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南条宗勝 - Wikipedia

南条なんじょう宗勝むねかつ

日本にっぽん戦国せんごく時代じだい武将ぶしょう尼子あまご大内おおうち毛利もうり家臣かしん伯耆ほうき国人くにびとしゅ南条なんじょうそうあきらで、南条なんじょう8だい当主とうしゅ伯耆ほうき羽衣石うえし城主じょうしゅつとめた

南条なんじょう 宗勝むねかつ(なんじょう そうしょう)は、戦国せんごく時代じだい武将ぶしょう伯耆ほうき羽衣石うえしじょうおも。なお宗勝むねかつ入道にゅうどうごうである。実名じつめいについてはそうもとあるいはそうひかりともつたえられていたが、近年きんねん研究けんきゅうにより、実名じつめい国清くにきよ(くにきよ)といい、のちにげんきよし(もときよ)とあらためていたことが判明はんめいした。

 
南条なんじょう宗勝むねかつ
時代じだい 戦国せんごく時代じだい
生誕せいたん あかりおう6ねん1497ねん)?
死没しぼつ 天正てんしょう3ねん1575ねん)10がつ14にち以前いぜん
改名かいめい とらぐま幼名ようみょう)→国清くにきよげんきよし宗勝むねかつ入道にゅうどうごう
別名べつめい 勘兵衛かんべえ通称つうしょう)、豊後ぶんごまもる豊前ぶぜんもり?、紀伊きいもり?
戒名かいみょう
  • 慈雲じうんいん殿澤とのさわおう宗勝むねかつだい居士こじ
  • 豊前ぶぜんもりさわ叟宗勝大かつおお居士こじ
主君しゅくん 尼子あまこ晴久はるひさ大内おおうち義隆よしたか毛利もうり元就もとなり輝元てるもと
氏族しぞく 南条なんじょう
父母ちちはは ちち南条なんじょうそうあきら
兄弟きょうだい 宗勝むねかつ元信もとのぶ信正のぶまさそうしん
もとつづけ小鴨こかももときよしもとあき行衛ゆくえひめ
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生涯しょうがい

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7だい当主とうしゅそうあきらとしてまれる。生年せいねんかんする確実かくじつ史料しりょう存在そんざいしないが、『羽衣石うえし南条なんじょう』によれば、えいただし11ねん1514ねん)にちちそうあきら死去しきょともない18さい家督かとくいだといい、逆算ぎゃくさんしてあかりおう6ねん1497ねんごろ出生しゅっしょうかとおもわれる。ただ、そう勝以かつもちまえ南条なんじょうかんしては関係かんけい資料しりょうとぼしいため、不明ふめいてんおおく、一部いちぶ系図けいず[1]では宗勝むねかつちち紀伊きいもりぼうしるしているものも存在そんざいする。

天文てんもん年間ねんかん尼子あまこ伯耆ほうき侵攻しんこうにより尼子あまこ傘下さんかはいり、天文てんもん9ねん1540ねん)9がつには尼子あまこ郡山こおりやましろ攻撃こうげき参加さんかした。しかし3ねん天文てんもん12ねん1543ねん)には大内おおうち義隆よしたか月山がっさん富田とみたしろめに「尼子あまここう叛将」として大内おおうちぐん参加さんか大内おおうちてそれ以後いご毛利もうりしたぞくした。天文てんもん15ねん1546ねん)には但馬たじま山名やまな支援しえん橋津はしづがわたたかこすなど各地かくちはん尼子あまご勢力せいりょくむすび、はん尼子あまご一翼いちよくになはたらきをした。

また、天文てんもん16ねん1547ねん)~17ねん1548ねん)にかけて因幡いなばこく滞在たいざいしていたことがかっている(『真継まつぎ文書ぶんしょ所収しょしゅうとししょう4がつ8にちづけ南条なんじょう国清くにきよ書状しょじょう」など)。その事情じじょう不明ふめいであるが、武田たけだ国信くにのぶすすめで美作みさくこく大原おおはらへとうつり、さらに播磨はりまこくにまでうつることを示唆しさしている。これ以降いこう足取あしどりは不明ふめいであるが、伯耆ほうきはなれたのち各地かくち武将ぶしょう援助えんじょされながら、周辺しゅうへん諸国しょこく転々てんてんとしていたとられ、以後いごやく20年間ねんかんちか帰国きこくかなわなかったとおもわれる。

その毛利もうり支援しえんけた宗勝むねかつは、えいろく5ねん1562ねん)のなつ羽衣石うえしじょう奪回だっかいやく20ねんぶりに所領しょりょう回復かいふくすることに成功せいこうした。帰国きこく毛利もうり元就もとなりらの容認ようにんしたひがし伯耆ほうき国人くにびとしゅう家臣かしんだんみ、南条なんじょう山陰さんいん地方ちほう東部とうぶ最大さいだい国人くにびと勢力せいりょく発展はってんさせた。

えいろく6ねん1563ねん)、久米くめぐん光孝みつたかてらにおいてだい規模きぼちち法要ほうよういとなみ、各地かくち寺社じしゃ所領しょりょう安堵あんどするなど民心みんしん安定あんていつとめた。

えいろく12ねん1569ねん)、毛利もうり九州きゅうしゅう遠征えんせいくわわり、筑前ちくぜんこくなどへ出陣しゅつじんした。同年どうねんあきには伯耆ほうき急遽きゅうきょ帰国きこくし、各地かくち侵攻しんこうした尼子あまこ勝久かつひさらの軍勢ぐんぜいたたかった。

もとかめ元年がんねん1570ねん)、剃髪ていはつして宗勝むねかつごうし、嫡子ちゃくし又四郎またしろうもとつづけ家督かとく相続そうぞくさせたとつたえられているが、実際じっさいにはえいろく7ねん1564ねん)8がつ以前いぜんには剃髪ていはつし、宗勝むねかつ名乗なのはじめたようである[2]

その終始しゅうし毛利もうり境目さかいめ地域ちいきにおけるよう役割やくわりにない、毛利もうり協力きょうりょくしゃとして活躍かつやくした宗勝むねかつだったが、天正てんしょう3ねん1575ねん)10がつ14にち以前いぜん急死きゅうしした。

なお、死因しいんかんして尾高おだかしろおも杉原すぎはら盛重もりしげ毒殺どくさつされたとのせつ存在そんざいするが、これは江戸えど時代じだいかれた『伯耆ほうきみんことわざ』などにえるものであり、史料しりょうてき裏付うらづけはなく、現在げんざいでは否定ひていされている。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 系図けいず綜覧そうらん下巻げかん所収しょしゅう南条なんじょう系図けいず」、「諸家しょか系図けいずるい山田やまだせい差出さしで南条なんじょう系図けいず」。後者こうしゃ系図けいずでは宗勝むねかつちちを「繁之しげゆき 紀伊きいもり伯耆ほうき一州いっしゅう守護しゅごだい」としるしている。
  2. ^ もとかめ元年がんねん剃髪ていはつしたとするせつ後世こうせいになって編纂へんさんされた『羽衣石うえし南条なんじょう』によるものである。一方いっぽう宗勝むねかつきていたのとどう時代じだい史料しりょうには、すでに「宗勝むねかつ」の確認かくにんされている。(『山田やまだ古文書こもんじょ所収しょしゅうえいろく7ねん8がつ2にちづけ毛利もうり元就もとなり書状しょじょううつし」)

関連かんれん項目こうもく

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 鳥取とっとりあたらしおさむ鳥取とっとり だいいちかん』1983ねん
  • 高橋たかはし正弘まさひろいんはく戦国せんごく城郭じょうかく 通史つうしへん自費じひ出版しゅっぱん、1986ねん
  • 高橋たかはし正弘まさひろ山陰さんいん戦国せんごくしょ問題もんだい じょう自費じひ出版しゅっぱん、1993ねん
  • 東郷とうごうまち編纂へんさん委員いいんかい東郷とうごうまち東郷とうごうまち、1987ねん
  • 東郷とうごうまち教育きょういく委員いいんかい羽衣石うえし城址じょうし 鳥取とっとりけん東郷とうごうまち羽衣石うえし城跡じょうせき遺跡いせき調査ちょうさ報告ほうこくしょ』1993ねん
  • 新編しんぺん倉吉くらよし編集へんしゅう委員いいんかい新編しんぺん倉吉くらよし だい2かん ちゅう近世きんせいへん倉吉くらよし、1995ねん
  • 財団ざいだん法人ほうじん国府こくふまち教育きょういく文化ぶんか事業じぎょうだん山崎やまざきしろ史料しりょう調査ちょうさ報告ほうこくしょ』2003ねん
  • 鳥取とっとりけん公文書こうぶんしょかんけんへんさんしつへん鳥取とっとりけんブックレット4 尼子あまこ戦国せんごく時代じだい鳥取とっとり鳥取とっとりけん、2010ねん
先代せんだい
南条なんじょうそうあきら
伯耆ほうき南条なんじょうだい8だい当主とうしゅ
???? - 1575ねん
次代じだい
南条なんじょうもとつづけ