(Translated by https://www.hiragana.jp/)
吉良の仁吉 - Wikipedia

吉良きら仁吉にきちきちともく。きらのにきち、本名ほんみょう太田おおた 仁吉にきち天保てんぽう10ねん1839ねん) - 慶応けいおう2ねん4がつ8にち1866ねん5月22にち))は、清水次郎長しみずのじろちょう兄弟分きょうだいぶんとして幕末ばくまつ活躍かつやくした侠客きょうかく

生涯しょうがい

編集へんしゅう

さんしゅうよしりょう横須賀よこすかげん愛知あいちけん西尾にしお吉良きらまち)に没落ぼつらく武士ぶしとしてまれた。無口むくちだがうでぷし相撲すもうつよく、相撲すもううえでの喧嘩けんか侠客きょうかく親分おやぶん寺津てらづあいだすけ[注釈ちゅうしゃく 1]かくまわれたのがきっかけとなり、18さいから3年間ねんかん次郎じろうちょうしたごした。次郎じろうちょう兄弟きょうだいさかずきまでわすなかとなったのちよしりょうかえ吉良きら一家かずやおこした。

侠客きょうかく穴太あのう(あのう)の徳次郎とくじろう[注釈ちゅうしゃく 2]が、次郎じろうちょう一家いっか世話せわをした伊勢いせ吉五郎きちごろう[注釈ちゅうしゃく 3]縄張なわばであった伊勢いせ荒神山あらかみやま(こうじんやま)[注釈ちゅうしゃく 4]うばったため、徳次郎とくじろう手下てしたおかっ引らの仲介ちゅうかいをもことわって、う「荒神山こうじんやま喧嘩けんかたたかえ」にんだ。喧嘩けんかよし五郎ごろうがわ勝利しょうりおさめたが、仁吉にきち鉄砲てっぽうたれたうえられて死亡しぼうした。享年きょうねん28。

人物じんぶつ

編集へんしゅう

義理ぎりあつわかくして義理ぎりに斃れた仁吉にきち後世こうせい人情にんじょうぶつ講談こうだん浪花節なにわぶし浪曲ろうきょく)、演劇えんげき数々かずかず映画えいが歌謡かようきょくなどの題材だいざいとして よくげられる存在そんざいとなった。荒神山こうじんやま喧嘩けんかよし五郎ごろうがわとして参加さんかした一人ひとりのちたび講釈こうしゃくとなったまつ廼家ふとしが、講談こうだんさん代目だいめ神田かんだはくやまにネタとして当時とうじ様子ようすつたえ、さらはくやま講談こうだん浪曲ろうきょく代目だいめ広沢ひろさわ虎造とらぞう節付ふしづけして浪花節なにわぶしとしたことでひろられるにいたった このため史実しじつつくばなし混在こんざいしてつたえられており、芝居しばい映画えいがでは仁吉にきち徳次郎とくじろういもうと・おきくつまめとったものの、吉五郎きちごろう助太刀すけだちのためにおきく離縁りえんしたとされるが、仁吉にきちには結婚けっこんれきはないため、のち創作そうさくされたものとわれる。

 
吉良きら仁吉にきちはか(西尾にしお源徳寺げんとくじ)

はかはそのいち周忌しゅうき次郎じろうちょう太田おおた遺族いぞくとも建立こんりゅうしたものが、いま生誕せいたん吉良きらまちにある 源徳寺げんとくじ真宗しんしゅう大谷おおや)にのこっている。[注釈ちゅうしゃく 5]現在げんざい吉良きらまちでは吉良きらさんにんしゅ尾崎おざき士郎しろう吉良きら義央よしなか)の一人ひとりとして、毎年まいとし6がつ墓前ぼぜんさいねた「仁吉にきちまつり」がおこなわれている。

脚注きゃくちゅう

編集へんしゅう

注釈ちゅうしゃく

編集へんしゅう
  1. ^ 寺津てらづ間之あいのすけ寺津てらづは、げん愛知あいちけん西尾にしお寺津てらづまち次郎じろうちょう無宿むしゅく渡世とせい世界せかいはいったさいちょう逗留とうりゅうした場所ばしょで、以来いらいいく次郎じろうちょう間之あいのすけもとおとずれている。
  2. ^ 穴太あのう徳次郎とくじろう通称つうしょう穴太あのうとく穴太あのうげん三重みえけん東員とういんまち穴太あのう。「安濃あのうとく」ともう。
  3. ^ 伊勢いせ吉五郎きちごろう:「神戸こうべ長吉ちょうきち(かんべのながきち)」とも。神戸こうべげん三重みえけん鈴鹿すずか神戸こうべ
  4. ^ 荒神山あらかみやまは、もともとこう神山かみやま(こうじんさん)という山号さんごうであったものが、仁吉にきちらの喧嘩けんかいちけんつたえていくあいだ荒神山こうじんやま(こうじんやま)となってしまった。
  5. ^ 荒神山こうじんやま観音寺かんおんじ三重みえけん鈴鹿すずか)にのこ吉良きら仁吉にきちこれは、後世こうせい代目だいめ広沢ひろさわ虎造とらぞう建立こんりゅうしたものである

出典しゅってん

編集へんしゅう


関連かんれん項目こうもく

編集へんしゅう

外部がいぶリンク

編集へんしゅう