北平きたひら郡ぐん(ほくへい-ぐん)は、中国ちゅうごくにかつて存在そんざいした郡ぐんである。
北きた魏たかしが右みぎ北平きたひら郡ぐんを継承けいしょうして設置せっち。平たいら州しゅうに属ぞくし、朝鮮ちょうせん・新あたらし昌あきらの2県けんを領りょうした。
北きた斉ひとしの時代じだい、朝鮮ちょうせんを省はぶいて新しん昌あきら・肥こえ如の2県けんを領りょうした。
隋ずいの開ひらき皇すめらぎ6年ねん(586年ねん)に肥こえ如県を省はぶき、開ひらき皇すめらぎ18年ねん(598年ねん)に盧の龍りゅう県けんと改名かいめい。大業おおわざ(605年ねん – 618年ねん)の初はじめに北平きたひら郡ぐんを設置せっちして1県けんを領りょうし、冀州に属ぞくした。
唐とうの武徳ぶとく2年ねん(619年ねん)、北平きたひら郡ぐんを平たいら州しゅうと改名かいめいし、臨渝・肥こえ如の2県けんを領りょうした。その年とし、臨渝県けんから肥こえ如県に県けん治ち(役所やくしょ)を移うつし、盧の龍りゅう県けんと改名かいめい、更さらに撫なで寧やすし県けんを置おいた。武徳ぶとく7年ねん(624年ねん)に臨渝・撫なで寧やすしの2県けんを省はぶき、盧の龍りゅうの1県けんとなる。武たけ周あまねの万歳ばんざい通どおり天てん2年ねん(697年ねん)、石城せきじょう県けんを置おく。開ひらき元もと28年ねん(740年ねん)、盧の龍りゅう県けんから馬城ばじょう県けんを分離ぶんりし3県けんとなる。天宝てんぽう元年がんねん(742年ねん)、ふたたび北平きたひら郡ぐんと改名かいめい。乾いぬい元はじめ元年がんねん(758年ねん)、ふたたび平たいら州しゅうとなり、これ以後いご北平きたひら郡ぐんの名なは使つかわれなくなる。
北きた魏たかしの孝昌たかまさ年間ねんかん(525年ねん – 528年ねん)に、中山ちゅうざん郡ぐんから蒲かば陰かげ・北平きたひら・望都もとの3県けんを分離ぶんりして北平きたひら郡ぐんとした。定てい州しゅうに属ぞくし、郡こおり治おさむ(役所やくしょ)は北きた平城ひらじろに置おいた。
隋ずいの時代じだいになると、冀州の博はく陵りょう郡ぐんに合併がっぺいされ、それ以後いごは郡ぐんとしての名なは見みられなくなり、北平きたひら県けんだけがしばらく存続そんぞくした。