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千本義隆 - Wikipedia

千本せんぼん義隆よしたか

戦国せんごく時代じだいから江戸えど時代じだい初期しょきにかけての武将ぶしょう旗本はたもと

千本せんぼん 義隆よしたか(せんぼん よしたか)は、戦国せんごく時代じだいから江戸えど時代じだい初期しょきにかけての武将ぶしょう旗本はたもと交代こうたい寄合よりあい)。

 
千本せんぼん義隆よしたか
時代じだい 戦国せんごく時代じだい - 江戸えど時代じだい初期しょき
生誕せいたん 天文てんもん10ねん1541ねん
死没しぼつ 元和がんわ元年がんねん10月3にち1615ねん11月13にち
改名かいめい 義政よしまさはつ)→義隆よしたか
戒名かいみょう 道賀どうが
官位かんい 大和やまともり受領じゅりょうめい
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ旗本はたもと
主君しゅくん 須資たね資晴すけはる徳川とくがわ秀忠ひでただ
氏族しぞく 茂木もきせんほん
父母ちちはは ちち茂木もきおさむきよし 養父ようふ千本せんぼんしゅん
兄弟きょうだい 茂木もきおさむぼう義隆よしたか茂木もき義範よしのり
やしなえ兄弟きょうだいせい
つま 正室せいしつ須資たねむすめ
じょう
テンプレートを表示ひょうじ

生涯しょうがい

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天文てんもん10ねん1541ねん)、下野げやこく茂木もきおさむきよしとして誕生たんじょうはつ義政よしまさ

当初とうしょ千本せんぼんしゅん養子ようしとしてはいるが、実子じっしせいまれると不和ふわとなり、実家じっか茂木もきもどされ実質じっしつてき廃嫡はいちゃくされた。ところが、天正てんしょう13ねん1585ねん)12月、大関おおぜきだかぞう謀略ぼうりゃく加担かたんしゅん父子ふし殺害さつがいされせんほん断絶だんぜつすると、その名跡みょうせきせんほん大和やまと守義もりよしたかし名乗なのった。千本せんぼん所領しょりょう那須なす資晴すけはるにより、大関おおぜきだかぞう大田原おおたわらつなきよしぶく原資げんしこうおよ大谷津おおやつ周防すおう殺害さつがい現場げんばとなった滝寺たきでら住職じゅうしょく。その還俗げんぞくした。)にけられ、のこりを義隆よしたか所領しょりょう分配ぶんぱいされた。

天正てんしょう17ねん1589ねん)8がつ豊臣とよとみ秀吉ひでよしから招集しょうしゅうけたが、これに遅参ちさんしてすみやかに上京じょうきょうして拝謁はいえつしなかったことをめられ、所領しょりょう下野げや国内こくない30ヶ村かそんのうち23ヶ村かそん没収ぼっしゅうされた。天正てんしょう18ねん1590ねん)、小田原おだわら征伐せいばつには豊臣とよとみかたぞくしてじょうとも参戦さんせんし、秀吉ひでよしより下野げや芳賀はがぐんうち2,070せき安堵あんどするむね朱印しゅいんたまわる。こののち那須なす資晴すけはる小田原おだわら遅参ちさんして改易かいえきされたことにより、千本せんぼん独立どくりつたした。ぶんろくやくでもじょうとも名護屋なごやしろざいじんしたが、渡海とかいはしていない。

慶長けいちょう5ねん1600ねん)の関ヶ原せきがはらたたかでは、つまらを江戸えど人質ひとじちし、徳川とくがわぞくして所領しょりょう安堵あんどされる。慶長けいちょう7ねん(1602ねん)によしじょう功績こうせきによってせんほんは3,370せき加増かぞうされ、またまご義昌よしまさも500せきあたえられた。

元和がんわ元年がんねん1615ねん)10がつ3にち死去しきょ享年きょうねん75。

せんほんとう義昌よしまさ長男ちょうなん)のだいがなく、一旦いったんは3,870せき一族いちぞく所領しょりょう没収ぼっしゅうされるが、和隆かずたか義昌よしまさ次男じなん)が200せき(のち1.050せき)の旗本はたもと交代こうたい寄合よりあいより除外じょがい)として再興さいこうすることをゆるされた。

出典しゅってん

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