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厚木宿 - Wikipedia

厚木あつぎ宿やど

神奈川かながわけん厚木あつぎ位置いちするだい山道さんどう八王子はちおうじどう宿場しゅくば

厚木あつぎ宿やど(あつぎしゅく)は、現在げんざい神奈川かながわけん厚木あつぎ位置いちし、大山おおやまみち矢倉沢やぐらざわ往還おうかん現在げんざい国道こくどう246ごう)、八王子はちおうじどう現在げんざい国道こくどう129ごう)のまじわる宿場しゅくばまち[1]相模さがみがわ水運すいうん要衝ようしょうとしておおくのひとぶつあつまり発展はってんげた。江戸えど時代じだいには、庶民しょみんあいだ流行りゅうこうした大山おおやままいりの参詣さんけいしゃおおいににぎわい、明治めいじ時代じだい初期しょきにはやく30けん旅籠はたごがあったとされる[2]

厚木あつぎ宿やど(2016ねん10がつ撮影さつえい
厚木宿の位置(神奈川県内)
厚木宿
厚木あつぎ宿やど
厚木あつぎ宿やど位置いち
大山おおやまみち(主要しゅよう8みち)。

史料しりょうなか厚木あつぎという名前なまえ最初さいしょ登場とうじょうするのは 1338ねんたてたけし5ねん)のゆめまどうとせき書状しょじょうである。室町むろまち時代じだい厚木あつぎ鎌倉かまくらにある2つの寺院じいん所領しょりょうであったとの記録きろくのこっているが、当時とうじ厚木あつぎ範囲はんいあきらかとなっていない。現在げんざい厚木あつぎ市街地しがいちにあった厚木あつぎ宿やど歴史れきしは、戦国せんごく時代じだいこう北条ほうじょう関東かんとう地方ちほう支配しはい発展はってんともなってはじまったとかんがえられる[3]

こう北条ほうじょう関東かんとう地方ちほう支配しはい拡大かくだいともなって、本拠地ほんきょちである小田原おだわら中心ちゅうしんとした交通こうつうもうである「小田原おだわらみち」がつくられていく。厚木あつぎ宿やどはやはり現在げんざい厚木あつぎ市内しないにあった下荻野しもおぎの新宿しんじゅく、そして相模さがみがわ対岸たいがん現在げんざい相模原さがみはらにあった当麻とうま宿やどとともに、宿場しゅくばとして成立せいりつしたとつたえられている。また、発掘はっくつ調査ちょうさ結果けっかからも16世紀せいき前半ぜんはんには厚木あつぎ宿やど成立せいりつしたとかんがえられている[4][5][6]

交通こうつう要衝ようしょうである厚木あつぎは、街道かいどう整備せいび宿場しゅくば成立せいりつとともに、市場いちば発達はったつしていく。まずは荻野おぎの新宿しんじゅく市場いちば成立せいりつしたが、つづいて厚木あつぎ宿やどでも成立せいりつする。厚木あつぎ市場いちば成立せいりつしたのも戦国せんごくのち北条ほうじょう時代じだいであると推定すいていされている。当初とうしょ相模さがみがわ水害すいがいにしばしばなやまされた厚木あつぎよりも、荻野おぎの新宿しんじゅくほうにぎわっていたものの、交通こうつう要衝ようしょうである17世紀せいき後半こうはんには厚木あつぎ宿やど発展はってんし、荻野おぎの新宿しんじゅくにぎわいをおおきく上回うわまわるようになった[7]

当初とうしょ市場いちばまち性格せいかくつよかった厚木あつぎ宿やどは、17世紀せいきまつには大山おおやま街道かいどう宿場しゅくばまちとしておおきく発展はってんする。しょ街道かいどうまじわり、相模さがみがわ水運すいうんにもめぐまれた厚木あつぎ宿やどおおくの商人しょうにんたちがあつまり、近江おうみ商人しょうにん進出しんしゅつして商業しょうぎょう都市としとしてにぎわいをせた。江戸えど時代じだい後期こうき厚木あつぎ宿やどおとずれた渡辺わたなべ崋山かざん厚木あつぎ宿やどのことを「厚木あつぎさかんなることことならず」とひょうした[8][9]。 

明治めいじとなって東海道本線とうかいどうほんせん開通かいつうによって、東海道とうかいどうせん沿線えんせん商人しょうにんたちのおおくの活動かつどう拠点きょてんうつっていき、また、これまで大山おおやま街道かいどう利用りようしてきた大山おおやま参詣さんけい人々ひとびとおおくも、東海道とうかいどうせん平塚ひらつかかい。そこから伊勢原いせはら大山おおやまかうようになった。このようななかで、厚木あつぎ交通こうつう要衝ようしょうであることをかした宿場しゅくばまちとしての繁栄はんえいから、相模さがみがわ川遊かわあそびや花街はなまちでの遊興ゆうきょうきゃく東京とうきょう横浜よこはまからかたちきゃくあつめるまちへと変化へんかしていった[10]

名所めいしょ旧跡きゅうせき

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厚木あつぎわた渡船場とせんば
江戸えど時代じだい幕府ばくふ江戸えど防衛ぼうえいじょう相模さがみがわはしをかけることを禁止きんししたため、常備じょうび5そううまよう1そうの6そうわたしていた[11][12]
宝谷ほうやさん長福寺ちょうふくじ
寿ことぶきまちにある臨済宗りんざいしゅう寺院じいん本尊ほんぞん阿弥陀如来あみだにょらい[13]
宇賀うが弁才天べんざいてんしゃ
長福寺ちょうふくじ山門さんもんまえ[13]
烏山からすやまはん陣屋じんやあと
牛頭ごず天王てんのうしゃ現在げんざい厚木あつぎ神社じんじゃ)のがわ下野げやこく烏山からすやまはん代官だいかんしょかれた[14]。その1970ねん昭和しょうわ45ねん)までは厚木あつぎ市役所しやくしょかれた[15]
まんねんあと
渡辺わたなべ崋山かざん1831ねん天保てんぽう2ねん)9がつ22にちより24にち宿泊しゅくはくした旅籠はたご まんねん 古郡ふるこおり半兵衛はんべえ屋敷やしきあといしぶみがある[16]
金光こんこうさん最勝寺さいしょうじ
あさひまちにある曹洞宗そうとうしゅう寺院じいん本尊ほんぞん阿弥陀あみださんみこと[17]
熊野くまの神社じんじゃ
1873ねん明治めいじ4ねん)に厚木あつぎ神社じんじゃ合祀ごうしされたが、明治めいじ中期ちゅうき現在地げんざいち再建さいけんされた。厚木あつぎ指定してい天然記念物てんねんきねんぶつイチョウ樹齢じゅれい500ねん推定すいていされている[18]

交通こうつうアクセス

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となり宿場しゅくば

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国分こくぶ宿やど - 厚木あつぎ宿やど - 愛甲あいこう宿やど

国分こくぶ宿やどとのあいだ相模さがみがわには、厚木あつぎわたしがあった[19]

関連かんれん項目こうもく

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脚注きゃくちゅう

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 厚木あつぎ近江おうみ商人しょうにん厚木あつぎ文化財ぶんかざい協会きょうかい、2002ねん 
  • 厚木あつぎ宿やどる』厚木あつぎ教育きょういく委員いいんかい、2013ねん 
  • 厚木あつぎ教育きょういく委員いいんかい, ed (1996). 東町あずままち2ばん 市街地しがいちさい開発かいはつ事業じぎょうともなきゅう厚木あつぎ宿やど埋蔵まいぞう文化財ぶんかざい発掘はっくつ調査ちょうさ報告ほうこく2. 厚木あつぎ教育きょういく委員いいんかい 
  • 鈴村すずむらしげる (1980). 厚木あつぎ商人しょうにん厚木あつぎ商業しょうぎょう. 神奈川かながわ情報じょうほうしゃ 
  • 厚木あつぎへんさん委員いいんかい, ed (1972). 厚木あつぎ近世きんせい史話しわ. 厚木あつぎへんさん委員いいんかい 
  • 厚木あつぎ教育きょういく委員いいんかい, ed (2014). 平成へいせい25年度ねんどあつぎの遺跡いせきてん 厚木あつぎ宿やど. 厚木あつぎ教育きょういく委員いいんかい 
  • けんひさし史談しだんかいけんひさし史談しだん だいななごうしょうきむ喜一きいち、1969ねん、8ぺーじ 
  • いきいき未来みらい相模さがみがわプラン推進すいしん協議きょうぎかいははなるかわ相模さがみがわ』1995ねん、18ぺーじ 
  • 厚木あつぎ文化財ぶんかざいをたずねて』厚木あつぎ教育きょういく委員いいんかい、1975ねん 
  • 文化財ぶんかざい散策さんさくガイドあつぎ -ふるさとの歴史れきしをたずねて(改訂かいていばん)-』厚木あつぎ教育きょういく委員いいんかい、1999ねん 
  • 本多ほんだ秀雄ひでお『あしがらのみち矢倉やくら往還おうかん足柄あしがら古道ふるみち―』神奈川新聞社かながわしんぶんしゃ、1993ねん 
  • 厚木あつぎ歴史れきし探訪たんぼう4 寺院じいん厚木あつぎ文化財ぶんかざい協会きょうかい、2006ねん 
  • 厚木あつぎ歴史れきし探訪たんぼう5 神社じんじゃ厚木あつぎ文化財ぶんかざい協会きょうかい、2007ねん 
  • 川崎かわさき大山おおやま街道かいどうふるさとかん へんたずねてたのしい大山おおやま街道かいどう』2012ねん 

外部がいぶリンク

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座標ざひょう: 北緯ほくい3526ふん35.17びょう 東経とうけい13922ふん10.78びょう / 北緯ほくい35.4431028 東経とうけい139.3696611 / 35.4431028; 139.3696611