げんいんはつねに目的もくてきろんてき判断はんだんされねばならないという課題かだいすものである。

はいわば道徳的どうとくてきなるものの象徴しょうちょうである。道徳どうとくてき本質ほんしつとしての人間にんげん現存げんそんは、みずからに最高さいこう目的もくてきそのものをもつ。かみ概念がいねん見出みいだしたのは理性りせい道徳どうとくてき原理げんりであり、かみ現存げんそん内的ないてき道徳どうとくてき目的もくてき規定きていは、最高さいこう原因げんいんせい思惟しいすべきことを指示しじして自然しぜん認識にんしき補足ほそくするものである。

構成こうせい

編集へんしゅう
  • 美学びがくてき判断はんだんりょく批判ひはん
    • 美学びがくてき判断はんだんりょく分析ぶんせきろん
      • よし分析ぶんせきろん
        • 趣味しゅみ判断はんだんだいいち様式ようしき - 「性質せいしつ
        • 趣味しゅみ判断はんだんだい様式ようしき - 「分量ぶんりょう
        • 趣味しゅみ判断はんだんだいさん様式ようしき - 目的もくてきの「関係かんけい
        • 趣味しゅみ判断はんだんだいよん様式ようしき - 対象たいしょうの「様態ようたい
      • 崇高すうこう分析ぶんせきろん
        • 数学すうがくてき崇高すうこうについて
        • 力学りきがくてき崇高すうこうについて
    • 美的びてき判断はんだんろんべんしょうろん
  • 目的もくてきろんてき判断はんだんりょく批判ひはん
    • 目的もくてきろんてき判断はんだんりょく分析ぶんせきろん
    • 目的もくてきろんてき判断はんだんりょくべんしょうろん

訳本やくほん

編集へんしゅう

関連かんれん項目こうもく

編集へんしゅう

外部がいぶリンク

編集へんしゅう